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前回は、マリアのもとに天使が訪れ、「あなたは身ごもって男の子を産むであろう。その子をイエスと名付けなさい。」と、まだ結婚をしていない処女マリアに神のお子のご懐妊をお知らせしたというお話をしました。
それは処女降誕といわれるイエス様の出生に関するお話です。とても本当の事とは思われないような話でありますが、イエス様が神様から贈り物であるということを物語る非常に大事なことなのです。つまり、イエス様が神に選ばれたのではなく、私たちが神様からイエス様を受け取る相手として選ばれたのです。
「神はその独り子を賜うほどに世を愛された」という聖書のお言葉があります。イエス様は、神様にとって最愛の独り子であり、ご自身そのものであり、天のあらゆる祝福を満たしたお方でありました。そのイエス様を、神様は愛の贈り物として私たちに与えてくださったのです。
マリアは「どうしてそのようなことがありましょうか」と、天使に問いました。私たちも同じように「どうして私のようになものに・・・」と思うかもしれません。自分は神の恵みに価にしないような人間だと思ってしまうのです。
しかし、天使は「いと高き神の力があなたを包み、あなたは聖霊によって身ごもるであろう。神にはできないことはないのだ」と答えました。天使は私たちに同じ事をいってくれるに違いありません。「神様の恵み深い力があなたを覆うでしょう。神にはできないことはありません」と。
マリアはこれを聞いて、「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と、実に素直な心をもって、神様の贈り物であるイエス様を我が身に受け入れました。
神様に対するこの素直な気持ちを必要としているのはマリアだけではありません。神様の贈り物は、マリアただひとりに贈られたのではなく、私たちすべてに対して贈られているのです。神様は私たちひとりひとりを同じように愛してくださっています。そして、私たちひとりひとりを、神の愛の贈り物の受取人として選んでくださっているのです。
私たちに必要なのは、ただ神様の贈り物を受け取り、それを私たちの喜びとすることではありませんでしょうか。どうぞ、神の賜る愛に覆われてください。神の力を受けてください。「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と、マリアのように素直に神様に心を開き、イエス様を神様からの贈り物として受け取って欲しいのです。
神様の愛も、力も、あらゆる祝福は、神様の贈り物であるイエス様のうちにあります。どんな時にもイエス様を信じ、愛し、心に堅く抱く者は、どんな時にも永遠の命を持ち、あらゆる天の祝福を持つのです。
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マリアの身に宿された神様のこの贈り物を、自分自身のものとして受け取るようにと真っ先に迫られたのが、マリアの婚約者であるヨセフでありました。
最初に思うことは、いったいマリアはヨセフにこのことをどう伝えたのかということです。あるいは何も語らなかったかもしれません。神様の恵みの体験というのは、本人にとってどれほど確かな体験であっても、それを言葉で人に分かってもらうということはとても難しいのです。
私もそういうことを経験することがあります。どんなに伝えようとしても、その人自身が神様を体験するのでなければ、決して分かってもらえないという寂しさを感じることがあるのです。ですから、マリアは話をしなくては思いながらも、どう伝えて良いか迷っているうちに、時がどんどん流れって行ってしまったということも十分に考えられると思うのです。
しかし、黙っていてもいずれ知られるときが来ます。ついにヨセフは、マリアの妊娠の事実を知ったのです。ヨセフにとってまったく身に覚えのないマリアの妊娠でありました。どのようにそれを知ったのかは分かりません。思い切ってマリアがヨセフに話したのか? それともマリアを見ているうちに自然に気がついたのか? あるいはマリアの妊娠に気づいた誰かが、ヨセフにそれを伝えたということも考えられます。
いずれにせよ、ヨセフはこの事実を知って、大いに怒り、悲しみ、悩み、苦しんだに違いありません。19節にこうあります。
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」
この短い文章に表されているのは、ヨセフの到達した結論に過ぎません。この結論に至るまで、ヨセフは暗い、暗い心のトンネルを苦しみ悶えつつ通ってきたのではないでしょうか。そして、ようやく「マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と言われているのです。
このヨセフの気持ちを考えると、ヨセフが正しい人であったと、聖書が書いてあることにもうなずけます。ヨセフはこの上なく善良であり、正直であり、誠実な人でありました。ヨセフは自分がこれだけ傷つけられていながら、マリアを傷つけまいと考えるのです。このようなヨセフの優しさを、正しさを感じるからこそ、私たちがこれを読むときには、なおさら「縁を切ろうと決心した」とヨセフの心の痛みを感じるのです。
優しい人ほど、正しい人ほど、心に痛みを持ち、悩み、苦しむということがあります。それは、優しい人、正しい人は、人の痛みに敏感であり、人を傷つけまいとするからです。そして、人の痛みまで自分で背負ってしまうからなのです。
しかし、神様はこのような人をご自分の友としてくださいます。神様ご自身がまさにこのようなお方だからです。
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ヨセフが一つの結論に到達した日の夜、天使がヨセフの夢枕に立ちました。その声は、ヨセフに対する神の優しさに満ちていたに違いないと、私は想像しています。
「ダビデの子、ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって身ごもったのである。マリアは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」
神様はヨセフの苦しみを知っていてくださいました。それだけのことでヨセフの苦しみは半減したに違いありません。あとは神様の言葉を信じれば良いのです。「マリアは聖霊によって身ごもったのだ。マリアの胎の子は神のお子なのだ。私たちの救い主なのだ。」これを信じれば、ヨセフの苦しみは消えるのです。
24節を読んでみましょう。
「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」
夢を見ることは誰にでもあることです。ヨセフが見た夢は、まさに寝ている間に見た夢ですが、私たちの見る夢はそれだけではなく、心の夢というものもあります。
2001年度のノーベル化学賞を受賞された名古屋大学教授の野依良治さんは、小学生の頃、化学繊維のナイロンを見て、化学というのは本当に素晴らしいものだ、自分も化学者になろうという夢をもったそうです。しかし、夢を持つだけではノーベル賞はとれません。夢を信じ、夢を実現しようと行動したからこそ、それを手にしたのです。ヨセフも夢を見ただけではなく、夢を信じ、主が命じられた通りにしたと言われているのです。そして、マリアとその子を自分の人生に受け入れたのであります。
イザヤ書66章2節にこう言われています。
「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」
まさにヨセフにふさわしい言葉ではないでしょうか。苦しみ、砕かれ、しかし神の言葉に対する恐れをもって、マリアの胎の子を神様からの贈り物であると信じ、これを受け取ったのがヨセフなのです。
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ところで、みなさん、マリアとヨセフは実に対照的な仕方で、神様の贈り物であるイエス様を受け取りました。
マリアは、ヨセフとの結婚を控えていて、ささやかでありますが平和で明るく幸せな日々を送っていたのです。そこに天使が現れて、「あなたは子供を産む」と言いました。このことで、マリアは一遍に悩める女性になってしまうのです。
一方、ヨセフは深い悩みの中にありました。そこに天使が現れて、「マリアは聖霊によって身ごもったのだ」と言います。天使の言葉は、ヨセフの悩める心に光を与えました。
神様が私たちにイエス様をお与えになる時にも、このような二通りの方法があります。ある人は神様の言葉を聞いて、かえって悩みの中に陥るでしょう。ある人は、神様の言葉を聞いて、光を得るでしょう。そのどちらにしても、それは私たちが神様の贈り物であるイエス様を受け取るための、神様の方法なのです。マリアも、ヨセフも、神様の言葉を聞いて、それを信じ、それを受け入れることによって、イエス様を受け取ったのだということを覚えたいと思います。
聖書にはこう書いてあります。
「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』 この名は『神は我々と共におられる』という意味である。」
私は、この言葉に一つの有名な詩を思い起こします。みなさんもご存じかもしれませんが、「足跡」という詩です。
ある夜私は夢をみた イエスさまと一緒に 砂浜を歩いていた 私の人生の ひとこまひとこまが
空いっぱいに 映しだされた
どの場面にも 二人の足跡が 砂の上についていた ひとつは私のもので
もうひとつは イエスさまのものだった
私の人生の最後のシーンが
映し出されたとき 私は砂の上の足跡をふりかえってみた
なぜか ところどころ
一人分の足跡しかないことに気づいた しかもそれは私の人生の どん底で いちばん悲しい時だった 私はどういうことか わからず
イエスさまにたずねた
『イエスさま 私があなたに従うと決心してから
いつも一緒に歩いてくださると
約束してくださったではありませんか
それなのに私の人生で
一番辛い時 一人分の足跡しかないのです
なぜ私があなたを最も必要とした時
私をみすてられたのですか 』
イエスさまはこう言われた
『私の大切な子よ 私があなたから離れたことは
いちどもなかった
あなたが試みにあって苦しんでいた時 一人分の足跡しかないのは
そのとき 私はあなたを背負っていたからだよ』
みなさん、イエス様は神様から贈り物です。神様は、私たちにイエス様を与え、イエス様によっていつも私たちのそばにいてくださろうとしてくださっているのです。感謝をしましょう。そして、御言葉を信じ、御言葉に従う歩みを初めて、イエス様を愛し、喜び、イエス様を心に堅く持つものになりましょう。御子を持つ者は命を持つのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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