主イエスの逮捕<1> (木曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書26章47-56節
旧約聖書 詩編32編1-11節
主イエスの逮捕
 オリーブ山の中腹にあるゲツセマネの園での祈りの後の事でありました。祈り終えて、イエス様がペトロ、ヤコブ、ヨハネ、三人のところに戻ってきますと、彼らはすっかり眠りこけています。「わたしが祈っている間、目を覚まして側にいてくれ」と、イエス様は彼らにお頼みになっていたのでありますが、彼らは襲い来る睡魔に勝てず、正体をなくしてしまったのであります。

 そんな彼らの肩をひとりひとり揺すって、「まだ眠っているのか」と、イエス様は彼らを起こされます。弟子たちはゆっくりと目を覚ましました。そんな彼らに、イエス様は緊張に張りつめた声でこう言われます。

 「時が近づいた。人の子が罪人たちの手に引き渡される。立て、さあ行こう」

 自分がどこにいるのかもよく分からないような、覚めきらない頭の中に、イエス様の声が響きます。弟子たちは寝ぼけまなこをこすりながら立ち上がって、イエス様の後についていきました。しかし、これから起ころうとしている事への緊張感はまったくありません。そんな彼らの眠気をいっぺんに吹き飛ばしたのは、イエス様のこの一言でありました。

 「見よ、わたしを裏切る者が来た」

 イエス様に促されて山の麓に目をやりますと、松明をもった人々の一団が近づいてくるのが見えます。弟子たちの顔に緊張が走ります。ゲツセマネの入り口には、八人の弟子たちが待っているはずでしたが、彼らも眠っていたに違いありません。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちは、すぐに彼らを起こしはじめました。

 そこへ松明をもった人々の一団が到着し、彼らかを取り囲みました。彼らの正体は、ユダヤ人の最高議会を代表する祭司長と長老たち、それから神殿の警備にあたる守衛長とその兵士たち、またローマ兵もいました。

 物々しい武装集団の登場に、弟子たちは恐れ、身を寄せ合います。すると、一団の中から男が一人進み出てきて、近づいてきました。松明の明かりに映し出された男の顔を見て、弟子たちはハッとします。それは彼らのよく知った顔、最後の晩餐を途中で抜け出した十二弟子のひとり、イスカリオテのユダでした。

 なぜ、そこにユダがいるのか、弟子たちは事態を必死に理解しようとして、ユダの顔色を伺います。ユダは、実に友好的な微笑みを浮かべて近づいてきます。弟子たちはユダに道を開けました。ユダは微笑みを崩さず、弟子たちに目配せで挨拶をしながら、まっすぐにイエス様の側まで歩み寄っていきます。

 イエス様とユダの目が合いました。すべてを知るイエス様は、ユダを悲しみに満ちた憐れみの目で見つめていたに違いありません。そのイエス様の眼差しに触れて、ユダの微笑みもほんの一瞬こわばります。しかし、ユダは心にあることを強い意志をもって実行に移します。

 「先生、こんばんは」

 ユダはイエス様に挨拶をし、口づけをします。それが合図でした。祭司長は、手下たちに号令をかけます。あの男だ、捕まえろ! 剣や棒をもった兵士たちが騒がしく動き始め、イエス様と弟子たちをぐるりと取り囲みました。

 この時、『ヨハネによる福音書』によると、イエス様はこの兵士たちの前に自ら進み出て、「誰を捜しているのか」と問いかけたとあります。彼らは猛々しく、「ナザレのイエスだ」と答えます。イエス様は少しも動じることなく、彼らに向かって堂々と「わたしである」と答えたというのです。すると兵士たちは、イエス様の「わたしである」というお言葉の力に気圧されて後ずさりし、地に倒れる者もあったと書かれています。

 そんな風に尻込みする兵士たちに向かって、イエス様はまっすぐと立ち、こう言われました。

 「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているというなら、この人々は去らせなさい」(『ヨハネによる福音書』18章9節)

 イエス様は弟子たちを守ろうとしておられるのです。ところが、その時です。兵士たちの気勢がそがれたのを見て強気になったペトロが、剣を振りかざしながら飛び出して、兵士たちの中に斬りかかりっていきました。そして、あっという間にマルコスという大祭司の手下の右の耳を切り落としたのです。すかさず、イエス様はペトロを制止しました。

