主イエスの執り成しの祈り (木曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書17章1-26節
旧約聖書 イザヤ53章
祈りの生活について
 私たちは、毎週聖書からイエス様のご生涯を学んでおります。そして、ちょうど今、この最後の1週間の学びをしておりまして、木曜日の夜すなわちイエス様が十字架におかかりになる前夜になさった「別れの説教」までをお話をしてきました。今日は、その後にイエス様がなさった祈りについてのお話であります。

 さて、1節に「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」とあります。祈るということは、天を仰ぐことだと言っても良いと思いいでしょう。天は、高きところにあります。地べたに這いつくばって、目先のことで右往左往している私たちには、まったく関係のない世界のように思えます。しかし、その高きところから、私たちに注がれている暖かい眼差しがあるのです。神様が、天の父として私たちの地上の生活を絶えず見張り、見守っていてくださるのです。ですから、地べたに這いつくばっている私たちも、高き天を仰いで祈ることができるわけです。祈るということは、天とのつながりをもって生きていくということです。

 「神に祈る」なんていうのは、現実逃避だとうそぶく人たちがいます。しかし、そうではありません。天とのつながりがあるからこそ、私たちは勇気をもって、また希望をもって、この世の現実と向き合っていきることができるようになるのであります。

 忙しいから祈る時間がないとか、家庭や仕事野中に問題を抱えているから教会なんか行っていられないというのも、本当は逆なのです。忙しいからこそ、この世が悩みに満ちているからこそ、私たちは天を仰いで、神様に祈って、そこから勇気と希望をいただく必要があるのです。『マルコによる福音書』1章32-39節を読むと、そのことがよくわかります。

 「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」

 病人をいやし、悪霊を追い出し、弟子たちにせっつかれ、町から町へ、会堂から会堂へと息つく間もなく、人間の問題に深く関わり合ってくださっているイエス様のお姿がここに描かれています。しかし、お忙しい活動の合間に、イエス様は祈っておられたと、聖書は書いております。

 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」

 イエス様は祈りの人でありました。この世のもっとも低き人々と共に生きながら、天のもっとも高き所のつながりに生きる人でありました。だからこそ、天の祝福をこの地上にもたらすお方であったのです。

 では、イエス様はどんなお祈りをなさっておられたのか? 福音書はこのようなイエス様の祈りの姿については描くのですが、イエス様がどんな祈りをなさっていたのか、その祈りの言葉そのものを教えてくれるところは少ないのです。そういう意味で、今日お読みしましたヨハネによる福音書17章というのは、イエス様のお祈りの言葉をたっぷりと味わうことのできるたいへん貴重な箇所だということができるでありましょう。
十字架を負う祈り
 世の中にはいろいろな言葉が溢れています。「助言が多すぎて、お前は弱ってしまった。」(イザヤ47章13節)という聖書の言葉がありますが、そんな風に言葉の洪水の中で、人々は真実を見失っています。真実とは、信じることができるものです。何が信じるに足るべきものなのか、それが分からなくなってしまっている人が大勢いるのではないでしょうか。

 しかし、私たちは、聖書を持っています。その中には全身全霊をもって信じることができる神の約束、神の教えがあります。その中に、今日のイエス様の祈りの言葉があります。イエス様が、天の至聖所に入り、私たちのために祈って下さっている。そのことを知るならば私たちも勇気百倍、これ以上に心強いことはないのです。ヨハネによる福音書17章というのは、そういう本当に私たちにとって幸いな言葉が記されているところなのです。

 これはたいへん長いお祈りですが、この祈りの中には、イエス様が格別に祈られた五つの祈りがあります。

 第一は、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えて下さい」(1節)という祈りです。これは、ご自分のための祈りでありました。

 「父よ、時が来ました」と、イエス様は祈られました。この「時」というのは、人間の歴史においても、天の歴史においても、もっとも大切な時であります。アダムが切に願い、アブラハムが希望として仰ぎ、ダビデが祈り求め、ヨブが幻に見、イザヤが預言に残した日であります。昔も、今も、永遠に、すべての人が忘れてはならぬ日であります。

 イエス様は神の御子でありながら、この時のために栄光を脱ぎ捨てられました。この時のために天の父のもとをお離れになりました。この時のためにマリアより生まれ、この時のために人間の僕となられ、この時のために苦難の道を歩まれました。

 そして今、「父よ、時が来ました」とイエス様は祈られます。それは十字架の時でありました。普通に考えれば、それはイエス様の敗北の時であり、挫折の時に思えることでありましょう。しかし、イエス様はそのようには考えておらず、この十字架こそご自分の時と弁え、「どうぞこれをもって、わたしの栄光としてください」と、祈られたのであります。

