終末についての説教 <1>(火曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書13章3-37節
旧約聖書 哀歌3章25-37節
聖徒の日
 今日、11月の第1日曜日は、私たちの教会では「召天会友記念礼拝」と呼んでおりますが、一般的には「聖徒の日」として、広くプロテスタントの諸教会で守られている日であります。

 要するに亡くなった方々を、教会の兄弟姉妹たちを覚えて礼拝する日でありまして、キリスト教版のお彼岸の日と言えなくもありません。もちろん、まったく同じと言うことではなくて、キリスト教には仏教とは違う死者に対する考え方、信仰というものがありますから、そのことを大切にして、この日を守らなければならないと思うのです。

 特に気をつけたいことは、キリスト教では死者のために成仏を祈るとか、供養をするという考え方がないということです。死者の魂はすでに神様の御手の中に抱かれているのでありまして、それを信じることが私たちの信仰なのです。だから、死んだ人のために私たちが何かをしてあげなくてはならないという考え方は、キリスト教にはないのです。「聖徒の日」というのは、私たちが死者のためにお祈りをしてあげる日ではなくて、むしろ逆に今は神様の御許にある聖徒たちによって、私たちが天国への希望を新たにされ、励まされる日ではないかと思うのです。

 「聖徒の日」といいますと、聖人と言われるような特別に立派だったクリスチャンのことを覚える日かと思う人がいらっしゃるかもしれませんが、決してそうことではありません。立派であろうがなかろうが、イエス様によって救われた者は皆、神の聖徒たちなのであります。

 かつて私たちは、神を神とも思わない生活をしてきました。それゆえに神なき、望みなき、また掟なき生活をしてきたのです。このような私たちを憐れんで、イエス様は私たちの罪から清め、神様と共にある新しい生き方を与えてくださいました。それは、神様を礼拝する生活であり、神様の御言葉に学ぶ生活であり、聖霊を受け、神様の愛と祝福の中で祈り、感謝し、喜び、望みを持って生きる生活です。聖徒とは、このようにイエス・キリストの御救いに与って、滅び行く生活から、神と共にある新しい生活へと招き入れられたすべてのクリスチャンのことを指す言葉なのです。

 この悩み悲しみの絶えない地上の生活にあって、私たちは神の聖徒として、どんな時にも神様を礼拝し、御言葉を尊び、神様の愛と祝福を信じて、望みある人生を生きることがゆるされております。そればかりではありません。神の聖徒としての新しい生活の最も価値あることは、その生活が死によって終わるものではないということにあるのです。死においても、私たちは救い主イエス様と共にあり続け、天の御国においても神我らと共にいますという永遠の命に生きることが約束されているのであります。

 「死んだ後のことなど誰も分からないし、考えても意味がない」という人もあるかも知れません。確かに、聖書を読んでも、死んでからどうなるかということが逐一明らかになるわけではありません。むしろ、分からないことはいっぱいあるのです。けれども、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」(『ヨハネの黙示録』14章13節)と言われておりますように、死後の幸い、死後の希望というものを信じていいのだということが、聖書には力強く語られているのです。

 このような死後の希望があるかないかで、私たちのこの地上での生き方は大きく変わってしまいます。

 この地上の生活は、この地上の生活だけで計ったら、帳尻の合わないことばかりです。悪い人や狡い人が得をしたり、栄えていたり、力をふるっていたりするかと思えば、正しく神を畏れ敬う人がこの世で苦労の連続であったり、没落したり、短命であったり、弱者であったりするのです。

 もし、死後の生活ということを考えないなら、狡賢く立ち回って、いかに損の少ない生き方、得をする生きる方をするかということこそが、生きる知恵だということになるでありましょう。どうせ、この世限りの人生であるならば、少しでも苦労は少ない方が良いのです。

 そして、最後に「ああ、楽しかった」と言って死ねたら本望でありましょう。けれども、そんな風に願い通りに死ねる人は本当に少ないのでありまして、大抵は「俺の人生は損ばかりであった」とか、「苦労ばかりであった」とか、「いったい何のための人生であったのか」と、悔やみ、空しい気持ちに襲われて亡くなっていくのではないでしょうか。

 しかし、死後の希望というものがありますと、これがまったく違ってくるのです。生きる上で大切なことは、死後の希望につながるような生き方をすることです。今が楽しくても、後につながらなければ意味がありません。今を苦労しても、後に豊かな喜びを刈り取るような生き方をしたいと願う、それが希望のある生き方です。

 死んだ後も神様と共にあり続けるという希望を持つならば、たとえ悩みや悲しみの尽きないこの世でありましても、今だけのことを考えて狡く生きようということにはならないのです。どんなに辛いことがあっても、忍耐をもって、神様と共にある生活を守り抜こうとする。そこに希望があるのです。

 ですから今日、「聖徒の日」あるいは召天会友記念礼拝というのは、私たちこそ天の聖徒らによって励まされる日であると申し上げたのです。この地上での生活というのは、みんなが成功者になるわけではなく、みんなが長生きをするわけではなく、みんなが「ああ、楽しかった」と言えるわけではありません。苦労ばかりの人生を送る人もいますし、短い一生を送る人もおります。

 しかし、大切なのは、この地上の生活が長いか短いか、豊かであったか貧しかったかではなく、次の御国なる生活につながるものであったかどうかということにあるわけです。天の聖徒らを思い起こすとき、天の聖徒らはそのことを私たちに証しし、私たちのこの地上での生活を励ましてくれるのです。
終末の徴
 さて、今日は、この日のために特別に選んだ箇所ではなく、先週の続きということになりますけれども、この日の礼拝にふさわしい箇所だと思いましたのでそのまま読ませていただきました。

 これはイエス様の「終末についての説教」と言われる箇所であります。終末というのは、この世の終わりが来るということであります。それはこの世だけしか信じない者にとっては、まことに恐るべき日でありますが、来るべき日の希望をしっかりと持つ者にとっては、まことに希望に満ちた日であるということが、ここで言われているのです。

 先週は、イエス様が神殿の崩壊を予告されたというお話でありました。これがきっかけとなりまして、弟子たちが「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」と、イエス様に尋ねます。それに答えるような形で、イエス様の終末についての説教がなされたということになっております。

 まず、イエス様が語られたのは「終末の徴」ということであります。どんな徴があるかと言いいますと、

 第一に、偽キリスト、偽預言者の出現。
 第二に、戦争、飢饉、地震の騒ぎ。
 第三に、家族ですらも憎しみ合い、殺し合うこと。
 第四に、クリスチャンへの迫害、苦難。

 こういうことが見られるようになると言うのです。

 考えてみますと、それは今まさに私たちが世の中に見ていることではありませんでしょうか。戦争、テロ事件、大震災、家庭内暴力、幼児虐待、カルト宗教・・・イエス様がおっしゃったうような終末の徴は、すべて私たちの生きている世の中にあるのです。私たちは、終わりの時に生きているのです。

 しかし、すぐに世の終わりが来るということではありません。イエス様が仰っておられるのは、「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」(7節)、「これらは産みの苦しみの始まりである。」(8節)ということなのです。

 別の見方をすれば、戦争にしろ、地震にしろ、偽預言者・偽メシアの出現にしろ、いつの時代にも見られたことなのです。決して、ある日を境に急に世の中が騒がしくなるというわけではありません。イエス様が仰ったのは、いつの世にあっても、この世は終末の不安というものを潜在的に抱えていて、絶えずそれが表面に吹き出しているのだということではないでしょうか。

 このような終末の徴は、普段、私たちが忘れがちなことを思い起こさせてくれます。それは、世の中が決して永遠のものではないということです。平和な時というのは、ついそういうことを忘れて過ごしているかもしれませんが、先頃の新潟地震の生々しい被害の様子などを見ますと、いつ私たちの家が壊れ、自分自身が瓦礫の下に埋もれたり、家族が死んだりしてもおかしくないという不安がよぎるのです。しかし、そういう不安というのは新潟に地震があったから急に湧き出てきたものではなくて、もともと潜在的に私たちの内にあったものが、新潟の地震によって呼び覚まされたということでありましょう。

 イエス様が、終末の徴について語り、今まさに私たちのその終わりの時を生きているのだということを教えられたのは、そのような潜在的な不安というものを抱きながら、まったく無頓着にのうのうとし生きていて良いのだろうか、私たちに警告なさっているのです。
忍 耐
 それと同時に、慌ててはいけない、惑わされてはいけない、取り越し苦労をしてはいけない、うわさを信じてはいけないとも仰っておられます。特に強調されているのは、「気をつけなさい」ということです。これは5節、9節、23節、33節と、イエス様がこの終末の説教全体の中で繰り返しお語りになっていることなのです。

 無頓着でいてはいけない。さりとて、慌てふためいてもいけない。では、私たちはこの終わりの時代をどのように生きたら良いのでしょうか。この終末の説教の中で、いくつかのことが教えられていると思いますが、三つのことを取り上げてみたいと思います。

 第一は13節、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」との御言葉です。忍耐というと、私たちはすぐに我慢をすることを考えますけれども、我慢ではないのです。我慢というのは、その字から分かりますように、我を張り、慢心するという意味の言葉です。我を張り、慢心すればするほど、思い通りにならないことが多くなり、人とぶつかることも増えてきます。それで、仕方なく不平不満を抑えたり、怒りを抑えたりすることが多くなるのですね。我慢には希望がありません。

 しかし、イエス様のおっしゃった「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という言葉には希望があります。どんな希望かと言いますと、終末というのは破壊だけではなく、新しい創造の時であるという希望です。だから、忍耐が救いにつながると言うのです。

 この忍耐は、堅忍という言葉がよく当てはまるかと思います。それは、堅く立って、困難や試練をしっかりと耐えるということであります。不平や不満をいっぱい心にため込んで、ぶつぶつと言いながら我慢をするというのとは、質の違う忍耐なのです。どんな困難、試練が襲ってきても、救いの希望を持って、しっかりと踏みとどまること、何物にも動かされない強い心を保ち続けることなのです。

 香田証生さんが、イラクで残酷な殺され方をしたという事件がありました。その時に、クリスチャンであるご両親は、息子が色々な迷惑をかけたことをお詫びし、救出のために骨折ってくださったすべての人に感謝をし、そしてイラクの平和のために祈ると仰いました。それは決して言いたいことが言えない状況の中で、上っ面だけを繕った言葉とは思えませんでした。気が狂いそうになるような悲しみ、受け入れがたい現実を、本当に苦しみながら、しかし、しっかりとそれを受け取めて、そして神様への信仰をもって語られた真実の言葉であったと直観をしたのです。

 最後まで耐え忍ぶ者は救われるというのは、このような堅忍不抜の精神をもって、神様の来るべき救いの希望を持つ続け、動かされないということなのです。

 
山に逃げよ
 終末的な生き方として語らえている第二のことは、逃げるということです。14節にはこう記されています。

「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」(14節)

 「逃げろ」というのは、どんなことにも動かされないという堅忍の精神を持てということからすると矛盾をするように思えます。しかし、堅忍するにしろ、逃げるにしろ、共通しているのは無鉄砲な戦いをしないということなのです。

 それは非暴力とか、愛に基づく許しとか、そういう美しいことを言っているのではありません。終末というのは、神様による破壊と新しい創造です。それは徹頭徹尾、神様の御手の中にある出来事です。終末における破壊や亡びというのは、人間の手で押しとどめることができるようなものではないし、人間の力で新しい世界を作り出せるものではないのです。ただただ神様の為し給うことを見守るしかないのが、終末なのです。そういう日が来ます。そのときには、自分の力でなんとかしようなどと思わないで、憎むべき破壊者に巻き込まれないように、がむしゃらに逃げよということが言われているわけです。

 15節以下を読んでみましょう。

 「屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。」

 何かも捨てて、がむしゃらに逃げなさいということが言われています。身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸であるというのは、捨てようにも捨てられないものを持っているからです。冬に起こらないように祈りなさいというのは、冬というのは寒いから裸一貫で逃げるというわけにはいきません。できるだけ身軽になって、少しでも早く逃げられるように祈りなさいというわけです。

 私たちは、人生は戦いだと申します。その戦いに勝って、幸せと平和を勝ち取らなくてはならないと、多くの人が考えています。確かに、そういう一面があると思います。しかし、世の終わりが来たら、話しは別なのです。この世の戦いに勝って、名誉や、地位や、家や、車や、財産を築いても、終わりの日が来たならば、それはみんな滅び行くものでありまして、そんなものを未練がましくなお大事に守ろうとしていたら、あなた自身が一緒に滅んでしまうよ、とイエス様は仰っているのです。

 私たちは、お金も大切にしなくてはいけませんし、物も大切にしなくてはいけません。けれども、心のどこかで、いつかこれを捨てる時が来るということを忘れてはいけないのではないでしょうか。死んでも手放さないという執着というものは、終末的な出来事の中で、必ず自分の身を滅ぼすことになるのです。

 堅忍にしろ、逃げるにしろ、終末的な生き方というのは、どうも消極的で、悲観的な気がするのは確かです。イエス様が、世直しをしようとか、神のために闘おうと言ってくれれば、私たちの信仰生活も威勢がつくと思うのですが、忍耐しよう、それでもダメなら逃げだそうというのでは、信仰は奮い立つどころかだんだん滅入ってきてしまうのです。

 しかし、否定的なことばかりが語られている中で、ただ一点だけ、非常に力強く語られていることがあります。それが、第三のポイントで、31節の「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」という御言葉です。

 逆に言うと、終末という究極の時に、私たちがしっかりと立ち得る場所、また憎むべき破壊者から逃げて、逃れることができる場所というのは、イエス様の御言葉への信仰であるということなのです。それだけが確かであり、他の物はすべて滅んでしまうのだとイエス様は言われたのでした。

 これは確かに究極的な時、究極的な日のことをいっているのです。今、私たちは他にもいろいろと信じられるものを持つことができます。けれども、終末という究極の状況に耐えうるものは、イエス様の御言葉だけなのです。それこそが、この地上の生活においても、来るべき世の生活においても、私たちを守り、支え、救いとなるのです。
 
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