別れの説教@ われは道なり (木曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書14章1-14節
旧約聖書 詩編23編
訣別説教について
 先週は「聖餐の制定」というお話をいたしました。その後、イエス様と弟子たちは食事を終えて、オリーブ山に行かれます。そこにはゲッセマネの園といわれるオリーブ畑がありました。イエス様はそこで、弟子たちが今までに目にしたこともないような形相で、神様に必死なる祈りを捧げられたというのです。そこに、裏切り者のユダが、祭司長たちや武装した人々を連れて戻ってきます。そして、「先生」と言いながらイエス様に口づけをするのです。これが合図となって、イエス様の逮捕劇が始まるのです。少し先を急ぎましたが、これからはそういう話が進んでいくことになります。

 ところで、今日お読みしました『ヨハネによる福音書』だけは、このような話に加えて、過越の食事の後、イエス様が弟子たちに訣別説教とも言うべき、最後の教えを賜ったということを記しているのです。そして、その説教は長いイエス様の祈りで終わっています。その後、弟子たちを連れてオリーブ山に行かれるのです。今日からは、このヨハネによる福音書が記すイエス様の訣別説教を、数回に分けてご一緒に学んで参りたいと思います。
ペトロの離反を予告する
 さて、聖餐の制定の直後からお話をしてまいりたいと思います。イエス様は、パンを取り、それを裂いて弟子たちに渡しながら、「これは私の体である。取って食べなさい」と言われました。また杯も同じようにして、「これは多くの人のために流される私の血である。みなこの杯から飲みなさい」と言われました。

 私の体を食べ、私の血を飲みなさいというイエス様のただならぬお言葉に、弟子たちは「殉教」という二文字を思い浮かべただろうと思います。もとより、弟子たちには、エルサレムにはそのような危険があることが分かっていました。ですから、イエス様がエルサレム方面に行かれようとする時、トマスなどは、「われわれも行って、主と一緒に死のうではないか」などと勇ましいことを言って、他の弟子たちを鼓舞させたともいわれています(ヨハネ11:16)。ですから、最後の晩餐においては、弟子たちは、「われわれの先生はいよいよ死を覚悟なさっている。死ぬきだ。」と、そういうことを敏感に感じ取っていただろうと思うのです。

 そこで、例によって直情型のペトロが、イエス様にストレートに尋ねます。ペトロは、どんなことがあってもイエス様を死なせはしない、どこまでもついていってお守りするという非常に強い気持ちを込めて、こう言うのです。

 「主よ、いったいどこに行かれるおつもりなのです?」

 イエス様は、ペトロを静かに見つめ、こう答えられました。

 「ペトロよ、今はわたしの行くところについて来ることはできないだろう。しかし、後になって、ついてくることになります」

 ペトロは歯がゆく思いました。過越の食事に先立って、イエス様が足を洗われた時、「なぜ、そんなことをなさるのですか、私の足など決して洗わないでください」と言うと、主はペトロにこういわれたのです。「今、わたしのしていることは分からなくても、後でわかるようになる」いったい、どうして今ではないのか。後になると何があるというのか。ペトロは主の気持ちを測りかねて、それが寂しくもあり、情けなくもあったに違いありません。その気持ちをペトロは隠しません。

 「主よ、どうして今では駄目だとおっしゃるのですか。わたしは、あなたのために命も捨てる覚悟ができるのですよ」

 主は、答えられました。

 「わたしのために命を捨ててくれるというのか。しかし、はっきり言っておこう。今夜、一番鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないというであろう」

 さらにイエス様は、他の弟子たちにも「今夜、あなたがたは皆わたしにつまづく」と言われました。ペトロも、弟子たちも、心が騒ぎました。どうして、イエス様はこのような悲しいことをおっしゃるのだろう。私たちの信仰を疑っておられるのだろうか。いや、イエス様は私たちを残して死にゆかれるおつもりなのだ。ペトロはそう思うと、泣き叫ぶように言いました。

 「たとえご一緒に死なねばならないことになっても、あなたを知らないなどとは決して言いません」(マタイ26章35節)

 他の弟子たちも口をそろえて、「主よ、決してあなたを離れたりはしません」と、自分たちの堅い気持ちを訴え始めました。しかし、みなさんもご存じのように、ペトロも、他の弟子たちも皆、イエス様のおっしゃったとおりの結果になってしまうのです。
後で分かるようになる
 イエス様は、どうして弟子たちに対して、つまずきや離反を予告なさったのでしょうか。「お前たちの信仰は、所詮、その程度なんだ」と言いたかったわけではないでしょう。わたしは、「今は分からないが、後で分かるようになる」「今はついてくることができないが、後でついてくるようになる」というイエス様の言葉が大切な意味をもっていると思うのです。

 御言葉というのは、私たちの命を養う霊的な食物でありますが、それには柔らかい食物と堅い食物とがあります。柔らかい食物というのは、聖書には「霊の乳」と書いてあるのですが、生まれたばかりの赤ちゃんクリスチャンとか、霊的に衰弱しているクリスチャンには、すぐに力になるたいへん有り難いものなのです。たとえば、「神は愛なり」とか、「主は羊飼い」とか、「求めよ、さらば与えられん」とか、聞くだけで私たちの心にすっと入ってきて、心を癒し、励まし、元気づけてくれる御言葉であります。

