最後の晩餐A 弟子の足を洗う (木曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書13章1-20節
旧約聖書 詩編32編
弟子達に対する主の愛
 先週から、「最後の晩餐」と言われている、イエス様と弟子達の最後の一夜について学びを始めております。この最後の晩餐は、折しも過越の食事の日でありました。イエス様は二人の弟子に指示をなさって、先にエルサレムに遣わし、ある人の家の二階広間に過越の食事の準備をさせたということを、先週はお話ししたのです。

 その時にはお話ししませんでしたが、先に遣わされた二人の弟子というのは、ペトロとヨハネでありました。詳細は不明でありますが、テーブルはコの字形、あるいは半円を描くようなU字型に並んでおり、その上には祭りの決まり事に従って、神殿で屠られた小羊の肉、苦菜、種入れぬパン、ぶどう酒などが、二人によって整えられ、また明かりが採るために蝋燭が灯されていたと思われます。

 過越の食事は、日没に始まることになっていました。夕方になって、ペトロとヨハネがこのように整えました部屋に、イエス様と他の十人の弟子達が到着しました。そして、イエスがテーブルの中央にお座りになると、その左右に弟子達も思い思いの場所に席をとったと思われます。当時は寝そべって、左手で頬杖をつき、右手で食事をするとうのが正式な習わしでありまして、レオナルド・ダビンチの描いた『最後の晩餐』ように西洋式な椅子に座って食事をする光景とはだいぶ様子が異なっていたと思われます。

 弟子達は、これが最後の晩餐になるなどとは夢に思いませんから、お祭り気分に浮かれ、陽気におしゃべりをしながら、寝そべり、席に着いていたのではないでしょうか。しかし、イエス様のこの食事に臨む思いは、半端なものではありませんでした。今日、お読みしました『ヨハネによる福音書』にはこのように記されています。

 「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13章1節)

 イエス様は、これからご自分の受けなければならない苦しみも、またその後、天の父なる神様のもとに移される栄光も、そして、この食事こそが弟子たちとの最後の晩餐であることをも、聖霊によってはっきりと知らされていました。

 そして、その時にイエス様のお心にもっとも大きな位置を占めていたのは、十字架でお受けになる苦しみではありませんでした。世を去り、神様のもとにお帰りになってお受けになる栄光のことでもありませんでした。ただただ、世に残される十二人の弟子たちのことが気がかりであったというのです。それゆえに「世にいる弟子たちを愛し、この上なく愛し抜かれた」というのです。

 「この上なく」というのは、「最後まで、完全に」という意味であります。最後の瞬間まで、余すことなく、弟子たちに愛を注ぎ給うこと、そこに主のお気持ちがあったというのであります。では、弟子たちの方も最後の瞬間までイエス様を信じ通したかというと、決してそうではありませんでした。2節にこう記されています。

 「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」

 また、11節には、こうも記されています。

 「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。」

 さらに、後の方を読めば、ペトロが裏切ることさえも知っておられたことが分かります。

 「ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』」(13章37-38節)

 鶏が鳴く前に、つまり今夜、夜明け前に、あなたは三度も重ねて、私のことを知らないと口にするだろうと、主はペトロに言われたのでした。主を棄てるのは、ペトロだけではありません。すべての弟子が、今夜、イエス様を見捨てて、散り散りに逃げ去っていくことを、主はご存じでありました。

 「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」(16章32節)

 イエス様は、かくも弟子たちの心を深く知っておられました。その心の中には、今は隠れていて本人ですら気づいてなくても、いざ事が起これば今夜にでも表面化する弱さ、信仰の危うさ、あるいは悪魔が潜んでいることを見抜かれていました。そのすべてを知りつつ、イエス様はその不信仰なる弟子たちを最後の瞬間まで愛そうと、心の中に愛を燃やしておられたというのであります。
弟子の足を洗う
 そんな主の思いも知らず、弟子たちはお祭り気分に浮かれて、楽しそうにおしゃべりをしていたに違いありません。その時、主が口を開かれました。

 「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。』」(『ルカによる福音書』22章14-16節)

 おしゃべりはピタリと止みました。イエス様とは逆に、これから何が起こるのかも知らず、主の思いも知らぬ弟子たちは、予想外に重々しい主のお言葉にハッとして、イエス様の御顔を仰ぎ見ます。

 「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」

 神の国の過越とは、御父なる神様が私たちのために屠り給う過越の小羊として、イエス様が十字架にかけられることを意味していました。しかし、弟子たちにはそれが分かりません。この意味は何であろうかと問うようなまなざしで、イエス様から発せられる次の言葉を注意深く待ちます。

 しかし、弟子たちの期待に反して、主はそれ以上何の説明もなさいませんでした。沈黙によって張りつめた空気が流れます。すると、やおら主は立ち上がり、上着を脱がれると、腰に手ぬぐいをまとわれると、部屋の片隅に置かれていた水をたらいに汲んで、テーブルの末席についていた弟子のそばに運びました。

