別れの説教C 我は真の葡萄の樹 (木曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書15章1-17節
旧約聖書 詩編37編1-7節
われ活くれば汝らも活く
 今私たちが学んでおりますのは、イエス様が弟子たちに向けてお話になった「別れの説教」であります。この日、イエス様は、十字架という苦い杯を、神様の与え給う杯として飲み干さなければならない日が、もうすぐそこに迫って来ていると、心にはっきりと感じ取っておられました。一方、弟子たちは心に不安を覚えながらも、まだイエス様との別れが本当にくるということがよくわかっていなかったように思います。

 わかっていないというよりも、認めようとしなかったと言った方がいいかもしれません。そういう弟子たちが、ご自分のお受けになる苦難と死とを目の当たりにした時に、いったいどうなってしまうのか。そのことを案じながら、イエス様はこの説教を、弟子たちへの深い愛情をもってお語りくださっているのであります。

 「別れの説教」と申しましたが、本当の意味で言うならば、これは決して「別れの説教」とは言えません。イエス様が十字架にかかって死なれるのは、決して弟子たちとの別れではなかったからです。それによって弟子たちの贖罪が成し遂げられ、天国への道が開かれ、いつまでもイエス様と一緒にいる日が来るためなのです。

 確かに、イエス様が十字架におかかりになるとなれば、今までと同じように、というわけにはいきません。弟子たちは、もはやイエス様のお姿をその目で見ることはできなります。イエス様のお言葉をその耳で聞くことはできなくなります。イエス様に手で触れるということもできなくなります。

 けれども、イエス様は天国で神の右の座におつきになると、そこから聖霊を弟子たちにお送りくださって、聖霊によって弟子たちの心の内に住み、常に御言葉を思い起こさせ、「主が共におられる」との平安を与えてくださるのです。そういう聖霊による交わりによって、イエス様と弟子たちの関係はいつまでも終わることなく、弟子たちが天国で再びイエス様にまみえるまで続くのであります。

 そういう意味では、イエス様の十字架の死は、イエス様とのお別れではありません。新しい関係の始まりだと言った方が良いと思うのです。目で見て、耳で聞いて、手で触れることができるイエス様ではなく、聖霊によって現臨なさるイエス様を、目で見ることがなくても信じ、耳で聞くことがなくても聞き従い、手で触れることなくとも生きた交わりをもって愛する、そういうイエス様との新しい交わりが、そこから始まるのです。

 そして、この聖霊による交わりには、主の間近で暮らしていた2000年前の弟子たちばかりではなく、主を信じるすべての弟子たちが招かれております。私たちもまた、洗礼を受け、信仰告白をし、主の弟子になることによって、この聖霊によるイエス様との交わりの中に生かされる者とされるのであります。

 そこで大切になってくることは何かと言いますと、イエス様に繋がり続けるということです。たとえこの目でイエス様を見なくても、耳でその声を聞かなくても、心において、魂において、霊において、イエス様との生きた交わりの中に生かされ、イエス様との繋がりを保ち続けることが必要なのです。そのことを教えてくださっているのが、今日お読みしましたイエス様の「ぶどうの木の譬え」なのです。

 この中には、「つながって」という言葉、あるいは「とどまって」という言葉が、何度もイエス様によって繰り返されております。数えてみますと、1〜10節の中だけで11回も語られているのです。繰り返しになりますが、この「つながり」とは、目で見ることではありません。手で触ることではありません。イエス様と命の交わりを持つということです。

 先週お読みました御言葉の中に、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(14章19節)と言われていましたことを思い起こしていただきたいと思います。「わたしが生きているので」というのは、たとえ目に見えなくても、手で触れることができなくても、わたしは生きているという、イエス様のお言葉であります。そのイエス様の十字架の死に打ち勝たれた命が、私たちの死ぬべき、滅ぶべき命の中に働いてくださるのです。

 私たちは、この決して安楽ではない人生を悩みつつ、戦いつつ生きていかねばなりません。しかも、私たちの命というのは、ほんのちょっとしたことで傷ついたり、病んだりして、たちまち生きる力を失ってしまう。それほど、弱く、乏しく、もろい命なのです。

 しかし、その時に、「ああ、イエス様が私の中で力となってくださっている。イエス様が私の人生を導いてくださっている。イエス様がこんなに私を愛してくださっている」という、本当に「われ活くれば汝らも活く」と言われたお言葉の通りの内なる体験をさせられることがあるわけです。それがイエス様につながっているということであり、今日のところでは、「ぶどうの木の譬え」として、このように語られています。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(5節)
我を離るれば
 イエス様はぶどうの木であって、私たちはその枝であるということが言われております。これは、私たちが常に心に覚えておきたい大事な御言葉であります。

 15章1節では、「わたしはまことのぶどうの木」と、イエス様は仰います。「まことの」というからには偽物もあるわけです。偽物の木は、私たちに偽物の命しか与えることができません。偽物の果実しか結ぶことができません。しかし、イエス様は私たちにまことの命を与え、まことの果実を結ばせることができる、まことのぶどうの木でいらっしゃいます。

 そして、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」という部分が、大事だと思うのです。このことが本当に分からないと、イエス様につながっていることはできません。

 ちょっと考えると、私たちには、イエス様を離れても出来そうなことがいろいろありそうです。というより、実際にイエス様とは関わりなく、学校を卒業し、就職し、結婚し、家庭を営み、子供をもうけ、子育てをし、家を建て、財産を築き・・・いろんなことをしてきたのではないでしょうか。

 もちろん、なにもかも自分でできるというのではなく、ときどきどうすることもできなくなって、行き詰まってしまうことがあります。そういう時は、イエス様にお祈りをして助けていただかなければならないと思うのです。しかし、いつもそれが必要だとは思っておりません。こんな風に、私たちは、イエス様につながっていなければ出来ないことと、つながっていなくても出来ることがあると、二つのことがあると考えているのではないでしょうか。

 しかし、イエス様は、「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」と言われました。「出来ないこともある」と言われたのではなく、「何もできない」と言われたのです。それはどういうことかというと、たとえ私たちがイエス様なしにあらゆることが出来たとしても、イエス様はそれを何一つお認めにならない。イエス様と関わりなく為したことは、すべて無に等しいと言われていることなのです。

 イエス様は、こうも仰っています。

 「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」(6節)

 恐ろしい裁きの言葉であります。ここで、注意して読みたいのは、イエス様につながっていない人は、やがて枯れると言われていることです。もしかしたら、イエス様を離れても、しばらくの間、表面的には以前と同じような生活をすることができるかもしれません。しばらくは花も実もあり、平気に、楽しく暮らせるかもしれません。しかし、そのような生活は、やがて枯れてしまうのです。すぐにではありません。だから、初めのうちは気づかずに、そんなことはないと高をくくっているかもしれません。しかし、きっと枯れてしまうと、イエス様は言われたのです。

 枯れるとはどういうことでしょうか。生き生きとした生命力が失われるということです。もはや困難に立ち向かう力もありません。倒れたら起きあがる力もありません。目標もありません。希望もありません。何のために生きるのか分からなくなって、人生が空しく思えてきます。人をねたんだり、世の中を恨んだり、自分を卑下したり、惨めさだけが募ってきます。

 その原因は、自分が無能だからではないのです。世の中が悪いからでもありません。病気や苦難のせいでもありません。そういうことは、人生の空しさを思い起こさせる一つのきっかけであって、根本原因は、命の源であるイエス様を離れているということにあるのです。

 イエス様を離れた人生はそのように生命力を失い、枯れてしまうだけではなく、とうとう火にくべられてしまうだろうとも言わています。火にくべられるとは、神様に見捨てられることです。恐ろしいことではありませんか。もちろん、イエス様はそのようなことを少しも願っておられません。イエス様はこう言われます。

 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(11節)

 イエス様は、私たちの救いだけを願っておられるのです。ですから、「我に居れ」と再三招き給います。イエス様につながってさえいれば、イエス様の愛にとどまってさえいれば、自分が無能であろうと、世の中が悪かろうと、私たちは主の喜びに満ちた命の働きによって、主の目的のために喜んで生かされる者となり、この世の空しさから救われるからです。

 けれども、つながるというのは、相思相愛でなければなりません。イエス様が私たちにつながってくださるように、私たちの方からもイエス様につながらなければならないのです。御言葉は、そのことを示しています。

 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」(4節)

 「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(5節)

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(9節)

 イエス様が、私たちの無力さや、恐ろしい裁きについて語られるのは、私たちがイエス様を離れては生きられないのだということを知り、まったくイエス様により頼んだ人間になって欲しいためなのです。そうすれば、イエス様が私たちにつながっていてくださることが分かり、イエス様の命が私たちの中に働いているということを、「われ活くれば汝らも活く」ということを、日々の生活の中で体験することができるようになるのです。
我に居れ
 いったい、イエス様につながるというのは、具体的にどういうことなのでしょうか。教会に行くということでしょうか。日曜日だけではなく毎日、聖書を読み、祈ることを日課とするということでしょうか。礼拝だけではなく、教会の信徒との交わりを大切にし、奉仕活動に積極的に参加するということでしょうか。もちろん、こういうことは大事なことです。けれども、実はそれさえしていれば良いという種類のものではありません。

 本当に大切なことは、聖霊によって今ここに居まし給うイエス様を、内なる体験として知ることです。礼拝や日々の祈りなど形式的で意味がないと言っているのではないのです。しかし、それが本当に祝福の源となるためには、体を教会に運ぶだけではなく、魂を神の前に携えてくるような気持ちが必要です。唇だけの祈りを捧げることではなく、魂を注ぎ出すような祈りが必要です。また、知識として御言葉を蓄えるだけではなく、魂を清め、新しくする御言葉としてそれを心に受け入れなければなりません。そういうことを通して、私たちはイエス様の愛と憐れみと、力強い御助けとによって生かされていることを、生き生きと知ることができるのです。

 そして、そのイエス様との生きた交わりを、教会や祈りの時だけではなく、家庭においても、職場においても、一日中保ち続けること、また健やかな時も病めるときも、豊かなときも貧しいときも、その生き生きとしたイエス様との交わりの中にあり続けること、それがイエス様につながっているということです。

 そのために、私たちがどうしても知らなければならないことが三つあります。一つは、先ほどからお話ししておりますように、私たちがまったく無力な者であるということです。それを知って、「わたしを離れては何もできないのである」というイエス様の御言葉に心からへりくだってアーメンという者にならなければなりません。

 もう一つは、イエス様がまことのぶどうの樹であることを知ることです。これも先ほど申しましたように、「まことの」という点が大切で、私たちに命を与えるかのような偽物の命の木も多くあるのです。そういうものに心迷わされることなく、イエス様こそが、まことの命の木であると心を定めて、一途にイエス様につながることを願い求めることが大切なのです。

 では、三つ目は何でしょうか。三つ目は、天の父なる神様が農夫であるということを知ることです。15章1-2節にこう言われています。

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」

 天の父なる神様が、優れた霊的な農夫として、私たちがイエス様につながり、イエス様によって豊かな実を結ぶ者となるように、いろいろと私たちの人生に手を加えてくださるというのです。

 どんな風に手を加えてくださるのか、「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と言われています。つまり剪定されるということです。剪定というのは、枝を切るわけですから、一見乱暴で木を傷める行為に見えます。しかし、余分な枝葉を取り除くことによって、大切な枝をいっそう太く丈夫なものにすることであります。そうすることによって、いっそう豊かな実を結ぶ枝となるのです。

 ある人がこういうことを言っていました。「悩みというのはどんな形で来ても、それが何ものかをもたらす天使として考えるならば慰めとなる」と。確かに悩みとか、艱難試練というものは、私たちのこれまでの落ち着いた生活をめちゃくちゃにしたり、希望を奪ったり、実に破壊的に見えるのです。しかし、そのような中にも、神様がお遣わしになる天使がいて、そのような悩み、艱難試練を通して、私たちが神様の霊的な祝福をいっそう豊かに受けられるように働いてくれているのかもしれません。

 「わたしの父は農夫である」とイエス様はおっしゃいました。ふつうに生活をしていたら、わたしたちはなかなか自分が無力な者であるとか、イエス様が真の葡萄の樹であるということに気づかないのです。しかし、神様の剪定のはさみが私たちの生活に入れられるとき、私たちは苦痛も味わいますが、そのことを通して、イエス様につながることの大切さというものがはっきりと見えてくることがあるのです。
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