「マリアへの誕生の知らせ」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書1章26-38節
旧約聖書 雅歌5章2-8節
神の目にとまったナザレのマリア
 今回はナザレに住むマリアという娘のもとに天使が訪れ、神のお子である男の子を身ごもることを知らされたというお話であります。

 マリアがどのような家に育ち、どのような少女時代を過ごしてきたかということは、何も伝えられていません。そして、ナザレ村というのは、今でこそイエス様のお育ちになった村として知られていますが、その頃は宗教的にも、歴史的にも何ら重要な場所ではなかったようです。注意を払わないで通り過ぎてしまうような小さな田舎の村だったのです。

 しかし神様は、このナザレでひっそりと暮らしているマリアという娘に目を留められ、神のお子の母としてお選びになったのでした。

 みなさん、私たちもナザレ村に住んでいる一人かもしれません。自分の生活は、自分にとってこそ重要なものではありますが、神様にとっては何の関心もないつまらない人生ではないかと思えてくるときがあるのです。しかし、このような私たちの小さな人生にも、神様は目を留められ、愛する独り子をお与えになろうとしてくださっています。

 そういう風に考えますと、ナザレ村に住むマリアが神のお子を宿したという話は、神様にとってどうでもいい人間など実は一人もいないのだという神の深い愛を物語っているのではないでしょうか。

 C.S.ルイスの『悪魔の手紙』という本があります。その中に、地獄の研修施設でなされた悪魔の晩餐会という場面がありまして、一人の悪魔が並べられたご馳走を前に朗々と演説するのです。

 「ああ、今ひとたびファリナータかヘンリー八世、せめてヒットラーでもいいからかぶりついてみたい。あの本物のパリパリした歯ごたえ。噛めば噛むほどに味のある猛然たる憤怒、独善、残忍。これらはわれわれにひけを取らぬほど豪傑でありました。のどを通る時のあのジタバタするえびの踊りのような味わい。飲み下せばはらわたにジーンとしみわたるあのぬくもり。それがどうです。この今夜の献立ときたら。汚職ソースあえの高級官僚というのがありましたね。あれこそまぎれない小物です。それから浮気男浮気女の抱き合わせ煮。率直に言いまして、メッサリーナとカザノーヴァの味を知る身としてしましては、胸の悪くなるようなしろものでした。だが次の点が肝心です。そりゃあこんな霊魂、と申しますか、霊魂なりしもののふやけてとろけた残りかすのようなものなんか、地獄に墜としてやるだけの値打ちもなかろう、と言いたいところであります。ところがです。敵は、何のへそ曲がりな理由があってのことか、見当がつきかねますが、ともかくそんな魂でも救う値打ちがあると考えたのであります。」

 悪魔が「敵」と呼んでいる人こそ、イエス・キリストです。そのイエス様が、地獄におとしてやる値打ちもなかろう魂でさえ、救う価値があるとして根こそぎ天国に連れ去ってしまうことに、悪魔が危機感を覚えているという話なのです。

 神の愛、救い主の愛は、かくも悪魔を脅かし、うち負かすほどに広く、高く、深く、力強いのです。私たちは神に愛されているのです!
天使の訪問
(聖画
 取るに足らぬ無きに等しい者にも神のお子を与え給う神様の愛! その愛をもって、天使はマリアのもとに訪れたのでした。

 天使の出現などと言いますと、急に話にリアリティが感じられなくなってしまって、興ざめしてしまう人もいるかもしれません。やっぱりキリスト教というのは作り話ではないか? イエス様を神格化したい人たちが考え出した宗教ではないか? このように天使が信じられない人は、神様の愛も信じられないに違いありません。

 しかし、天使は本当にマリアのところにやってきたのです。ただし、その天使に羽根も無ければ、白い衣も着ていなかったかもしれません。普通の旅人と何ら変わることのない姿で、埃まみれになりながら、汗を拭き拭き、とぼとぼ歩いてナザレの町にやってきたのかもしれません。マリアの家の前までくると、おもむろにその戸をノックして、マリアに戸を開けてもらうまで外でじっと待っていたと考えても悪くありません。