 「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(52節)

 イエス様の強い制止に、ペトロはがっくりと肩を落とします。そんなペトロを見て、イエス様は諭されました。

 「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(53-54節)

 ここには、先ほどまで「この杯を過ぎ去らせてください」と苦しみもだえて祈られたイエス様の面影はありません。ゲツセマネで苦しみ抜いて祈られた末に、十字架への道を神様の御心として受け止め、覚悟の内に歩もうとされているのです。

 『ルカによる福音書』によれば、この時、イエス様はペトロに耳を切り落とされたマルコスのところに行き、耳を拾い、それを彼の傷口に当てて彼の耳を癒されたと言われています。また、耳を癒された兵士の名を記すのは『ヨハネによる福音書』だけなのですが、マルコスという名前が聖書に残っているということは、この人が後にイエス様を信じる者となって、教会の群れに加えられたという可能性もあるかと思います。イエス様はマルコスの耳を癒されると、仰々しく武装した兵士たちの前に堂々として立ち、こう言われました。

 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。」(55節)

 「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」(『ルカによる福音書』22章53節)

 「今はあなたたちの時だ」と、イエス様が言われると、彼らは急に自分たちの使命を思い起こしたかのように動き始め、松明の明かりの中でイエス様に丁寧に縄をかけ、捕らえたのでした。その間に、弟子たちは急に恐怖がこみ上げてきて、主を見捨てて逃げ出たと、聖書は記しています。

 「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(56節)

 さて、イエス様の逮捕劇を、御言葉に基づいて描いてきました。今のお話しは、聖書の中にある四つの福音書に書かれておりますイエス様の逮捕の様子を総合して、さらにほんの少し私の想像力も加えながら描いたお話であります。要点は四つありまして、ユダの裏切り、ペトロの反撃、イエス様の逮捕、弟子たちの逃亡であります。
ユダの裏切り
 今日は、ユダの裏切りについて考えてみましょう。

 「ユダはすぐイエスに近寄り、『先生、こんばんは』と言って接吻した。イエスは、『友よ、しようとしていることをするがよい』と言われた。」

 ユダは微笑みと愛の印である接吻の下に裏切りという恐ろしいことを隠してイエス様に近づきました。罪というのは、このように自分を隠すのです。アダムとエバはエデンの園で罪を犯した時もそうでした。

 「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(『創世記』3章8-10節)

 私たちは、自分の姿を隠すという罪の性質をよく覚えておく必要があるのです。みなさんもきっとたいへん不快な思いをして聞いておられるニュースだと思いますが、最近、ある教会の牧師が女性信者に対する婦女暴行、しかも子供に対する暴行で逮捕されました。ずいぶん長い間、そのような卑劣で罪深い行為が行われてきたようですが、どうしてそんな破廉恥な牧師に信者がついていったのか不思議でなりませんが、知っていたなら誰もついていくはずがないのでありまして、巧みに罪が隠されてきたのであります。聖書にはこういう言葉があります。

 「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」(『コリントの信徒への手紙二』11章13-15節)

 サタンは嘘つきです。人を欺くプロです。「私はサタンです」などと、自分を言い表すような間抜けなサタンなどいないのです。サタンは自分を隠し、光の天使を装ってやってきます。サタンにとって光の天使を装うことなど、大したことではないのだと、御言葉も教えているのです。

 サタンの力は嘘をつき、自らを隠すことにあるのだということをよく覚えておきましょう。「嘘つきは泥棒のはじまり」とはよく言ったものです。罪というのはたとえ小さな罪でありましても、それを隠そう隠そうとすることによって罪の力が増し加わっていくのです。そして、気がついたら泥棒になっていた、ということも無いことではありません。

 しかし、反対に、「私は罪人です」と言い表された時、罪は力を失います。私たちは罪を犯さずに生きることはできません。しかし、勇気を出して罪を告白するならば、その人は罪の力から解放されるのです。

 ダビデも罪を犯しました。ある意味で、あの京都の牧師と代わらぬような罪を犯したのです。ダビデは王の力をもって、忠実なる部下ウリヤの妻であるバト・シェバを寝取ってしまったのですから。しかも、ダビデは将軍ヨアブに命じてその夫ウリヤを戦争の最前線に送り込み、殺してしまいました。しかし、ダビデがそのおぞましい罪の力から解放されたのは、その罪を神様に正直に告白し、心からなる懺悔をしたからでありました。詩編32編3-5節に、このようなダビデの祈りがあります。