 しかし、御言葉には聞いてもすぐには分からないものや、たとえ頭では分かってもなかなか心から受け入れがたいものがあります。「汝の敵を愛せ」とか、「十字架を負って我に従え」とか、「わが恵み汝に足れり」とか、本当にそうだろうかと信じられないことや、確かに私には従うことができない御言葉だなというものが、たくさんあるのです。それが堅い食物でありまして、試練にあったり、挫折をしたり、何年も待ち望むという忍耐の日々を過ごしたり、そのように長く、暗く、細い道を歩むという生きた勉強をして、はじめて味わう御言葉なのであります。

 イエス様が、「後で分かるようになる」、「後になれば従えるようになる」と言われたのは、このような堅き食物を弟子たちにお与えになったと理解しても良いと想います。イエス様が、「あなたたちは皆、私につまづき、離れていく」と言われたことは、「ぜったいにそんなことはしない」と自分を信じ切っている弟子たちには、さっぱり理解できないことでありました。しかし、実際、イエス様のおっしゃるとおりに十字架におかかりになるイエス様を見捨てて、散り散りになって逃げたり、「わたしはあの人の弟子ではない」と否んでしまった弟子たちは、イエス様の御言葉を思い起こしてどう思ったでしょうか。「ああ、イエス様はすべてをお見通しであったのだ。すべてをご承知の上で、それにもかかわらず、私たちを愛し、赦し、弟子として召し出してくださっていたのだ。弟子であるということは、自分の力でなることではなく、主の憐れみと恵みに満ちた召しによってなることなのだ」と、気づいたと思うのであります。

 こうして自分の力によって従っていくのではなく、主の恵みによって従わせて戴いていたのだ、ということが分かった弟子たちは、自分の挫折からも立ち上がることができたでありましょう。そして、同じように倒れている人を主の恵みによって起きあがらせることができる人へと成長していったのだと思うのです。

 このように、主の御言葉にはすべて意味があります。私たちが分からないから意味がないのではなく、たとえ分からなくても、いつか私たちにとって非常に大切な意味をもってくる御言葉になるのです。それが「今は分からないが、後で分かるようになる」「今はついてくることはできないが、後でついてこられるようになる」ということなのです。 
心を騒がせるな
 さて、それでは訣別説教のお話です。ペトロの離反の予告、また他の弟子たちもみんな私に躓くだろうと言われて、弟子たちは非常に動揺いたしました。動揺というのは、心の拠り所が崩れてしまうところから起こります。お金を心の拠り所にしていれば、お金が減ってくることによって動揺します。健康を心の拠り所としていれば病気になることによって動揺します。

 では、弟子たちの拠り所は何であったかといえば、信仰です。ところが、イエス様は「あなたがたはみな私につまずく」と言われました。あなたがたの信仰は不確かだと言われてしまったのです。それで、弟子たちは動揺したのです。

 イエス様の訣別説教は、そのような弟子たちに、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と、信仰を呼び求められることから始まりました。

 ここでちょっと注意しておきたいのは、信仰、信仰と言っても、いろいろな信仰の持ち方があるっていうことです。弟子たちに信仰がなかったのかと言えば、そんなことはありません。死ぬことも恐れないで、イエス様についていこうという信仰があったのです。けれども、イエス様はそういう信仰を信用されませんでした。それは、どうしてなのでしょうか。その信仰が、弟子たちの自信からあふれてくる信仰だったからなのです。

 イエス様を信じる気持ち、イエス様に従う熱心さ、それは熱する時もあれば、冷める時もあります。イエス様は、そういう人間の不安定さというものをご存じなのです。信仰というのは、そういう不安定なものに基礎をおいてはいけません。イエス様は、「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。変わりやすい自分の気持ちではなく、どんな時にも変わることのない神様と、わたしを信じなさい、それが本当の信仰だと、イエス様はおっしゃるのです。

 前に、私は福音とは何かというお話をしたことがあると思います。福音とは、イエス様がしてくださったことと、してくださること、この二つによって私たちが救われるということなのです。信仰とは、この福音を信じることです。つまり、イエス様がしてくださったことと、してくださることによって、自分が救われると信じるということなのです。

 弟子たちは、「わたしたちは、どこまでもイエス様についていきます」と言いましたが、それが本当の信仰ではないのです。なぜなら、それはイエス様がしてくださることを信じているのではなく、自分に何ができるか、そういうことを信じる信仰だからです。そんな信仰は当てになりません。だから、イエス様は、「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われるのです。イエス様が弟子たちのついて来られないようなところに行かれる。それにはちゃんと訳があるのだと、言うのです。それを信じなさいということなのです。
我は道なり
 そこで、イエス様はこのように言われます。

