ゲツセマネの祈り<2> (木曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書26章36-46節
旧約聖書 ヨブ記16章18-22節
主の涙は、わが喜びとなる
 死を恐れぬ英雄、殉教者はごまんといます。前回、お話ししましたソクラテスもそうです。しかし、イエス様は死を恐れました。悲しみももだえられました。イエス様ともあろう方が、何故でしょうか? 先週はそのことをお話ししまして、イエス様は私たちの苦しむべき苦しみを苦しみ、私たちが祈らなければならない祈りを祈ってくださったのだ。そして、そこに私たちの苦しみから解放、死から救いがあるのだ、ということをお話ししたのであります。

 バッハの『マタイ受難曲』を聞きますと、ゲツセマネの祈りの場面で、テノールと合唱が交互にこのように歌います。

 「主の苦しみにより、わが死はつぐなわれ
  主の涙は、わが喜びとなる
  それゆえに、主の尊き苦しみは
  われらににがけれど、なお、甘美なるものなり」

 バッハは、ゲツセマネで祈れた主、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、額を塵につけて、「できるなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と、切々と神様に祈られた主の御姿を音楽で描きながら、「主の尊き苦しみはわれらににがけれど、なお、甘美なるものなり」と伝えるのであります。

 「主の尊き苦しみは、われらににがい」、バッハは、主が苦しんでおられる姿を、他人事のように平気な顔で眺められないのです。イエス様がここで流された涙、ここで苦しみ抜いて祈られた祈りというのは、罪のうちに死ぬほかない私たちこそが神様の前に流す涙であった。私たちこそが苦しみもだえつつ祈らなければならない祈りであった。しかし、それを罪なき神の御子である主が、私たちの身代わりとなって、苦しみを引き受け、祈ってくださったのです。

 逆に言えば、主をそこまで苦しめたのは、私たちの罪であったということです。「主の尊き苦しみは、われらににがい」 私たちはそのにがさを味あわなければなりません。主の苦しむ姿を見て、私たちの胸を痛め、打ちひしがれなければなりません。そのにがさを味わった者だけが、今戴いている救い、神の愛に信頼することのできる信仰、それはすべてイエス様の受けられた尊い苦しみの賜物であることを悟り、「主の苦しみはわれらににがい。されど、それはなお甘美なるものなり」と歌えるのであります。
その目疲れたるなり
 ところで、そのようにイエス様が、私たちの苦しみを苦しみ、私たちの祈りを祈ってくださっている時に、なんとその目撃者として召し出されたはずの弟子たち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は眠りこけてしまっていたと、聖書は驚くべき事を報告しています。

 イエス様は、彼らが眠っているのをごらんになると、彼らを揺り起こして、こう言われました。

 「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(40-41節)

 しかし、再びイエス様が祈られて、戻ってくると、またもや彼らは眠っているのです。

 「再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。」(43節)

 「ひどく眠かったのである」とありますが、文語訳では「その目疲れたるなり」とあります。「起きていよう」、「起きていなくては」と、心の中では必至に眠気と戦っているのですが、まぶたが重くなってきて、どうしても目を開けていることができない。気づいてみたら、うとうとと眠っていた。まさに睡魔というにふさわしい悪魔的な眠りの誘惑であります。

 イエス様はもはや彼らを起こそうとはせず、ご自分一人で三度目の祈りを捧げます。そして祈りを終えると戻ってこられ、彼らを起こして、「まだ眠っているのか。時が近づいた。立て、さあ行こう」と言われたというのであります。
ひとり堪えられる主
 最も大事な場面で居眠りをしてしまった弟子たちの姿というのは、私たちにいろんなことを考えさせます。パスカルの『パンセ』の中にも、「イエスの奥義」と題せられている文章の中で、この場面について書かれています。少し長いのですが、ゲツセマネの祈りに関する部分を抜粋して、ご紹介したいと思います。

 「イエスは何らかの慰めを、少なくとも三人の最も親しい友に求められる、しかし彼らは眠っている。イエスは、自分と一緒にいてもう少し堪え忍ぶようにと彼らに願われる。しかし彼らは、ただの一瞬さえも眠りを妨げられないほど、同情を寄せず、まったき怠りのうちにイエスを打ち捨ておく。イエスが人々の側からの同伴と慰めを求め給うことは、その生涯を通じてただ一度のことである。私にはそう思われる。しかしそれを少しもお受けにならない。なぜなら弟子たちは眠っている。イエスはあらゆるものに打ち捨てられ、自分と共に目を覚まし居れとて選び給うたその友らにも打ち捨てられながら、その友らの眠っているのを見て、自分の臨む危険ではなくかえって彼らの臨む危険のゆえに憂い嘆き、彼らの忘恩のあいだにも、彼らのために心からなる愛情を込めて、彼ら自らの救いと、彼らの福(さいわい)を告げ教え、心は熱すれども肉体は弱きものであると諭される。イエスは、彼らが、彼のことを思い、あるいは彼ら自身のことを思って目を覚ましているということをせず、なおも眠り続けているのを見、いたわって彼らを起こさぬようにし、彼らを彼らのやすみのうちに任せおかれる・・・」

 パスカルの言わんとしていることは、イエス様の孤独の苦しみということであります。イエス様は、最も信頼する弟子に一緒に祈ってくれと頼まれた。イエス様がそんなことを弟子に頼むのは一生に一度のことであった。しかし、弟子たちは眠りこけてしまった。結局、イエス様は、その苦しみを分け合ってくれるたった一人の友もなく、ただひとりでこの苦しみに耐え、ゲツセマネの祈りを祈られたのです。

 しかも、そこで驚くべき事に、イエス様は眠る弟子たちに「心を熱すれども肉体は弱きなり」と言って彼らの霊的な問題を教え諭し、また二度目に寝ているのを見たときにはそっと彼らを眠りに委ねられた、そのイエス様の弟子たちに対するいたわりであります。パスカルは、ここにこそイエス様が尊き御姿があると深い感動を持ってこの文章を書いているのであります。
心は熱すれども
 三浦綾子さんは、また少し別の観点から、この場面について語っておられます。

 「私は十三年にわたる長い療養生活を経験している。その間、九度も入院し、さまざまな病人と、その病人を取り巻くさまざまな人々を見てきた。そして肝に銘じたのは、人間の死は、所詮、死にゆく人間ひとりの一大事でしかないということであった。
 むろん、ただひとりの子が死のうとしている時、あるいは唯一の頼りにしている夫が死のうとしている時、周囲の人も共に必至な思いになる。が、それに限度がある。死線をさまよう日が長くなれば、死んでいく人の悲しみや苦しみよりも、自分の看病の疲れや、経済的な不安のほうが大きく感じられてくる。すべての人がそうではないにせよ、大半の人が非情の片鱗をちらちらと見せるようになる。・・・
 イエスは岩にひざまずいて祈っている・・・右手に遠く近づきつつある一隊は、イエスを捕らえて殺すとする輩である。キリストの一大事であるこの時に、三人の高弟たちは、正体もなく眠り込んでいる。イエスが血の汗を滴らせて祈っているというのに、彼らは共に祈る体力もない。これは、私たち人間の非情さを思わせる姿である。しかし、イエスは言われた。「げに心は熱すれども、肉体は弱し」と。
 私たち肉体を持つ者は、人間の限界の中に生きている。いかに心に思っていても、肉体が疲労困憊すれば、心について行くことはできない。「げに心は熱すれども、肉体は弱し」と言われたイエスの言葉が、私の胸にあたたかく呼びかけるのを、今日まで私は幾度か経験してきた。なんと、深い人間洞察の言葉であろうか」

 三浦綾子さんは、イエス様の一大事にも眠りこけてしまう弟子たちの姿に、人間の非情さを見て取ります。非情さというのは、人間としての思いやりのなさです。しかし、こういう非情さは誰にでもある。それは彼らの個人的な弱さといよりも、人間ならば誰でももっている弱さ、肉としての人間の限界ではないかと、弟子たちの失敗に理解を示し、同情しているのです。
 
 しかし、私は三浦綾子さんが「非情さ」という穏やかならぬ言葉を使っているところに、もう一歩踏み込んだ考察というものが隠されていると思うのです。三浦さんは、どんな愛し合っている家族であっても、病人の苦しみや悩みをとことん分かち合うということは難しいもので、気持ちがあっても身が持たないのだと言われます。それはそうだと思います。しかし、そういう人を非情な人間と言えるだろうか、と思ってしまうのです。非情さというのは、人間らしい感情を持っていない、冷血さのことです。家族の看護を一生懸命にやってきて、とうとう疲れてしまった人間を、非情というのにあまりにも酷のような気がするのです。

 けれども、そこを敢えて三浦さんはこの「非情さ」という言葉を使っていると思うのです。それは、「心は熱すれども、肉体は弱し」というイエス様の言葉を、安易に言い訳として用いて欲しくないというお気持ちがあるからだと思います。「気持ちはあるんだ、愛はあるんだ、だから悪くない」、そんな風に自分の弱さを正当化するために、イエス様は「心は熱すれども、肉体は弱し」と言われたのではない、そういうことを三浦さんは注意して欲しかったのではないでしょうか。

 三浦さんは、「心は熱すれども、肉体は弱し」ということの中に、仕方のなさではなく、人間の罪というものをかいま見ているわけです。三浦さんは、看護される立場を長く経験されてきました。看護される側からすれば、つまり病と苦しい戦いをしている側からすれば、誰かに助けて欲しい、少なくとも一緒にこの苦しみを味わって励まして欲しいと願っているにちがいないと思うのです。しかし、その期待は、「そうしたいのはやまやまだが、心を熱すれど、肉体は弱しでね、私にも都合があるし、限界もあるし」と体のいいことを言われて、ことごとく裏切られてしまう、そんな経験を何度もなさってきたのではないでしょうか。最も信頼していた家族ですら、そうだとしたら、その失望はどんな大きいことでしょう。

 「心は熱すれども、肉体は弱し」これは確かに人間の現実です。しかし、だから仕方がないと言ってすまされるような安易な言い訳につかわれるべき言葉ではないのです。そこには、人を愛しても愛しきれない、悩みも苦しみも分かち合って共に生きるということが為しきれないで、結局は自分の都合にしか生きられない罪深さがあるのです。だからそれは人間の「非情さ」としかいいようのないことなのだ、ということなのではないでしょうか。

 しかし、その人間の非情さを味わったイエス様の方から、「心は熱すれども、肉体は弱し」と、眠りこける弟子たちへの深い理解と同情を示してくださった、そこに本当に大きなイエス様の愛を感じ取るのです。
神と人間の間で
 最初に、イエス様の苦しみは、私たちの受けるべき苦しみで、それは神に見捨てられる苦しみであるということを申しました。イエス様は、人間のために、人間の立場に立って、このように神様に見捨てられるような苦しみを経験しながら、実は人間からも見捨てられている。それがゲツセマネにおけるイエス様の御姿であり、弟子たちの眠る姿であります。

 そのゲツセマネにおいて、イエス様は神に祈り、また弟子たちのところに戻ってくる。それからまた神に祈り、再び戻ってくる。さらにもう一度神に祈り、それから弟子たちのところに戻ってくる。神様に見捨てられ、弟子たちにも打ち捨てられる場所に立ちながら、神様と弟子たちの間を何度も往復されているのです。

 ここに、神様と人間との狭間に立って祈ってくださっている救い主の姿があります。天使はあくまでも神様の側にしか立つことができませんから、私たちの救い主には成り得ません。また、人間はどんなに心優しき人であろうと、立派な方であろうと、あくまでも人間の立場を離れることはできませんから、救い主には成り得ません。ただ真の神であり、真の人間であるイエス様だけが、神様と人間の間に立って執り成し給うことのできる救い主なのです。
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