最後の晩餐C 聖餐の制定 (木曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書26章26-30節
旧約聖書 エレミヤ書31章31-34節
聖餐式の制定
 これまで、イエス様と弟子たちの最後の晩餐について学んできました。少しこれまでのお話を整理しておきたいと思います。まず、過越しの準備についてであります。木曜日になりますと、ペトロとヨハネが、過越しの食事をする場所を整えるために、エルサレムに行きます。そして、イエス様が教えてくださった人の家に行き、その二階座敷に過越の食事の準備をしたのでした。

 そこにイエス様と10人の弟子がやってこれまして、一同が席につきます。すると、イエス様はやおら立ち上がり、上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいをかけて、弟子たちの足を、順番に一人ずつ洗われ、「師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗いあいなさい」と、互いに仕え合うことの大切さを教えられました。今日の教会ではこの受難週の木曜日を洗足木曜日と言って記念しております。

 こうして、主が再び席に着かれますと、やっと過越の食事が始まります。過越の食事というのは、式次第に則って、由来となる聖書を読んだり、お祈りや賛美をしながら苦菜と種入れぬパンと屠られた小羊の肉を食べていくのですが、どんな風に進められていくのか、時代によっても変化があるでしょうし、詳しいことはわたしもよく分かりません。私なりに調べてみますと、最初に苦菜を塩水につけたり、種入れぬパンにはさんでサンドイッチにしたりして食べるようです。

 イエス様と弟子たちもそんな風にパンと苦菜を食べておりました。すると、不意に、イエス様は「あなたがたの一人が、わたしを裏切ろうとしている」と言いだされました。弟子たちは驚き、いったい誰のことだろうかと互いの顔を見合わせたり、「主、まさかわたしのことをおっしゃっているのでは」と、直接に主に尋ねたり、大騒ぎになりました。すると、イエス様は「私と一緒にパンを鉢に浸している者がそれである」、あるいは「わたしがパン切れを浸して与える者がそれである」と、いうことを言われたのでした。

 それは明らかにユダが裏切り者であることを示していたのですが、弟子たちは、イエス様がおっしゃったことがよく聞こえかったようです。はっきり聞こえていれば、ユダであることが分かったかも知れません。しかし、弟子たちには分からなかったと書かれています。ただ、イエス様がユダに「しようとしていることを、今過ぐにしなさい」と言われたことだけは聞こえたようです。すると、ユダはそこを立ち去り、夜の暗闇の中に消えてゆきました。他の弟子たちは、それを見て、ユダが何かお遣いを頼まれたのだと思ったと言われています。まさか、ユダが裏切り者であるということは露だに思わなかったのです。

 さて、以上が先週までのお話です。こうして苦菜とパンを食べる儀式、過越の食事の前半が終わりました。式次第によりますと、そこでテーブルマスターは立ち上がり、賛美と感謝の祈りをして、パンを裂きます。それから後半の食事、小羊の肉を食べる本格的な食事が始まったようです。イエス様も、そのような式次第に則って立ち上がり、パンを取り、賛美と祈りを唱えてから、それを裂かれたと、聖書に記されています。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』」(26節)

 イエス様が手ぬぐいを腰にまとって弟子たちの足を洗ったり、裏切りの予告をなさったり、何が飛び出すか分からない過越の食事でありますが、ここでも弟子たちは驚きを隠せませんでした。パンを裂くのはいいのですが、「これはわたしの体である」とはどういうことなのか。しかも、それを食べろとイエス様はおっしゃる。そういう言葉は、過越の食事の儀式にはありませんから、弟子たちは驚くのです。

 弟子たちの驚きを余所にして、イエス様はぶどう酒の杯を取られて、やはり感謝と賛美の祈りを唱えられると、こう言われました。

 「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(27節)

 裂かれたパンがイエス様の体であるならば、ぶどう酒はイエス様の血であるというのです。そして、イエス様は、それを飲み食いしなさいと言われるのです。弟子たちは、いったいこれをどのように受け止めていいのか、非常に戸惑ったことだろうと思います。

