ベタニアで香油を注がれる(水曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書14章1-11節
旧約聖書 詩編23編
主の安息の日
 しばらくクリスマスやお正月で中断しておりましたが、今年も引き続き福音書を辿りながら、イエス様のご生涯について学び、一年の礼拝を守ってまいりたいと思います。昨年、どこまでお話しをしたかと言いますと、ちょうどイエス様が十字架におかかりなる金曜日の三日前、火曜日にあった出来事までお話しをしてきました。今日は水曜日の出来事です。

 この日、イエス様はエルサレムに行かず、近郊のベタニア村で一日をお過ごしになりました。前にもお話ししましたが、ベタニア村はイエス様にとって本当に心休まる憩いの場所でありました。それは、ベタニアが静かで平和な村であったというだけではないと思います。皆さんもそうだと思いますが、心からくつろげる場所というのは、ただ静かで、敵がいないというだけでは不十分で、自分を愛して心底受け入れてくれる人々がそこにいるということが必要だと思うのです。ベタニア村には、そのような主を愛する人々が住んでいました。そして、いつでもイエス様を快くもてなしてくれたのであります。

 「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」

 主は重い皮膚病の人シモンの家で食事をしていたとあります。重い皮膚病というのは、聖書に度々出て参りますけれども、人々からたいへん恐れられている病気でした。旧約聖書の時代からこの病気にかかった人は、村の外に隔離されて、健康な人々に近付くことが禁じられ、神に見捨てられた罪人と言われていたのです。しかし、イエス様はそんなことは何でもないかのように、シモンの家に整えられた食事の席についておられます。

 ユダヤでは、食事をするというのは宗教的な意味を持つたいへん大事なこととされていました。一緒に食事をするというのは、単なる親睦以上のことを意味しており、命の交わりを持つことだと考えられていたのです。逆に、そのような命の交わりを持ちたくない人とは決して食事を一緒にしないのが、ユダヤ人です。もし罪人や、宗教的に汚れた人や、異邦人と食事をすれば、自分もその仲間になると思ったのです。しかし、イエス様は逆に、そのような人々とも喜んで、自然体で、食事の交わりをなさいました。そのことがどんなに多くの人々に救いをもたらしたか知れません。

 ある人は、重い皮膚病の人シモンは、かつて主にその病を癒されて、その感謝のためにこの食事の席を設けたのであろうと説明しています。そうかもしれません。しかし、たとえ病が癒されていないとしても、シモンは、イエス様がこのような自分と一緒に食事をしてくださるということによって救われているのです。

 このような詩があります。

  主イエスと関わりのない罪人はない
  主イエスが忘れる罪人はいない
  主イエスがそっぽむく罪人はいない
  主イエスが怒る罪人はいない
  主イエスが見捨てる罪人はいない
  主イエスが招かない罪人はいない
  主イエスが御手を差し伸べない罪人はいない
  主イエスに救われない罪人はいない
                 (河野進)

 私たちはよく、「救いとは罪の赦し」だといいます。では、罪の赦しとはどういうことなのでしょうか。ご紹介しました詩の中は、罪人の救いということを語っているのですから、「主イエスが赦さない罪人はいない」というフレーズがあっても良さそうなのに、それがありません。敢えて、その言葉を言わないとしたら、他にどういう言葉で言うことができるだろうか、それは、たとえあなたがどんなに悪い罪人であっても、イエス様はあなたのことを忘れたりしない、そっぽ向いたりしない、あなたを怒らない、見捨てない、御許に招いてくださり、必ず御手を差し伸べてくだるということだというのです。

 イエス様は、もちろん「あなたの罪は赦された」と人に仰ったこともありますが、それよりも一緒に食事をしたり、その家に宿泊されたり、病を癒されたり、弟子になるように招かれたり、そういう交わりを持つことによって、罪を赦してくださる神の愛というものを教えてくださったのであります。

 イエス様がシモンとお過ごしになったこの水曜日は、考えてみれば地上のご生涯における最後の憩いの日でありました。この翌日には、イエス様は逮捕され、夜通し休む間もなくそのまま裁判かけられ、あくる朝、十字架に磔にされるのです。その最後の憩いの日を、イエス様は重い皮膚病の人シモンと共に食事をし、神様の愛を分かちつつ、存分に楽しまれたのです。
ナルドの香油を注ぐ
 すると、そこにひとりの婦人が闖入してきました。この「一人の女」とは誰のことなのか。『ヨハネによる福音書』によりますと、そこにはマルタ、マリア、ラザロの兄弟姉妹が一緒にいたように書かれており、その中のマリアが、イエス様に香油を注いだのだと記されています。

