十人のおとめの譬え(火曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書25章1-13節
旧約聖書 歴代誌下12章1-12節
「すでに」と「やがて」の間で
 今年もアドヴェント・クランツにロウソクが点りました。ご覧のように、クランツには四本のロウソクがありまして、日曜日ごとに一本ずつ火をともしてまいります。四本のロウソク全部に火がともると、神の御子イエス様があもり給う日、クリスマスが来たことを知らせてくれるのです。

 ご家庭では、アドヴェント・カレンダーというものをお使いの方もいらっしゃるかもしれません。いろいろなアドヴェント・カレンダーがありましょうが、よくあるのは日付のところが扉になっていまして、その小さな扉を開くとまもなくイエス様がいらっしゃることを知らせる聖書の言葉や、それにまつわる小さな絵がかかれているのです。子供の頃、私も、いっぺんに全部あけてしまいたいとはやる心を抑えて、毎朝一ずつ扉を開けて、ああ今日はこの絵か、こういうお言葉かと、楽しみにしながら、アドベントを過ごし、クリスマスを待ち望んだ覚えがあります。

 しかし、アドヴェントというのは、クリスマスが来る日を子供のように待ち望むだけの季節ではありません。実は、クリスマスというのは、待ち望むまでもなく、2000年前にすでに来ているのです。イエス様は来てくださいました。そのことについて、聖書はこう告げています。

「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」(『テトスへの手紙』2章11節)

 神の恵みは、すでに現れたのです。それが2000年前の、あのクリスマスです。「神はその独り子を賜うほどに世を愛された」とも告げられています。その神様の愛、恵みは、今もこの世の中に働いているのです。

 その恵みをしっかりと受けとめて、その上でさらに尚、私たちには待ち望むものがあるわけです。それは主の再臨です。イエス様は、世を去られるとき、二つの大事な約束をしてくださいました。一つは、インマヌエルの約束です。イエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(『マタイによる福音書』28章20節)と言われました。たとえ天にお帰りになっても、イエス様は私の友であり、主であり、救い主であるということであります。

 天にお帰りになったならば、やはり私たちから遠く離れていらっしゃるということも、事実であります。しかし、イエス様はご自身の御霊を私たちに注がれることによって、私たちの心の内に、外に、霊なる御方として共にいてくださるのです。それがインマヌエルの約束です。

 もう一つの約束は、再臨の約束です。イエス様は「わたしは去っていくが、また、あなたがたのところに戻ってくる」(『ヨハネによる福音書』)と言われました。あるいはまた、こうようにも告げられています。

 「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(『ヨハネによる福音書』14章2-3節)

 イエス様は、用意ができたならば、再び戻ってこられて、私たちを迎えに来てくださると、約束してくださっています。これが再臨の約束です。

 わたしたちはこうして、「イエス様が来てくださった」という恵みと、「再び来てくださる」という望みの間に生きているわけです。それはどういうことでしょうか。私たちはいろいろとこの世の悩みの中に生きています。しかし、どんな辛さの中にあっても、忍耐と希望をもって生きることができるということなのです。「イエス様はすで来てくださった」という恵みが私たちの足許を支え、踏ん張ることのできる人間としてくださいます。「やがてイエス様は来てくださる」という望みが私たちの行く先を明るくし、何事も前向きに考えることができる人間としてくださるのです。

 アドヴェントとは、クリスマスの準備をしつつ、「イエス様が来てくださった」という恵みによって私たちが生かされていることを感謝しつt、冬至に「イエス様は再び来て、私たちを迎えてくださる」というお約束を覚えて、私たちの待ち望む生活を新たにされる時なのです。
十人のおとめの譬え
 さて、私たちはイエス様のご生涯の学びをしております。その学びは、イエス様が十字架におかかりになる三日前のところまで来ました。この日、イエス様は神殿で、ユダヤ教のお偉方と議論をした後、オリーブ山で弟子たちに終末についての説教をなさいます。先週はそのことについて学んだのですが、『マタイによる福音書』によれば、さらにイエス様は終末について三つの譬え話をなさっています。それが25章にかかれているのでありまして、今日は「十人のおとめの譬え」をお読みしました。