 少なくとも、聖書には天使が空から舞い降りてきたなどとは書いてありません。光輝く衣を身につけていたとも書いてありません。天使に対するそういうイメージこそ、後世の人たちが造ったイメージに過ぎず、決して聖書が伝えていることではないのです。

 聖書に書いてあるのはただ、神様から遣わされて、神様の目的をその人に果たすためにやってきた人がいた。それが天使であったということなのです。

 『ヘブライ人への手紙』13章2節には「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」と教えられています。天使はしばしば、何の不思議でもなく、それとはまったく気づかない仕方で人間のもとに遣わされているのだというのです。

 確かに天使は天の存在であって、人間とは違います。しかし、いつも人間と違う仕方で訪れてくるというわけではないのです。時には、旅人の姿で、何の不思議でもない仕方で、しかし神様の目的をもって私たちに近づいてくることがあるのだと言うのです。

 そうしますと、もしかしたら私たちも天使に出会ったことがあるかもしれません。それは白い羽根をもった人ではないかもしれません。光の中に包まれて現れる神々しい人でもないかもしれません。しかし、私たちのために、神様の目的を果たそうとして、神様が遣わしてくださった人が、今までの人生の中にあったとしたら、もしかしたらその人は天使であったかも知れないのです。

 その人が人間であったか、天使であったか、そんなことは今ではもう分からないと思います。しかし、意外と、天使は私たちの身近にいるものなのです。
戸惑うマリア
 しかし、いくら天使が身近にいたとしても、問題が一つあります。人間は、必ずしも天使の訪問を歓迎しないということです。

 これについては、マリアも例外ではありませんでした。ノックの音を聞いて、マリアが戸を開けると、そこには見知らぬ人が立っていました。その人はいきなり「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます」と、不思議な挨拶をします。マリアは、「この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」と、聖書に書かれています。有り体に言えば、マリアは突然のちん入者に困惑の色を隠せなかったのです。

 それを見て取ったその人は、すかさず「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」と言います。しかし、マリアはそれを聞いても、ますます困ってしまうばかりなのでした。

 というのは、この時、マリアはヨセフという青年と婚約をしておりました。ユダヤ人社会での「婚約」は、法的には「結婚」と同じで、二人はすでに夫婦と見なされていたのです。生活の上ではまだ夫婦ではありませんが、法的にはマリアはすでにヨセフの妻であったと言ってもよいわけです。マリアはヨセフと共に暮らす日を楽しみに待って、ただただ無事を祈りつつ、毎日幸せに生きていたに違いありません。

 ところが、天使は突然マリアの平和の生活の中にちん入してきて、このささやかな祈りをぶち壊すようなことを言い出したのです。

 天使が遣わされてくるということは、私たちの人生に神様が介入してくるということです。人間が天使の訪問を必ずしも歓迎しないと言ったのは、ここに理由があります。それは私たちにとって願ってもないことである場合もありますけれども、逆にそれによって私たちの無事な暮らしが壊されてしまうかもしれないという不安が生じるのです。

 テネシー・ウィリアムズという人の『ガラスの動物園』という戯曲があります。ローラという主人公が、母と兄と三人で暮らしているのです。ローラは足が不自由で、そのコンプレックスのために引っ込み思案で、家に閉じこもりがちな女性となってしまっています。そして、ガラス細工の動物たちをコレクションし、自分の部屋でそれを友達のように可愛がって生活をしているのです。

 このガラス細工の動物というのは、実はローラの壊れやすい、か細い心を象徴しています。ローラは、このガラス細工が壊れないように壊れないように大切しながら、実は自分の心が傷つかないように傷つかないように内に閉じこもった生活をしていたのです。

 お母さんとお兄さんは、このようなローラを心配して、ローラに出会わせようとして一人の男性を家に招待しました。しかし、ローラはそのことを非常にプレッシャーに感じ、自分の繊細な生活に突然押し入ってこようとする訪問者をなんとか拒否しようとするのでした。本当をいえば、ローラとて男の人との素晴らしい出会いを期待しているわけです。けれども、いざ男の人が来るという現実の話になりますと、急に臆病になり、今のままで十分幸せなのだからと言い張ってしまうのでした。

 私たちには皆、このローラのようなところがあるのではないでしょうか。神様は、私たちの人生に関心を持ち、積極的に関わろうとしてくださっています。しかし、いざ神様が私たちの人生を取り扱おうとなさると、私たちは壊れやすいガラス細工を守るように、繊細になり、臆病になって、神様の介入を頑として拒んでしまうのです。

 しかし、みなさん、神様が私たちのうちにイエス様の命をお与えになろうとされる時には、必ず私たちの古い命、古い心をを粉砕されるのです。

 ペトロがまだガリラヤの漁師であったときの話です。自分が一晩中苦労して漁をしたのに一匹の魚も捕れなかったとき、主が「もう一度沖に出て網をおろしなさい」と言われました。ペトロはどうぜ無駄であろうと思いながらも、「お言葉ですから、やってみましょう」と言って、舟を出します。そして、言われたように網をおろしてみると、網がはちきれんばかりの魚が捕れたのです。

 ペトロはイエス様のもとにかえってきて、その足下にひれ伏し、こういいました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」ペトロは、イエス様の尊さを知って、とても自分などイエス様の弟子になれないと、自分は何の値打ちもなく、取り柄もない者だと、心をうち砕かれたのでした。

 みなさん、主の御手によってうち砕かれ、打ちのめされることがあっても、決して気力を失ってはなりません。ペトロがそのように打ち砕かれたのは、主の御心によるものでした。ペトロの空しくされた心の中に、イエス様がお住みになるためだったのです。

 私たちは毎日「御国を来たらせ給え。御心を為し給え」と祈っていますが、本当に神様が自分の人生に御力をもって介入してくださることを願い求めていると言えるでしょうか。「そうです。私には、神様がしてくださるということは何よりも重要であり、必要なのです」と仰るならば、どうぞ神様があなたの人生に何かをなさろうとしておられる時、それを恐れないでください。たとえ、それが試練であっても気力を失わないでください。

 神様があなたに遣わされる天使は、必ずしもあなたの望むものを持ってくるわけではないかもしれません。なぜ、神様が私にそのようなことをなさるのか、まったく理解できないということもありましょう。

 しかし、それは必ず祝福となるのです。たとえ、今まで大切にしていたガラスの動物が壊されるとしても、神様はそれに変わる素晴らしいものを、神のお子イエス様の命を、私たちの心に住まわせ、私たちの人生に与えようとなさっているのだということを信じて欲しいのです。
マリアの素朴な信仰
 マリアも打ちのめされていました。「どうして、そんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と、マリアは答えます。しかし、天使は答えました。「聖霊があなたに降り、神様の著しい力があなたを包むでしょう。神様にはできないことは何もありません」

 マリアは、この天使の言葉のすべてを十分に理解にはしなかったかもしれません。最初の戸惑い、困惑がなくなったわけではないかもしれません。しかし、マリアは天使に「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と答えたのです。

 マリアの信仰の真髄がここにあります。「神様のなさることならば、わたしにはもう何も申し上げることはありません」という信仰は、素朴と言えば素朴です。しかし、たとえ私たちがどんなに考えたって神様のご計画のすべてを知り尽くすことはできません。神は愛なり。神はどんなことをも成し遂げる力をもって、私たちの人生に関わってくださっている。そのことを素朴に信じることが大切なのです。それは、自分を空しいことを知り、自分の運命を神様の力強い御手に委るということでもあります。

 みなさん、マリアは、この素朴な信仰をもって、神のお子を身に宿したのです。私たちもまた「お言葉通り、この身になりますように」との素朴な信仰をもって、心に神の命を宿したいと願うのです。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp