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最後の夜、イエス様は弟子たちと過越の食事をお済ませになると、「あなたがたと一緒にいるのも、あとわずかな時間だ。あなたがたは皆、わたしに躓き、私についてくることができないからだ」と、打ち明けられました。弟子たちも馬鹿でありませんから、イエス様が殉教を覚悟されていることをうすうす感じ取ったでありましょう。
これを聞き捨てならぬと思ったペトロは、「主よ、どこに行かれるつもりなのですか。わたしはどこまでもあなたのお供をいたします。たとえ死ななければならないことになっても、覚悟はできております」と、必死になって自分の気持ちを訴えました。
主はそのようなペトロの熱い気持ちを喜びながらも、「あなたは後で、わたしについてくるであろう。しかし今は、あなたもついてくることはできない。それどころか、今夜、一番鶏が鳴く前に、あなたは私を知らないと三度も人に言うであろう」とお答えになったのでした。
イエス様に突き放されたような寂しさを覚え、弟子たちは動揺しました。すると、そのような弟子たちに、イエス様は最後のお説教をなさってくださったのでした。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」
イエス様は、弟子たちにまことの信仰を求められました。まことの信仰とは、燃えるような心を持つとか、固い決心をするとか、そういうことでありません。それは結局、自分を信じているに過ぎないからです。つまり、イエス様を信じている自分を信じているわけです。「自分」というのは決して不動の存在ではありません。「イエス様のためならば、命も捨てます」と誓ったその夜に、「わたしはあんな人は知らない」と言ってしまう、そういう頼りないものなのです。まことの信仰は、そんな頼りないものではありません。
では、まことの信仰とは何か。イエス様がしてくださったこと、してくださることによって自分は救われるのだということを信じることです。
福音書にこういう話があります。ある父親が、イエス様に「できるならば、息子の病をいやしてください」と頼みました。すると、イエス様はこの父親に「『もしできれば』というのか。信じる者には何でもできる」とお答えになります。ハッとした父親は、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と願ったのです。
それを聞いて、イエス様はこの父親の願いを叶えてくださいました。「われ信じず、信なき我を助け給え」というのは、自分の中に信仰と呼ばれるようなものは何もないけれども、あなたの力、あなたの憐れみによって、私を助けてくださいという意味でありましょう。このような信仰は、自分がどんな霊肉の欠乏の中にあっても、自分の状態によってではなく、イエス様によって救われるということを信じる信仰であり、これこそ揺るぎないまことの信仰なのです。
イエス様が、弟子たちにこの信仰を求められたのは、このような揺るぎない信仰です。それは、たとえ躓いても、それを乗り越えて、それによって成長させられて、わたしについてくる人間になりなさいという招きでもあったでありましょう。
自分の力で信じよう、従おうという信仰は、一度躓くともう無力になってしまって、自分が信じられなくなります。そして、二度とイエス様を信じることができない、その資格がないと決めつけて、立ち直ることができない人間となってしまうのです。「そうならないように」というのが、イエス様の切なる願いであります。
続けて、イエス様はこのように仰有いました。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
イエス様の、信なき弟子たちに対する優しいお気持ちがここに豊かに現れています。イエス様は、「あなたがたは私についてくることはできない」と仰いました。しかし、「心を騒がせるな。安心せよ。」と慰められます。そして、「あなたがたが、わたしについて来られなくても、わたしがあなたがたを迎えに来る」と、約束してくだいます。「だから、どんなに自分の弱さを感じても、私を信頼して待っていなさい」と、励まし給うのです。
わたしがついて行くのではなく、イエス様が迎えにきてくださる。それを信じるのが、まことの信仰なのです。 |
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さて、このイエス様の訣別説教は、弟子たちの質問によって、さらなる展開を見せます。
最初の問いは、トマスより発せられました。イエス様が、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われますと、トマスが「主よ、わかりません。どのようにしたら、その道を知ることができるのでしょうか」と、実に率直な質問したのです。
すると、イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。」とお答えになります。イエス様は道であるということは極めて大切なことです。キリスト教というのは、キリストの教えと書きますから、ついその教えを勉強しなくてはいけないと考えてしまいます。けれども、本来はそうではなく、「われは道なり」というイエス様を信じることがキリスト教なのでありますから、これは「キリスト教」ではなく「キリスト道」と言った方が良いのかも知れません。
教えをどんなに勉強しても、それだけでは道を歩いていることにはならないのでありまして、生活全体をもってキリストを生きるということによって、私たちは、はじめて「われは道なり」というキリストの道を歩くことになるのです。