「わたしは黙し続けて
 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
 御手は昼も夜もわたしの上に重く
 わたしの力は
 夏の日照りにあって衰え果てました。
 わたしは罪をあなたに示し
 咎を隠しませんでした。
 わたしは言いました
 『主にわたしの背きを告白しよう』と。
 そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを 
 赦してくださいました。」

 ダビデは、その罪を心に隠している間は、罪の重さに苦しみ、悩み、自分が衰えていくのを感じました。しかし、その罪を神様に示し、背きの咎を隠さず告白した時、ダビデは罪の力から解放され、神様の赦しをもいただくことができたと言っているのです。

 神様は、罪をアダムに「どこにいるのか」と尋ねられました。それは罪を犯したアダムを見つけ出して裁くためではありません。だいたい神様はすべてをお見通しであり、神様に隠すことなどあり得ないのです。神様がアダムに「どこにいるのか」と尋ねられた理由はただ一つ、アダムが「主よ、わたしはここにおります。私はあなたに罪を犯しました」と告白させ、アダムを罪の力から解放するためでありました。しかし、アダムにはそれができなかったのです。

 さて、問題はユダであります。ユダは微笑みながら、口づけをもってイエス様の御側に近づくことによって、イエス様を裏切り、イエス様から遠ざかっていきました。私たちはどうでしょうか。私たちも今、イエス様のそばにいます。頭を垂れて祈り、上を見上げて賛美し、静かに御言葉に耳を傾けています。私も、このように畏まって御言葉を伝えております。しかし、このように主のみ側にありながら、主から遠く離れている方はありませんでしょうか。もし、私たちがユダのようにこの敬虔なそぶりの中に罪を隠しているならば、私たちもまたユダのごとき者となってしまうでありましょう。

 イエス様はそのような者を悲しまれて、「友よ」と呼びかけておられます。イエス様は何も知らないから、ユダに「友よ」と呼びかけたのではありません。すべてを知っているからこそ、ご自分の愛を思い起こして欲しくて「友よ」と呼びかけられたのです。ユダを失いたくないのです。このイエス様の「友よ」とお呼びくださる愛に応えて、隠していることのすべてを告白し、懺悔する者となること、それが、ユダがサタンから解放され、罪の力から自由になる唯一の道だったのです。

 罪は自分の姿を隠す、それが罪の本性だということをお話ししました。しかし、もう一つ、罪についてはっきりと言えることがあります。先ほどのコリント書の御言葉をもう一度みてみたいと思います。

 「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」(『コリントの信徒への手紙二』11章13-15節)

 「彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」とあります。ユダも自死しました。サタンも、サタンに仕える者も、自ら滅んでいくのだというのです。これがもう一つの罪の姿です。最後に、もう一つ、御言葉を読んでみましょう。

 「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(『ガラテヤの信徒への手紙』6章7-8節)

 ユダの最大の間違いは、イエス様を騙し、自分の罪を隠すことができると思っていたことにあるのです。しかし、「神は、人から侮られることはありません」と、御言葉ははっきりと警告しています。そして、「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになる」というのです。自分の罪と裁きということを考えさせられる、峻厳な御言葉です。

 しかし、この峻厳さに勝る神様の愛があることを、私どもは、ユダに対してもなお「友よ」と呼びかけられたイエス様に見るのです。裏切り者はユダだけではありませんでした。イエス様が逮捕された時、弟子たちもまた主を見捨てて逃げたのです。

 主を離れていったという点において、ユダと他の弟子たちとの違いはありません。しかし、決定的に違うのは、ユダは自殺をし、他の弟子たちは悔い改めて、イエス様のもとに帰ってきたということです。「友よ」と呼び続け給うイエス様の声を聞いて、自らの罪を悟り、告白して、罪の力から解放される者となるのか。それとも、「友よ」との愛に最後まで応えられずに、罪の力に自ら滅んでいく者となるのか。その違いないのです。

 私たちも、ユダと少しも変わらない罪人でありますけれども、どうぞ主の愛を戴く者になりたいと願います。 
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp