最も重要な掟(火曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書12章28-34節
旧約聖書 レビ記19章9-18節
神学論争
 今日も「論争の火曜日」についてのお話しであります。「論争の火曜日」というのは、イエス様が十字架におかかりになる三日前のことであります。神殿でイエス様が教えておられますと、そこにユダヤ教のお偉いさんたちがやってきまして、「何の権威でそんなことをしているのか」と言いがかりをつけてきたのです。これに端を発しまして、イエス様とユダヤ教の指導者たちとの間で、「ローマ皇帝には税金を納めるべきか、否か」とか、「復活はあるのか、ないのか」というような神学論争が繰り広げられたのでした。

 神学論争というのは、神様や信仰について明らかにするために、聖書の解釈を巡ってなされる大切な議論のことであります。キリスト教の歴史を見ますと、神学論争の末に異端とされ、迫害されて命を落とした人もたくさんいます。宗教改革期のカトリック教会とプロテスタント教会の対立は、ドイツ30年戦争の原因にもなりました。神学論争というのは、このように血を流すほどの激しい論争になることもあるのです。

 それはどうしてなのでしょうか。神様のこと、信仰のことを問うという事は、自分の根源、世界の意味を問うことだからです。自分は何者なのか。何のために生きているのか。この世界は悪魔の世界なのか、神の世界なのか。救いはあるのか、ないのか。死後の世界はあるのか、ないのか。その答えいかんによって、人は立ちもするし、倒れもするのです。神学論争というのは、そのように私たちの生の根源を揺るがせるような論争であります。それによって、善が悪になったり、悪が善になったり、価値観が180度ひっくり返ったり、絶望が希望になったり、希望が絶望になったりするのです。だから、神学論争というのは自然と激しく、真剣にならざるを得ないのであります。

 しかし、神様というのは人間には計り知れない御方でありますから、いくら議論をしてもなかなか埒があきません。また、信仰というのも人間の価値や人生の意味までをも支配する極めて重要な事柄であるだけに、なかなか簡単に答えを出せるものではありません。はっきりと言うと、神学論争には正解がないのです。ですから、神様を信じないものにとって、神学論争というのは空理空論に思えてしまうということがあるのです。

 日本の国会でも、現実から遊離した実りのない議論を表わす言葉として「神学論争」と言われることがあります。小泉首相も、自衛隊の海外派遣について、野党から憲法9条の解釈論議が出ると、「神学論争はもうやめよう」と応じたことがあるのです。原理原則論議や解釈論議ばかりしても、現実の差し迫った問題に対応できないということでありましょう。

 神学論争を揶揄した大変失礼な言い方だと思うのですが、国会に限らず、世の人々もまた「難しい話しはさておいて」というようなことがあるのではないでしょうか。今、目の前にある問題に対する処し方とうことには非常に感心があるけれども、人生の意味とか、目的とか、善悪とは何かとか、そういう私たちの人生の根源を問うような問題とは決して向き合うことなく、その場その場を生きてしまっているということがあると思うのです。

 イエス様の「種の蒔く人の譬え」の中に、このようにその場その場をやり過ごして生きている人のことを言い表した、次のような言葉があります。

 「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」(マタイによる福音書13章5-6節)

 「根がないために枯れてしまった」とあります。目の前の事ばかりに心を奪われて生きていますと、そうなってしまうのです。しかし私たちが、人生の問題をもっと深いところで受けとめようとするならば、「問う」ことの大切さということを忘れてはならないと思います。自分は何者なのか。何のために生きるのか。死んだらどうなるのか。罪の赦しはあるのか。救いはあるのか。復活はあるのか。このような問いは、一朝一夕に答えがでるわけではありません。永遠に答えが出ないような気もしてくる。しかし、そのように根源的なものを問うことによって、私たちの人生を支えて下さっている御方、天の父なる神様に出会うことができるのです。

 そして、「ああ、神様のうちに私の人生の意味も目的も、将来の希望もすべてが隠されているのだ。この天の父なる神様に愛のうちに、根を下ろして生きていこう。そうすれば、この世のどんな波風にも負けない、たとえ倒れることがあっても必ず再び起き上がることができる、そんなしっかりとした人間になれるに違いない」ということが信じられるという経験をいたします。すると、不思議と今まで思い悩んでいたこの世の問題がすうっと解決していくのです。
律法学者の問い
 さて、ユダヤ教の指導者たちがイエス様に問うたのは、決して純粋な神学論争のためとは言えませんでした。神学論争を装って、イエス様を言葉の罠にかけ、陥れようとしていたのです。しかし、イエス様はどんな問いに対しても、つまりこの世には答えはないと思われるような問いに対して、実に見事なお答えなさいまして、彼らを驚かせたのでありました。

 問うということは、問われることでもあります。たとえば、「あなたは私を愛していますか」と尋ねたとします。「愛しています」という答えが返ってきたならば、「そうですか」とだけ言って、知らんぷりはできないでありましょう。「愛していますか」と問いかけた以上、「愛しています」という答えに対して精一杯お答えしなければならないのです。「それをしてくれるから、私に問いかけたのですね」という問いが、問いかけた人に逆にかえってくるわけです。

 イエス様に問いかけた人々の中にも、一人だけイエス様のお答えなさった答えを、自分への問いとして真剣に受けとめた人がいました。そして、今までのような下心のある問いではなく、もう一度、イエス様に自分自身の真剣なる問いを返すことによって、イエス様にお答えしようとしたのです。

 「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』」(28節)

 この律法学者は、「数ある律法の中で何が一番大切でしょうか」と尋ねました。律法とは、人間の生き方を示した神の教えです。その一番大切なものは何かと問うことは、すなわち自分の生命の中心、根源は何かということを問うことなのです。「皇帝に税金を納めるべきでしょうか」とか、「復活した時には誰が夫になるのでしょうか」とか、こういう問題は「何が一番大切か」ということが分かれば、順に解けていくことです。そういう枝葉末節を問うことをやめて、自分の生命の根源的を問う、こういう問いが大切なのです。

 根源的なことを問うということは、根源的なところにイエス様の答えが与えられることを願っているわけです。そして、問うことは問われることだと申しましたが、イエス様の答えが示されたならば、今度はそれに根ざして生きているかどうかということが、自分自身に問われることになるのです。この律法学者は、当然そういうことを分かった上で、イエス様にその答えを求めていると言ってよいと思います。
真理は楕円形
それに対するイエス様のお答えは、二つでありました。

 「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(29-31節)

 「何が一番大切か」と問われた時に、イエス様が一つではなく、二つの答えを示されたということは、とても大切なことだと思います。それは、一番大切なものというのは、一つではなく、二つのものの調和の上にあるということなのです。ある人が、こういうことを言っています。

 「およそすべての物事には、両極というものがある。真理は円形ではなく楕円形なのだ。円を描くには、一つの中心点があれば描けるが、しかし、楕円を描くには二つの中心点がいる。そのように真理の世界には、常に両極というものがあるので、お互いが真理に立ちたければ、絶えずその両極をよく見つめて、両極の調和をはからなければならない。それなのに一極だけを見つめて他を見落とせば、その真理はいびつなものになり、一面的になってしまう。そこで決して真理の全体を正確に把握することはできないものだ。」

 神様を愛することと、人を愛することも、一面的になってはいけないのです。どちらか極端になってはいけないのです。神様を愛するからといって、人への愛が軽んじるならば、それは間違いです。人を愛するからといって、神への愛を軽んじることも間違いです。神への愛を軽んじても、人への愛を軽んじてもいけない。神を愛することも人を愛することも真剣でなければならない。両方が調和する生き方にこそ、一番大切なことがあるのだということなのです。

 たとえば、神様を愛するということは教会を大事にすることにつながるでありましょう。そして、人を愛するということは家族の交わりやこの世のつき合いを大事にするにつながると言っても良いと思います。イエス様は、どちらの方が大切だと言われないのです。教会を大事にすることによって、家族やこの世のつき合いを軽んじてはいけない。逆に家族やこの世のつき合いを大事にすることによって、教会を軽んじてはいけない。その両方を大事にできる道を求め、そこに生きることは一番大事なのだということなのです。
「第一の掟」と「第二の掟」
 では、実際には、どんな風に調和させたらいいのでしょうか。一つには、イエス様が二つのことを共に大切だと仰いながら、第一の掟、第二の掟と、順位をつけておられることに注意が必要だと思います。まず、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」ということから始まるのです。

