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今日は、三つの短いお話を連続してお読みしました。これらはすべて、イエス様が十字架におかかりになる三日前、「論争の火曜日」と言われる日に、イエス様が神殿でお話になったことであります。
「論争の火曜日」というのは、この日、イエス様が神殿で教えておられますと、ユダヤ教のお偉いさんたちがイエス様の化けの皮をはがしてやろうと意気込んでやってきて、次々といろんな論争をしかけたのであります。しかし、前回お読みしました御言葉の最後のところに「もはや、あえて質問する者はなかった」と記されておりますように、その目論見はイエス様の見事な回答によりまして完全な失敗に終わったのでした。
そこで今度は、イエス様の方が彼らに反撃をなさったというのが、今日お読みしたところだと言ってもよいと思います。反撃というのは、あまりイエス様にふさわしくないような言い方だとは思いますが、まずイエス様は「どうしてメシアがダビデの子だといえるのか」と、律法学者たちのメシア観を攻撃なさいました。彼らが何も答えられないと、イエス様は彼等の偽善を暴き、最後にやもめの献金をご覧になって、あの人こそだれよりも大きな信仰を神様にお捧げしたのだと、真実な信仰者の生き方というものをお示しになったのであります。
では、最初から学んでまいりましょう。まず「ダビデの子についての問答」というお話があります。問答と言われておりますけれども、ここにはイエス様の問いかけだけしか記されておりません。実は、『マタイによる福音書』によりますと、もう少し問答らしい形になっておりまして、最初にイエス様が、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」とお尋ねになるのです。するとファリサイ派の人たちが「ダビデの子です」と答えます。すると、イエス様は、「それはおかしい。ダビデ自身がメシアを主と呼んでいる聖書の箇所があるのに、そのメシアがダビデの子だというのは変じゃないか」と問い返されるわけです。そして、このイエス様の指摘に答えられる人は誰もいなかったというのであります。
メシアというのは、ユダヤ人たちがその出現を待ち望んでいた救世主のことです。彼らはメシアがダビデの子孫からが現れると信じていました。ダビデというのは、紀元前1000年頃にイスラエルの黄金時代を築いた王様です。ダビデがイスラエルの王様になった時、神様は預言者ナタンを通して、「あなたの国は揺るぎないものとなり、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」と祝福してくださいました。ところが、実際には、ダビデ王朝は約400年、22代まで続きましたが、新バビロニア帝国によって滅ぼされてしまったのでした。
それにも関わらずと言いますか、それだからこそと言いますか、ユダヤ人たちは国が滅んでもなお、神様の約束を堅く信じ続けて、いつの日にかダビデの家系から偉大な人物が現れ、比類なき指導者として民を導き、国を復興し、輝かしいイスラエルの時代を築いてくれるということを信じ続けました。それがメシアなのです。ちょうど、日本が太平洋戦争の大義名分として八紘一宇ということをスローガンにしたのと似ているかもしれません。メシアが世界制覇をし、理想国家である神の国を実現してくれるということを待望していたのです。
イエス様は、そのようなメシア信仰の過ちを正そうとされたのです。聖書は、メシアがダビデの子であることを、はっきりと告げています。メシアとしてお生まれになったイエス様も、ダビデの子孫であり、ダビデの町ベツレヘムにお生まれになったと書かれています。イエス様は、メシアがダビデの子であるということを否定なさったわけではありません。けれども、人々が「ダビデの子」という言葉を口にする時に込められている期待、理想化されたダビデ王が現れて世界制覇をし、理想国家である神の国を実現してくれるという期待を否定されたのです。
イエス様がここで引用されている聖書の御言葉は、「メシアを預言したもっとも大切な詩編」とも言われる詩編110編です。新約聖書に9回、この詩編がイエス・キリストを指し示す御言葉として引用されていることからも、いかにこの詩編がメシア預言として重要視されていたものであったということを知ることができます。イエス様は、この詩編を引用して、「この詩編は、ダビデがメシアを預言したものだが、ダビデ自身がメシアを『わが主』と呼んでいるではないか。それなら、メシアがダビデの子というのはおかしいと思わないのか」と、問われたのです。