人生には色々な時がありましょう。祝いの日もあれば、悲しみの日もある。賑やかな時もあれば、寂しい時もある。成功もあれば、挫折もある。正義の怒りに震える日もあれば、自分の罪に悩む日もある。そのすべての時において、キリストの内に生き、キリストと共に一歩一歩神様に近づく道を歩んでいく。それが本来のキリスト教なのです。 |
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それならば、キリスト教の最大の目的は、神様を見ること、神を知ること、神において満ち足りることだと言うことができるでありましょう。それが私たちの救いなのです。
逆に言えば、私たちは天の父なる神様を知ることにおいて満ち足りなければ、たとえどんなに多くのものを持っていても、たとえば健康、家族、名誉、お金、多くの友人、やりがいのある仕事、そのようなものをすべて持っていたとしても、人生の本当の満足、本当の安心というものを得ることはできないということになります。
20世紀の前半に活躍したハリウッドの女優メリー・アスターは、アカデミー賞を受け、華やかな結婚をし、二人の子供にも恵まれ、ビヴァリー・ヒルにはいくつもの邸宅があり、高価な毛皮を何着も持ち、世界中の人々からの人気を博していました。女性として、人間として、誰がこれ以上のことを望めるでしょうか? しかし、メリー・アスターはこのように書いています。
「長い間、絢爛たる名声の最中にいても、私は何か自分の心を満たしてくれるもの、幸福にしてくれるものを求めて止まなかったのです。ただ、ぼんやりと無気力な好奇心で宗教を眺めていた時から・・・一人の人格として、父としての神を見いだし、信仰の中に歩むことが本当の人間の成長なのだと知るまでに、ほとんど二十年かかりました」
ほぼ同時代に活躍したマリリン・モンローはどうでしょうか。メリー・アスター以上の人気とあらゆるものを手に入れながら、36才の若さで自殺をしてしまいました。多くの人が、人間の幸福は、物質的豊かさや、仕事の成功や、この世の名声にあると信じて、がむしゃらにそれを追い求めています。しかし、そのために多くの人が不幸になっていることにどうして目を向けないのでしょうか。
それは自分の存在の意味や尊さを知ること。隣人を愛する喜びを知ること。海と空と山と、そこに満ちているあらゆる命、草花、動物たちの美しさを知ること。このようなことは、天地を造られた父なる神様を知ることによってのみ得られることなのです。
私たちは、フィリポが主に願ったことを、私たちの生涯の祈りにしてなければならないと思います。フィリポは、「われは道なり、真理なり、生命なり」と主が言われると、すぐさま反応をして、このように願いました。
「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(8節)
文語訳聖書でも読んでみましょう。
「主よ、父を我らに示し給え。さらば足れり」
「さらば足れり」と、フィリピは言いました。フィリポは、自分にとって何が一番必要なことなのか。何が幸福の根源なのか。それは、わが造り主なる天の父なる神を知ることであると思い、そのことを唯一の願いとして、主に祈ったのであります。
私たちも、このことを日々の祈りとして歩んで参りたいと願うのです。病気になれば、健康を求めて祈ることでありましょう。仕事に行き詰まったときには、神様の助けによって道が開かれるように祈るでありましょう。それが悪いのではありません。しかし落ち着いて考えてみれば、病気が癒されても、今度は新たな問題が私たちの生活を苦しめるに違いありません。順風満帆に仕事が進んでも、やはり別の問題が悩みの種になるに違いありません。一つの問題が解決をしても、決して「さらば足れり」とは言えないのです。
生きる日の限り、問題は、私たちの人生につきまとってきます。しかし、天の父なる神様を知り、神様の関係を確かなものとして生きることができるならば、「さらば足れり」との満ち足りた心をもって、人生のあらゆる問題の中を、平安と感謝と賛美をもって、進んでいくことができるでありましょう。
「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」
「主よ、父を我らに示し給え。さらば足れり」
この祈りこそが、私たちに必要なのであります。 |
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さて、このフィリポの祈りに対して、イエス様はこのようにお答えくださいました。
「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」
イエス様のお言葉は、フィリポの物わかりの悪さを嘆いているようにも聞こえます。しかし、決してそうではありません。イエス様はフィリポに、「父なる神様はどこに隠れているわけでもない。すでにあなたは父を見ているのだ。私を見ている者は、父を見ているからだ。そのことに気づきさえすれば良いのだ」ということを教えておられるのです。
すなわち、父なる神様とイエス様は一体であるということです。この一体ということは、決して区別がないということではありません。イエス様は続けてこのように言われます。
「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(10節)
「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。」と、主は言われます。実は、同じ事をイエス様は繰り返し、繰り返し、弟子たちに教えてこらました。
「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」(5:19)
「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(5:30)
