|
|
|
イエス様は弟子たちとの最後の一夜を、過越の食事を共にするという形でお過ごしになりました。先週は、この最後の晩餐というのは、弟子たちに対するイエス様の愛が貫徹された晩餐であったという事とことをご一緒に学んだのであります。
イエス様は、その夜のうちにもイスカリオテのユダが自分を裏切る行動にでることを知っておられました。一番弟子のペトロですら、人前で三度も「わたしはあの人を知らない。あの人の弟子などではない」と主を否み、他の弟子たちは蜘蛛の子を散らすように自分を見捨て逃げてゆくだろうということを予想しておられました。そのような頼りない弟子たちを、すべてを赦して愛し続けてくださるということを、主は洗足という御業をもって示されたのであります。
さて、イエス様は弟子たちの足を洗い終えらると、再び席につかれ、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とご説明なさいました。それから、過越の食事が始まりました。弟子たちは、主が卑しき姿となって自分の足を洗ってくださった、その意味を問いながら、あるいは胸にかみしめながら、興奮さめやらぬ中、神妙な面もちで、黙々と食事を進めたことでありましょう。
他方、イエス様のお心も、決して穏やかではありませんでした。みなさんも、心配事や気がかりなことがありますと、心が落ち着かず、ざわざわと騒ぎ、息苦しさを感じるということがあると思います。イエス様も、その時、私たちと同じように心を騒がせておられたということが、聖書に記されているのです。イエス様は神の子でいらっしゃいますから、どんなことがあっても明鏡止水のごとくでいらっしゃるかと言えば、決してそうではなかったということが分かります。 |
|
|
|
|
いったいイエス様のお心をそんなに苦しませていた原因は何であったでありましょうか。それは、やはり愛する弟子たちのことでありました。愛すればこそ、イエス様は弟子たちの行く末を案じ、弱さ、愚かさ、足りなさのゆえに悩み給います。そして、ため息とも、心のうめきともとれるような深い息をつかれて、こうおっしゃるのです。
「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」(21節)
食事をしていた弟子たちの動きがピタリと止まりました。そして、こう言われています。
「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。」(22節)
『ルカによる福音書』では、こう書かれています。
「そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。」(『ルカによる福音書』22章23節)
また、『マタイによる福音書』を見ますと、こうも言われています。
「弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。」(『マタイに夜福音書』26章22節)
裏切り者とは、いったい誰のことだろうかと、弟子たちの心は動揺しました。そして、人の顔を探るように眺めまわしたり、隣の人とあの人だろうか、この人だろうかと議論をしたり、まさか自分のことではと心を痛めたり、一種のパニック状態が起こったのです。
レオナルド・ダビンチの『最後の晩餐』という有名な絵画があります。それはこの時の弟子たちの仰天する様子を生き生きと描いたものです。レオナルド・ダビンチは、この絵を非常に実験的な技法を用いて描いたために、完成直後から褪色が進み、絵の具がはげ落ちるなど、そうとう傷みが激しく、細部が不明になっていました。しかし近年、20年にわたる丁寧な洗浄が完成し、それによって絵の細部が明らかにされたのです。たとえばイエス様の口が開いていることや、小羊の肉ではなく魚料理が並べられていたことなどが分かりました。それを元にNHKがCGで再現したものを見ると、その成果がよくわかります。
このダビンチの絵にも描かれているのですが、ペトロは、イエス様の隣に座っていたヨハネに、誰のことについて言っておられるのか、主に尋ねてみてくれと合図を送ります。それを受けて、ヨハネはイエス様の胸元に寄りかかり、小声で「主よ、誰のことなのですか」と尋ねるのです。すると、イエス様は「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言われ、パン切れを取り、ソースに浸すと、それをユダに渡されたというのでありました。
これは、イエス様がユダこそ裏切り者であるということをはっきりとお示しになった非常に重要な場面なのですが、それにしては他の弟子たちがそのことにまったく気づいていない様子なので、ちょっと不思議に思えます。
「イエスは、『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた。座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。」(26-28節)
実は、この場面の描写について、『マタイによる福音書』では、こんな風に描かれているのです。
「弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。『わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。』イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことでは』と言うと、イエスは言われた。『それはあなたの言ったことだ。』」(『マタイによる福音書』26章23-25節)
ヨハネ福音書の記述と似ている部分もありますが、詳細はだいぶ違います。私は、この二つの記述を合わせて考えて、こんな風だったのではないかと想像するのです。
イエス様が、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切る」という言葉を聞いて、弟子たちは仰天しました。そして誰のことだろうかと探り合うのですが、結局一番心当たりがあるのは、自分自身なのです。ユダだけではありません。誰もが、自分の中にある信仰の弱さ、意気地のなさ、そういうものを主に見透かされたような思いになって、彼らは心を痛めます。そして、おそるおそる「主よ、まさか私のことを言っておられるのではないですよね」と、代わる代わる尋ね始めたのでした。
そんな時、一人、俺は絶対にイエス様を裏切らないと自信を持っていたのがペトロです。それで、彼はイエス様の隣にいたヨハネに合図を送ります。ダビンチの絵では、ペトロはナイフを手にしています。裏切り者などゆるしはしないという、ペトロの激しい気持ちをあらわそうとしたのではないかと思います。ヨハネはペトロのそんな気持ちを察し、イエス様に小声で「主よ、だれのことですか」と言いました。その間にも、他の弟子たちはいったい誰のことかと議論をしたり、「まさか、わたしではないですよね」と、食いつくように主に尋ねています。
すると、イエス様は、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言われました。イエス様がヨハネに答えてこう言われたのか、「まさか、わたしでは」と問う弟子たちに答えてこう言われたのか、その辺のところは誰にも分かりませんでした。ある者たちには「わたしと一緒にパン切れを浸している者がその人だ」と言ったようにも聞こえました。弟子たちは一瞬静まり、イエス様が何とおっしゃったのか、よく聞こうとしました。
ユダだけが、「ああ、先生は何もかもご存じなのだ」という気持ちに言いしれぬ恐れを感じていました。しかし、ユダは、そのような気持ちをおくびにも出さず、自分に向けられそうな矛先をかわすために、「主よ、まさかわたしのことではないでしょう」と、他の弟子たちに混じって、イエス様に問います。そのため、他の弟子たちはイエス様とユダの間にある特別な緊張関係にさっぱり気づきません。
イエス様は憐れみ深い眼差しでユダを見返し、ユダだけに聞こえるような小さな声で、「それはあなたの言ったことだ」とお答えになりました。そして、ソースに浸したパン切れをユダにお渡しになると、「しようとしていることを、今すぐにしなさい」とおっしゃいました。ユダは、パンを受け取り、黙って部屋を出、暗闇の中に消えてゆきました。しかし、他の弟子たちは、それらのことがあまりに自然に行われていたので、イエス様がユダに何か用事を頼まれたのだろうぐらいにしか思わなかったのであります。
|
|
|
|
|
しかし、もう一つ大事な事があると思います。それは弟子たちが気づかなかったというだけではなく、イエス様も「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切る」とは言いながら、敢えてユダが裏切り者であるということを、他の弟子たちに知らせようとはしなかったということです。「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言われましたが、それはユダであるとは言わなかったのです。
これは大事なことだと思うのです。イエス様が弟子たちに裏切り者の話をされたのは、ユダが裏切り者であることを、他の弟子たちに知らせ、ユダを糾弾するためではなかったということなのです。では、何のためでありましょうか。
