タラントンの譬え(火曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書25章14-30節
旧約聖書 エレミヤ書29章11節
神様はお留守?
 今日はイエス様の「タラントンの譬え」から、ご一緒に学びたいと思います。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。」
 
 「ある人が旅行に出かけとき」というところから、この譬え話が始まります。実は、前にも似たような始まりを持つ譬え話を御一緒に学びましたが、覚えていらっしゃいますでしょうか。ある家の主人が、ぶどう園を作って、それを農夫たちに貸して、旅に出たという譬え話です。しかし、収穫の時期になったので、ぶどう園に僕を送り込みますと、農夫たちは収穫を主人に渡すのを拒んでしまったという話でした。

 内容はまったく違うのですが、「主人が旅に出ている間、留守を任せられている者たち」という点が一致しています。実はほかにも「旅に出ている主人」あるいは「留守を守る僕たち」というモチーフで語られた譬え話があるのですが、イエス様は、このような共通のモチーフを通しまして、私たちの生きているこの世界(人生)の現実と、その隠された意味というものを教えてくださっているのです。

 この世界(人生)の現実とは何かといいますと、それは神様がお留守であるということです。主人が旅に出ているということは、非常にネガティブな受け止め方ですが、この世界にも、あるいは私たちの人生にも、神様がお留守だということなのです。

 牧師が、「神様はどこかにお出かけで、この世にも、我々の人生にもいらっしゃらないのだ」なんて言うのは由々しき問題だと思われるかもしれません。しかし、この世の現実というものを見ます時、これが本当に神様のいらっしゃる世の中だと言えるのでしょうか。

 二、三年前に『世界が百人の村だったら』という本が流行しました。タイトルの通り、人口63億の世界を100人の村に置き換えてみると、それはどんな村になるかということがかかれているのです。

 「村に住む人々100人のうち
  20人は栄養が十分ではなく、
  1人は死にそうなほどです。
  でも、15人は太りすぎです」

 栄養失調で死にそうな人と、太りすぎで悩んでいる人が同じ村に住んでいるのです。もし、神様がこの村の村長であるならば、そんな間違いは直ちに是正すべきではないでしょうか。しかし、イエス様は残念ながら、村長は旅に出て留守であると仰るのであります。

 こんな風にも書かれています。

 「もしあなたが
  いやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに
  信仰や信条、良心に従って
  何かをし、ものが言えるならば
  そうでない48人より恵まれています。
  もしもあなたが
  空爆や襲撃や地雷による殺戮や
  武装集団のレイプや拉致に
  おびえていなければ
  そうでない20人より
  恵まれています」

 もし、神様がこの世の支配者であるならば、どうして御自分の民に平和を賜らないのでしょうか。どうして、戦争や、殺戮や、拷問などをやりたいようにさせておくのでしょうか。イエス様は、「実は、私たちのご主人は、旅に出かけてお留守なんだ」と仰るのであります。
タラントンを預かる
 しかし、イエス様は、この世に神様は存在しないと言っているのではありません。留守なのです。その違いによく気をつけて、この譬え話を読む必要があると思います。

 先の「ぶどう園の譬え」を見ますと、イエス様は、主人が出かける時の様子を、このように仰いました。

 「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」(『マタイによる福音書』21章33節)

 この主人は、ご自分のなさるべきことはすべて為し終えて、後で何一つ不足が起こらない完璧なぶどう園を作って、それを農夫達にお預けになったのだというのです。このぶどう園とはこの世界のことで、神様は完璧な世界をお作りになって、私たちにそれをお任せになったのだということが、ここで語られているのです。

 今日の譬え話でも、これと同じ意味のことが言われていると思います。

 「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」

 タラントンというのは当時のお金の単位です。当時、一日の賃金が1デナリオンでした。1タラントンは6000デナリオン、6000日分の賃金です。これは今に換算すると幾らぐらいになるのでしょうか。6000日というのは365日休みなく働いて16年、しかしユダヤ人には安息日というものがありますから、働くのは一週間に六日です。そうしますと1タラントンを稼ぐには20年かかることになります。日本人の平均年収は450万円だそうで、20年で9000万円です。約1億と言ってもいいと思います。五タラントン、二タラントン、一タラントンと三段階に分けて言いますと、1タラントンが少ないという印象を受けますが、1タラントンでも1億円ですから、かなりの財産だったわけです。

 つまり、この主人もまた、僕たちに文句のつけようのない十分なるタラントンを預けて、そして旅に出たというのであります。

 このタラントンという言葉は、今はタレントという言葉として広く使われています。テレビに出演している人をタレントと言ったり、生まれつきのもっている人の才能、賜物のことをタレントと言ったりするのです。僕たちに分け与えられたタラントンというのは、神様が私たち一人一人の人生に、申し分ない賜物を分け与えてくださったという意味だと考えられるのです。

 神様はお留守だと申しました。しかし、神様は突然私たちの前から失踪してしまったのではないのです。確かに、神様がいるならばどうしてなのか、と言いたくなるような世の中です。私たちの人生も然りです。しかし、それは神様の責任とは言えません。イエス様は、神様は申し分ない世界をお作りになり、また私たち一人一人にそれを管理するための十分なる賜物を分け与えて、こうしてすべてを成し遂げ、すべてを整えて、旅に出られたというのです。こうして、神様は、この世界の管理を、また私たちの運命を、人間の手にゆだねられたのです。

 そこには、私たちに対する神様の期待と信頼があると言ってもいいと思います。神様が留守であるということは、神様がいらっしゃらないということではありません。神様はいらっしゃいます。そして、この世界の創造主として、また私たち一人一人の人生の主として、ちゃんと目を注いでくださっているのです。その神様によって、私たちひとりひとりは、この世に送り出されているのです。その期待に応えて生きることが、私たちの人生なのです。それならば、この世界も、私たちの人生も、神様あってこその世界であり、人生なのです。

 それなのに、神様が留守なのをいいことに好き勝手をしている・・・この世界の悲劇、私たちの人生の悩みの多くは、神様がいないから起きているのではありません。神様あっての世界であり、人生であるのに、留守をいいことに神様の存在を忘れ、無視して、人間が好き勝手をやってしまった結果なのです。

 そのような私たちに、イエス様は、「神様はいないのではない、必ずあなたがたの前に帰ってこられる。その時、あなたがたは自分がどのように生きてきたのか、神様が分け与えてくださったタラントンをどのように用いたのかについて、申し開きをしなくてはならないのだいうことを、ゆめゆめ忘れてはならない」と、主の日の裁きについて警告を与えてくださっているのです。
人と異なるタラントン
 何かを任せられるということは、たいへん名誉なことでありますし、喜ばしいことであります。しかし、同時に大きなプレッシャーを感じ、場合によってそれが重荷となって私たちを苦しめることになるのです。

 私は二八歳の時に、この荒川教会に牧師として着任しました。それまでは、新潟の比較的大きな教会の伝道師として三年間務めてきましたが、牧師として一つの教会を神様から預かってお仕事をさせていただくのは、まったく初めての経験であり、そのことは私にとって本当に大きな喜びであると同時に、大きな不安でもありました。それでも最初の三年間はがむしゃらに頑張ってきましたのです。しかし、四年目に、私は大きな挫折感を味わい、自分を牧師にむいていないのではないかと自信を喪失し、自責の念に苦しんだのでありました。

 しかし、いつでも私はこのような挫折を通して、主の恵みに立つということを、神様からおしえられて来ました。この時も、今思えば自分の思い上がりがすべての原因だったのです。今日の譬え話になぞらえて言えば、私は主から1タラントンを預かった僕でありましたが、2タラントンを預かった人と同じ事をしなければならないと思いこんでいたのだと思うのです。しかし、いただいた賜物以上のことができるはずもありません。そのために、私は自信を失い、何もかもやる気を失ってしまったのでした。

 しかし、主が期待しておられることは、1タラントンを預かった私が2タラントン分の仕事をすることではなく、1タラントン分の仕事をしっかりとやり遂げることだったのです。そのことがわかっておれば、私は自分が2タラントン分の仕事ができないからと言って、落ち込むこともなかったでしょうし、自信を失うこともなかったに違いないとおもうのです。

 私たちは、しばしば思い上がって、余計なことに手を出して、大きな失敗をしたり、人に迷惑をかけたりいたします。あるいは、逆に自分を何もできない人間だと卑下して、何もしない人間に成り下がってしまうこともあります。その原因は、神様あってこその自分の人生であるということを忘れていることにあると思うのです。

 自分の人生を、神様あってこその人生だと受け止めますと、自分にできることはもともと神様から与えられた分だとわかりますから、思い上がることはありません。また、自分にできないことがあっても、それははじめから自分に与えられていないことだと分かりますから、そのことで自分を卑下したり、自信を喪失することもなくなるのです。主が期待しておられるのは、何でもかんでもやろうとすることではなく、自分に与えられた分に対して忠実に生きることだということなのです。

 神様は、みんなに同じ賜物を分け与えるとは約束しておられません。聖書には、こう書かれています。

 「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」

 主人が僕たちに分け与えた金額は、それぞれ違っていました。ある人は五タラントン、ある人は二タラントン、ある人には一タラントンを分け与えたのです。

 確かに、世の中には、決して多くはいませんが、五タラントンの賜物を受けている人がいると思います。たとえば誰もが認める偉人パウロや、ルターや、キング牧師や、マザー・テレサのような人は、普通の人の何倍もの大きな賜物を主が戴いていたと思うのです。あるいは二タラントンを受けた人々もいます。内村鑑三とか、賀川豊彦とか、石井十次とか、後世に残るような仕事をした人達は、やはり人の二倍の賜物を戴いていていたと言っていいと思います。

 しかし、忘れてはならないのは、人より多くの賜物を受けた人たちは、その分だけ波瀾に富み、苦労に満ちた人生を生きたということです。彼らが経験した恐れや不安や挫折というものは、私たちの経験するそれとは比べものにならないものだったに違いありません。私たちが彼らを尊敬すべき点は、どんなに大きなことを成し遂げたかということではなく、波瀾万丈の人生の中で、いかに与えられた賜物に忠実であったかということこそあります。

 おそらく、私たちの多くは1タラントンの賜物を戴いている主の僕ではないかと思います。しかし、私たちは2タラントンもらっている人の真似をしようとしたり、5タラントンもらっている人の才能をうらやんだり、自分には何もできない、自分は無価値な人間だとひがんではいないでしょうか。主が期待しておられるのは、人と同じ事をすることではありません。自分の力以上に大きな事をすることでもありません。自分の賜物に忠実に、そして精一杯に生きることなのです。

 ある人が、五歳の男の子に「大きくなったら何になりたいの?」と聞きました。すると、男の子は「僕は大きくなっても何にもならないよ。僕は僕になるんだよ」と答えたそうです。この話を聞いたとき、私は、娘がやはり五歳の頃、「大きくなったら何になりたいの?」という問いに、「ブタさんになりたい」と答えたのを思い出して、思い出し笑いをしてしまいました。「僕は僕になる」と言った男の子は、そんなに深い意味でいったのではなく、自分は大きくなっても豚になったり、犬になったりはしないというぐらいの意味でいったのでありましょう。

 しかし、「僕が僕になる」というのは、実に味わいのある言葉だと思うのです。私たちは、本当に自分が成りうる自分になっているでしょうか。神様は、私たちに賜物を与えてくださいました。そこから私たちの人生が始まっていると言ってもいいでしょう。だとすれば、私たちの人生の目的は、神様の与えてくださった賜物、そして神様の期待と信頼に応えて、神様が望んでおられる自分になっていくことなのです。他人のようになることではありません。自分のなり得ない自分になることでもありません。しかし、自分のなり得る自分になっていくことが求められているのです。
決算の時
 そのことが、神様に問われる日が来ます。聖書にはこう書かれています。

 「さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。」

 「かなりの日がたってから」とう言葉には、いろいろな意味が読みとれます。一つには、賜物を生かすための十分な期間があったということが言われているのでありましょう。また、ご主人が旅に出てあまりにも長い年月が経ったので、もうご主人が帰ってくるということを忘れかけていたという状況も考えられます。おそらく、その両方の意味が込められているのではないでしょうか。

 つまり、神様が留守なのをいいことに、神様あっての人生ということを忘れていると、いつかたいへんなことになるぞ、という警告のお話なのです。もっとはっきりと言えば、終末についての話であります。今、私たちは、神様の裁きなどと言ってもピンとこないかもしれません。あまり現実的なものに聞こえないと思うのです。神様の裁きなんてないんだという世の人もいる。しかし、必ず主の日が来ます。その日、私たちは、自分の人生について申し開きをしなくてはならないのです。

 「まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」

 ここで、注目すべきは、五タラントンの人も、二タラントンの人も、まったく同じ言葉で、一言一句違わない言葉で、主人からねぎらわれているということです。五タラントンの人は十タラントンを主人にお返し、二タラントンの人は四タラントンを主人にお返ししました。その差は六タラントンです。しかし、この主人はそんなことはまったく気にかけません。どちらの僕に対しても、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」と言うのです。このことからも、賜物の大小は関係なく、自分に委ねられたものに忠実であるということが、私たちの人生に神様が期待しておられることなのだということがおわかりになると思うのです。

 しかし、1タラントンを預かった人は、他の二人とは違いました。主人から預かった1タラントンをそのまま持ってきて、こう言ったというのです。

 「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」

 この僕は、主人から預かった1タラントンを、そっくりそのまま土の中に埋めておいたのでした。そのことに対して、主人は「お前がそんな風にすると分かっていたら、銀行に預けて置いたほうがマシだった」と怒ります。もちろん、主人は利子が欲しくて、こんなことを言っているのではないのです。この僕が力一杯に生きなかったことを残念に思い、また厳しく叱っているわけです。
冒険も必要
 1タラントンを預かった僕に足りなかったのは、神様への信頼ではなかったかと思います。彼はこう言います。

 「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました」

 この僕は、主人がおそろしかったのです。自分が失敗をして、預かったお金を失ってはたいへんだと心配ばかりをしていたのでした。そして、きっちりと1タラントンを守って、ご主人に返したのですから、ある意味ではたいへん真面目な人だったのではないでしょうか。

 しかし、真面目と言えば、イエス様が厳しく批判なさった律法学者やファリサイ派の人達も、実に生真面目な人達だったのです。しかし、その真面目さは、神様に叱られないように、叱られないようにとする非常に消極的な動機から来るものだったのではないでしょうか。しかし、人間というのは罪を犯さないで生きることはできません。何一つ落ち度のない生き方というのはあり得ないのです。

 しかし、神様はこのような私たちを赦し、愛し、さらになお私たちに賜物を与え、私たちの忠実さに期待してくださっているというのです。その神様の御心は、私たちが万が一にも罪を犯さないような生き方をすることではなく、神様の愛と赦しの中で喜びをもって、感謝をもって生きて欲しいということにあるのです。それを物語っているのが、「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」というイエス様のご降誕でありますし、十字架なのです。

 つまり、神様あっての人生とは、賜物を委ねられているということだけではないのです。この世界に、また私たちひとりひとりの人生に対して、イエス様が与えられています。つまり、期待と信頼だけではなく、赦しと救い、愛と恵みが私たちに注がれているのです。神様あっての人生は、イエス様あっての人生でもあるのです。神様の裁きをいたずらに恐れるのではなく、イエス様を与えてくださった神様の愛を信じて、時には大胆さをもって生きること、自由さをもって生きること、それが神様あっての人生、イエス様あっての私たちの人生なのです。

 1タラントンとは言え、それはかなりの財産であると、最初に申しました。私たちは決して背伸びをする必要はありませんし、人の真似をする必要もありません。しかし、神様の御心を信じて、自分というものにもっと挑戦してみてもいいのではないでしょうか。過ちや失敗をおそれることなく、もっと自由さをもって、感謝をもって、生きることが大切だ、そんな風なことも教えられる、イエス様の譬え話だと思います。 
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