 ところで、イエス様がこうしてパンとぶどう酒を配られたという話は、今日お読みした『マタイによる福音書』だけではなく、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』、そして、パウロが書いた『コリントの信徒への手紙1』にも記されています。このうち、ルカ福音書とコリント書には、「記念としてこのように行いなさい」というイエス様の言葉が記されています。そこで、弟子たちはイエス様が十字架で亡くなられた後も、このことを記念して、ずっとこの食事を続けて礼拝をしてきました。それが、今も教会で守られている聖餐式というものなのです。 
聖餐式の本質
 今日も、この礼拝には聖餐が用意されております。毎週聖餐式を守る教会もありますが、私どもの教会では第一日曜日を聖餐式の日として定めて守っています。そのほか、洗足木曜日、復活日、聖霊降臨日、降誕日の礼拝に聖餐式を守ります。用意されているのは小さく切り分けられたパンと、小さな杯に入れられたぶどうジュースです。パンは、種入れぬパンを裂いて、みんなで分けて食べるというのが本来の形であったかもしれません。ぶどう液は、ぶどうジュースではなく、ぶどう酒を戴くのがイエス様の時代のやり方でありましょう。細かいところは違いますが、パンを分け、ぶどうの実を搾ったものを戴くという大筋では、イエス様の定められた聖餐を思い起こすのに十分であろうと思います。

 しかし、この聖餐式とは何なのでしょうか。イエス様はどうして十字架におかかりになる前に、このような儀式を制定されたのでしょうか。それを今も教会が守り続けるということに、どんな意味があるのでしょうか。なぜ、教会はこのような儀式を大事に守っているのでしょうか。

 まず、理解しなくてはならないのは、儀式とは言葉では伝えられないものを伝えるものであるということです。ですから、それを言葉で考えたり、言葉で説明したりすることには限界があるのです。聖餐式においても、信仰をもって、祈りをもって、それに与るということが大切です。「論より証拠」といわれますように、聖餐式についていくら議論しても、聖餐式は分かりません。また「百聞は一見にしかず」といわれるように、聖餐式について何遍牧師の話を聞いても、聖餐式は分かりません。聖餐式の本質は、自らの体験をもってしか捕らえることはできないのです。

 聖餐式において、昔から議論されているのは、パンがキリストの体であるとはどういうことか、ぶどう液がキリストの血であるとはどういうことか、という問題です。

 ある人達は、聖餐式において、パンがキリストの体に変化し、ぶどう酒がキリストの血に変化するのだと説明してきました。ですから、それはもはやパンではなくキリストの体であり、ぶどう液ではなくキリストの血なのだというのです。

 またある人々は、パンはパンであり、ぶどう液もぶどう液であることに変わりはないが、聖霊によってそれはキリストの体やキリストの血と同じ本質を持つようになるのだというように説明しました。

 また別の人々は、パンやぶどう液は何の変化もしないけれども、それを食べ、それを飲むことは、私たちがキリストの命によって生かされていることを象徴的に表しているのだと説明しました。

 同じキリスト教で、同じ聖餐式をしていても、これだけの説明の幅があるのです。そして、どの説が正しいかということで、激しい議論が繰り返され、教会が分裂するということもありました。聖餐式というのは、一つのパンがイエス様によって裂かれて弟子たちに配られる。一つの杯がイエス様に配られて、共にそれを飲む。そのように弟子たちがイエス様によって一つにされているということをも意味しているわけですが、その聖餐式について議論をしてバラバラになってしまうというのは本末転倒としか言いようがありません。

 そこには、聖餐式というものを言葉で解明しようとするところに間違いがあるのだろうと思うのです。聖餐式は頭で理解されるものではなく、体験されるものなのです。何を体験するのかというと、キリストの体とキリストの血を体験するのです。イエス様は「これはわたしの体である」「これは私の血である」と言われました。パンがそのように変わるのか、それとも単なる象徴なのか、そういう説明はされませんでした。そういうことは、私たちはあまり考える必要はないのです。ただ、それに与ることによって、キリストの体とキリストの血を体験することができる。それが聖餐式です。聖餐式の本質は、そのようなキリスト体験にあると言ってもいいのではないでしょうか。

キリスト体験
 キリスト体験とは何でしょうか。それは、キリストの体と私たちの体が触れ合うことです。ときどきキリスト教は難しいとか、聖書は難しいという人がいますが、それは頭だけ分かろうとするからなのです。