 ナルドの香油というのは、ナルドというおみなえし科の植物から取った香油だそうです。今でも栽培されており、乾燥したものが漢方として売られているそうですが、香油は作られていないそうです。当時もたいへん高価なものだったようですが、マリアはその香油が入った石膏の壺を壊し、全部をイエス様の頭に注ぎかけたのだと言うのです。

 この時の様子を、もう少し詳しく語っている『ヨハネによる福音書』によりますと、このように言われています。

 「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」

 1リトラというのは326グラムだそうで、そんなに缶ジュース一本分ぐらいの量を想像すればいいのではないかと思います。たったそれだけの香油が、300デナリオン、約300万円、高級車一台分もしました。

 それを、マルコの記述では壺を割って一気に頭に注いだようにありますが、ヨハネの記述では、イエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったとあります。食事中に、足に香油を塗るというのはどういうことなのか。実は、当時、食事というのは寝そべって、左手で頬杖をつき、右手で食事をするという習わしでした。日本風に考えると、まったくお行儀が悪い姿勢ですが、ユダヤではそれが正式な姿勢だったのです。そうしますと、まず足のつま先にも香油をぬるということも容易に想像できるのではないでしょうか。頭なのか、足なのか、おそらく両方に注いだのでありましょう。

 マリアはどんな思いで、大切な香油をイエス様に注いだのでしょうか。愛の贈り物であったのか、感謝のしるしであったのか、マリアは何も言いません。言わないから、弟子たちが言います。

 「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』そして、彼女を厳しくとがめた。」(14章4-5節)

 匂いというのは、日本語の話しですが、赤色のお花が非常に目立つ様子を表す言葉なのだそうです。現代では香りについて言う言葉ですが、もともとは色について言う言葉だったわけです。色にしろ、香りにしろ、調和を崩すほど何かが際立ち、目立ってくる様を匂うというわけです。ヨハネに福音書にも、「家は香油の香りでいっぱいになった」と告げられています。

 そのように今までの調和を乱し、それ一色にしてしまうような匂いというのは、当然、不快に思う人もいるでありましょう。一緒にいた弟子たちも、マリアの行為を、香油のすべてを使い切り、家中を香油の香りでいっぱいにしてしまう行為を、遣りすぎだと、非常に不快に思ったというのです。

 ところが、イエス様だけは弟子たちと違うようにマリアの行為を受けとめました。そして、あからさまに不快感を表す弟子たちを注意しながら、マリアをかばったのです。

 「イエスは言われた。『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。』」

 まず、イエス様は、マリアのしたことを、「わたしに良いことをしてくれた」と言われました。さらに「この人はできるかぎりのことをした」とも言われました。確かに、マリアのしたことには遣りすぎと言われても仕方がないものでした。しかし、結果はどうであれ、マリアは、イエス様への愛をもって、イエス様が喜んでくださることをしようと思って、それをしたのであります。

 もっと別のやり方があったとか、この程度でやめておけば丁度良かったとか、そういうことは後になってみれば、いくらでも言うことはできるでありましょう。しかし、イエス様だけは、「そう言うな。私を喜ばせようと、彼女は出来る限りのことをしてくれたのだ。それが尊いことじゃないか」と、おっしゃってくれたというのです。

 私たちがお仕えしているイエス様が、このような御方であるということは、何と嬉しいことでしょうか。私たちがイエス様のためになし得ることも、「帯に短し、襷に長し」というように、遣りすぎたり、力不足であったり、なかなかいい塩梅にはいかないのです。それを失敗と言えば、それまでです。自分はあれこれとやってきたけれど、結局、何一つイエス様のためになるようなことはできなかったということになるのではないかと思います。

 しかし、イエス様は、「いや、あなたが私を愛し、良いと思うことを、出来る限りを尽くしてしてくれた、それで十分だよ」と仰ってくださるということが、ここで言われている事なのです。このようなイエス様だからこそ、私たちはたとえ結果を出せなくても、いつもイエス様のために良かれと思うことを臆することなく、精一杯やっていこうという熱情を失わないでいられるのではないかと思います。 
時を知る
 これはイエス様がマリアの気持ちを汲んでくださったというだけの話しなのでしょうか。それだったら、「いやいや、わたしはマリアの行為を有り難く受け取るよ。これはわたしへの葬りの用意なのだ」というだけで十分で、「世界中どこでも、福音が伝えられる所では、この人のしたことは記念として語り伝えられるだろう」と、これは「記念すべき業」であることまで言わなくても良かったと思うのです。

 ちょっと難しい話しになりますが、倫理学の言葉に、心情倫理と責任倫理という言葉があります。責任倫理というのは、その人がどういう心情で行為をしたかという動機よりも、どういう結果をもたらす行為をしたかということが大事だと考えです。

 たとえば、イエス様の弟子たちは、マリアの心の内がどうであれ、結果としてマリアの行為は香油を無駄にすることだと判断しました。さらに弟子たちは、香油をお金にかえて、貧しい人に施した方がずっと良かったと言います。このように、良い結果をもたらす行為こそ正しい行為であり、悪い結果をもたらすものが間違った行為であるというのが、責任倫理の考え方です。

 それに対して、結果よりも内面の方が大事であり、意味があると考えるのが、心情倫理です。「貧しい人に施しをする」という行為であっても、売名行為であったり、恩を着せるような気持ちであったりしたら、それは決して正しい価値ある行為とは言えないというのです。逆に、マリアの行為のもたらした結果には色々と批判があるかもしれませんが、マリアは真心をもってイエス様に香油を注ぎました。その真心が正しく善なるものと認められる限り、マリアの行為は価値あるもので、誰も非難することはできないというのが、心情倫理なのです。

 動機が正しければ行為も正しいとするのが心情倫理で、結果が正しければ行為が正しいとするのが責任倫理ということです。すると、このナルドの香油の話しは、イエス様は心情倫理に従って、マリアの行為を正当化してくださったという風に読めなくもありません。しかし、もう一度イエス様の仰った言葉をよく読んでみますと、決してそうではないことが分かるのです。

 「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」

 イエス様は、貧しい人々への施しも、そんな計算高い心では意味がないのだと言ったわけではありません。「それはしたいときに、いつでもできるじゃないか」と言われたのです。それから、マリアの行為に対しても、「結果は誉めたものじゃないけど、真心があるから良いではないか」と言ったわけではありません。彼女は、「前もってわたしの香油に注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と、とても意味のあることをわたしにしてくれたのだと、結果をお認めになっているのです。

 イエス様がここでおっしゃっていることは、いつでもできる事と、今しか出来ない事というものがあるということなのです。人が何かをする時に大切なのは、結果だけはなく、動機だけでもなく、時が大切だというわけです。今は何をする時なのか、時を知り、時に適うことをする大切さということを、イエス様は教えてられると思うのです。

 では、マリアがイエス様に香油を注いだのは、どういう風に時にかなっていたのでしょうか。聖書を見ますと、他に二つのことが、この水曜日にあったといわれています。一つは、エルサレムでは、イエスをどうやって殺そうかという血なまぐさい謀議がこらされていたということです。

 「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。」(1節)

 もう一つは、このナルドの香油の話しの後には、十二弟子のひとりであるイスカリオテのユダが、イエス様を裏切る腹を決め、エルサレムに行って祭司長にたちにイエス様を引き渡す約束をしたということです。

 「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。」

 この水曜日は、イエス様の憩いの日であったと申しましたけれども、実はこのようにイエス様を十字架につけようとする動きがあわただしく始まった日でもあったのです。その間に、このマリアの香油注ぎの出来事が起こります。これから自分にかわって十字架にかかってくださるイエス様に、私の救いのために命を捨ててくださるイエス様に、せめて自分の大切な宝、出来る限りの最高の贈り物をしようという出来事が起こるのです。

 もちろん、マリアはそんなことを意識していたわけではありません。マリアが考えているのは、「わたしが今日あるのはイエス様のお陰である」ということと、「イエス様をおいて他にわたしの救いはない」ということだけだったと思います。しかし、そのようなイエス様への信仰と愛をもって素直に行動する時に、それが自然と神の時に適うものになっていたのです。

