「イエス・キリストの系図」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書1章1-17節
旧約聖書 ヨブ記42章1-6節
イエス様を知る価値
 イエス様のご生涯を物語る出来事に、こういう話があります。「イエス様! イエス様!」と、両手をあげてイエス様を歓迎した大勢の群衆が、その数日後、手のひらを返したように「イエスを十字架につけろ! 十字架につけろ!」と狂ったように叫び続けたというのです。

 逆にこういう話もあります。パウロは、キリスト教に批判的な態度をとり続けてきました。しかし、ある日、天からの光に包まれて、「なぜ、わたしを迫害するのか」というイエス様のみ声を聞きます。このたった一回の経験で、パウロはその人生を180度かえられ、一生涯、イエス様に対する喜びに溢れて生きる者になったというのです。

 このように、イエス様を知っても自分というものが少しも変わらない人と、イエス様を知ることによって自分がまったく変えられてしまう人がいます。この違いはいったい何なのでしょうか? 

 私たちがこれからイエス様のご生涯を学びつつ礼拝するというのは、イエス様を知ることの最大の価値は、イエス様によって自分がまったく変えられるということにあります。しかし、イエスについての教養を身につけたり、その教えをから何かを学び取るということだけでは、新しい人生を手に入れることはできないのです。

 知ることよりも、生けるイエス様に出会うという魂の体験が大切なのです。そして、私たちがイエス様の愛の中に生かされていることを知り、イエス様が私たちの人生の中に生きてくださっていることを認めざるを得ないような体験をすることです。

 これからイエス様のご生涯について御言葉を学んでいきますが、この学びが単に知識の積み重ねに留まらず、イエス様との驚くべき出会いへと私たちを導くことができますように。そして、イエス様によって新しい人生、新しい生活が始めることができるようにと、お祈りをしております。
これは雲の上の話ではない
 今回は「イエス・キリストの系図」をご一緒に学びます。イエス様を知るために本当にこんな系図が必要なのかと、誰もが最初はそう思うのです。

 これを見ていると、日本語を知ってる人ならば誰でも分かることが一つあります。イエス様の「イ」の字も知らない人でもいいのです。ただ眺めているだけ分かってしまうことがあるのです。

 答えは、カタカナがいっぱいあるということです。「なあんだ」と思われるでしょうが、カタカナというのは外来語を日本語で書くときに使うのです。ですから、このカタカナだらけのページを見ただけで、これは見も知らぬ外国の話だ、これが自分とどんな関係があるのかと、聖書を読もうって気がなくなってしまうという人もいるのです。

 けれども、いくらこれが見も知らぬ遠い外国の話だとしても、決して雲の上の話ではありません。神様の住み給う天国に比べれば至極身近な私たちの生きているこの地上の国の話なのです。

 また、いくらこれが遠い昔の話だとしても、神様が天地を造られる以前、私たちの想像力を越えたはるか永遠の昔から考えれば、十分に私たちの想像力でまかなえる身近な時代の話だと言えましょう。

 そう考えれると、この系図は、イエス様が決して雲の上の人ではないということを物語っているのです。しかも、そのお方は神様によって生まれた神の御子である、ということなのです。

 遠い雲の上の存在である神様が、私たちが生きているこの世界に来てくださった、人間の歴史の中に、イエス・キリストのご人格と生涯という形で現れてくださった、そこからイエス様のお話が始まっているということなのです。

 そのことを『ヨハネによる福音書』1章では、「神の言葉が肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」という、独特の形で語っています。イエスのご生涯は雲の上の話ではなく、わたしたちの生きている現実世界に、神様が恵みと真理をもって現れてくださったということだというのです。

 イエス様のご生涯は、神様が私たちに与えてくださった大いなる賜物です。私たちに対する愛に満ち、救いに満ちた神の賜物なのです。だから、私たちはイエス様について知るといよりも、イエス様を神様からの贈り物としてを受け取って、イエス様を人生の中に受け入れ、イエス様によって私たちが変えられることが大切なのです。

 その為には、イエス様のご生涯、ご人格が、いかに私たちの人生、命と深い関わりをもったものであるかということを知らなければならないでありましょう。そのために、この系図は、イエス様は決して雲の上の人ではない、私たちの生きているこの地上の世界に生まれ、現実の世界のただ中で、恵みと真理に満ちた神様の栄光を見せてくださったお方だと言っているのです。

 イエス様は、私たちの人生に関わりを持とうとして、私たちの生きているこの罪深い世界のただ中に来られたのです!
偉大な目的に向かって
 もう少し系図の内容に踏み込んだ話をしてまいりましょう。といっても、この系図から知りうるすべてのことをお話しするわけにはまいりません。なんといってもこれはアブラハムからイエス・キリストまで2000年の歴史を語る系図なのです。そこには多くの人たちが生まれ、子を産み、地上を去っていきました。それは決して単純なことではないはずです。

