「お宮参りでのこと」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書2章21-38節
旧約聖書 イザヤ書63章7-9節
特別ではない赤ちゃん
 イエス様がお生まれになって八日が経ちました。ユダヤの律法では、この八日目に生まれてきた男の子に割礼を授け、名前を与えるという儀式があります。いわばイスラエルの民の一員となる儀式ですが、イエス様も律法を重んじる敬虔なご両親によってこの八日目に割礼を受け、またあらかじめ天使から示されていた「イエス」という名前が与えられたのでした。この「イエス」というお名前は「神は救い」という深い意味をもった名前です。しかし、決して特殊な名前ではありませんでした。

 つまり、このことが物語っているのは、イエス様が八日目に何か特別なことをしたというのではなく、逆に何の特別さもないユダヤ人の子として、他の人たちとまったく同じように律法を守り、八日目に割礼を授けられ、名前を授けられたということなのです。

 またユダヤ教の律法では、子どもを産んだ母親のために33日間のきよめの期間というのがありました。その間は堅く外出を禁じられていましたので、その清めの期間が過ぎてから、赤ちゃんと一緒にお宮参りに行くことになっていました。

 お宮参りでは、普通は小羊を神様への献げ物として持っていったようですが、小羊が用意できないような貧しい人たちは鳩を捧げれば良いことになっておりました。ヨセフとマリアは鳩を捧げるために神殿に行ったとありますから、彼らが決して裕福な人たちではなかったことがわかります。

 ユダヤ人の家ならばどこの家でもそうであるように、ご両親は律法に忠実に赤ちゃんのイエス様をお育てになろうとしました。しかし、それは見方をかえていえば、赤ちゃんのイエス様のお姿は何の特別さもなかったということなのです。イエス様は他のユダヤ人の子どもと何ら変わるとことはなかったということなのです。

 ところが、その何の特別さもない赤ちゃんであったイエス様を、この子こそ神様がお与えくださった救い主であると見抜いた人がいた、それが今日のお話であります。
シメオンとアンナ
聖画
 ヨセフとマリアが赤ちゃんを抱いて神殿に入りますと、一人の老人が近寄ってきまして、赤ちゃんを見ていたく感激いたしました。この老人はシメオンといいます。シメオンは両親の手から赤ちゃんを受け取りますと、天に向かってその大きな喜びを声にして祈りました。

 「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかにさらせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万人のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

 シメオンが立ち去ってしばらくすると、もう一人、イエス様のご家族に近づいてくる人がありました。やはりシメオンのよいうに年をとった人で、84歳のアンナという女預言者でした。

 アンナは若いときに夫と死に別れてから、自分の人生を神様にお捧げしまして、毎日神殿で昼も夜もなく神様に祈っていたというのです。そのアンナもまた赤ちゃんのイエス様を見て神様を讃美し、人々に救い主がいらしたことを語り伝えたというのであります。

 みなさん、とっても不思議な話だとお思いになりませんか。イエス様は何の特別さもない赤ちゃんであり、イスラエルの他の赤ちゃんと同じように育てられていたのです。両親がこの子を神殿に連れて行って献げ物をしたときにも、祭司はこの赤ちゃんに何の特別さも感じませんでした。ところが、シメオンとアンナは、この何の特別さもない赤ちゃんに、ちゃんと救い主のお姿を見ることができたというのです。どうして二人にはそれが分かったのでしょうか。
弱さの中に隠れている神の救い
 聖書は、二人が信仰深く、祈り深く、救い主を待ち望んでいたために、神様が特別にそれを示してくださったのだと説明しています。これは今の私たちにとっても真理です。イエス様が神のお子であり、救い主であるということは、誰が見ても分かるというようなことではないのです。よく勉強したら分かるようになるというとことでもありません。それが分かるためには、ただ神様に示されるよりほかないのです。

 どうしてかというと、イエス様の救い主としてのお姿は、強さよりも弱さの中にあり、豊かさよりも貧しさの中にあったからです。奇跡を行って病を癒したり、世の欺瞞を暴いたり、そういう力強きイエス様の中に救い主の姿を見たという人もたくさんいます。しかし聖書をみますと、イエス様の強さだけを見ようとした人たちはみんな、イエス様の弱さを見て躓きました。

 ナザレの人たちは「あれはヨセフの息子ではないか」と、自分たちとまったく同じ育ち方をなさったイエス様に躓きました。律法学者や祭司たちは、律法を守らないイエス様に躓きました。イスカリオテのユダは、ローマ帝国の支配に対して沈黙を守り続けられたイエス様に躓きました。ペトロは大祭司の庭で、訴えられ、責め立てられるイエス様に躓きました。そして、多くの人々は、十字架で死なれたイエス様に躓きました。イエス様の力強さだけに神様の救いを見ようとした人たちは、イエス様のその弱さを見て躓いてしまったのです。

 みなさん、イエス様は、強さだけではなく、弱さをも身にまとって、私たちのところに来てくださったということを忘れてはいけません。か弱い赤ちゃんとしてお生まれになったイエス様、苦しみをお受けになるイエス様、十字架で死なれたイエス様、むしろのこのような弱さをまとったイエス様にこそ、罪を赦し、私たちをあるがままの姿で愛してくださる神様の限りない愛、救いの恵みがあったのです。

 私たちは強いイエス様だけを求めていないでしょうか。しかし、私たちに必要なものは、イエス様の弱さの中に隠されているかもしれません。罪を裁くイエス様ではなく、罪を負ってくださるイエス様。痛みも苦しみも知らない方としてのイエス様ではなく、痛みも苦しみも知り尽くしたイエス様。そのような中にこそ私たちの本当の必要があるのではないでしょうか。

 どうか、両親の腕の中で大切に守られているか弱い赤ちゃんのイエス様、言葉も業もない無力なイエス様、シメオンとアンナはそのような弱きイエス様のお姿の中に、まことの救い主の姿を見て、神様を讃美したということをしっかりと脳裏に刻みつけて欲しいのです。イエス様の救い、恵み、愛は、そのようなイエス様の弱さの中に豊かに宿っているのです。この奥義を示してくださるように、私たちもまた聖霊様の助けを祈り求めたいと思います。
桃果ちゃんの話
 ところで今日は、赤ちゃんのイエス様の中に隠されている恵みというお話でありますが、先日、教会員の佐々木真理さんが桃果ちゃんの本を出されました。桃果ちゃんは重い病気をもって生まれてきまして、生後10ヶ月で天に召されました。その桃果ちゃんが真理さんのお腹に宿ってから天に召されいくときまで、ご夫婦で一生懸命に桃果ちゃんを愛された記録が、この本なのです。私はそれを読みながら、あらためて弱さの意味、弱さの中に隠されている恵みというものを考えさせられました。その中から、「保育器の中の娘を抱いて」という文章をご紹介したいと思います。

 「裸ん坊の桃にお布団の許可が出る。ガーゼで作ってもよいとのこと。どんな小さなことでも、桃にしてあげられることができた喜びでいっぱい。急いで何枚かの布団を作り、届ける。主治医より、呼吸器を抜いてみるつもりであることを聞く。初めて管のついていない桃に会えるのはうれしい。管をとったら、もっともっと養生が豊かなんだろうナ。これと前後して保育器の中で桃を抱っこできた。小さな小さな桃、折れてしまいそうで恐かったけれど、初めて桃のぬくもりを感じる。夫も大感激! 桃果が起きているとき、目をあけている時間も多くなった。健常児と比べたら宇宙人のような桃だけど、私たちにとっては世界中で一番かわいい桃・・・。生きて!
 日々の病院通いの疲れから、夫と些細なことでケンカしてしまう。でも桃中心の生活なので、すぐに仲直り。疲れていて、お互いを思いやる気持ちがかけてしまったことを反省した。桃が軽い肺炎にかかり、呼吸器の抜管が延びていたが、ついに試みる。けれど体力がもたず、4時間後に再び管がいれられる。抜管に向けて母乳の量を減らしていたことが体力の低下につながり、再挿管後の桃は以前より苦しそうに見える。声こそ聞こえないが、よく背中を反らせて泣いている。痛いのだろう。つらいのだろう。大きな声を出すこともできず、母親の腕の中に甘えることもできず、ひとり保育器の中で耐えている桃。そんな桃を見ているのは、とてもつらい。」(佐々木真理、『空の星になった私のベビー天使』、主婦の友社)

 桃果ちゃんは人一倍小さくか弱く、はかない命をもって生まれてきた赤ちゃんでした。裸で保育器の中に寝ている。鼻に管を通されてやっと呼吸をしている。苦しくて泣いているようだけど、その声は聞こえない。それを見て、お母さんは「ひとり保育器の中で耐えている桃。そんな桃を見ているのは、とても辛い」と書いています。

 けれども、その心の痛みが大きれば大きいほど、桃果ちゃんへの大きな愛が溢れてくる様子がここに書かれていると思うのです。裸で寝ている桃果ちゃんにお布団の許可が出て、お母さんは「どんな小さなことでも、桃にしてあげられることができた喜びでいっぱい」と、桃果ちゃんのためにガーゼのお布団を作った時の気持ちを本当にうれしそうに書いています。また保育器の中の桃果ちゃんを抱っこして、「健常児と比べたら宇宙人のような桃だけど、私たちにとっては世界中で一番かわいい桃・・・。生きて!」と言っておられます。

 人一倍か弱い桃果ちゃんは、人一倍ご両親に愛された赤ちゃんだったんだなとよく分かるのです。そういう意味では、桃果ちゃんのか弱さというのは、桃果ちゃんがたくさんの愛をご両親から受けるための与えられた神様からの贈り物だったと言ってもよいのではないでしょうか。
 
赤ちゃんのイエス様の中に
 日本語というのはたいへん奥の深い言葉だと思うのです。「可愛そう」という憐れみの言葉と、「可愛い」という愛情の言葉は、同じ言葉なのです。また、小さな子どもの可愛らしさを表す「いたいけない」という言葉がありますが、「いたいけ」というのは「痛い気」「痛い気持ち」のことでして、心が痛むほどに愛らしいという意味なのです。弱く、貧しいものほど、強く、豊かな愛を受け素質をもっているのだということなのです。

 そういうことは、聖書に中にも見ることができます。パウロは、自分の病が癒されるように一生懸命に祈りました。どうもパウロには、苦痛が伴う持病があったようなのです。しかし、神様はパウロの病を癒されるかわりに、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で十分に発揮されるのだ」と祈りに答えられたというのです。この経験を通してパウロは、こういうことを言っています。

 「キリストの力が宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

 つまり、弱さは神の愛を知り、より大きな恵みを受けるための、神様からの贈り物だと言っているのです。

 それで私は、これはイエス様についても言えることではないかと思いました。桃果ちゃんが弱さのゆえにご両親にたくさん愛されたように、パウロが病のゆえに神様の恵みを深く知る者となったように、イエス様もまたご自分の弱さの故に、ご両親の愛を受け、保護を受け、また弟子たちの協力、婦人たちの奉仕を多くお受けになったのです。

 そして、それはイエス様を愛し、イエス様にお仕えする者たちの喜びでもなかったでしょうか。もしイエス様がただ強いだけのお方であったならば、イエス様は私たちの貧しい愛や奉仕など必要とされないのです。しかし、イエス様はそのような私たちの貧しい愛や奉仕さえ必要とされるような弱さをもって、私たちの所にきてくださいました。イエス様は、私たちに、イエス様を愛し、イエス様にお仕えしながら、イエス様と共に生きる喜びが与えてくださったのです。

 それから、もう一つ、桃果ちゃんが亡くなったあと、お母さんはこんな風に書いています。

 「たった10ヶ月の短い命だったけれど、桃を授かったことを感謝している。桃は苦しかっただろうに、小さな体で私たちにたくさんものをおいていってくれた。人の気持ちを思いやる心、人の痛みを分かる心、そして何よりも私たちに親になることを喜びを与えてくれた。一生懸命に生き、周りに夢や希望やかわいさをいっぱい残してくれた桃。」

 たくさんの愛を受けるために、神様は桃果ちゃんに弱さという贈り物を与えられた、実は桃果ちゃんの弱さの中に隠されている神様の恵みというのはそれだけではなかったのです。か弱く、はかない命をもった桃果ちゃんそのものが、ご両親への贈り物でもあったと、お母さんは書いているわけです。神様の恵みというのは、豊かさや強さの中にだけにあるのではありません。貧しさや弱さの中にも、豊かに溢れているものなのです。

 赤ちゃんとしてお生まれになったイエス様もそうです。神様が私たちに与えてくださったのは、奇跡を行われるイエス様、力強く教えられるイエス様、死の力をもうち破って復活されるイエス様の姿だけではありません。貧しい飼い葉桶の中に眠る赤ちゃんのイエス様、ご両親の愛と助けなくしては何もできないか弱い幼子のイエス様、迫害され、裏切られ、苦悶しながら祈り、十字架で死なれるイエス様、このようなイエス様のお姿もまた、神様が私たちに与えてくださった救い主のお姿なのです。

 パウロは、先ほどとは別の箇所ですが、このようなことを言っています。

 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(『コリントの信徒への手紙二』8章9節)

 「主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」と言われています。イエス様の弱さ、貧しさによって、私たちが強められ、豊かにされ、救われることがあるのです。私たちの貧しい愛や奉仕が、イエス様に喜んで受け取っていただけるということもそうでありましょう。しかし、それだけではなく、イエス様が私たちの弱さを優しさをもって理解してくださることもまた、イエス様ご自身がその弱さを身にまとってくださったからではありませんでしょうか。

 そのいたいけない赤ちゃんのイエス様を抱き上げ、シメオンはこのように讃美しました。「これは万民のために整えてくださった救いです」、どんな弱さの中にある人にとっても、どんな貧しさの中にある人にとっても、どんな負い目を負って悲しんでいる人にとっても、イエス様はすべての人の弱さを身にまとって生まれてくださった、すべての人の救い主である、そのことを今日、ご一緒に感謝したいと思います。
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