 十人のおとめがともし火を手にして、花婿が来るのを待っていました。どこで待っていたのでしょうか。ユダヤでは、花婿が花嫁を迎えに来て、そこでまず祝宴を開きます。それから、花嫁を伴って花婿の家に行き、そこで再び盛大な婚宴が開かれるということになっていたそうです。その時に、花嫁の家で、花婿を迎える役目をしたのが十人のおとめだったのです。

 おとめたちがともし火を手にしていたということから考えますと、花婿の到着は初めから夜になると分かっていたのでありましょう。ところが、思わぬ事態が起こりました。花婿の到着が大幅に遅れたのです。十人のおとめたちは、十人とも待ちくたびれて眠り込んでしまいました。

 どのくらいの時間が経ったのでしょうか。真夜中になって、「さあ、花婿だ。迎えに出なさい」と大きな呼び声がしました。十人のおとめたちは一斉に起きて、ともし火を整えました。五人のおとめたちは、不測の事態に備えて予備の油を壺に入れて用意していましたから、問題はありませんでした。しかし、油を用意していなかった他の五人のおとめたちのともし火は今にも消えそうで、ただくすぶるばかりです。

 彼女たちは、油を用意していた思慮深いおとめたちに、「少し油を分けてくださいませんか。私たちのともし火は今に消えそうなのです」と頼みました。しかし、思慮深いおとめたちは「ごめんなさい。あなたたちの分まではないわ。それよりも、お店に行って、自分の分を買ってきたらどうかしら」と答えます。五人のおとめたちは急いで油を買いに行きました。けれども、その間に花婿がいらっしゃり、油を用意していた五人のおとめたちと花嫁の家に入り、戸が閉められました。

 あとになって、油を買いに行っていたおとめたちが戻ってきて、「ご主人様、ご主人様、開けてください」と叫びました。しかし、「あなたたちは誰だ。私はあなたがたのことなど知らない」と言って、戸を開けてくださらなかったというのです。

 ここで語られている花婿とは、イエス様のことに違いありません。世の終わりに、イエス様は花嫁を迎えるために、再び世に来てくださるのです。その花嫁とは誰のことか。胸をときめかせたり、今か今かと首を長くしたりして、花婿の到着を待ち望んでいる花嫁とは、教会のことなのです。ただし教会というのは一人の人間ではなく、「神の民」という集合人格でありまして、実際に花婿を待っているのは教会につながって信仰生活を送っている私たち一人一人だと言っても良いと思います。

 ただその場合、すべての人を同じように言って良いのか、という問題があるのです。イエス様は、花婿を待つ私たち一人一人を十人のおとめに喩えられました。そして、「そのうち五人は愚かで、五人は賢かった」と、たいへんあからさまな言い方をなさったのです。そして、結末を見ますと、愚かな五人は花婿を迎えることができなかったと言われています。これはたいへん厳しいお話しでありますが、クリスチャンだからといって、すべての人がイエス様をお迎えすることができるとは限らないということがここで言われているわけです。

 こういう譬え話を読みますと、「もしかしたら、私は救われないのではないか」という不安が心をよぎるような方もあるのではないでしょうか。イエス様は、このあと立て続けに二つの譬え話をなさいました。タラントンの譬え話と、羊と山羊を分ける譬え話で、やはり終わりの日の裁きが語られています。イエス様は確かに私たちに警告を発しておられるのです。あなたの信仰生活はそれでいいのか? 終わりの日が来たときに慌てることがないものになっているのか? もう一度よく考えてみなさいということです。そういう意味で、はからずもアドヴェントの第一日曜日にこの譬え話を学ぶことになったのですが、今日は本当に主を待ち望む季節にふさわしいみ言葉が私たちに与えられているのです

 この譬え話から、豊かなメッセージを汲み取ることができると思いますが、今日は的を絞って幾つかのことを共に分かち合いたいと思います。
油断大敵
 まず「花婿が来るのが遅れた」ということです。考えてみますと、十人のおとめたちは、愚かな五人も含めて、花婿が来ることを信じ、本当に楽しみに待っていたと思うのです。その点においては、愚かなおとめも賢いおとめもなく、みんな同じだったのです。しかし、思いがけないことが起こりました。もし、花婿が予定通りに到着したのなら、愚かなおとめたちが油を切らして困るようなことはなかったでしょう。そして、賢いおとめたちと一緒にともし火をかかげて、喜びをいっぱいにして花婿を迎えることができたに違いないのです。

 そう考えますと、問題はおとめたちの賢さとか、愚かさではなく、「花婿が遅れた」ということにあると言えないでしょうか。つまり、予定外のことだったわけです。みなさんも、さっきまで家にいたのに、たまたま買い物に出た時に大事なお客さんがいらして残念な思いをしたことがあるのではないでしょうか。あるいは、昨日ならばお部屋もきれいに片づいていて、丁度良いお茶菓子もあったのに、たまたま散らかっている時に、そして何もない時に、お客様がいらして慌てたことがあるかもしれません。要はタイミングの問題でありまして、愚かなおとめたちにしましても、そのように非常に間の悪いときに、花婿がいらしてしまったのです。

 イエス様は、このようなお話しを通して、非常に大事なことを教えてくださっています。それは、主が来てくださるにはいつか、それは誰も分からないということです。

 「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(13節)

 私はこの譬え話を読んで、「油断大敵」という言葉を思い起こしました。油断というのは、注意を怠ることです。たまたま鍵をかけわすれた時に泥棒に入られた。たまたま火を消し忘れて火事になってしまった。いつもは気をつけているのに、たまたまうっかりすることがあるのです。しかし、うっかりでは済まされないような出来事が、その時に起こることがあるのです。それを油断大敵といいます。

 どうして油断というのでしょうか。油を断つことがないように怠るなという意味でしたら、まるでこのおとめたちのためにあるような言葉ではありませんか。気になってちょっと調べましたが、語源はよくわかりませんでした。なんとなく想像できるのは、昔は油というのは、いつも切らさないようにしておくのが当たり前のことだったのではないでしょうか。その当たり前のことを怠ってしまうと、たいへんな目に会うことがある。それが油断大敵ということなのではないでしょうか。

 いずれにせよ、イエス様は信仰生活の油断ということを戒めておられるに違いないのです。油断というのは、たいへんな時よりも、平和なときに犯すミスです。信仰生活もそうでありまして、試練の時にはどんな人も神様を呼び求めて生活をするのです。しかし、平和な時、私たちは神様を呼び求めるのを忘れ、信仰がお留守になってしまうこと危険があるのです。

 ダビデがバテシェバと姦淫をするという大罪を犯したのも、自分のやることなすことがすべてうまくいき、心が平和な時でありました。ダビデは、アンモン人との戦いのためにイスラエルの全軍を指揮官ヨアブに任せて出陣させました。しかし、勝利は目に見えています。ダビデは王宮に留まり、昼寝をし、またのんびりと散歩をしていました。その時、水浴びをしているウリヤの妻であるバトシェバに目がとまり、やましい心にかられて姦淫の罪を犯してしまったのでした。本当にダビデらしからぬことです。しかし、それが油断というものなのです。 
油を備えておく
 ただし、信仰生活における油断ということを、もう少しきちんと理解しておく必要があります。「今日、イエス様が来るかも知れない。明日来るかも知れない」と、毎日大騒ぎして、気を抜くことができない日々を生きるのが、信仰生活ではないのです。私たちは人間なのですから、そんなことは無理であると言ってもいいでしょう。実際、イエス様はこのように語っておられます。