「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」(6:38)
「わたしは自分勝手に来たのではない。」(7:28)
「わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」(8:28)
「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。」(8:42)
「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」(14:24)
どれほど多く、イエス様がそのことを語っておられるかということを分かっていただくために、あえて関連聖書をすべて読ませていただきました。このようにして読んでみますと、父なる神様とイエス様が一体であるということは、「意志の共同」であるということがお分かりいただけると思うのです。
しかも、それはイエス様が、父なる神様に徹底的に、そして無条件に服従するという形で実現していることなのです。イエス様の教えも、御業も、すべては父なる神様の御心を行おうとしてなされたものであります。そのような父なる神様への服従をもって、イエス様は私たちの目に父なる神様を見せてくださったのです。つまり「我を見し者は、父を見しなり」であります。 |
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さて、「我を見し者は父を見しなり」と教えられたイエス様は、次に「わたしを信じなさい」とお奨めになります。
「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」
最初にも申しましたが、私たちは信仰を持つといいながら、結局は自分に「信じる気持ち」があるか、ないか、その点に尽きてしまっているようなことがあるのです。しかし、それは本当の信仰ではなく、本当の信仰は「主よ、信じます。信なき我を救い給え」という言葉に見られますように、自分の中に「信じる気持ち」があろうがなかろうが、いや、むしろ自分を無き者として、ただイエス様のうちにあるものを信じることなのです。
イエス様もご自分を無き者にして、無条件にお捧げになって、父なる神様と一体となられました。それがイエス様の信仰でありました。同じように私たちもまた、自分を無き者として、無条件に明け渡して、イエス様の御心を我が心とすること、イエス様のご意志をわが意志とすること、イエス様の命じ給うことを我が務めとすること、こうして私たちがイエス様と一つになること、それが私たちの信仰なのです。
自分を無き者にすることというのは、自分を捨てることでありますから、これはたいへんな冒険のように思います。本当に、それで大丈夫かと不安に思うのは仕方がないことです。けれども、ごらんください。イエス様は自分を捨てて、父なる神様の御心に従われました。そのために、一時は弟子たちに見捨てられ、茨の道を歩み、十字架に命を捨てなければなりませんでした。けれども、その服従によって、イエス様は復活させられ、神の右に座するお方となり、この地上における一切の権威と栄光を賜って、王の王、主の主となられたのです。
イエス様は、「われは道なり」と仰いました。「我を見し者は父を見しなり」と仰いました。それは、私たちもまた、イエス様と同じ道を歩むようにという招きなのです。あなたがたの道はここにある。あなたがたが見たいものをここにある。さあ、わたしのもとに来なさい。私の道を歩みなさい。このように主は招いておられます。それは自分を捨てる道であると同時に、イエス様と一つとなる道であり、それはまた父なる神様を知り、その交わりの中で満ち足りる道なのです。「さらば足れり」と言える、まことの自分を得る道であると言っても良いでありましょう。
イエス様は、この信仰の道を歩む私たちに、二つのことを約束してくださっています。
「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
一つは、イエス様を信じるならば、イエス様の御業を行うようになるということです。しかも、イエス様より大きな業を行うと言われています。これは不思議な言葉であり、信じがたい言葉ですが、決してイエス様以上の人間になるという意味ではありません。「わたしが父のもとへ行くからである」とありますように、イエス様が父のもとで栄光をお受けになり、私たちのうちに働かれることによって、イエス様の地上のご生涯でなされたことよりも、さらに多く事が教会によって、またクリスチャンによってなされるということであります。
そして、イエス様を信じることによって与えられるもう一つの約束は、イエス様の御名によって祈ることを、何でもかなえてくださるということであります。イエス様は、すべてを私に捧げよと求められる一方で、「わたしにすべてを願いなさい、何でもかなえてあげよう」とも仰ってくださるのであります。私たちは、それを信じてどんなことも主に祈って良いのであります。
しかし、フィリポのあの素晴らしい祈りを忘れてはならないでありましょう。
「主よ、父を我らに示し給え。さらば足れり」
私たちを満ちたらせるのは、多くのことではなく、ただ一つのことである。それは神様を知り、神様を見、神様との交わりの中に生かされることです。「さらば足れり」なのです。
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(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
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