イエス様は、メシアがダビデ以上のお方であるということを仰りたかったのでありましょう。ダビデは地上の王国を築き、地上の幸福、地上の平和を民に与えました。しかしメシアは、そのダビデが「わが主」と呼んだお方で、天の国を来らせ、天の祝福をもって人を祝福するお方なのです。それはどういうことかと言えば、インマヌエル(神、我らと共にいます)の祝福をお与え下さる、それがメシアであるということではないでしょうか。
イエス様は、私たちにも「あなたはメシアをどう思うのか」と聞いておられます。私たちが期待するメシア像はどういうものでありましょうか。言い換えれば、私たちはメシアにどんな救いを求めているのでしょうか。日本人の多くは、神社に行って手を合わせると、家内安全、商売繁盛、無病息災をお祈りいたします。私たちの人生というのは波瀾万丈でありますから、少しでも無事でありたいという気持ちは私にもあるのです。しかし、無事であるということは、何事も無いことです。本当に何事もないことが、私たちの救いであり、幸せなのでしょうか。
先週、インターネットで知り合った人たちが一緒に自殺をしたという事件がありました。自殺した人たちは10代から30代の七人の男女で、重い病気を患っていたわけではなく、経済的に思い詰められていたわけでもなく、外面的にはとても自殺するような理由は見あたらない人たちばかりでした。事件を伝えているテレビのキャスターが、「自分には病気があって病院に通っているけれども、病院に行くと小さな子供からお年寄りまで本当に生きるためにがんばっている。そのことを思うと、命を粗末する彼等に怒りを覚える」というようなことを語っていました。確かに、そういう意見もあろうと思います。
でも、いったい彼等にとって死にたくなるほど苦しいこととは何だったのでしょうか。私は生きる意味を見出させないということにあったのではないかなと思うのです。健康であっても、経済的に豊かであっても、外面的には何不自由なく見えても、生きることの意味や目標が見いだせなければ、生きている一日一日が本当に苦痛になるのです。逆に、生きる意味、目標というものがしっかりと心の中にありますと、どんな辛いことがあってもそれを乗り越えていく力を得ることができます。無事であれば良いということではなく、何事にあっても強く、しっかりとした人間として生きていくだけの心の力、目標、希望というものが与えられるということこそが、私たちに必要なことなのではないでしょうか。
神の救いというのは、「神われらと共にいます」という祝福を与え、そのような力強い命を与えてくださることにあるのです。そして、イエス様は十字架によって私たちの罪をゆるし、復活によって永遠の命への希望を与えてくださいました。この御救いによって、私たちは「神われらと共にいます」という祝福の中を生きる者とされるのです。
人生は決して波風一つ無い穏やかな海ではないかもしれませんが、どんな嵐の中にあっても「神われらと共にいます」という大安心の中を進むことが保証されています。このような魂の平安、神の国の希望にこそ、私たちの救いがあるのです。 |
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さて、次は、イエス様が律法学者の偽善を厳しく非難されたというお話です。イエス様は、彼等が長い衣をまとって歩き回っていることや、挨拶や席順に異常にこだわることや、長いお祈りをするのはすべて、人から尊敬されたいがための見せかけに過ぎないと非難されました。どうして、そんな風にはっきりと言えるのかというと、彼らが「やもめの家を食い物にしている」から、つまり弱い者や小さき者への優しさやいたわりが少しも見られないという現実から分かるのだと仰るのです。
イエス様は決して長い衣を着てはいけないとか、上座に座ってはいけないとか、お祈りが長くてはいいけないということを仰っておられるのではありません。そうではなく、彼らが格好や振る舞いやお祈りが、見せかけであることに注意せよというのです。見せかけというのは、本質的には欺きです。人を欺き、神様を欺いているのだ、というわけです。
実は、神様の本性から最もかけ離れ、神様が最もお嫌いになるのが、この欺きであり、偽りなのであります。
神様の本性は何かと言えば、愛であり、真理です。人間は弱く、愚かな者でありますから、過ちを犯します。しかし、もし私たちが自分の犯した罪を正直に認め、深い悔い改めをもって、神様に砕かれた魂をお捧げするならば、神様はどんな過ちを犯した人間に対しても恵深く罪を覆ってくださるお方なのです。
神様がお嫌いになるのは欺くことです。欺きというのは、人間関係にしろ、人間と神様との関係にしろ、人格的な信頼関係を破壊するものだからです。
イエス様は、「律法学者に気をつけなさい」と言われました。先週、ご一緒に学びましたように、イエス様に「神の国遠からず」と言われた律法学者もいます。ですから、正確に言えば律法学者に気をつけるのではなく、彼等に代表されるような偽善、欺き、偽りというものに気をつけなさいということなのです。
神様が望んでおられるのは、私たちが立派で落ち度がない人間になることよりも、いつも神様に正直に生きることなのです。 |
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三つ目のお話は、「やもめの献金」と言われているお話です。これは有名なお話ですから、よくご存じの方も多いことと思います。
「論争の火曜日」の論争もすべて終わりました。イエス様は疲れを覚えて、境内の片隅に腰掛けながら、人々の様子をご覧になっていたのかもしれません。イエス様の目の前には、13の賽銭箱がありました。それぞれ献金の目的が違っていたそうです。また、それらの賽銭箱はらっぱの形をしていて、広い口の方から献金を入れるようになっていたと言います。ですから、音が響くのです。じゃらじゃらと大きな音がすればたくさんの献金がされたことが分かりますし、ちゃりんと小さな、寂しい音がすれば僅かな献金ということが周りの人に分かってしまうわけです。
そこに、一人の貧しいやめもがやってきて、献金をしました。大勢のお金持ちが聞こえよがしにじゃらじゃらと献金をしている中で、この貧しいやめもはレプトン銅貨二枚を献金しました。ちゃりん、ちゃんりと、寂しい音が二回響いたわけです。
そのやめもの献金する姿を見ますと、イエス様は弟子たちを呼び寄せて、こう言われました。
「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(43-44節)
レプトンとは「うすいもの」という意味で、貨幣の中でいちばん小さな単位でした。今の私たちの金銭感覚でどのぐらいの価値があったのかと言いますと50円ぐらいではないかと思います。しかし、イエス様は、レプトン銅貨とはいえ、持てるもののすべてを献金したこの婦人こそ、他のだれよりも多くの捧げものをしたのだと言われたのでした。
神様が私たちの捧げものをどのように見てくださっているか、このことからお分かりいただけると思います。神様は、私たちの献金の額面をごらんになっているのではありません。額面の大きさではなく、犠牲の大きさをご覧になっているのです。どれだけ神様のために自分を捧げているかということなのです。
かつて、私はこう考えていました。神様の恵みは無償の恵みでありますから、犠牲を払う必要などないのではないか、と。しかし今は、神様の恵みを受け取るためには、代価を支払う必要があるのだと考えています。
もちろん、神様の恵みが無償で与えられていることには違いないのです。しかし、たとえば神様がみなさんに無償で何かをプレゼントしてくださるとしましょう。何でもいいのですが、今はやりの大型テレビを、みなさんに一台ずつ与えてくださるとしましょう。しかし、それを受け取るためには、私たちの家にある古いテレビを処分しなければならないのです。これが犠牲であり、代価を払うということです。
神様が私たちに与えてくださるのは、もちろん大型テレビなどではありません。先ほど救いのお話をしましたが、私たちに天の祝福を与えてくださるのです。しかし、それを受け取るためには、私たちはこの世の生活に対する愛着というものを犠牲にしなければならなくなるのです。もっと具体的に言えば、教会の礼拝を守る恵みはすべての人に無償で与えられています。しかし、それを受け取るためには日曜日の午前中を神様の礼拝のために捧げることが必要です。聖書を読んだり、神様に祈りを捧げるという恵みも、私たちに無償で与えられています。しかし、その恵みを味わうためには、私たちが日々の生活の一部を神様にお捧げしなくてはなりません。
さらには、「神われらと共にいます」という恵みも、私たちに無償で与えられています。しかし、その恵みを受け取るためには、私たちもまたいつも神様と一緒にいるために、自分の思いよりも御言葉に従うという代価を支払わなければならないのです。それなくして、神様の恵みは私たちのものになりません。神様と共に生きるために、この世の生活の多くを犠牲にした人は、多くの天の祝福を受け取るのです。
さて、レプトン銅貨二枚を捧げた貧しいやもめは、それが全財産であったと、イエス様は言われました。それは絶望的な貧しさであります。その貧しさの中で、彼女の生きる道は本当に限られたものだったでありましょう。一つは、この二枚のお金でパンを買い、あと一日だけ飢えをしのぐということであります。しかし、その後、どうするかは何も見えていないのです。もう一つの道は、一枚のお金でパンを買い、もう一枚を神様に捧げるという道です。私は、神様の恵みを得るためには、これでも十分な捧げものになったと思うのです。
しかし、彼女は、もっとも考えにくい道、二枚のすべてを神様にお捧げするという道を選びました。彼女の命を、明日からの生活のすべてを、神様に捧げてしまったということであります。
彼女は、明日からどうやって生きていくつもりだろうか、と私たちは心配します。けれども、彼女自身にはそんな心配はなかったに違いないのです。明日の心配をするくらいなら、初めからすべてを捧げたりはしません。しかし、自分のために取って置いたからといって、救いになるほどの財産ではありません。一日分のパンを買えるかどうかというお金なのです。彼女は、いっそすべてを神様にお捧げして、明日の心配も含めて、神様にお委ねしようと考えたのだろうと思うのです。
明日になれば神様が備えてくださる、そういう希望があったかもしれません。しかし、それだけはないはずです。もしかしたら、何も食べられないかもしれません。そして、ついには飢えて死ぬのかもしれません。それでもいい。自分はすべて神様にささげて、神様の子となって、神様のもとに帰るのだと信じていたに違いないのです。
こういう生き方を「終末的な生き方」と言っても良いかもしれません。生きるも、死ぬも、神様にお任せしてしまった生き方であります。これは、身も蓋もない絶望的な生き方に思えるかもしれません。しかし、実はこれこそが絶望的な貧しさの中にあっても、なお希望を持ち続けて生きる唯一の道であったのです。復活を、神の国を、永遠の命を信じる信仰がそこにあるからです。
今日、お読みしましたヨブ記の御言葉も、同じ事を言っていると思います。
「黄金を塵の中に
オフィルの金を川床に置くがよい。
全能者こそがあなたの黄金
あなたにとっての最高の銀となり
あなたは全能者によって喜びを得
神に向かって顔を上げ
あなたが祈れば聞き入れられ
満願の献げ物をすることもできるだろう。」(24-27節)
オフィル産の黄金は最上の金でした。シェバの女王がソロモンに贈った高価な贈り物の中にもオフィルの黄金があったと書かれています(1列王記10章11節)その宝の中の宝、黄金の中の黄金を、土の塵の中に捨てて、川底に沈めてみよ。そうすれば、神ご自身があなたの黄金になってくださるというのです。
こういう話しがあります。伊達政宗が、名器・家宝とする茶碗を危うく落としそうになりました。正宗は冷や汗をかきましたが、幸い、茶碗は落とさずに済んだのでした。ところが、しばらくすると何を思ったか正宗はその茶碗を鷲づかみにすると、庭の沓脱石に叩きつけてしまったのでした。もちろん、家宝は木っ端微塵に砕かれました。「いかに家宝名器とはいえ、泥をこねた器一つのために、天下のダメ正宗ともあろう者が、ビクビクし、命を縮めるような思いをするとは何事か。いっそ、これを打ち砕いて、わが命をのびのびとするにしかず」としたからでした。
私たちも、大切なものをたくさん持って生きています。家宝だけではなく、家族や生きがいとも言える仕事もあります。「たとえ神様が命じて、これだけは手放せぬ」という気持ちもあると思うのです。しかし、実はそのために、私たちの人生が縛られ、神様の喜び給わないものになってしまっていることがないでしょうか。思い切って、それを捨ててしまえば、案外自由になって、神様の素晴らしさがもっともっと良く解るということがあるのです。
イエス様も「自分を救おうとするものは、それを失い、わたしのために命を捨てようとするものは、それを得る」と言われました。逆説的ですが、自分を捨てることによって、本当の自分を得ることがあるのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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