 「ところが、花婿が来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった」

 愚かな五人だけではなく、賢い五人も、みんな寝てしまったと、イエス様は仰っておられるのです。待ちくたびれて寝てしまうというのは、人間の避けられない弱さです。十字架の前夜、イエス様が血の滴りのような汗を流しながら祈っておられるそばで、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは眠り込んでしまったという話しがあります。イエス様は、彼らを起こし、「心を熱しているが肉体が弱いのである」と仰いました。イエス様は、こういう人間の弱さをというものを十分に分かった上で、信仰者が気をつけて生きるとはどういうことかということを教えてくださっているのです。

 大切なのは眠らないことではありません。いつも隙のない生活をするということは不可能です。私たちの霊的な状態がいつも同じ高さを保ち、熱心さに燃え続け、冷めることなく、迷うことなくあるというのは不可能なのです。そういう時に、イエス様が迎えに来るということは十分にあり得るのです。しかし、まだ大丈夫です。その時には「花婿だ。迎えに出なさい」と、私たちを呼び覚ましてくださる大きな声が聞こえると言われています。いつ来るか分からないけれども、来た時にはちゃんとそういうみ声が私たちを呼び覚ましてくれるのです。

 それを聞いても目を覚まさないほど深く眠り込んでいたら話しは別ですが、イエス様の譬え話の中では愚かなおとめたちも、賢いおとめたちも、目を覚まします。ここまで愚かなおとめたちも、賢いおとめたちも変わりはないのです。目を覚まして、ともし火を見るとほとんど消えそうになっています。その時、はじめて愚かなおとめたちと賢いおとめたちの違いが出ます。

 「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。」

 大切なのは眠らないことではなく、この予備の油を持っていたかどうか、それが分かれ道なのです。油をもっているとは、どういうことか。油とは、私たちの信仰の火を再び燃やす油です。それは何でしょうか。

 ここにはっきりとは記されていませんが、それは主の血であると言って良いと思います。主の血によって、私たちの罪は赦されます。主の血によって、私たちは神様と和解させていただきます。主の血によって、私たちは清められます。主の血によって、私たちは神の子としての命が与えられます。

 み言葉にはこう記されています。

「永遠の"霊"によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(『ヘブライ人への手紙』9章14節)

 キリストの血が、私たちを眠った良心を目覚めさせ、生ける神を礼拝する真の礼拝者にしてくれるのだと、言われています。主の血が注がれることによって、私たちは神の子供らとして、神の僕らとして、新しく生まれ変わるのであります。

 少し違った言い方をしてみましょう。私たちは居眠りをしてしまう人間です。神様の招きを忘れ、身恵みを離れて、罪深さの中にさまよい出てしまう人間です。何度決心しても、それを自分で破ってしまう意気地のない人間であります。私たちは、この世にあって弱き肉をまとって生きている限り、そういう弱さ、愚かさを持たない人間になることはできません。しかし、自分がそういう人間であるということを知っている人と、それを知らなで生きている人がいるのではないでしょうか。

 愚かなおとめたちというのは、そういう自分の弱さや愚かさを知らないで、自分が強くて賢い人間だと思っている人たちなのです。自分のしていることに自信があるから、予備の油など必要ないと考えてしまいます。逆に、賢いおとめたちというのは、自分が愚かで弱い人間であることを知っている人達です。自分や自分の予定などは当てにならない人間だとよく知っているのです。だから、用心深く予備の油を用意して起きました。

 大切なことは、眠らない人間になることではなく、自分は眠ってしまうかもしれない人間であるということを知る人間になることです。私たちの信仰生活はいつも同じような状態ではないかもしれないのです。しかし、私たちは主の十字架の血に清められることなしに生きられない人間であるという打ち砕かれた心、謙遜さをもって、主の恵みに拠り頼み続けるならば、私たちのいかなる弱さにも関わらず、主の恵みの力によって、主が来られた時、信仰のともし火を掲げて、主をお迎えすることができるでありましょう。
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