 そして、身をかがめ、膝をつき、その弟子の埃にまみれた足を丹念に洗い、手ぬぐいでぬぐわれました。弟子たちは、あまりのことに声も出ず、金縛りにあったように動けません。ただイエス様のお使いになるたらいの水の音だけが聞こえます。

 洗い終わると、イエス様は、次の弟子のところに移動し、その足も洗い始められました。そして、また次の弟子の足を、という具合に、主は一人一人の弟子を足を洗って行かれました。

 その間、弟子たちは、何も感じることなく、平然とイエス様に足を洗わせていたとお思いでしょうか。そんなことはあり得ません。足を洗うのは、奴隷の仕事です。イエス様を生ける神の御子、キリストと信じる弟子たちが、自分の足を主に洗わせて平気なはずがありません。しかし、あまりのことに声も出ず、体も動かないのです。

 弟子たちは泣いていたかもしれません。どうして主がそのようなことをなさるのか、弟子たちには訳が分かりません。しかし、理性において理解できなくても、主の格別なる愛は直接、弟子たちの心に響いたに違いありません。

 主はユダの足も洗われました。その時の、ユダの心はいかばかりであったでしょうか。主が、ユダの汚れた足に触れ、心を込めて丁寧にぬぐわれるとき、主の愛は、ユダの心に少しも伝わらなかったと言えるでしょうか。ユダの目に涙がなかったと言えるでしょうか。しかし、ついにユダは自分の心を変えることはありませんでした。私たちも、しばしば主の愛を知りながら、罪を犯すことがあるのと同じです。
ペトロ、主の洗足を拒む
 最後に、主はペトロの足下にたらいを起き、ひざまずかれました。ペトロは我に返り、さっと足を衣の中に引っ込めます。そして、緊張でカラカラに乾いた口を開き、かすれた声でやっとのこと、こう言いました。

 「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」
 
 イエス様は、ペトロの顔を見ます。いつもながらこの弟子は一筋縄ではいかないな、と思ったかもしれません。しかし、イエス様はこのようなペトロを愛しておられたのです。主は、ペトロに言われました。

 「わたしのしていることは、今あなたに分かるまいが、後で、分かるようになる」

 しかし、頑固なペトロは引き下がりません。先ほどよりはっきりした、しかし感情に震えた声で、言い張りました。

 「わたしの足など、決して洗わないでください」

 これは真の謙遜ではありません。謙遜の中に、傲慢を隠した言葉です。真の謙遜であるならば、主がしてくださったこと、してくださることを受け取らぬはずがありません。たとえ価なき者でありましても、「あなたなしに私はおりません」という思いをもって、なお主の愛を求める者こそが真の謙遜者と言うことができるのです。しかし、ペトロは、「わたしの足など、あなたに洗っていただくに及びません」と、主の恵みを必要なしと言っているのです。

 日本人の心を持つ私たちは、遠慮深さという謙譲の美徳意識があります。先日、韓国からいらしている留学生のキム・ヨンスさんが、日本人が自分の意見を述べるとき、「自分は〜だと思います」とたいへん慎み深く話をする、それがたいへん美しい話し方に思えると、日本人をほめてくださいました。韓国では、もっと断定的な言い方をするので、話が刺々しくなるというのです。

 確かに、遠慮深さ、慎み深さというのは、日本人の美徳だろうと思うのです。しかし、実際には弊害もあるのではないでしょうか。話し方については、自分の考えをはっきりと述べられない優柔不断さとして現れることがあります。遠慮も、あまり度が過ぎると、かえって相手の気持ちを害するということがあるのです。

 概して、日本人は人の親切や好意に対して、「ありがとうございます」と答えるのではなく、「申し訳ありません」という答えることが多いように思います。感謝の気持ちよりも、相手に対する済まなさが先立ってしまうのです。それは、自分が受けた喜びに浮かれるよりも、相手にかけた苦労に対する思いやりの現れでありまして、先ずそれを考えることができるというのは、日本人の本当に尊い、美しい気持ちでありましょう。

 しかし、親切や好意を受けたとき、相手に迷惑をかけたと気持ちを強くする人がいます。そう気持ちで、「申し訳ない」を連発しますと、かえって相手を閉口させ、相手の気持ちを無にしてしまうということがあるのです。親切や愛の業というのは、決して迷惑に思いながらするものではないはずです。その善意、好意というものを、心から感謝して受け取り、喜びをもってお返しするということも大切なのではないでしょうか。

 うがった見方をすれば、それがなかなかできないところには、人の世話になることは情けないことだという、人間のプライドがあるように思うのです。プライドは大事です。しかし、プライドの持ち方を間違えると、扱いにくい、難しい人間になってしまうこともあるのです。

 「わたしの足など、決して洗わないでください」

 なぜ、ペトロは「今は分からなくてもいい。後できっと分かってくれるはずだ」というイエス様のお言葉を、素直に信じなかったのでしょうか。弟子ならば、意味が分からなくても、納得できなくても、主がしてくださったこと、してくださることなら、どんなことでも喜んで受け入れるべきではないでしょうか。