 体験の「験」というのは、証拠をつかもうとする作業のことを言うのだそうです。頭だけで分かろうとする人は、「験」はあるのです。一生懸命に、キリストを知ろうとしているのですから。しかし、「体」を求めていないのです。「体」とは何か。それは、身体です。生身の体です。みなさんは、履歴書ばかりを読んでいれば、その人のことが分かるとは思わないでありましょう。すでに亡くなった人物を知ろうとする時も、本で読んで調べるだけではなく、その人の身内にあって話を聞くとか、その人の育った町とか、お墓を訪ねて、少しでもその人の生きた姿にふれようとすると思うのです。それが体験であります。

 キリストを知るということも、聖書を調べるだけではなく、キリストに触れるということを求めなくてはならないのです。今生きて、私たちを愛してくださっているキリストの体です。私たちのために十字架にかかって死んでくださったキリストの体です。その体に触れてキリストを知ること、それがキリスト体験なのです。

 では、どこにそのようなキリスト体験をすることができるような、キリストの体があるのか。それはいろいろです。エルサレムを巡礼して、イエス様のたどられた足跡を自分もたどりながら、そこでキリスト体験をするという人もおります。また、苦難の中で、救いを求めて祈っているときにイエス様の声が聞こえた、幻を見たという体験をする人もいます。あるいは、説教を聞いて、キリストの御心がすっと心に入ってくる、そのような体験をする人もいます。あるいは日余剰生活の中で、人との運命的な出会いや、奇跡的な出来事を経験して、その背後にキリストの御手を感じ取ったという人もいます。

 しかし、どこで、どのようなキリスト体験をするにしても、忘れてはならないのは、イエス様が「ここにわたしの体がある」と言い、「取って食べなさい」と、私たちを招いておられる場所がある、それが聖餐式なのです。イエス様の声を聞いたことがなくても、イエス様の姿を見たことがなくても、この聖餐式に与るとき、私たちはキリストの体を食べ、キリストの血を飲み、キリストの命が私たちの中に取り込まれていくという、キリストの体と私たちの体が触れ合い、つながり、キリストによって生かされているという体験をするのです。

 『ルカによる福音書』に、こういう話があります。イエス様が十字架で死なれた後、失望した二人の弟子がエルサレムを離れ、エマオに向かって歩いていたのです。すると、そこに見知らぬ人が近づいてきて、「何の話をしているのですか」と、二人の中に割り込んできました。二人は、その人に、十字架にかかったイエス様のことを話し、また「私たちは、あの方こそ救い主であると期待をしていたのに、あんなことになってしまって」と、失望のため息を漏らすのです。すると、見知らぬ人は、彼らに聖書を解き明かして、メシアは苦しみを受けてから、栄光に入ることになっているのだということを、懇々と話してくれたのでした。

 そのうち、一行はエマオに到着します。弟子たちは、さらに先に行こうとする見知らぬ人を強いて引き留め、「そろそろ日も暮れますし、私たちと一緒に泊まって、もっと聖書の話を聞かせてください」とたのみます。そこで三人は一緒に宿をとることになるのです。そして、食事の時のことです。見知らぬ人は、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、二人に渡しました。すると、二人の目は開け、その方が、復活のイエス様であるということが分かったというのです。しかし、分かった瞬間、イエス様の姿は見えなくなっていました。弟子たちは、時を移さず、すぐにエマオからエルサレムに引き返し、仲間の弟子たちに、道で起こったことや、パンを裂いてくださった時にイエス様だと分かったことを伝えたというのです。

 弟子たちが、一緒に道を歩いていながら、それがイエス様だと分からなかったというのも、不思議な話です。しかし、私たちも、実はイエス様と一緒に歩いているのに、それが分からないで暮らしているということがあるのではないでしょうか。イエス様が熱心に聖書を教えてくださっているのに、まだ悟れないでいるということがあるのではないでしょうか。しかし、イエス様がパンを取り、裂いてお渡しくださったときに、ああ、イエス様がここにいらっしゃるのだということが分かったというのです。そして、それが分かると、イエス様が教えてくださった聖書の意味も改めて心に沁みて分かってきたというのです。聖餐式というのは、このようなキリスト体験が起こる場なのです。
聖餐式の条件
 しかし、聖餐式に与れば、自動的にそういう体験が起こるということではありません。聖餐式が正しく守られるということが必要なのです。つまり、聖餐式というのは、主の晩餐であります。今日お読みしました聖書の小見出しにも、「主の晩餐」と書いてあります。「最後の晩餐」でもなく、「過越の食事」でもなく、「主の晩餐」と書いてあることに、大切な意味があるのです。それは、主が備えてくださり、主が招いてくださった食事の場であるということです。

 私たちが勝手に、こうしたらいいと決めて作るのは主の晩餐とは言えないのです。また、私たちが食べたいから食べるというのも、主の晩餐とは言えないのです。主が備えてくださり、主が招いてくださる。そこに私たちが招きに応答する者として集う。それが主の晩餐であります。

 聖餐式の時、私は司式者として毎回、心に痛みを覚えることがあります。それは、まだ洗礼を受けていない人は、これに与ることができませんと告げることなのです。一緒に礼拝を守っているのですから、人情としては一緒に聖餐に与りたいと思うのです。しかし、それはできないのです。それは、これが私の備えた晩餐ではなく、主の晩餐だからです。私の招きではなく、主の招きによってもたれる晩餐だからです。

 では、主は洗礼を受けていない人を、聖餐に招いていないのでしょうか。そうではありません。主は、すべての人を招いておられるのです。そして、すべての人が、その招きに応答する者となって、主の晩餐につらなることを願っておられるのです。

 問題は、みなさんが主の招きに応答する者になるということなのです。主の招きに応答する者になるとはどういうことでしょうか。イエス様が弟子たちの足を洗い、ペトロの足を洗おうとしたとき、ペトロは「あなたが、わたしの足を洗うのですか」と言って、足を引っ込めました。すると、イエス様は「今、わたしのしていることはわからないけれども、あとで分かるようになるから、あなたの足を洗わせてくれ」と頼みます。それでも、ペトロは、「いいえ、わたしの足など決して洗わないで下さい」と言い張りました。すると、イエス様は、おそらく悲しそうな顔をして、こう言われるのです。「わたしが、あなたの足を洗わないならば、わたしとあなたの関係は何もなくなってしまう」と。それを聞いて、ペトロはようやく自分の足を、主に洗っていただくのです。

 イエス様は、私たちを聖餐に招く前に、私たちを清め給うことを願っておられます。主の招きに応じる者になるためには、まず罪で汚れきった私たちの足を、イエス様に洗っていただく、その洗礼への招きに応じる者になることが必要なのです。

 それからまた、イエス様はこの主の晩餐に弟子たちが与る前に、「あなたがたの中の一人が、わたしを裏切ろうとしている」と、弟子たちに言われました。弟子たちは、自分の心にある信仰の弱さというものを、そこで思い起こさせられ、「主よ、まさかわたしではないでしょうね」と、口々に言いました。しかし、ユダはその場から立ち去ってしまったのです。イエス様は、ユダに「しようとしていることを、今すぐにしなさい」と言われました。しかし、間違ってはいけません。イエス様がユダを追い出したのではありません。ユダは、自分がすることを自分で選ぶことができました。その時、思い返して、イエス様のもとにとどまり続けることもできましたし、その場を出ていくこともできたのです。そして、ユダは自分でそこを出ていったのでした。

 イエス様が、主の晩餐に弟子たちを与らせる前に、このように裏切りの予告をなさったのは、主に対する偽りの気持ちをもって、この聖餐に与ることを否まれたからです。ユダだけではなく、他の弟子たちも「まさか、わたしのことでは」と思ったように、信仰の弱さは誰の心にもあるのです。主は、それを責めているのではありません。弱さを覚えつつも、主に対する誠実な心をもって、招きに応じる者であることを求められたのです。たとえ信仰弱くても、主の招きを聞いたときに、主の招きに応じる心を新たにするならば、主は、私たちがこの聖餐に与ることを喜んでくださることでありましょう。しかし、たとえ洗礼を受けていても、不誠実な者のままでこれに与ることを否まれるのです。

 今日は、この後、ご一緒に聖餐式に与ります。洗礼を受けておられない方は、どうか主の招きが自分にもあることを覚え、どうか早くそれに応じる者となることができますようにと、心から願います。それが主の願いでもあるのです。

 それから、洗礼を受けている私たちにしても、主は、私たちが主に対する気持ちを新たにして、この聖餐に与ることを望んでおられます。主はこの聖餐を新しい契約の時としてくだるのです。どうか、そのことを覚えつつ、今日の聖餐式に与りたいと願います。 
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聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
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