 「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

 イエス様が弟子たちを離れていくわけ、つまり十字架にかかり、死んで葬られ、三日目によみがえり、天にお帰りになるわけ、それは「あなたがたのために、天に場所を用意するためである」と、イエス様はおっしゃっておられます。クリスチャンというのは、もちろんこの世を生きるということにも、神様に与えられた意味や目標があるのです。しかし、究極的な目的は、天国に帰ることであります。

 イエス様が世に来てくださった目的も、私たちがこの世の幸せや安楽を享受するためではありません。イエス様はそれを与えてくださることもあれば、奪われることもあります。どうしてでしょうか。イエス様の最終的な救いの目的は、私たちを天国に連れ帰り、天国の祝福の中に永遠に住まわせることにあるからなのです。この世の幸せや、この世の楽しみを与えてくださるもの、またそれを奪われることがあるのも、すべてはその目的のためなのです。

 そして、イエス様はこう言われます。

 「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

 すると、トマスが口を挟みました。

 「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」

 トマスは、「私たちは復活の主を見た」と他のすべての弟子たちが言った時にも、「わたしはこの指を、釘跡に入れてみなければ、そんなことは決して信じない」と言った弟子です。物事を非常に現実的に、実際的に考える人であったと言ってもよいでありましょう。ですから、イエス様が天国の父の家のお話をなさっても、それだけでは納得しません。どうしたら、天国の父のもとに行くことができるのですか、その道はどこにあるのですかと、問うのです。

 信仰というのは、今日もお話ししましたが、たとえ今、分からないことがあっても信じることです。しかし、だからといって問答無用ということではなく、やはり分からないことは主に尋ねつつ、導いていただき、本当に信じる者へと変えられていくということが必要なのです。

 さて、「天国への道はどこにあるのですか」というトマスの問いに、イエス様はこうお答えになりました。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

 「道はどこにあるのか」というトマスの問いに対して、「わたしが道である」と、イエス様はお答えになりました。道であるだけではなく、真理でもあり、命でもあるとおっしゃっておられます。しかし、一番大切なことは、「われは道なり」と言われたことあるのです。というのは、道という言葉の中に、真理の意味も、命の意味も含まれていると考えられるからです。

 真理がなければ、私たちは正しい道をしることができません。命がなければ、道を歩むことができません。しかし、イエス様は、私は、あなたがたに真理も、命も与えることができる道であると言われたのです。

 道とは何でしょうか。大切なことは、道は歩くためにあるということであります。道を知っているということも大事です。道を眺めるということが必要なこともあるでしょう。しかし、結局は、道というのは歩かなければ一歩も進まないのです。キリスト教というのは、イエス・キリストという道を歩くことなのです。

 『使徒言行録』を見ますと、当時はまだ「キリスト教」という言葉がありませんでしたから、キリスト教のことは「この道」と呼ばれていました。そして、信者たちは「この道の者」と呼ばれていたのです。

 「そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。」(使徒19:23)

 「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。」(使徒22:4)

 このようにキリスト教が、「教え」ではなく「道」と呼ばれていたことは、とても意味があることではないでしょうか。クリスチャンというのは、新しい教えの信奉者というよりも、新しい道を歩く者、新しい生き方をする者だったのです。そして、その道というのは、キリストの教えに生きるということではなく、キリストを生きるということであるということが、「われは道なり」というイエス様のお言葉の意味なのであります。

 先週、聖餐の制定というお話をしました。イエス様は、パンを裂き、「これは私の体である、取って食べなさい」と言われ、また杯も同じようにして「これは私の血である。取って飲みなさい」と言われました。この聖餐式というのは、キリスト体験の場であって、私たちクリスチャンはキリストを体験しながら生きていくのだということをお話ししたのです。そのことが「われは道なり」という御言葉の中にあるのです。

 私たちが信じているイエス様は、昔、優れた教えを残してくださったお方ではありません。今生きて、私たちの人生に触れてくださり、私たちの直面する問題の中で働いてくださるお方なのです。この生けるキリストを信じ、私たちの生活全体が、この生けるキリストとの交わりの中にあり、キリストによって生かされていくこと、それが道であるキリストを生きるということなのです。

 最後に、道というのは、私たちを目的地に導くわけですが、一瞬にして到達するわけではありません。また真理と命があることは保証されていますが、平らな道ばかりであるとは言われていません。むしろ、この訣別説教の全体を見るならば、それは山あり谷ありの道であると、イエス様は言っておられるのです。

 しかし、どんなに険しい道を歩くとも、私たちはその道を歩み続ける必要があります。難所にぶつかったらといって、これでもう私の人生はおしまいだと思ってはいけないのです。それはゴールではなく、通り抜ける道だということを思い起こし、勇気をもって、その先にある目的地を目指し、歩き続けることが大切なのです。

 その道を進み続ける勇気、希望、気力を与えてくれるものが、「われは道なり」というイエス様のお言葉を信じる信仰ではないでしょうか。「信仰こそ旅路を導く杖」という賛美歌もありますけれども、どうぞ、信仰を杖と頼んで、また兄弟姉妹が互いに励まし合って、生きる日の限り、この道を歩む者でありたいと願います。
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