 たとえば「アブラハムはイサクをもうけ」とあります。「アブラハムはイサクをもうけ」というのは、アブラハムの人生に神様の奇跡が起こった意味しています。アブラハムは、子供が生まれない妻サラとの間に子供を与えてくださるという神様の約束を信じ、望みが消えゆくような経験を何度もしながら、10年待ち、20年待ち、25年待ちました。そして、人間的にはまったく望みのない状態に陥ったところで、神様は約束の子イサクをアブラハムにお与えになったのです。

 つづいて「イサクはヤコブをもうけ、ヤコブはユダとその兄弟たちをもけ、ユダはタマルによってペレツとゼラを・・・」とあります。イサクの人生、ヤコブの人生、ユダとその兄弟たちの人生にも、それぞれ人間くさいドロドロとした話がいっぱいある人生であります。

 たとえばヤコブは兄エサウを騙して父イサクの跡継ぎとなる権利を騙し取ってしまいます。ユダとその兄弟たちは、父に溺愛されている弟ヨセフをねたんで深い穴の中に落としてしまいます。しかし、後にそのヨセフがエジプトの宰相にまで出世して、兄たちを救うのです。

 それから「ユダはタマルによってペレツとゼラをもうけた」とありますが、これもまたお話しするのが嫌になるくらい酷い話です。タマルはユダの長男エルと結婚しますが、エルは何かしら神様の怒りを受けて死んでしまいます。子供のいないまま未亡人になってしまったタマルは子供ほしさに、娼婦を装い義理の父であるユダを誘惑し、ユダの子を身ごもったというのです。

 アブラハムからイエス様の誕生に至るまで、たくさんの人々の名前が連ねてありますが、そのすべての名前の中に、このような醜い人間のドロドロとした人生がこめられていると言っても過言ではありません。

 もうひとつだけお話ししますと、6節には「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。なんと、この系図は、ダビデが人妻と姦淫をしてソロモンをもうけたというのです。しかも、ダビデはその人妻を自分のものにするために、夫であるウリヤをある計略をもって殺してしまうという話が旧約聖書に記されています。そういった人間の醜さ、罪深さ、危うさというものをすべて内に含みつつ、この系図の中の人間の歴史が進んでいくのです。

 罪深い人間の歴史はどこに向かって進んでいくのでしょうか? 破滅でしょうか? そうではありません。この系図が指し示しているのは、罪深い人間の歴史が、神の奇跡や憐れみなどを受けながら、イエス・キリストに向かって進んでいくというのです。どうしようもなく醜い人間の、どうしようもなくドロドロとした歴史が、神様の偉大な目的に向かって粛々と導かれていったという、まったく驚くべき事実がこの系図の中に書かれているのです。

 みなさんは、自分の人生をどうしようもない惨めな人生だと思ったことはないでしょうか。箸にも棒にかからない自分の人生が、まして神様の御手にかかるなんてことはあり得ないと思ったことはないでしょうか。しかし、この系図が物語っているのは、その箸にも棒にもかからない私たちの人生が、実は神様の愛の御手によって力強く支えられ、救い主イエス・キリストとの出会いに向かって導かれているということなのです。

 このようにいうことができましょう。神様のどうしようもない人間の罪深い現実の中に救い主イエス様をお送りくださった。そして、どうしようもない人間のすべてをイエス様の祝福の中に包み込んでくださった。そういうことが、この系図によって示されているのです。
神様に期待しよう
 本当にそんなことを言えるのか、半信半疑の人もいるでしょう。忘れてはならないのは、それは神様がしてくださることだということです。自分で頑張ろうとする人は、自分の貧しさに、弱さにがっかりするでしょう。他人に頼ろうとする人は、人の心の冷たさや、無理解や、身勝手さに失望させられるでしょう。

 もとより弱い人間なのです。自分にも、他人にも、期待しすぎる方が酷というものです。どうぞ、神様に期待してください。自分が何をしてきたのか、人が何をしてくれるかではなく、神様が何をしてくだったのか、何をしてくださるのかに目を注ぎ、そこに希望を持つのです。

 神様は、最初、アブラハムに「あなたの子孫によって地上のすべての国民は祝福に入る」と約束なさいました。約束なさった神様は、人間のどんな弱さにもかかわらず、人間の罪深さにも関わらず、人間のどんな愚かさにもかかわらず、恵みを持って、忍耐を持って、これらの人々の人生を支え、導き、すべての人の救い主なるイエス様を、アブラハムの子として生まれさせてくださったのです。

 ヨブ記にこう書いてあります。

「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました」

 神様がしてくださるならば、どのような私たちでありましても、私たちの人生の中にイエス様が来てくださり、私たちの人生をイエス様の祝福の中に入れてくださるのです。私たちはイエス様によって変えられるのです。神様がそれをしてくださる。そこにこそ私たちの希望が、期待があるのです。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp