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今日もご一緒に、イエス様が弟子たちとの最後の夜にお話しなさった説教に心の耳を傾けて、御言葉を学びましょう。
弟子たちは、イエス様が「あなたがたはわたしについてくることができない」とか、「わたしは天の父の家に帰る。場所を用意したらまた戻ってくるだろう」とか、ご自分の殉教を示唆し、まもなく地上を去ろうとしておられることを暗示されるのを聞いて、大きな不安に襲われました。
「主よ、なぜ今ついていくことができないのですか。あなたのためなら命も捨てます」というペトロの叫び声。「主よ、どこにおいでになるのか、わたしたちには分かりません」(14:5)とのトマスの率直な言葉。「主よ、われらに御父をお示しください」とのフィリポの祈り。これらの弟子たちの叫びや、問いかけや、祈りは、他のすべての弟子たちの思いを代弁するものであったろうと思うのです。
このような弟子たちの心の動揺を、優しく愛をもって受け止めて、心のこもった配慮と導きとお与えになろうとしている、それがこのイエス様の訣別説教なのであります。
さて、今日は15節からお読みしました。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば・・・」
イエス様は、動揺する弟子たちの姿の中に、イエス様は弟子たちの弱さではなく、愛を感じ取ってくださっているのです。
「愛には恐れがない」(1ヨハネ4:18)と御言葉にありますが、やはり人間の愛というのは、人を強くするだけではなく、弱くする時もあります。喜びで満たすばかりではなく、恐れや、不安や、苦痛でいっぱいにする時もあります。
弟子たちも、イエス様に対する愛が大きければ大きいほど、「私たちがこんなに愛しているのに、どうしてイエス様は手の届かないところに行ってしまうのか? もう今までのようにイエス様を愛することができなくなってしまうのか? これで愛の交わりが終わってしまうとしたら、私たちはいったいどうやって生きていけばいいのか?」と、その苦痛、不安、恐れで心がいっぱいになってしまうのです。
みなさんも、愛する人との別れというものを経験するとき、ましてそれが死別ということであれば、弟子たちと同じような苦痛、不安、恐れに襲われることでありましょう。
それに対して、イエス様は、これは終わりではない、新しい始まりなのだとおっしゃられるのです。
「愛は決して滅びない」(1コリント13:8)という御言葉があります。たとえわたしがあなたがたのついて来られないところに行ってしまっても、もっとはっきり言えば十字架にかかって死んでしまっても、それは決してイエス様と弟子たちの愛のよる結合、交わりの終わりではない。むしろ、その完成に向かっての新しく始まるのだということです。
イエス様がこの訣別説教で一生懸命に弟子たちに教えようとしておられるのは、そのようなイエス様と弟子たちとの愛の交わりの新しい形についてなのです。イエス様と弟子たちの愛による結合、交わりの新しい形とは何でしょうか。一言で言えば、それが「教会」であります。
教会とは何かということについては、いろいろな言い方がありますが、私は今日、二つの御言葉をご紹介したいと思うのです。一つは、「ヨハネによる福音書」の著者である使徒ヨハネが書いた「ヨハネの手紙1」1章1-4節です。
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。― わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」
使徒ヨハネは、イエス様は、わたしたちが実際にこの目で見、この耳で聞き、この手で触れた天の父なる神様の命の言葉であり、私たちの永遠の命なるお方であったと言っています。しかも、このイエス様との交わりは、決して過去のものではなく、信仰によって、あなたがたもその命の言葉、永遠の命なるイエス様との交わりを持つことができるのだと言っているのであります。
ちょうどこの使徒ヨハネの言葉を裏付けるかのように、使徒ペトロは『ペトロの手紙1』1章8-9節で、このように語っています。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
この二つの御言葉から分かりますのは、教会というのは、目に見えず、耳で聞けず、手で触れることができないけれども、使徒たちが目で見て、耳で聞いて、手で触れた、あの神の言葉、永遠の命なるイエス様との交わりが確かに私たちにも与えられている、そういう場所といいますか、共同体であるということなのであります。
イエス様は、弟子たちとの別れの説教において「教会」という言葉こそお遣いになりませんけれども、そこでお話くださっているのは、たとえ私の姿があなたがたの目から見えなくなっても、私の声を直接聞くことができなくなっても、私の体に手で触れることができなくなっても、教会の中にわたしは存在する、教会という形で、私とあなたがたとの愛の結合、交わりが滅びることなく続いていくのだということなのです。
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そうしますと、このイエス様の訣別説教は、その場所にいた弟子たちばかりではなく、今の教会に生きる私たちにも向けられているといってよいかもしれません。
今、私たちは、この目でイエス様を見ることはできません。この耳でイエス様のお声を聞くことができません。この手でその御体に触れることはできません。では、私たちはどのようにそのイエス様との交わりに生きることができるのでしょうか。その第一として、イエス様が教えておられるのは、「互いに愛し合いなさい、愛によって仕え合うならば、その中にわたしもいるのである」ということなのであります。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(15節)
「あなたがたが、私を愛しているのはよく分かっている。しかし、それならば、わたしの掟を守りなさい。」と、イエス様は仰っておられます。では、イエス様の掟とはなんでしょうか。それは互いに愛し合うこと、愛によって仕え合うことです。この弟子たちの最後の夜、イエス様はそのことを繰り返し弟子たちに教えておられました。
「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(13章14-15節)
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(13章34-35節)
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(15章12節)
互いに愛し合うならば、愛によって仕え合うならば、私たちはイエス様の弟子となる、つまりイエス様との交わりの中に生かされる者になるのだというのです。
それはどういうことなのでしょうか。もし、あなたがイエス様を愛したいと願うならば、兄弟姉妹を聖い思いをもって愛しなさい。もしあなたがイエス様を訪ねたいと願うならば、兄弟姉妹を訪ねなさい。それがイエス様を愛することであるというのです。あるいはまた、もし、あなたがイエス様の愛を必要としているならば、あなたに親切にしてくれる兄弟姉妹の愛を受け入れなさい。もし、あなたがイエス様に見舞って欲しいと願うならば、あなたを訪ねてくれる兄弟姉妹を受け入れなさい。そこにあなたに対するイエス様を愛があるのだということなのです。
そのような主の愛に満ちた教会になるためには、人間的な好き嫌いを越えて、イエス様の御名によって、互いに愛し合うということが必要なのでありましょう。
あるプロテスタントの牧師さんが、マザー・テレサの働きを見て、非常に感動して帰って来て、「あれはカトリック教会の信仰あればこそできる働きだ」と申しました。どうして、カトリックだと言ったのでしょうか。その牧師さんはこう言うのです。「カトリック教会というのは、あの薄っぺらなウエハースのようなパンを、本気でキリストだと敬っている。その信仰があればこそ、あの道ばたでゴミのように倒れている小さき人々を本気で、イエス様だと信じて愛することができるのではないか」 もちろん、この牧師さんはカトリックがよくてプロテスタントは駄目だと言ったのではなく、私たちにもそのような信仰が必要なのではないかということを、改めて勉強してきたということなのです。
好き嫌いを越えて愛し合うといことは、人間的には不可能と言ってもいいぐらい難しいことです。しかし、どんな小さき相手であっても、どんなに取るに足らぬ相手であっても、どんなに自分をいらだたせる相手であっても、その中にイエス様がいらっしゃるということを信じて、イエス様を愛し敬う気持ちをもって、その人を敬い、愛するということなのです。
そのような愛が教会の中に満ち、教会から外へとあふれ出ていくとき、そこにイエス様との本当に生き生きとした命の交わりが与えられるのであります。 |
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次に、イエス様は、たとえ私がいなくなっても、別の助け主を送って、いつまでもあなたがたと一緒におらせてくださるという約束を、弟子たちに、また私たちに与えてくださいました。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16節)
「弁護者」という言葉が、ここで言われています。ここだけではなく、15章、16章にもこの弁護者について、イエス様は約束されました。弁護者というのは、自分の側に立って、味方になってくれる人ですね。ギリシャ語の意味から言いますと、「傍らに立って、励ましたり、慰めたり、力づけてくれる者」という意味なのです。ですから、助け主、慰め主、弁護者などと訳されるわけです。
それはいったい誰のことなのか。先ほど、兄弟姉妹の中にイエス様がおられることを認めて、互いに受け入れなさいということをお話ししました。そういう意味では、兄弟姉妹が私たちの助けであり、慰めであるとも言えるかもしれません。しかし、それとはちょっと違うのです。兄弟姉妹が私たちの助けであり、慰めなのではなく、兄弟姉妹の中に働き給うイエス様の御霊こそが、私たちを助け、慰め、力づけるということだからです。
この点は注意が必要です。人間を頼りとするわけではありません。人間を頼りとすれば、必ず人間にがっかりさせられることになります。そして、その失望が、イエス様に対する失望になってしまうことがよくあるのです。クリスチャンだって、牧師だって人間ですから、弱さや脆さをもって生きています。それにも関わらず、その中に目には見えない主が生きておられることを信じて、互いに尊敬し合い、愛し合うこと、それが先ほど言った互いに愛し合うならば、その中に主がおられるということなのです。
そして、そのような目に見えないイエス様が、私たちの心の中に、あるいは兄弟姉妹の中に、あるいはまた聖餐式のパンの中に、また牧師の説教の中に、あるいは教会の集会の中にいてくださって、私たちの傍らに立つ方となっていてくださる。そのことを私たちを現実として感じさせてくださるのが、天のイエス様から送られる助け主、慰め主、また弁護者といわれる方なのです。
「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(17節)
「この方は真理の霊である」と言われています。ここで「真理とは何か」というやっかいな問いについて考えることはやめておきます。ただ、真理というのは偽りがない、ウソがないということです。全身全霊をもって信じることができる、それが真理であります。それから、イエス様が「私は道であり、真理であり、命である」と言われました。イエス様が真理であるというのです。そうしますと、真理の霊というのは、イエス様の霊という風に解釈できないこともありません。
また、26節も併せて読んでみましょう。
「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(26節)
ここでは、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と言われています。聖霊というのは、父・子・聖霊という三位一体の神の一位格である霊なる神であります。そのお方が、イエス様に代わって、私たちの助け主、慰め主、弁護者として来てくださるということなのです。そして、この聖霊が、私たちに天のイエス様との生き生きとした、霊的な交わりを実現してくださるというわけです。 |
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続けて、イエス様はこのように仰いました。
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」
みなしごというのは、保護者がいない子供ということです。保護者がいなければ、子供はどうなるか。頼るもの、守ってくれるものがありませんから、自分の力で生きていくしかありません。無力な子供が、自分の力しか当てにできないわけですから、もうそこには子供らしい無邪気な平安はなく、いつも心配し、人の顔を窺い、恐れと不安をもって生きることになるでありましょう。
私たちの信仰生活はどうでありましょうか。イエス様も、神様も見えないのです。そんな心許ない条件の中にあって、なおも私たちが様々な困難の中を神の前に、神と共に生きていくことができるのは、聖霊が私たちに信仰の確信を与えてくれるからなのです。
聖霊もまた私たちの目には見えない存在に違いありませんが、聖霊は天国にいるのではなく、私たちの中に与えられております。この内なる聖霊によって、私たちは孤児ではなく、神の子供らであり、信仰生活に必要なすべての確信を、心の中から与えられるわけです。
先週も、信仰というのは自分の信じる気持ちではない、自分の気持ちの強さ、弱さということではないというお話をしました。では、信仰とは何かといえば、自分ではなく、イエス様を信じることだと申し上げたのです。しかし、そうは言っても、自分の中に何かしら信じる気持ちというものが起こらないと、信仰になりません。その部分を与えてくれるのが、聖霊による確信だと言っても良いでありましょう。
自分の経験であるとか、世の中の常識であるとか、理性、知性というものが、いかに信仰に反して働こうとも、自分の中に聖霊によって、それにも関わらずこれが真理であるというもう一つの確信が起こってくるのです。それを信じ、それにこそ従う者となるのが、信仰者ということなのです。
たとえば、それはどういう確信なのか。イエス様のお言葉の中には、理性や知性や人間の経験を越えた、いくつか信仰的確信が聖霊によって与えられるということが約束されています。
一つは、目には見えないイエス様を見えるようにしてくださるということです。
「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」(14章19節)
イエス様は天国にいらっしゃるのですから、決して肉眼で見ることはできないのです。しかし、私たちのそのような限界とは別に、聖霊は、それを私たちの心のうちに見えるようにしてくださるというのです。それによって、私たちはイエス様が共におられるということも確信できるのです。
それから、こういうことも言われています。
「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」
これまた、不思議な言葉なのです。普通、この世の人達は自己実現ということを大事にするのです。ですから、宗教というのも自己啓発の一種だと考えられている向きもあります。しかし、私たちが信仰をもって祈っているのは、「御国がきますように、御心がなりますように」ということでありまして、決して自己実現ではありません。
むしろ、神の御国がなるために、御心が行われるために、自分を捧げることが、信仰者の使命だとして生きるのです。このような生き方ができるのは、聖霊が私たちの心のうちにイエス様の生命との交わりを与えてくださり、「イエス様が生きておられるので、私も生きているのである」という確信を与えてくださるからだというわけです。
それから、少し飛びますが、26節を見ますと、御言葉に対する確信が与えられるということが言われています。
「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
イエス様の御言葉、あるいはもっと広げて神の言葉というのは、直接聞くことができるわけではなく、聖書を通して読むのです。そして、聖書というのもまた、イエス様が直に書かれたのではなく、弟子たちが書いたものです。このようにイエス様のお言葉、神の御言葉と私たちの間には、時間、空間における大きな隔たりがあると言ってもよいでありましょう。
しかし、聖霊によって、わたしたちはそれを今、私たちに語られた御言葉として聞くことができるのです。それだけではなく、聖霊は、その意味さえも分からせてくださるとも言われています。御言葉の意味というのは、勉強すれば分かるというものではなく、聖霊が私たちの内に教えてくださるものなのです。
最後に、27節をお読みしたいと思います。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
イエス様は、弟子たちに、また私たちに残された平和、これもまたこの世が与えるものではなく、聖霊が私たちに与えてくれる確信の一つなのです。この世的に見て、いかに私たちの生活が困難であっても、悩み多いものであっても、聖霊はその中に主が与えてくださる平和を、私たちに持たせてくださるのです。不思議な平和です。他の箇所には、それは人知を越えた神の平和であると書かれています。聖霊によって、私たちはそのような主の平和、神の平和の中に生きる者とされるのです。
もう一度、聖霊が私たちに与えてくださる確信を復習していたいと思います。第一に、私たちは主を見ることができません。しかし、聖霊は、私たちの心を内に非常に生き生きとした形で主を見せてくださいます。
第二に、私たちは自己実現とう尺度でしか、自分の生きる価値とか、生きる意味とかを考えられない、まことに小さな、自分のみの世界にしか生きられない人間です。しかし、聖霊は私たちを御国のために、御心の実現の自分を捧げる人間にしてくださいます。
第三に、私たちは御言葉というものを、聖書という過去の遺産としてしか読むことができません。しかし、聖霊はその聖書をもって、私たちに生き生きと今語りかける神様の御言葉、イエス様の御言葉を聞かせ、それを悟らせてくださいます。
第四に、私たちは悩み多きこの世で、心を休まることなく、生きていかなければなりません。しかし、聖霊はそのような私たちの人生、生活の中に、人知を越えた神の平和、主の平和を与えてくださいます。
イエス様は、その聖霊を、私たちの助け主、慰め主、弁護者としてお送りくださり、その聖霊によって私たちが主の弟子として、主と愛によって固く結ばれた者として生きることができるようにしてくださると、約束してくださったのです。私たちも、聖霊を求め、聖霊と交わりに生き、主の生きた力を戴きながら生きる主の弟子、信仰者でありたいと願います。 |
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Translation
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