「救い主の誕生」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書2章1-20節
旧約聖書 詩編95編
イエス様の誕生物語について
 新約聖書には、イエス様の地上のご生涯を物語る四つの福音書があります。そのうちの『マルコによる福音書』にはイエス様のお誕生の話が書かれていません。他の三つの福音書は、それぞれイエス様のお生まれについて書いています。

 しかも、みんなが同じ事を書いているのではなく、読み比べてみるとおもしろいのです。『マタイによる福音書』は「神様の約束の成就」としてのイエス様のお誕生を伝えていますし、『ヨハネによる福音書』は「神様の愛の現れ」としてのイエス様のお誕生を伝えています。

 今回は、『ルカによる福音書』によって、イエス様のお誕生の物語を見て参りたいと思います。

 意外に思われるかもしれませんが、イエス様の誕生物語で「喜び」ということを語っているのは、『ルカによる福音書』だけなのです。ルカは、大いに喜びを語ります。ルカの伝えるイエス様の誕生物語の特徴は、「大いなる喜び」としてイエス様がお生まれになったということです。

 では、それはどんな喜びなのでしょうか。
人間の歴史の中にお生まれになった
 まず1-3節を読んでみましょう。
 
 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」

 かなり詳しくその頃の時代背景というものが描かれています。それはローマの初代皇帝アウグストゥスの時代であり、キリニウスがシリア州の総督であったときだったというのです。

 このような歴史的な記述から、イエス様のお生まれになった年代をかなり正確に知ることができます。そして、それをもとに今日の暦が作られておりまして、西暦2002年というのはイエス様がお生まれになり、その名付けの日から2002年が経ったということを意味しているのです。もっとも、今日の知識をもって計算しますと数年の誤差があるようです。つまり、実際には、イエス様がお生まれになったのは紀元前6年頃であろうというのが、今日の歴史家の計算です。

 しかし、こういう細かい計算が大切なのではありません。大切なことは、神の御子であるイエス様が人間の歴史の中にお生まれになり、人間と一緒に生活されたのだということではないでしょうか。

 イエス様という方は信じる人には確かな存在であっても、信じない人にはまったく存在しないというような単なる信仰上の存在ではないのです。信じる人にも、信じない人にも、イエス様は確かに存在された方だった。このお方を愛するにしろ、迫害するにしろ、誰にとっても決して無視できない存在であったということなのです。 
ベツレヘムの家畜小屋で
(聖画)
 さて、ユダヤの人々は皆、皇帝の勅令によって住民登録をすることになったとあります。住民登録というのは、ローマ皇帝が人々に課する税金の台帳を作ろうという作業でした。登録は、それぞれ自分の出身地ですることになっておりまして、そこの役所で財産や収入、家族構成などを申告しなければならなかったのであります。

 ナザレに住んでいたヨセフとマリアも、ベツレヘムに向かって旅立つことになりました。それは歩いて三日ほどの道のりで、歩きなれた人にとってはそれほどたいへんな距離ではありませんでした。けれども、ヨセフは身重のマリアと一緒だったわけですから事情はちょっと違ったと思います。かなり気をつかう、負担の大きな旅だったのではないでしょうか。

 そして、ようやくベツレヘムに着きますと、マリアは途端に産気づきます。あわてたヨセフは一生懸命に宿屋を探しますけれども、なかなか空いている宿屋を見つけることができません。マリアの産気の方も差し迫ってきまして、ふたりはとうとう家畜小屋で初めての子供を産むことになってしまったのです。

 聖書はこのように書いています。

 「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

 クリスチャンでなくても、イエス様を偉い人間だと思っている人たちは結構いるものなのです。そのような人々は、イエス様を神様にもっとも近づいた人間であるとか、神様に選ばれた人間だと、イエス様に対する惜しみない賛辞を贈るかもしれません。けれども、はっきりと申し上げますが、イエス様を「神様に選ばれた人間」だと考えているうちは、決してイエス様のうちにある神の愛を悟ることはできないです。

 選ばれたのはイエス様ではなく、私たちです。神様の愛を知るためには、イエス様ではなく、この自分こそが神様に選ばれた人間だということを悟らなければなりません。

 イエス様は選ばれるまでもなく、最初から神様の最愛の独り子であり、神様ご自身であられました。そのイエス様を、神様からの贈り物として受け取る相手として選ばれたのが、私や、みなさん一人一人だったのです。

 「選ばれた」などというと、何か偉そうな話に聞こえますが、けっしてそうではなく、神は独り子を賜うほどに私やみなさんを愛してくださっているということなのです。

 ところが、であります。「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」と言われているわけです。神様の贈り物は、なんと粗末に扱われていることでありましょうか。

 日本では、昔、有り難いものをいただくと神棚に上げて、手を合わせてから戴くという習慣がありました。もちろん、これはまことの礼拝ではありませんが、そのぐらいの謙虚さ、恭しさをもって、神様を礼拝しつつ、イエス様のお誕生を祝うということが本当のことでありましょう。ところが、神様の贈り物は、「布にくるんで飼い葉桶に寝かされた」というのです。

 それはマリアやヨセフがそうした、という話ではありません。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」、つまりこの世にはイエス様のお宿りになる場所がなかったということなのです。

 ところが、・・・これにはもう一つ「ところが」がつくのです。神様は、そのようなことをすべてご承知の上で、それにも関わらずその尊い独り子であるイエス様をこの世をに与えくださった。そこに神様のまことに深いが愛ある、私たちの大いなる喜びがある、これがイエス様のお誕生のメッセージなのです。
飼い葉桶は救い主のしるし
聖画
 イエス様がお生まれになったその夜、ベツレヘムの郊外では、羊飼いたちが羊の群の番をして野宿をしておりました。すると、そこに主の天使が現れ、輝く光が彼らを照らし出します。羊飼いたちはこの異常な出来事に非常に恐れおののきました。

 その羊飼いたちに、天使がこう語りました。

 「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」

 「布にくるまって飼い葉桶に寝かされている」、これがあなたがたに与えられた救い主が身にまとっている「しるし」であると、天使は言ったのでありました。

 人間は粗末に扱ったから、イエス様がそのような貧しいお姿でお生まれになったということも真実でありましょう。しかし、それだけではない。イエス様がそのような貧しさの中にお生まれになったという事実の中にこそ、神様の愛がが溢れているのだというのです。

 一つの詩をご紹介しましょう。

神は言われる。
わたしは裸で生まれた
  あなたが自我を脱ぎ捨てるために。
わたしは貧者に生まれた
  あなたがわたしを唯一の富と見なすために
わたしは馬小屋で生まれた
  あなたがどんな場所をも聖とするために

神は言われる
わたしは弱者に生まれた
  あなたがわたしを怖がらないように
わたしは愛のために生まれた
  あなたがわたしの愛を疑わないように
わたしは夜中に生まれた
  わたしがどんな現実でも照らせることを
  あなたに知ってもらうために

神は言われる
わたしは人間として生まれた
  あなたが神の子となるために
わたしは被害者に生まれた
  あなたが困難を受け入れるために
わたしは質素な者に生まれた
  あなたが装飾を捨てるために
わたしはあなたの中に生まれた
  あなたをとおしあなたと共に
  すべての人を父の家に連れていくために。

 みなさん、私たちは貧しい人間です。悩める人間です。心の清くない人間です。小さな取るに足らない人間です。しかし、神様はこのような私たちをなお愛し、私たちのそばにいてくださいます。飼い葉桶に寝かされている神のお子イエス様は、そのような神様の愛のしるしなのです。
賛美は心を癒す
聖画
 天使がこのように語っていると、空には見る見る天の軍勢が現れ、神様をたたえ、地を祝福する歌をうたいはじめました。

 「いと高きところには栄光、神にあれ。地に平和、御心にかなう人にあれ」

 後にたくさんの素晴らしい音楽家が、この天使たちの歌を美しい音楽にしました。実際の天使の歌声はいかばかりであったかと思わされます。そして、その天使たちの歌う調べの力強さと喜ばしさは、羊飼いたちの心の中に大きな影響を与えたに違いありません。

 私は、もしかしたら、この羊飼いたちはそれほど信仰深い人たちではなかったかもしれないと思うのです。彼らは神の救いを待ち望む人というよりも、運命に絶望し、悩みや、苦労の中にうずくまってしまっている人たちであったとも考えられるのではないでしょうか。

 しかし、彼らは天使たちの神様を讃える歌を聴いて、神様への望みが湧いてきた・・・賛美にはそのような力があります。

 私も経験することですが、讃美を歌うことができないほど悩みの中にうずくまってしまったり、絶望してしまうことがあります。そのような時、讃美を聴くということが力になることがあります。神様を讃える音楽には、人々の心を癒す力があるのです。

 「癒し」というのは単に心が慰められるということではありません。新しい人間に生まれ変わらなければ、本当の意味で癒されるとは言えないのです。

 天使たちが去っていくと、羊飼いたちは我に返り、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合い、ベツレヘムに駈けていったと言われています。そして、マリアとヨセフ、そして幼子のいる場所を探し当て、何もかも天使の話したとおりであることを知り、神をあがめ、讃美しながら、さらには町中の人たちにこのことを知らせながら、野原に再び帰っていったのです。

 讃美を聴く者から、讃美を歌う人間に変えられたのです。それが大切なことなのです。もし、天使の知らせを受け、天使の歌を聴いても、何もしなかったら、羊飼いたちの人生は、決して神様を讃美する人生にはならなかったでありましょう。しばらくはその余韻を楽しむことはできるでしょうが、やがてその余韻も消え去り、すべてが元通りになってしまうのです。心に余韻が残っているうちに、神様を求めるということが大事であります。

 詩篇95篇には「今日こそ、主の声に聞き従わなければいけない。あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように、心を頑なにしてはいけない」と言われていました。また、『ヘブライ人への手紙』の中にも、「今日、神の声を聞いたなら心を頑なにしてはいけない」と言われています。

 みなさんの中には、今まで神様の声になかなか従えない経験をしてきた人がいるかもしれません。しかし、神様は今日も私たちに御言葉を語り、チャンスを与えてくださっています。そして、「今日、神の声を聞いたなら、心を頑なにしてはいけない」「今日こそ、主の声に聞き従わなければいけない」と励ましてくださっているのです。

 私たちもまた今日、心を一新して、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と、イエス様のもとに馳せ参じる信仰を持ちたいと思います。

 御言葉は決して私たちを裏切りません。もし、聴くだけ終わる者となるならば別ですが、もし御言葉に従うならば私たちは必ずや「何もかも本当であった」と神をあがめ、讃美する者に変えられるのであります。
 
 「今日、神の声を聞いたなら心を頑なにしてはいけない」

 どうぞ、今日、神様が一人一人に語ってくださった御言葉を、私たちの心から溢れてくるまことの喜び、讃美に変えていただこうではありませんか。
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