 この「神の時に適っている」ということが、何よりも大事なことでありまして、そうであれば、結果は自ずと神の目的に適ってくるということが、ここに言われているのではないでしょうか。人間というのは「結果」をあまり深く考えすぎますと、何もできない人になってしまいます。これは、動機についても言えることで、本当に真心だろうかと自分の心を探りすぎると、偽善というものが見え隠れし待って、やはり何もできない人になってしまうのです。

 しかし、結果と動機とか、あまり深く考えすぎないで、とにかく今という時を神の時にかなって生きようとすれば、神ご自身が動機を清め、また結果を与えてくださるのだと言ってもいいかもしれません。イエス様が言われた、「この人はのしたことは、わたしへの葬りの用意である。後々まで世界中で語り告げられる記念の業となる」ということは、マリアがそう考えてしたのではなく、神様がマリアの行為に対して与えてくださった結果なのです。たとえマリアが、そういうことをまったく考えていなくても、神の時にかなった行為をしたために、結果的に神の目的に資する行為とされたということなのです。
神の時を生きる
 では、神の時に適う生き方とは、どういう生き方なのでしょうか。それは、過去でもなく、将来でもなく、「今日」という日を大事にする生き方だろうと思います。それは、過去などどうでもいい、明日のこともどうでもいい、今がよければそれでいいという刹那的な生き方のことではありません。聖書は歴史というものを神の働きとしてとても大事にしています。過去があってこそ今日という日につながっていますし、今日という日があってはじめて明日につながるのです。

 しかし、そのような歴史、あるいは人生というのは、人間が思い通りにするものではなく、神様の御心によって始められ、神様の目的に向かって進んでいくものなのです。みなさんは、自分が何のために生まれてきたか、将来どのようになるべく生きているのか、本当のところがお分かりになるでしょうか。自分なりの考えはあるかもしれませんが、本当のところは分からないというが、正直な答えだと思うのです。実は、「分からない」という答えでいいのです。自分には分からなくても、神様は分かっていらっしゃいます。

 たとえば、何か苦しいことや悲しいことがあるとします。そんな時、私は何のために生まれてきたのだろうとか、これからさき生きていくことに何の希望もないとか、そのような絶望的な気持ちになるかもしれません。しかし、もし神様が御心をもって、私たちに命を与え、人生を与え、それを支え、導いておられるとしたら、どうでしょうか。今、私たちが経験している苦しみや悲しみのことも、神様はちゃんと承知をしてくださっているはずです。分かっているなら何とかして欲しいと思うのですが、そうではなく、それが将来の神様の目的につながる何らかの意味をもっているからこそ、神様は敢えて私たちをそのような苦しみや悲しみの中に置かれているのです。

 神の時を生きるというのは、神様が与え給う今を、精一杯生きるということなのです。たとえそれが、理不尽な苦しみであっても、あるいは一体どんな将来につながるのか分からないような苦しみであっても、神様が私の人生を導いておられるのだということを信じて、今を心を込めて生きるのです。苦しいときには苦しむことが、神の時を生きるということです。悲しいときは悲しむことが神の時を生きるということです。それを誤魔化して、お酒や享楽などで刹那の慰めを求めてはいけないのです。もちろん、喜ぶときは心から喜ぶことが神の時を生きるということになります。そして、愛する時には心を込めて、後先を考えず、心を込めて愛するのです。

 それがマリアのしたことではないでしょうか。後先のことを考えていたら、もっと常識的な行為をしたと思うのです。壺を割って、全部を注ぎ欠けてしまうなんてことはしないで、半分ぐらい残していたに違いありません。しかし、マリアは、壺を割りました。惜しみなく、すべてを注ぎました。マリアは、その結果どうなるかなど考えているのではなく、今という時を、神の時として精一杯に生きたのです。それが、イエス様の言われた「この人はできるかぎりのことをした」という意味ではないでしょうか。

 私たちも後先のことを考えすぎて、今という時を精一杯に生きられていないということがないでしょうか。よく「死ぬ気になれば何でもできる」と言いますが、それは後のことを心配しなくなるからなのです。ただ、私たちクリスチャンは無茶をすればいいということではありません。神様を信じて、神様に祈りつつ歩むことが大事です。その中で、私たちは今何をすべき時なのかということを、神様から教えられていくのではないでしょうか。

 その声を今日聞いたならば、今日のうちに従うとう大胆さを持ちたいものだと思います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp