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今、私達が読んでおりますのは、十字架におかかりになる前の晩のこと、イエス様が弟子たちへの深い愛を示してお語りになった「別れの説教」と言われるところであります。前回は、その中から「ぶどうの木の譬え」と言われるところを読んで学びました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネによる福音書15章5節)
これがその中心にあった聖句でありますが、イエス様がぶどうの木で、私達がその枝であるということは、イエス様と私達の関係は生命の交わりであるということを意味しています。
しかも、「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」と、イエス様は仰いました。そこにつながっていれば豊かに実を結ぶことになるけれども、そこを離れてしまえば必ず枯れてしまうという、私たちの存在、また人生が立つか倒れるか、生きるか死ぬかという瀬戸際にある、極めて重大な、命の根源的な関係がそこにあるのだということなのであります。 ですから、イエス様は「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。そこにこそあなたがたの命があるのだ」と、繰り返し教え給うのです。
今日は、その続きでありまして、聖書で申しますと、『ヨハネによる福音書』15章18節からということになります。そこから、今日お読みしました「別れの説教」の最後の部分までを、いくつかのポイントに的を絞ってお話をしてまいりたいと思います。まず、15章18-19節をごらんいただきたいと思います。
「世があなたがたを憎むならば、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」
ここには、イエス様につながるということの、もう一つの側面が語られています。イエス様につながるということは、命の木につながることであり、私たちが真実に生きるための命の根源を持つことであります。しかし同時に、そのことは世の憎しみを買うことにもなるだろうと、イエス様は言われるのであります。
神様は愛です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とも御言葉は語っています。そんなこの世に対する愛に充ち満ちた神様の愛を受けて、その愛に留まろうとして、私達はイエス様に連なる者となり、洗礼を受けてクリスチャンになったのです。私達は、この世に敵対する者になろうとしたのではありません。この世を真に愛してくださる神様の愛に連なる者となったのです。それなのにどうして「世はあなたがたを憎むであろう」と、イエス様は仰るのでしょうか。
イエス様の示された理由は明確で、それはあなたがたもはや世の身内ではないからだと、言うのです。身内というのは家族、親類のことですが、ちょっとおもしろい言い方としては、やくざの一家など同じ親分のもとにいる子分たちのことを身内といったりもするのです。そうしますと、私達がもはや世の身内ではないないということは、親分が違うということだともいえるのです。
親分が違えば、当然、一家の掟も違ってきます。私達は、私達の親分であるイエス様の言葉に従って生きるのでありまして、そこにこの世の人々との間に価値観や生き方の摩擦というものが起こる事があるのです。たとえば、私達も世を愛します。けれどもその愛は、この世の人たちが世を愛する愛とはずいぶん内容が違ってくるはずです。私達は、世の富、世の力、世の誉れを追い求めるわけではありません。しかし、この世に平和が実現することを願い、正義と愛が行われることを願い、悲しんでいる人や病める人が慰められることを願うのです。
ところが、そういうことが世の人々に必ずしもすんなりと受け入れられるわけではない。むしろ、誤解や無理解、そして迫害を受けることがある。そのことを、イエス様は、あからじめ私達に教えてくださっているのです。 |
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それは、世と関わりをもってもおもしろくないぞ、ということではありません。イエス様の伝道の初期になされた「山上の説教」の中には、このような御言葉があります。
「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(『マタイによる福音書』5章11-12節)
たとえあなたがたが世に憎まれることがあっても、それは、むしろあなたがたが世の身内ではなく、私の身内であることの証明なのだから、喜びなさいということが、ここでもイエス様によって語られているのです。
もっとも、私達のしていることは、どんなにしたってこの世には絶対に理解してもらえないものなのだと、あきらめる必要はありません。私達がそのような目にあっても、そういうことで失望したり、心を腐らせたりしないで、忍耐をもって神の愛をもって世を愛するということを貫くならば、きっとわかってもらうことができる、そういうことは決して否定されてはいないと思います。
神様の愛をもって、世のすべての貧しい人を愛したマザー・テレサですら、最初は世の激しい憎しみを遭いました。カルカッタの人々は、最初、マザー・テレサやシスターたちの働きを、「あいつらはヒンズー教の聖地に入り込んできて、貧しい人や死にそうな人を見つけては、その弱みにつけ込んでカトリック教徒に改宗させようとしているのだ」と、そんな風に誤解をして、石をぶつけたり、つばをはきかけたり、彼女たちを追い出そうとしてずいぶんな嫌がらせをしたのでした。
もちろん、マザー・テレサたちがしていることは、彼らの考えているようなことではありませんでした。彼女たちは、病気の人や行き倒れになって死にそうになっている人を施設に収容すると、まず体をきれいにしてあげ、その人の宗教を聞くそうです。そして、ヒンズー教徒には聖なるガンジス川の水で体を清めてあげ、イスラム教徒にはコーランを読んであげ、キリスト教徒には聖書の言葉を読んであげたのです。しかし、彼女たちはどんなに誤解をされても、一言も弁明せず、そんなことに時間を費やすぐらいなら一人でも二人でも貧しい人を救いたいと思って働いていたのでした。
ところが、ある日、マザー・テレサやシスターたちの働く施設に、カルカッタの警察署長が訪ねてきました。町の人たちに、シスターたちを追いだしてくれと頼まれたからです。署長は熱心なヒンズー教徒で、人々の噂を信じ、なんとか彼女たちをしっぽを掴み、追い出そうと勇んでやってきたのです。しかし、施設の中を見回った署長さんは、貧しい人々たちために、彼女たちがどんなに愛をもって忙しく、献身的な働きをしているということ見て、逆に心を打たれました。そして、外に出ると、集まってきた町の人々を前に、こう言いました。「あなたがたが臨むならば、マザー・テレサとシスターたちをここから追い出してやろう。しかし、あの人たちがしているのと同じ事を、君たちがやるということが条件だ」と。
マザー・テレサのように神様の愛をもって、心から貧しい人たちに仕えても、それが理解されず、世の敵意を一身に受けるということがありました。しかし、それにもかかわらず、イエス様を信じ、愛をもって生涯を貫くならば、最後には世の人々にも信頼され、好意と尊敬を受けるということになるのです。
イエス様が、「あなたがたは世に憎まれる」と言われたとしても、それは決して「この世はあなたの敵だ」という意味ではないということに注しなければなりません。神様は愛なる神であって、世を愛してくださいました。その愛を受けて、その愛に生きる者とされたのが、私達クリスチャンなのですから、私達もまた心を込めて、世と世の人々を愛することが大事なのです。
ただその際に、愛するにしても、神の栄光を見たいためにそれを愛するのか、世の栄光の見たいためにそれを愛するのか、この二つはまったく違う愛であるということを知らなければなりません。
マザー・テレサがハンセン病の人を抱きかかえるのをみて、ある人が「わたしは100万ドルをもらっても、そんなことはしたくありません」と言ったそうです。すると、マザー・テレサはこう答えました。「わたしも、お金のためであったなら、たとえ200万ドルをもらっても、こんなことはしないでしょう。しかし、これは私たちのために御子を惜しまず十字架にかけてくださった神様のためなのです」
私たちもまた妻や夫を愛し、父母を愛し、子供らを愛し、友人たちを愛します。けれども、それはどんな愛でしょうか。私たちの中にあるのは、神を愛し、神を喜ばせることを目的とした愛でありましょうか。それともこの世的な満足や喜びを満ちたらせることを目的とした愛でありましょうか。同じ愛するのでも、それとこれではぜんぜん中身が違ってくるのです。
私たちは憲法が信教の自由を保障している、そういう時代に生きていますから、クリスチャンであるがゆえに殺されるということはないかもしれません。けれども、家族や職場において誤解を受けたり、分かってもらえなかったりするという経験はあると思うのです。「そんなきまじめに日曜礼拝を守らなくてもいいじゃないか」とか、「そんなに献金してもったいないじゃないか」とか、「人のためも結構だけど、自分を犠牲にすることはないじゃないか」とか、そういうことを皆さんも一度や二度言われた経験があるのではないでしょうか。あるいはまた、クリスチャンとしての生き方を貫いたために、この世的な名誉や富を掴むチャンスを逃すということがあるかもしれません。
しかし、そういうことに躓いたり、動揺してはいけないのです。憎まれようが、誤解されようが、最悪の場合には命を失うとも、イエス様につながっているということが私たちの命の源なのです。この命の源を離れて、私たちがどんなに人に愛されようが、この世的な成功を収めようが、それでは意味がないのだということを肝に銘じたいと思います。世の無理解、誤解、迫害にめげることなく、神様の愛をもって世を愛する者になりたいと願うのです。
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さて、次のポイントは、ちょっと飛びますが、16章16節です。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(16:16)
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」と、イエス様は言われます。これは、もう何度も申し上げてきましたが、イエス様が、弟子たちがついてくることができないところ、天にお帰りになるということを行っているのです。しかし、「またしばらくすると、わたしを見るようになる」とも、イエス様は約束してくださいました。
ここでは、「しばらくすると」「しばらくすると」と繰り返されているのが、重要な意味をもっているのです。この時、弟子たちは、そのことがよく飲み込ませんで、いったい「しばらくすると」というのは、何のことだろうかと顔を見合わせ、コソコソと議論を始めたと、聖書に記されています。
「そこで、弟子たちのある者は互いに言った。『「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」とか、「父のもとに行く」とか言っておられるのは、何のことだろう。』また、言った。『「しばらくすると」と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。』」
これに対して、イエス様は「しばらくすると」という意味についてお答えになっています。それは、あなたがたが苦しみを通って、永遠の喜びへと入れられることだと、仰ったのです。
「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。」(16:22-23)
すべてがはっきりとして、顔と顔を合わせるようにイエス様にお会いする日は必ず来ます。しかし、その日はいっぺんに訪れるのではなく、それまで神の時を待ち、神の時を生きなければならないということが、「しばらくすると」という言葉によって言われているのです。
今はまだ人生の悲しみや苦しみががあります。しかし、その中にもなお、私達には主からいただく喜びや希望があるのです。しかし、いつの日にか、私達の目からまったく涙が拭い去られ、痛みも苦しみのない御国にいれられるのでありまして、私たちの人生というのは、その日を望みつつ、天に帰る道を一歩、一歩、歩む旅だとも言えるのです。
そして、それをいつも傍らで励まし、慰め、導いてくれるのが聖霊様であります。前後しますが、16章12-13節にはこのように言われています。
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(16:12-13)
聖霊の働きの第一のことは、天のイエス様と地上の私達の間にある距離を埋め、架け橋となって、イエス様と私達の交わりを実現してくれるということです。しかし、もう一つ、ここに「あなたがたを導いて」という、聖霊の導きについて語られています。聖霊は、イエス様と私達の間の橋渡しをしてくれるだけではなく、私たちが天に帰るこの世の旅路を守り、助け、導いてくれるのだということが言われているのです。 |
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最後に、この「別れの説教」の締めくくりの御言葉を見てみましょう。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(16:33)
イエス様は、「勇気を出しなさい。勇気をもって、この世の旅路を歩み続けなさい。信仰を持つとは勇気を持つことである」と、私たちを励ましてくださっております。
クリスチャンとして、神様の言葉に従って、イエス様につながって生きていくということは、私達がまことの命を得ることであります。しかし、その反面、世の憎しみに遭うこともある、悲しみや苦難も経験すると、イエス様は仰いました。そこを、絶望することなく、どんな困難にも神を信じ、イエス様を信じるがゆえに、勇気をもって歩み続けていくことによって、私たちは永遠の喜び、永遠の平和を得ることができるのです。
「我すでに世に勝てり」
みなさん、私達はこの世にある限り、多くの戦いをしなければなりません。けれども、イエス様は、これから十字架にかかって殺されるという絶体絶命の出来事が待ち受けていることを百も承知の上で、「我すでに世に勝てり」と堂々たる勝利宣言をされました。嘘か真かわかりませんが、巌流島の決戦で、宮本武蔵が佐々木小次郎に「小次郎、敗れたり」と、戦う前に勝利宣言をしたのと同じです。戦いはまだこれからなのですが、もうすでに勝利は見えている。この戦いは、勝か負けるかの勝負ではない。勝利を実際のものにするための戦いであるということなのです。
私たちクリスチャンの世における戦いも同じでありまして、私達の親分、私達の大将は、「我すでに世に勝てり」と、すでに勝利宣言をなさっているのです。私達は戦わなくてはなりませんが、負けることのない戦いであり、勝利を実際のものにするための戦いなのです。ですから、本当に厳しい、つらい戦いというのが、私達にはあるのですが、主の勝利を信じる勇気さえあれば、その戦いの中にも主にある平安というものが心にわいてくるものなのです。
どうぞ、最後には、私達があらゆる困難や闘いを制して、勝利の喜びと平和に与ることを信じて、主と共に私達も十字架を負って生きる勇気をもつ者でありたいと願います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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