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今日もまた、世の終わりについての話であります。イエス様は十字架におかかりになる三日前、オリーブ山の高台からエルサレムを見下ろしながら、このことをとっぷりと弟子たちにお話になりました。
もう一度、イエス様のお話を振り返ってみますと、世の終わりの徴として、偽メシアの出現、戦争、民族紛争、地震、飢饉、迫害など、世を騒がす諸々の出来事が起こる。しかし、これはまだ世の終わりではない。世の終わりだと騒ぐ人たちがいても、あなたがたは慌てることなく、落ちついて、注意深く生活をしなさい。
これらのことの後に世の終わりが来る。その時には天体が揺り動き、あなたがたにも耐えられないような苦難が襲うであろう。その時が来たら後ろを振り向かず、山の上に逃げなさい。
そこに人の子(イエス様)が栄光を帯びて、天の雲に乗って現れるのを見るであろう。天のラッパが鳴り響き、天の軍勢が現れ、地の果て、天の果てから、選ばれた者たちを呼び集められる。しかし、このようなことがいつ起こるのか、それは誰にも分からない。あなたがたが予想だにしような時にも起こるだろうから、いつでも備えをして起きなさい。
そして、油を備えて、花婿を待つ乙女たちの譬え話。また、預かったタラントンを用いて働きつつ、主人の帰りを待つ僕たちの譬え話をなさったのであります。
このような話を聞いて、弟子たちはいったいどう思ったのでありましょうか。みなさんは、どうでありましょうか。イエス様のお話を信じないわけではないでしょうが、まだピンと来ない。自分との関わりとして考えにくい。遠い将来のお話のように聞こえるかもしれません。
しかし、うかうかしていてはいけないのでありまして、これは今は目に見えない神様が(だから、私たちはのんきに過ごしていられるのですが)、もはや見えざるお方ではなくなり、イエス・キリストがもはや隠れたお方ではなくなる時が来るということなのです。その時、どんなことが世界に起こるか、考えてみなさいということなのです。
今ある世界というのは、見えざる神様がこの世界を支配しておられるということを前提にしていません。私たち人間こそが支配者であり、罪を裁くのも、将来を築くのも、すべてが人間の手の中にあると考えているのです。もし、見えざる神様が見えざるお方でなくなったら、どうなるのか。もし、キリストが栄光に満ちて、私たちの目の前に顕れたらどうなるのか。権力の座にあって威張り散らしていた人間は、自分の力がいかに無力なものであるかに気づくでありましょう。神などいないといっていた科学者たちも、自分たちの知恵の浅はかさを恥じるでしょう。偉大とされていた宗教者、思想家も、自分は何も知らなかったと赤面し、言葉を失うでしょう。もし神様が出現なさったら、人間の築いた砂上の楼閣などたちまち崩れ去ってしまうのです。そして、まったく新しい世界が出現するに違いありません。
その時、その新しい世界を支配するのは、今のこの世で喜び、成功し、力をふるい、知恵を誇っている人々ではありません。この世の空虚さに、罪深さに悲しみ、悩み、ただこの世にではなく神様にこそ望みをおいていた人々だけが、つまり神様の栄光を知り、イエス様の祝福にこそ希望を置いて人々だけが、その日、その時、大きな喜びに包まれ、イエス様と共に新しい世界が出現することを拍手喝采をもって迎えることになるのです。
私たちクリスチャンというのは、この世にあって、そのように待ち望む民であるのです。
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最後の審判の時、いったいそのような焼き尽くす炎、徹底的な破壊をくぐり抜けて、どいうものが残るのか。もちろん、この世の富や名誉などは何も残りません。イエス様はこのような言い方をなさるのです。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」
人の子というのは、いろいろな意味がありますが、ここでは単純にイエス様のことであると考えたらよいと思います。今、世の中を支配しているものが何であれ、最後に勝利者として栄光をお受けになるのはイエス様だと言われているのです。
そして、イエス様が栄光の座にお着きになり、イエス様の支配する御国が来ます。その時、私たちがイエス様の恵みを受け、祝福を受ける者であるかどうか、そのことがはかられます。今、喜んでいるか、悲しんでいるかではありません。そのような刹那のことではなく、来るべき日に、喜ぶことが出来る者であるか、それともその時に悲しむ者であるか。そのことを考えて、今を生きることが大切なのです。
そのことをイエス様は、花婿を迎えるときに、灯火の油を用意していた乙女たちと、それを用意していなかった乙女たちの譬えをもって教えてくださいました。そしてまた、主人から預かったタラントンに忠実に生きた人と、それを土の中に埋めておいた人の譬えをもって教えてくださったのであります。 |
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そして今日、もう一つの譬え話を読みました。羊飼いが羊と山羊をより分ける光景が描かれていることから、「羊と山羊を分ける譬え」とも言われています。けれども、厳密に言うとこれは譬え話ではありません。終わりの日、イエス様が栄光の座にお着きになったとき、世界中の人たちがイエス様の御前に集められ、羊飼いが羊と山羊を左右ににより分けるように、集められた人々をはっきりとより分けられると言われているのです。
では、いったい何が羊で、何が山羊なのでしょうか。裁きの基準はどこにあるのでしょうか。十人のおとめの譬えでは、待ち望んでいたかどうかということが裁きの一つの基準となっていました。それは何に希望を置いて生きていたかということが問われるということでありましょう。またタラントンの譬えでは、与えられたものに忠実に生きたかどうかが基準となっています。それは神様のいますことを信じて、信仰に生きたかどうかが基準として問われているともいえます。
そして、イエス様はもう一つの裁きの基準を示されました。それは愛です。イエス様への愛に生きたかどうか、ということなのです。
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」
「お前たちは、わたしに○○○をしてくれた」と言われていますように、これは単なる人間愛ではありません。イエス様への愛が問われているのです。
では、イエス様を愛するとはどういうことなのでしょうか。それは、聖書を何十回読んだとか、教会を休まなかったとか、献金をたくさん捧げたとか、役員やいろいろな教会の奉仕を一生懸命にしたとか、そういうことではありません。それは大切なことです。しかし、誰にとっての大切なことでしょうか。イエス様のためというより、自分のためではないかと思うのです。私たち自身が、そのことによってイエス様の愛を豊かにいただくのです。
問題は、そのイエス様の愛にいかに応えて生きたのか、ということです。愛に対して、愛をもって応えたときに、はじめて堅い絆が生まれます。イエス様が私たちを愛してくださっていることは、何があっても間違いないことです。しかし、それだけではまだ絆とはいえません。私たちもまたイエス様の愛に応え、イエス様を心から愛して生きる時に、私たちとイエス様との堅い絆が生まれるのです。その絆によって、私たちに天国が保証されるのです。
使徒パウロは、その絆の揺るぎなさについて、このように語っています。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(『ローマの信徒への手紙』8章35-39節)
このような固い愛の絆でイエス様に結ばれるためには、イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちもイエス様を愛するということしかないのです。
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では、イエス様を愛するとはどういうことなのでしょうか。それは、私が愛した人々をあなたがたも愛することだと、イエス様はおっしゃるのです。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
イエス様を愛するとは、イエス様が常に愛し、心にかけておられた小さき人々の、つまりこの世において人の優しさを、暖かさを、助けを、赦しを求めてやまない人々の友となることなのです。
難しいことでしょうか。もちろん、誰かの友になるということは、しばしば簡単ではないことがあります。馬が合わなかったり、過ちを許せなかったり、相手の方が自分を嫌っているということだってあるのです。そういう困難を乗り越えなくては、誰とでも友達になるということはできません。
けれども、反面、イエス様はここで、そんなに過大な要求をしているわけでもないのです。何も、その人のために命を捨てよというわけではありません。全財産を施せと言われているのでもないのです。もしお腹をすかしていたら、一膳の食事を分けてあげ、のどが渇いていたら一杯の水を飲ませてあげ、寒さに凍えていたら何か暖かい着物をかけてあげ、病気をしていたらお見舞いに行き、牢に入っていたら訪問をしてあげるということです。果たして愛の業といえるかどうか、本当に無きに等しいような、いちいち覚えていることもないような些細な業なのです。
しかし、そんなことでも、イエス様はそれをご自分への愛の業として、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と、おっしゃってくださるというのですから、本当にもったいない話だと言わざるを得ません。 |
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ロシアの文豪トルストイが、このイエス様の御言葉から、一つの童話を書いています。それは、正式には「愛のあるところに、神もある」というタイトルなのですが、「靴屋のマルティン」と言った方が通りがいいかもしれません。
マルティンは職人気質の、腕の確かな靴屋でした。奉公していた頃に結婚し、しばらくは幸せに暮らしていました、何人かの子供を失い、妻も男の子一人を残して他界してしまいました。たった一人残った息子カピトーシカを男手一つで育てましたが、ようやく仕事が手伝えるようになった頃、1週間寝込んだかと思ったら、あっさり先立ってしまったのでした。
マルティンは絶望の底に落とされました。あまりにも不幸な人生に、神を呪い、死を願いました。息子の代わりに、なぜ老いぼれの自分を召してくれなかったかと、神様に何度も何度も苦情を言いたてました。いつしか教会にも行かなくなってしまいました。
そんなある日のこと、一人の友が久しぶりにマルティンを訪ねてきました。マルティンは、自分の不幸と不条理の数々を、その友人に愚痴ります。
「わたしには夢も希望もないし、願いといえば、早く死ぬことだけですよ。神さまにいつもそうお祈りしているのです。」
「マルティンさん、冗談は言わないでくださいよ。神さまのなさることにさからってはいけないんだよ。神さまはわたしたちの智恵より、ずっと深い考えを持っているのだから。その神さまのなさったことに、ケチをつけちゃいけないよ。息子があなたより先に亡くなったということも、きっと神さまがその方がいいと思われたからに違いないんだよ。」
「それなら、わたしは何のために生きなくてはならないのかな。」
「自分のためにではなく、神さまのために生きるのですよ。そうしたら、悲しまないで済むし、何でも堪忍できるようになりますよ。」
「・・・・・神さまのために生きるって、どうすればいいのですか。」
「キリストさまが言っておられます。あなたは字が読めるでしょう。聖書を買って読んでごらんよ。あなたの知りたい事は、何でも書いてあるからね。」
マルティンは早速その日のうちに大きな活字の新約聖書を買ってきて、読み始めました。読めば読むほど、神様が何を望んでいるのか、神様のために生きなければならないか分かるようになってきました。心に喜びが満ちあふれるようになりました。以前は床に入るときには亡きカピトーシカの事を思い出しては溜息をついていたのですが、最近では「グローリア(主に栄光あれ)、グローリア、主の御心のままに。」と言えるようになりました。
このことがきっかけになって、マルティンの生活ぶりはがらりと変わりました。以前は休みの日には居酒屋に行って紅茶を飲んだり、ウォッカを引っかけて陽気に騒ぎ、道行く人に軽口をたたいたり、絡んだりしていました。しかし最近では朝早く起きて仕事に精を出し、仕事が終わるとランプを机に置き、聖書を取り出して読み始めるのでした。読めば読むほど理解も進み、心も晴れてくるのでした。
あるとき、いつもより遅くまで聖書を読み、そのまま寝入ってしまいました。すると、「マルティン!」と、誰かが呼びます。マルティンは飛び起きて、「どなたさまですか。」と答えて、部屋の中を見回しました。するとまた声がしました。はっきりした声でした。
「マルティン!マルティン!、あしたは通りに気を付けていなさい。私は必ず訪れます。」