イエス様の意図は二つあったと思います。一つは、ユダにメッセージを送るということです。「わたしはあなたが心に抱いている悪しき思いを知っていますよ。私はそのことをどんなに悲しく思っているか、分かりますか。いや、それは私の悲しみ、私の苦しみというよりも、あなた自身の不幸となるのですよ」イエス様は、ユダにこのようなメッセージを送り、ユダを救おうという努力をしているのであります。
もう一つの意図は何でしょうか。それは、それは他の弟子たちにメッセージを送ることであったと思います。「あなたがは、私が選んだ弟子です。しかし、わたしが選んだからといって、それだけでは十分ではありません。私があなたがたを選んだように、あなたがたも、私を選び取ることが必要なのです。そうでなければ、あなたがたのうちの誰であっても、私を裏切る可能性を秘めているといえるのです。私に従い、私の弟子となるとか。それとも私を捨て去り、裏切り者となるか。それはあなたがたが自分で決めることなのです」と。
実際、イエス様を裏切ったのはユダだけではありません。ペトロも裏切りました。他の弟子たちも、イエス様を見捨てて逃げてゆきました。ペトロなんぞは、イエス様が尋問を受けている場所で、人々の向かって、「わたしはあんな人を知らない。わたしはあの人とは何の関係もない」と、三度も言い張ったのですから、ユダと同罪だと言ってもいっても言い過ぎではないのではないでしょうか。
では、どうしてユダだけが裏切り者とされるのでしょうか。ペトロとユダの違いは、ペトロは自らの罪を悟った時、罪深き者として主のもとに帰ってきましたが、ユダは自分の罪を悟った時、主のもとに帰らず、自分で自分を裁いて自殺をしたということにあるのです。イエス様を見捨てて逃げ去った弟子たちも、皆、復活の主のもとに帰ってきました。
イエス様は、弟子たちがどんな挫折を経験しても、このように必ず自分のもとに帰ってくるようにということをお伝えになりたかったのだろうと思うのです。 |
|
|
|
|
ところで、このユダの裏切り物語については、幾つかの謎があります。先ず、ユダは、どうしてイエス様を裏切ったのか。次に、イエス様は言葉においても、業においても落ち度のないお方であったのに、どうして自ら選んだ弟子に裏切られてしまったのか。第三に、どうしてイエス様は、もっと強くユダの裏切りを止めようとしなかったのか。第四に、ユダの裏切りは聖書に預言されていたことだとされているが、それならユダはあらかじめ神によって裏切り者として定められていたということなのか。第五に、もし神の定めであるならば、ユダが地獄に堕ちるというのは理不尽だとも言えるが、いったいユダは救われるのか、救われないのか。他にも、いろいろと不思議に思うことが出てくるかもしれません。
実は、私も答えられないことが多いのです。特に、ユダは救われるのか、地獄に堕ちるのか、このようなことは、わたしにはさっぱり分かりません。個人的には、ユダですらもイエス様の救済の網にかかってほしいと思います。しかし、イエス様は、ユダに「生まれてこない方がよかった」という極めて厳しい言葉を語っておられます。その言葉の重さを考えますと、ユダはイエス様に愛されつつも、地獄に堕ちるしかなかったのかという思いもするのです。
それから、ユダは、なぜ裏切ったのでしょうか。ユダが、裏切りを企てたのは、ベタニアのマリアがナルドの香油を主に注いだ後のことでありました。この時、ユダは、マリアを叱りつけ、「なんて無駄なことをするのだ。香油を売って貧しい人に施す方がずっと役だったではないか」と言いました。ところが、イエス様はそんなユダに対して、「貧しい人への施しはいつでもできるが、マリアは今しかできないことをしてくれたのだ」と、マリアを弁護されたのです。
このようなことから、ユダとイエス様との間に、思想上の齟齬があったことが推測されます。イエス様が罪の贖罪、神との和解という根本的な問題解決を人間の救いの中心に据えておられたのに対し、ユダはもっと差し当たっての問題解決、社会改革や、世直しのリーダーになることを、イエス様に期待していたのかもしれません。そのユダの期待がはずれて、イエス様に見切りをつけたというのも、一つの考えでありましょう。しかし、ヨハネによる福音書などは、ユダは決して心から貧しい人のことを考えていたのではなかったのだという注釈を述べています。そうしますと、ユダの心がいったいどこにあったのか、本当のところは分かくなってしまうのです。 |
|
|
|
|
ただ、こういうことは言えるのではないでしょうか。人間というのは理由がなくても、罪を犯し、イエス様を裏切る存在であるということです。
たとえば、アダムとエバが神様を裏切って、禁断の木の実を食べてしまった。そこには、どんな理由があったでしょうか。神様が、彼らに何か悪いことをしたでしょうか。彼らは神様が与えてくださったものに不満があったでしょうか。そういうことは一切なかったのです。しかし、彼らは神様を裏切り、エデンの園を追放されることになってしまったのでした。
あるいはまた、今日の週報のメッセージにも紹介してありますが、アマツヤというユダの王様がいました。彼は、神様の御言葉に従い、完全なる勝利を賜りました。しかし、その後、自分に勝利を与えた神様ではなく、敗北したエドム人の神々を礼拝するようになったというのです。そこに、どんな合理的な理由がありましょうか。
私たちの日常生活もそうです。私たちは、神様に多くの愛をもって愛されています。また、神様が私たちに何を願っておられるかということも教えられています。それに対して、神様に喜ばれる人間でありたいとも願っています。しかし、私たちは罪を犯し、神様を悲しませることを重ねてしまうのです。
人間が理由なく罪を犯す存在であるということは、人間が何者であるかということをよく物語っています。つまり、人間は自由な存在なのです。自由というのは、ある物や事柄に対しての関わり方を自分で決めることができるということです。ある意味では、神様からも自由なのです。神様に従うか、従わないか。神様とどういう関わり方をして生きていくか。それを自分自身で決めることができます。
神様が愛してくれているから、神様を愛する。神様が何もしてくれないから、自分も神様を信じないなどと、人はいろいろなことを言いますが、本当のところ理由など必要ありません。神様が愛してくださっていることが分かっていても、神様と関係なく生きることができます。神様が愛してくださっていることが分からなくても、神様を信じて生きることもできます。理由などなくても、自分のやりたいことをすることができるのです。
そして、人間のこのような自由をお与えになったのは、神様ご自身であるということは、大切なことでありましょう。神様は人間が好き勝手に生きるようにと願われたのではありません。人間が自由な意志をもって、自ら進んで、自分を神様に委ね奉り、神様の愛と教えの中に生きる者となることを願われたのでありました。しかし、その決定権は、人間の手に委ねられたのです。
これは、イエス様と弟子の関係についても言えることです。どうして、イエス様は、自らが選んだ弟子によって裏切られたのか。それはイエス様の人を見る目がなかったからではないかと言うのは当たっていないと思います。確かに、イエス様はご自分にふさわしい者たちを選ばれたのです。しかし、弟子たちには、そのイエス様の選びに自分を委ねて生きる生き方もできたし、イエス様の選びに逆らって生きる生き方もできたのです。神様に愛されて作られた人間が、神様の恵みを棄てて、罪の道を鮎でしまったように、イエス様に愛されて選ばれた人間が、イエス様の選びを棄てて、裏切りの道を歩くこともできたのです。
イエス様は、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言われました。イエス様とパンを当たる者というのは、イエス様が命を養い給う者ということであります。しかし、どんなにイエス様がその人を愛し、その人に命を与えても、イエス様はその人の生き方を強制しません。「あなたのしようとしていることをしなさい」と、その人自身の決定権に委ねるのです。
私たちと主の関係も同じです。私たちは自由をもって、イエス様との関わり方を自分で決めることができるのです。主を愛することはもちろんのこと、主に背くこともできるのです。
ただ、思いますに、ユダは本当に自由な人であったと言えるのでしょうか。自らの決定権において、イエス様を裏切ったと言えるのでしょうか。ヨハネによる福音書は、悪魔がユダに入り込んだということを言っています。ユダは、自分の決定権によってイエス様を裏切ったというよりも、悪魔の誘惑に屈し、悪魔に逆らい得ない者となってしまったのだと、説明するのです。だからこそ、ユダは後で自ら犯した罪の大きさに気づき、思い詰めて、自殺をするという羽目になってしまったのではないでしょうか。
悪魔というのは本当に手強い相手なのです。たとえ私たちが神様を愛していても、悪魔は私たちを誘惑し続けます。しかし、私たちは主の愛を思い起こし、悪魔の誘惑を退け、神様に従う道を選ぶ取る者でありたいと願うのです。それこそ本当の意味で自由な人として生きるということなのではありませんでしょうか。後に、ペトロはこのように教えています。
「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。」(Uペトロ2章16節)
自由な人として、神の僕になりなさい。このことを一週間の励みとして歩んで参りたいと願います。
|
|
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|