 イエス様は犬死にするつもりはなかった、そういう言い方もできると思います。まったく無益な死を死ぬのが犬死にであります。しかし、イエス様は、御自分の命を捨てるということに大きな価値を見ておられました。自分の命と引き替えにしてまでも手に入れたいものというのは、そう滅多にあるものではありません。自分の命に勝るものはないと、取るに足らぬ無きに等しい私たちでさえ、自分の命がそれほど大切だと考えています。まして、神様の御子なるイエス様の命はどれほど尊く、重たいものでありましょうか。それを代価として支払ってまでも、手に入れたいものとは何か? いったい、この世にどこに、それほど尊いものがあるのでしょうか。

 実は、それこそが私たち一人一人の魂なのです。私たちがそんなにイエス様にとって価値ある人間であるというのは、まったく信じられない話かもしれません。しかし、取るに足らぬ無きに等しい者を、そこまで大きなものとしてくださる、それがイエス様の愛なのです。

 CS・ルイスという人の書いた『悪魔の手紙』という本があります。これはオカルトの本ではなく、たいへん素晴らしい信仰の書なのです。ベテランの悪魔が、新米の悪魔を手紙で教育するという形をとりながら、逆説的に信仰とは何か、誘惑とは何か、神様の救いとは何かということを語っている大変ユニークな本です。

 その最後のところに、地獄の誘惑研修所における晩餐会でなされた悪魔の演説というのがあります。ベテラン悪魔が、研修中の悪魔に演説をするという話です。その中の話ですが、悪魔のご馳走は何かと言いますと、悪人の魂なのです。悪魔の演説者は、目の前に並べられたご馳走を見て、最近のご馳走は、量はたいへん多いけれども、美食の観点からすると汚職とか、不倫とか、味気ないものばかりだと嘆くんですね。ああ、もう一度、ヒットラーか、カサノバのような本物の悪人の魂を味わいたいと言うのです。ところが、その後で、悪魔の演説者は、悪魔諸君たちに、しかし、贅沢は言っていられないのだと、こういう話をするのです。

 「そりゃ、こんな霊魂ともうしますか、ともかくかつて霊魂なりしもののふやけてとろけた残りかすなんか、地獄に落としてやるだけの値打ちもなかろう、と言いたいところであります。ところがです。敵は、何のへそ曲がりな理由があってのことか、見当がつきかねますが、ともかくそんな魂でも救う値打ちがあると考えたのであります。本当なのですよ。諸君はまだ若僧で実際の勤務に服したことがないものだから、これらくだらぬ人間どもの一人一人が、どれほどの苦労とどれほどの巧妙な業でもって捕らえれたのか、お分かりでない」

 お分かりでしょうか。悪魔の敵というのは、イエス様のことでありましょう。イエス様が、悪魔でさえ価値がないと思うような魂をさえ値打ちがあると救いだしたので、悪魔はたとえ腰抜けのような魂を地獄に連れてくるのにも非常に苦労しているという演説なのです。

 このことをもっと素直に天国の見方によってお話下さったのが、ルカによる福音書15章には、百匹の羊を飼っていた羊飼いが、見失った一匹を捜すという話、なくした一枚の銀貨を念入りに探す婦人の話、父親が、家を飛び出して放蕩に身を持ち崩した息子の帰りを待ち続けるという話だと思うのです。これらの話に共通するのは、掛け替えのなさということです。迷わないでついてきた九九匹の羊がいるのです。なくしていない九枚の銀貨があるのです。飛び出した息子の他に、家で忠実に働く息子がいるのです。だからいいじゃないかということにはなりません。たった一つの魂であっても、決して代用品では満たすことができない大切さがある、それがイエス様の愛、天国の愛であるというのです。

 イエス様は、このような天国の愛をもって、十字架におかかりになったのです。御自分の命を代価として支払ってまでも、すべての魂を神様の御許に返したい、そして滅び行く魂に永遠を与えたいという祈り、それが「父よ、時が来ました。子に栄光を与えて下さい」と祈られたイエス様の祈りなのです。
執り成しの祈り
 さて、残る第二の祈りから第五の祈りまでを一気に見て参りたいと思います。まず、第二から第五までの祈りがなされる前に、イエス様はこのように祈っておられます。

 「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」(9節)

 つまり、第一の祈りはご自分のための祈りでありましたが、第二から第五の祈りはすべて弟子たちのため、また教会のため、イエス様を信じる私たちのための祈りなのです。イエス様は、私たちのためにどんな祈りをしてくださっているのか。

 A「聖なる父よ、わたしに与えて下さった御名によって彼らを守って下さい」(11節)

 イエス様は、「彼らを御名によって守ってください」と祈ってくださいました。「御名によって守る」というのは、イエス様のお名前がおまじないのように効くということではありません。イエス様につながる者が、イエス様のゆえに守られるということであります。私たちは、自分がどれだけ神様に守られる価値ある人間がわかりません。しかし、イエス様につながっているならば、イエス様の御名のゆえに私たちは神様の寵愛を受け、守られるのです。そのことを祈ってくださっているわけです。

 B「真理によって、彼らを聖なる者としてください」(17節)

 イエス様は、「彼らを聖なる者としてください」と祈ってくださいました。「聖なる者」というのは、道徳的に罪のない、汚れのない人間になるということではありません。聖書で、「聖なる者」といったら、すべて神様のことだと言ってもいいのです。そうしますと、私たちは聖なる者となるということは、私たちが神様のものになる、神様に属する者になるということです。罪を犯し、多くの過ちや不徳があるとしても、彼らをあなたの者として聖別してくださいということなのです。

 C「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(21節)

 イエス様は「すべての人を一つにしてください」と祈られています。一つにするとは、人間的な好き嫌がなくなることではありません。考え方が同じになるということでもありません。主にある兄弟姉妹として、主の御体につながる肢々としての教会として、互いに愛し、敬い合う、その愛の交わりによって一つになるということです。

 D「父よ、わたしに与えて下さった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」(24節)。

 イエス様は「彼らを私と共におらせてください」と祈られました。イエス様が私たちと共にいてくださり、私たちもまたイエス様と共にいようとするならば、私たちはいつもイエス様と共にいるということになるのです。しかし、それだけではなく、神様の助けと祝福によって、私たちがイエス様と共にいることができるようになるということが意味のあることなのです。私たちは弱い人間でありますから、いつイエス様を離れて彷徨い出てしまうかわかりません。それにも関わらず、彼らを私と共におらせてくださいと祈ってくださっている、これがこの祈りだと言っても良いでありましょう。

 みなさん、イエス様が私たちのためにこのように祈っていてくださいますから、私たちも揺らぐことのない気持ちで「私たちを守ってください」、「私たちを神様のものとしてください」、「私たちを一つにしてください」、「私たちをイエス様と共におらせてください」と祈ろうではありませんか。これらは皆、本来、私たちの願い、私たちが祈るべき祈りなのです。
イエスの弟子となるために
最後に注目したいのは、15節です。

 「わたしがお願いするのは、彼らが世から取り去られることではなく、悪い者から守って下さることです」。

 これは、「御名によって彼らをお守りください」という祈りとの関連で祈られていることでありますが、「彼らが世から取り去られることではなく」という点に注目したいのです。

 私たちはイエス様の尊い命の代価によって贖われ、神の子供らとされました。私たちの天の子らであり、もはや世に属する者ではありません。しかし、イエス様は、そのような私たちがこの世から逃れることではなくて、この世の中に踏みとどまって天の子らとして生きることを願っておられます。この世に流されたり、埋没したりすることなく、たとえ悪い状況の中でも守られ、清められ、一つになって、イエス様の弟子として生きることを願っておられるのです。

 言葉を換えれば、一人一人が十字架を担って生きるということではないでしょうか。それは、はっきり言うと安楽な人生ではなく、苦労をする人生であります。けれども、イエス様はこのような十字架の道においてこそ、私たちに本当の喜びを与えて下さる、本当の愛を与えて下さると言うのであります。13節をご覧下さい。イエス様はこのように祈っておられます。

 「これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」

 さらにまた、26節を見ますと、

 「わたしに対するあなたの愛が、彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」

 このようにも祈っています。イエス様は、「十字架を負って私に従ってきなさい」と言われますけれども、苦労だけをお与えになるのではなく、その苦労を通してでなくては知り得ない救いの喜び、神様の愛というものを、私たちにお与えくださるのです。

 それから、十字架を負うというのは、決して一人一人別々の歩みではなくて、実は一つの十字架を、みんなで御神輿のように担いで生きることなのではないでしょうか。一つの教会がその中で一致することはもちろんでありますけれども、この世にあるすべての教会が、手を取り合って、祈り合って、それぞれの場所で十字架の担ぎ手となることが大切なことだと思います。

 その力を私たちに与えて下さるために、イエス様は十字架におかかりになり、また今も、「彼らをお守りください、清めて下さい、一つにしてください」と、神様の側で祈って下さっているのであります。

 イエス様がわたしたちのために神様のそばで祈っていてくださる。このような力強きイエス様の祈りに支えられ、受難週の歩みを導かれて参りたいと思います。
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