マルティンはハッとなってイスから立ち上がりましたが、誰もいませんでした。「夢でも見たかな。」ランプを消し、寝床に入りました。
あくる日、マルティンは、やはり夕べのことを気にかかって、それとなく窓の外に目をやりながら、仕事をしていました。すると、ステパーヌィチ爺さんが、シャベルをもって雪かきをしています。「お爺さんもずいぶん高齢になったんだろうなぁ。・・・・・お茶の一杯でも誘ってあげようか。」ステパーヌィチ爺さんを呼んで、お茶をごちそうすると、爺さんは「ありがとう。生き返ったみたいだ。」と喜んで、再び雪かきにでていきました。
マルティンも、外を気にしながら、仕事を再開しました。すると、赤ん坊の泣く声が聞こえました。よく見るとマントも着ず、寒さに凍えながら、赤ん坊を抱いている女の人を見つけました。マルティンは立ち上がり、扉から出て階段の下から大声で呼びかけました。「おくさん!そこのおくさん!」 そして、「そこは、寒いでしょう。こちらの部屋にお入りなさい。赤ん坊の世話もしやすいでしょう。遠慮はしないで、おはいりなさい。」そして、暖炉の前に座らせ、お母さんも赤ん坊のお腹をすかせていると分かると、暖かいスープをごちそうしました。そして、帰り際には、古いけど暖かそうなマントを取り出して、女の人に着せてあげました。
マルティンは仕事に戻りました。しばらくすると、リンゴ売りのおばさんが、少年の髪の毛をつかみ、げんこつでひどく叩きながら、ものすごい剣幕で少年を叱っているのを目撃しました。少年はリンゴ泥棒でした。しかし、マルティンは少年が哀れになり、外に出て、リンゴ売りのおばさんに執り成してやりました。そのおかげで、ようやく許してもらえた少年は、リンゴ売りのおばあさんが重いリンゴの袋を背負うのを手伝いながら、去っていきました。
こうして一日が終わり、天井のランプをテーブルの上に移し、福音書を棚からとり出して机の上に置きました。福音書を読み始めようとしたとき、昨夜のようなことが起こりました。後ろで何かの気配がします。振り返ってみたら、いくつか影が見えます。ぼんやりしていて、何の影かよく分かりません。
「マルティン、マルティン!、わたしがわかりますか。」
「どなたなのですか。」
「わたし、わたし。」・・・・・ステパーヌィチが姿をあらわしました。微笑んだかと思うと、消えてしまいました。
「今度はわたし。」・・・・・赤子とその母親が現れ、二人ともにっこりして、消えました。
続いて婆さんと少年が現れ、同じように笑いかけると、消えてしまいました。
マルティンは心は不思議な喜びで満たされました。そして、福音書を読み始めると、こうかいてあったのです。
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
マルティンは、主が確かにおいでになったことを、この御言葉によって気づかされたのでした。
来週は、クリスマス礼拝です。イエス様は、小さな幼子として、私たちの世に生まれてくださいました。しかも、立派な宮殿ではなく、鼻をつまみたくなるような悪臭漂う家畜小屋の中に生まれてくださいました。罪と汚れと弱さと小さささし見いだし得ないようなところに、実はイエス様が宿ってくださった、それがクリスマスではないでしょうか。
それは、イエス様がこの世のもっとも小さき者の友となられたということであります。あるいは、こう言っても良いかもしれません。イエス様は、この世のもっとも小さい人々のうちに隠れていらっしゃると。
しかし、世の終わりがきます。その時、いと小さき人々のうちに隠れていたイエス様は、もはや隠れたお方ではなく、明らかなお方として私たちの前に出現なさるのです。その時、私たちはイエス様から、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と言われる者になるか、あるいは「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」と言われる者になるかも、明らかになるのです。
どうか、いと小さき人々に、隠れたるイエス様に仕えつつ、主の日を待ち望む者でありたいと願います。
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Translation
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