 ある人がマザー・テレサに、「百万ドルもらっても、私はハンセン病者にはさわりたくない」と言ったそうです。マザー・テレサは彼に答えました。「私も同じです。お金のためにだったら、二百万ドルやると言われても、今の仕事はしません。しかし、神への愛のためなら喜んでします。」

 『ヨハネの第一の手紙』4章7節には、「愛は神から出ているのです」と記されています。神様の愛が私たちの内に満ち溢れて来て、それが隣人愛として私たちのうちから人へと流れ出ていくのです。このような神の愛をもって、隣人を愛するのでなければ、私たちの愛は必ずや自分の罪のうちに破れるに違いありません。身勝手で迷惑な愛もありますし、中途半端で無責任な愛もあります。身勝手さは自分だけではなく、相手にもあります。こちらが愛することに真面目で、真剣であっても、相手の我が儘や、分からず屋によって振り回され、愛の限界を感じるということもあると思います。

 愛は、神様から出てくるのです。神様の愛を信じ、全身全霊をもって神様を愛し、自分の中に神様の豊かな愛を戴かなければなりません。そして、それを溢れさせるということが大切なのです。私たちがそれを溢れさせれば、溢れさせるほど、新鮮な神様の愛が、私たちのうちに満ちてくるのです。これが「第二の掟」です。

 イスラエルには「ガリラヤ湖」と「死海」という二つの湖があり、どちらもヨルダン川から水が流れ込んでいます。ところがガリラヤ湖は「命の湖」ですが、死海は文字通り「死の湖」なのです。なぜそうなってしまったのでしょうか。答えはこうです。ガリラヤ湖にはヨルダン川から流れ込んだ水が、またヨルダン川に流れ出ていく流出口があるのに、死海にはそれないからなのです。しかも、死海は乾燥が酷い場所にありますので、死海の塩分がどんどん濃縮され、魚も住めないし、農業用水に使うこともできない、まったく死の湖になってしまったのでした。

 私たちに注がれる神様の愛も、隣人への愛として流れ出ていかなかったならば、命の湖が死の湖に変わってしまいます。人への愛、思いやりを失った信仰ほど鼻持ちならぬものはありません。しかし、神様から戴いた愛を惜しみなく隣人に注ぐならば、私たちの命の湖は決して枯れることがありません。神様の愛が次から次へと溢れてくるからです。

 第一の掟は神様を愛することであり、第二の掟はと隣人を愛することなのです。この二つが共にあることが、一番大切な神様の教えであると、イエス様はお答え下さったのでした。
神の国に入るためには
 律法学者は、イエス様のお答えを聞いて、その正しさを認めました。

 「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

 そして、この律法学者の言葉を聞いて、イエス様も彼の心の正しさを認めて、「あなたは、神の国から遠くない」と言われたというのです。しかし、「遠くはない」というのは、ちょっと微妙な表現です。「あなたは神の国にはいれる」とか、「神の国はあなたのものだ」と、そのように言われなかったのはどうしてなのでしょうか。

 それは、神の国に入るのは、第一の掟でもなく、第二の掟でもなく、恵みによることだからです。イエス様の十字架の贖いが必要なのです。この律法学者は、自分の生き方の根源を問い、そして神を愛しない、隣人を愛しなさいということを教えられました。これからは、このイエス様のお言葉を自分の生き方の中心に据えて生きていこうと、ある種の喜びをもってお答えしたのだと思います。

 しかし、神様の教えに従って生きるということは、頭で分かっていても、心で分かっていても、それに背くような罪の力が私たちの内に働くのです。この罪の力から救われて、新しい人間として生まれ変わることなしに、神の国に入ることはできないのです。けれどもイエス様は、「神の国は遠くはない」と、彼に仰って下さいました。それは、彼の信仰の状態が近いとか、遠いということではなく、「あなたが神の国に入るために、わたしが十字架にかけられる日が近い」と言う意味ではなかったでしょうか。

 イエス様の十字架の救いによって、私たちの罪は赦され、神様との新しい関係に入れられるのです。そして、神様の愛を余すことなく受け取り、その愛をもって隣人を愛し、隣人に仕えることができる人間とされていくのです。恵みは罪に優り、掟に優るのです。感謝をしましょう。
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聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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