終末についての説教 <2>(火曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書13章3-37節
旧約聖書 創世記19章16-29節
この世の有様は過行くべければなり
 イエス様が十字架におかかりになる三日前のことです。その日は神殿で人々を教えたり、祭司長、律法学者、ファリサイ派といったお歴々たちの仕掛けてくる論争のお相手をなさったりして、ハードな一日をお過ごしになりました。そこから、イエス様は、エルサレムにいらした時の定宿であったベタニア村にお帰りになるわけですが、その途中のことです。イエス様はオリーブ山の頂からエルサレムを眺めつつ、弟子たちに世の終わりについてお話しをなさいました。それが、今日お読みしました「終末についての説教」であります。

 その前にまず、神殿の境内をお出になる時のことが書かれていました。弟子の一人が、名残惜しそうに神殿を振り、「先生、なんと素晴らしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」と声をあげました。すると、イエス様は、「君は建物なんかに感心をしているのか。建物というものはいつか必ず壊れるものだ。この神殿も例外ではない。一つの石も崩されずに残ることはないであろう」と、神殿崩壊を預言なったというのです。

 このことについては前にお話しをしました。一つは、イエス様の預言の成就ということであります。紀元70年に、独立を願うユダヤ人たちが蜂起し、ローマ軍に挑みます。しかし、圧倒的なローマの軍事力によって制圧され、その際、エルサレム神殿も破壊されてしまったのでした。しかし、それだけではなく、これは神殿礼拝の時代の終わりを告げ、新しい礼拝の時代の到来を予感させる御言葉でもあるということをお話ししました。それは、ここだけを読んでもなかなか分かりにくいのですが、イエス様の神殿に関するお言葉をあちこちから拾って考えてみますと、そのように言えるのです。

 神殿礼拝というのは、起源を辿ればモーセの時代の幕屋礼拝から始まっています。モーセがシナイ山で神様から十戒を受け取ったということは有名な話しですが、もう一つ、神様への礼拝の仕方について細かな指示を受け取ったのです。その中には、「会見の幕屋」と言われる移動式聖所の作り方や神殿祭儀にも受け継がれていく祭司制度や犠牲の捧げ方についての細かな指示がありました。その「会見の幕屋」が形を変えたのが神殿なのです。

 その1400年に及ぶユダヤ教の礼拝の歴史が終わる時が来る、それは旧約時代の終わりであり、新約時代の幕開けということと言ってもよいでありましょう。イエス様はそのような意味も含めて神殿崩壊を予告なさったのであります。

 しかし、この時、弟子たちがイエス様のお言葉を真剣にお受け止めることは非常に難しいことだったと思います。神殿は崩壊する。時代が変わる。形あるものが永遠に同じ形をとどめているということはありません。そういうことは、理屈では分かるのです。しかし、世の中は平和でした。ローマ帝国の支配下にあるものの、それに甘んじてさえいれば、実に平和な世の中だったのです。そんな時に、神殿が崩壊する大事変を誰が想像できるでしょうか。

 私たちもそうです。頭では、今の平和な生活が決して永遠のものではないということが分かっているのです。しかし、そのことを自覚的に生きているかということになりますと、なかなか難しいことではないでしょうか。たとえば、明日にでも住む家が失われるかも知れません。愛する家族、あるいは自分の命が失われるかもしれません。けれども、そんな風に言うと、「そんな縁起でもないことを言わないでください」と思ってしまうのです。話しとしては確かにそうだけれども、そんなことは考えないで生きている方が良いということなのです。

 本当にそうでしょうか。地震や火山で家を失ったり、家族を失ったり、命を落とした人達は、その直前までまさかそんなことが我が身に起こるなどとは考えてもいなかったに違いありません。そのようなことは突然、私たちに襲ってきます。そして、いつそれが襲ってきてもおかしくないのです。ですから、私たちはこういう災害や事件を知るたびに、それを自分自身に対する警告として受けとめ、身を引き締めなくてはいけないと思うのです。私たちは終わりの世を生きているのです。

 終わりの時、それは明日にでも世の中が終わるということではありません。終わりの日が近いとか、遠いとか、そういう意味の徴ではなく、「この世の有様は過行くべければなり」(文語訳 『コリントの信徒への手紙1』7:30)とパウロは言ったように、私たちが今生きているこの世というのは、いつか終わるときが来るのであって、決して永遠のものではないのだということを教えてくれる徴なのです。
終末を生きる
 さて、神殿崩壊の予言をなさったイエス様は、エルサレムを離れベタニア村に向かわれました。そして、その途中、オリーブ山の頂からエルサレムを眺望し、弟子たちについて終末についての説教をなさったのです。

 その時、最初に語れたのが、今申しましたその「終末の徴」ということです。偽メシアの出現、戦争、民族紛争の騒ぎ、地震、飢饉、迫害、これらの終末の徴はすべて、私たちの世にすでに現れています。やはり、私たちは終わりの世の混乱の時代を生きているのです。その混乱と不安に満ちた時代を、暴力や破壊的な力が荒れ狂う時代を、私たちがどのように生きたら良いのか。それがこの「終末についての説教」の中で、イエス様がおっしゃりたいことの一つなのです。

 第一に、イエス様は、慌ててはいけない、惑わされてはいけない、取り越し苦労をしてはいけない、うわさを信じてはいけないとも仰いました。特に強調されているのは、「気をつけなさい」ということです。これは5節、9節、23節、33節と、イエス様がこの終末の説教全体の中で繰り返しお語りになっていることなのです。中でも9節がすべてを言い表しているのではないでしょうか。

「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。」

 終末的な混乱を呈する世の中で、最も大きな危険は自分を見失うということです。いろいろ出来事が起こります。悲しく、辛い出来事が、私たちの魂を揺さぶるようなこともあります。しかし、そういう時に、絶望したり、やけを起こしたり、神様を呪ったり、信仰を捨てて他のものに救いを求めたりしないように、自分自身に気をつけなさいと、イエス様は教えられるのです。逆にいうと、それほどの辛い出来事が私たちを襲うかも知れないのです。

 けれども、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」というイエス様の言葉を忘れてはなりません。「天地が亡びても、私の言葉は決して亡びない」という、イエス様の約束を忘れてはいけません。信仰を堅く保ち、どんな辛い日にも、神の救いの日が訪れることを信じ続けよと、イエス様は私たちを励ましてくださっているのです。

 それから、イエス様は、ただじっと涙を堪えて、我慢をして、苦難が過ぎされるのを待てと言っておられるのではありません。自分を見失わないによう気をつけよということの意味は、そういう中にあっても、神様があなたに与えておられる人生の使命、課題というものを見失わないようにしなさいということでもあるのです。7節にはこう言われています。

「慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」

 まだ終わりではない、という言葉が大事です。終わりの時代を生きてるのですから、当然、私たちの身には終末的な出来事がふりかかってくるのです。どんな辛いことがありまして、私たちが神様に生かされている限り、私たちの人生は終わりではないのです。たとえ手足をもがれようとも、もし私たちが神様に生かされているならば、それには意味があります。あなたをこの終わりの時代に生かし給う神の目的があるのです。

 それは10節で言われていますように、「福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」ということにほかなりません。皆が牧師になるわけではありません。皆が説教をするのではありません。しかし、私たちはそれぞれ神様に与えられた生き方をもって、時が良くても悪くても、相手が良くても悪くても、すべての人に、すべての機会を通して、神様の愛と、イエス様の救いと、来るべき御国を証しなければならないのです。

イエス様はさらに重ねてこう言われました。

 「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」

 使命に生きると言っても、私たちが何か人に対して素晴らしい働きをしなくてはいけないということではありません。人に伝えようとして、特別な苦労をする必要はないと、イエス様はおっしゃるのです。ただ私たちは自分の人生を神様にお捧げすれば良いのです。それは言い換えれば、神様が私たちにお与えになった苦労や、病や、悲しみを、そのまま受け入れるということであります。喜んで受け入れるということは難しいでありましょう。しかし、被害者として受け入れるのではなく、神様の為し給うことには必ず意味があるということを信じて、信仰を持ってそれを受け入れるのです。

 母マリアが、御使いガブリエルに言った言葉を思い起こしてもよいかもしれません。

 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(『ルカによる福音書』1章38節)

 このように、私たちが自分の人生を神様に明け渡す時、聖霊が私たちの人生のうちに働き、私たちを証し人としてくださるのです。
ハッピーエンドとは限らない
 もう一つ、大事なことがあります。私たちは神のものであって、この世に属する者ではないということです。

 この終わりの時代にあって、私たちは滅び行く世の力というものを感じるでありましょう。この世と、この世に属する者はすべて滅び行きます。それが終わりの日です。しかし、イエス様は「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われました。私たちは、イエス様によって贖われ、神の子、神の民とされたのでありますから、この世と共に滅ぶことはないのです。

 滅びの力は決して小さなものではありません。本当に終わりの日が来た時に、うっかりしていれば、私たちは押し流されてしまうかもしれません。だからこそ、イエス様は、しっかりと信仰に踏みとどまりなさいと、励ましてくださっているのです。

 14-23節には、その終わりの日が来た時のことが記されています。その中で、私たちが心に留めなくてはならないのは、「山に逃げろ」というイエス様のお言葉なのです。この世に、私たちの使命があると申しました。しかし、それもこの世が存在する日までの話しです。それまでは揺らぐことなく踏みとどまり、どんな苦難にも耐えて、あなたの務めを果たしなさいということなのです。

 しかし、終わりの日が来たならば、それも終わりです。その時には逃げなさいというのです。しかも逃げるときには、何もかも捨てて、決して後戻りせずに、振り返らずに逃げなさいと仰います。これは、私たちがこの世に対する未練や執着を振り払って、ただひたすら神様のもとに走れと言うことなのです。

 私たちは、世に生きているのですから、この世に有形無形の大切なものを持っているでしょうし、それは少しも悪いことではありません。しかし、この世でどんな大切なものでありましても、それはこの世限りのものなのです。終わりの日が来たならば、この世のことは一切が終わります。この世の富や名声はもちろんのこと、家族の絆すらも終わりを告げます。
もし、私たちがこの世における幸せや平和ということを救いの最終目標としているならば、この世には決してハッピー・エンドはないということを知らなければなりません。

 「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。」

 イエス様は、この世の楽しみや喜び、この世の幸せや平和を約束しておられるわけではないのです。そのことをあなたがたに前もって注意をしておくと、イエス様は言われました。

 「だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」

 しかし、この世におけるすべての問題が解決するというハッピー・エンドはないかもしれませんが、私たちには新しい日が来ることが約束されています。そこにある私たちの永遠の命、永遠の家族、永遠の喜びというものを約束してくださっています。そこに私たちの希望を持たなくてはなりません。

 イエス様が私たちに約束してくださったのは、この世ではなく、神の国なのです。私たちの望みと救いは神の国にあるのです。ですから、私たちは、この世に属する者ではなく、神に属する者とされたのだということを忘れないようにしなくてはならないわけです。

 イエス様は、神様の御国に望みを持ち続ける者たちに、このように約束されました。

 「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 いつの日か、それは分かりません。

 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」

 ただ、このようにも言われています。私たちの苦しみやこの世に対する絶望が深くなればなるほど、その日は近いというのです。

 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」

 みなさん、救いはイエス様にあります。イエス様が何かをしてくださるということよりも、イエス様が私たちのところに来てくださるということにあるのです。

 神学生時代、私は自分が天国に入れないのではないかと思って、苦しみ悩みました。一人で悩んでいることに耐えきれなくなって、ついに牧師に自分の罪を打ち明けました。すると、牧師は「キリストを見なさい」と、実に簡単なアドバイスをくださったのです。

 ところが、これこそが問題でありました。キリストを見るとは如何なる事なのでしょうか。どこを見れば良いのでしょうか。私は、毎日祈り、御言葉を学んでいるのにもかかわらず、キリストがどこにいるか分からないし、キリストを見ていない人間なのだと言うことに気づいたのです。

 それから、私はキリストは本当にいるのかどうかという問題で悩み、苦しむようになりました。自分の罪の問題よりも、はるかにそのことの方が重要な問題でした。なぜなら、キリストがいるならば私の罪をキリストによって清められることでありましょう。キリストがいないのならば、いずれにせよ、私は罪のうちに滅ぶしかない人間だと気づいたからです。

 私は、寝ても覚めて、キリストの名を心で呼び続けました。静かな場所を探して、1時間でも、2時間でも「イエス様、あなたの姿を私に見せてください」と祈り続けました。そんな苦しい祈りの日々が何ヶ月か続きました。そして、ある日、私はついにイエス様を見たのです。

 イエス様を見たと言っても、物を見るように見たわけではありません。しかし、私の心には実にはっきりと、天国の門が見えました。そして、そこで私に向かって両手を広げてくださっているイエス様の姿をはっきりと見たのでした。

 それを見たとき、私の悩みは消えました。もちろん、今でもしばしば悩みます。けれども、私はあの時のイエス様の姿を今もありありと思い起こすことができるのです。そして、「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に勝っている」という御言葉が、私の心を励まし、力づけてくれます。

 この世で悩みがあるのは、当たり前です。この世には、この世を滅ぼす憎むべき破壊者の力が働いているからです。しかし、私たちはこの世の属する者ではありません。イエス様によってこの滅び行く世から救われ、神の子、神の民とされたのです。いつか、必ずイエス様は来たりて、私たちを迎え入れてくださいます。

 その日は必ず来るのですから、どうぞ皆さん、終わりの日まで確信を持ち続けようではありませんか。 
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