 そこにはペトロなりの、弟子としてのプライドがあったのだろうと思うのです。しかし、そのプライドは、少々ねじれたプライドだったように思うのです。弟子として持つべきプライドは、たとえ人がなんと言おうと、自分は主を信じ、主に従い通すということにあるべきでありましょう。しかし、ペトロは、たとえ主のおっしゃることであっても、それは自分の考える弟子の美徳に反しますと言ったのです。自分の弟子としての美徳を守るために、主を受け入れることを拒んでしまったわけです。

 ペトロは、主が誇りを棄てて、弟子の足を洗い給うのに対して、自分の誇りが傷つくから洗わないでくれということの罪深さ、自己主張の深さに気づきません。それは主の愛をまったく無にすることだということに、気づかないのです。

 人間というのは誰も、愛に飢え乾き、どっぷりと愛に浸りたいと願って止まない存在だと思うのです。ところが、その一方で、ねじれたプライドに縛られて、愛されるだけの人間ではだめだと思い、愛を拒絶してしまう、たいへん不幸な存在でもあるのではないでしょうか。
イエス様との関わり
 そのような不幸なペトロに対して、イエス様は、少しも優しさを失わず、子供に諭すような口調で、答えられました。

 「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」

 「わたしと何のかかわりもないことになる」という言葉に、ペトロにあわてました。直情径行型のペトロは、とっさに引っ込めていた足を伸ばし、さらに両手をも主の前に差し出し、頭を垂れて、こう答えてしまったのです。

 「主よ、足だけでなく、手も頭も。」

 主は思わず微笑まれたに違いありません。失敗も多い人間ですが、まっすぐで愛すべき人格、それがペトロなのです。それだけではありません。このようなペトロの失敗があればこそ、私たちはより深く主の御心を学ぶことができるのです。そんなペトロの足を洗いながら、主は言われます。

 「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」

 当時、ユダヤでは、宴会に招かれて行く時には、前もって湯浴みをし、全身をきれに洗ってから出かけるという習慣がありました。この時も、弟子たちはすでに沐浴を済ませ、この過越の食事に臨んでいたのだろうと思います。だから、イエス様は、「足だけでいいのだよ」と、言われたのです。

 しかし、それはあくまでも表面的な読み方です。イエス様は一方においては、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とおっしゃいました。それは、常に主の赦し、主の清めを頂かなければ、私たちが主との交わりの中にとどまり続けることができないということを意味しています。

 私たちは日々、罪を犯します。道を歩けば、必ず足が汚れるように、それはどんなに注意深く生きていても、人間である限り避けられない現実なのです。しかし、それでも私たちは主を愛し、主と共に生きたいと願います。それを可能ならしめるのは何かと言えば、私たちの熱心さや、注意深さによってではなく、主が私たちを憐れんで、日々、罪の赦しと清めをお与えくださることによってなのです。

 だからこそ、主は、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とおっしゃったのでした。

 しかし他方で、主は、「既に体を洗った者は、全身清い」と言われます。そして、手も、頭も、すべてを洗ってくださいというペトロに対して、「足だけでよい」と言われたのです。これはいったいどういう事なのでしょうか。

 ペトロじゃありませんが、私も、しばしば打ちひしがれ、自分は頭のてっぺんからつま先まで罪人だと自責の念にかられます。たとえば、みなさん、もう一度洗礼を受けたいと思われたことはないでしょうか。もう一度、一からやり直し、今度こそは主に仕える人生をやり直したい、まことに殊勝な思いだと思いますが、イエス様は、それは必要ない、そのような考え方は間違っているとおっしゃるのです。

 どうしてでありましょうか。洗礼を受けるというのは、主の十字架における罪の赦しを、私自身の全人格、全生涯にわたる決定的なものとして信じ、その恵みに与ることなのです。もう一度、洗礼を受け直したいというのは、気持ちとしてはよく分かるのです。しかし、それでは、私たちの気分次第で、何遍でもイエス様に十字架にかかってくれというのと同じです。

 私たちが日々罪を犯す者であり、日々悔い改めと清めを必要としている人間であるということと、主がこのような弱き者のすべての人格、すべての人生を愛の中に包み込んで、私を赦してくださっているということとは、別次元の話なのです。
互いに足を洗い合いなさい
 さて、弟子たちの足を洗い終えられたイエス様は、たらいを片付け、手ぬぐいをはずし、上着を羽織られて、再び中央の席に戻られました。そして、この不思議な体験をして、興奮さめやらぬ弟子たちの顔を見渡し、お話になりました。

 「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」(12-17節)

 主であり、師であるイエス様が、私たちの足を洗う者となってくださったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合う者になりなさいと、教えられています。「足を洗う」というのは、一つは人に仕える者になるということでありましょう。そして、もう一つは互いに清め合うこと、つまり赦し合うことの大切を教えられているのだと思います。

 私たちは、主から大いなる愛と恵みを頂きました。主は、身をかがめて、僕の姿となって、終いには十字架にまでおかかりになって、私たちを愛し、罪を赦してくださいました。その感謝をもって、主から受けた愛と恵みを、互いに分かち合いなさいと、主は教え給うのです。 
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