アブラハム物語 30
「墓にある者みな神の子の声を聞きて」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙11章13-16節
旧約聖書 創世記23章1-20節
はじめに
 妻サラが息を引き取ったとき、アブラハムは二つのことをいたしました。一つは、妻サラのために悲しみ、声をあげて泣いたということです。
 これについては先週お話をいたしました。クリスチャンは救われているのだからもう悲しんではいけない、と思う方がいらっしゃるならば、決してそうではないということをお話ししたのです。

 私たちの人生、私たちの心は神様の大きな愛の御手で支えられています。ですから、たとえどんなに悲しみに沈んでも、悲しみの底なし沼に溺れることはありません。神様の御手が私たちの悲しみを底の方でしっかりと支えてくださっているのです。悲しみの果てに私たちがたどり着くのは、神様の御手の中です。その御手に捕らえられて、私たちに心に慰めが訪れ、悲しみから引き上げられるのです。

 ですから、私たちはどんな深い悲しみにも、このようにやがて神様の慰めの時が訪れることを、深いところで信じることができます。それだからこそ、クリスチャンはいたずらに悲しむことを恐れる必要はないのです。むしろ、悲しいときに悲しむことができることを神様の救いと感じることが出来る、それがクリスチャンの救いです。

 さて、アブラハムがしたもう一つのことは、妻サラのために墓地を購入し、そこになきがらを葬ったということです。アブラハムは土地の人々(つまりヘトの人々)に、墓地のための土地を購入を申し出ました。土地の人々は、アブラハムに好意を抱いていたので快く墓地を提供しようとします。そこでアブラハムは、それならマムレの樫の木の近くにありますマクペラの洞窟を売って欲しいと、その所有者であるエフロンと交渉し、銀400シェケルを支払って洞窟とその付近の畑を購入したのです。そして、そのマクペラの洞窟に愛する妻サラの遺体を丁寧に葬ったのでした。

 今日は、このサラの埋葬から話から、いくつかのお話をさせいただきたいと思います。
ヘトの人々の好意
 最初のお話しは、アブラハムは土地の人々から、とても好意をもって見られていたということです。3-4節にこう書かれています。

 「アブラハムは遺体の傍ら立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。『わたしはあなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたの所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです』」

 するとヘトの人々、つまりそれが土地の人々であったのですが、彼らはアブラハムの申し出に対して、こう答えました。

 「どうか、御主人、お聞きください。あなたは、私どもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません」

 このヘトの人々の言葉を聞きますと、彼らがアブラハムに対してとても好意をもっているということが分かります。それどころか、「あなたは、私どもの中で神に選ばれた方です」と、ある種の畏敬の念を抱いているということまで感じるのです。きっと、アブラハムには自分たちには無い何かがあるということを敏感に感じ取っていたのでありましょう。

 その「何か」というのは、アブラハムの人間性に関わることではなかったと思われます。アブラハムもヘトの人々と少しも変わることのない人間でした。アブラハムもまた、弱さがあり、悩みがあり、失敗があり、多くの欠け、破れをもった人間だったのです。たとえ、アブラハムが親切な人間であり、勇敢な人間であり、他の人々より高い水準の道徳に生きる人間であったとしても、そういう人はヘトの人々の中にも一人や二人いたことでありましょう。ヘトの人々は、アブラハムが神のように偉大な人であったと思っていたわけではないと思います。

 それにも関わらず、ヘトの人々がアブラハムに何か違うものがあるを見ていたのは、「アブラハムには神が共におられる」ということだったのではないでしょうか。たとえアブラハムの人間的な弱さや貧しさを目撃したとしても(たとえばサラとハガルによるお家騒動などはその一例でありましょう)、ヘトの人々はアブラハムを見て、この人は格別に神様に愛されている人間だということを感じ取ってきたというのであります。

 みなさん、イエス様が「あなたがたは世の光である」と言われ、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われたことを思い起こしたいのです。私たちのもっている光、それはたとえ私たちが弱くても、罪深くても、欠けに満ち、破れに満ちた人間であっても、なお神に愛されているということからくる心の輝きではないではないでしょうか。

 私たちは人々から「立派な人だね」、「いい人だね」と言われる必要はありません。しかし、「神様に愛されているんだね」と言われる人間にならなくてはいけないと思うのです。なぜなら、神様はその独り子に給うほどに、私たちを愛してくださっているからです。その神様の愛を救いとして生きているということが、「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい」ということなのです。
墓地の購入
 さて、ヘトの人々はアブラハムに好意をもって「どこでも好きな場所をお選びください」と答えました。そこでアブラハムは、「十分な支払いをしますから、エフロンが所有する畑とそこの洞穴を譲ってください」と頼んだのでした。

 すると土地の所有者エフロンが進み出て、「それはあなたに差し上げますから、どうぞそこに亡くなった方を葬ってください」と、アブラハムに言います。たいへん有り難い申し出であったわけですが、アブラハムは「いいえ、ぜひその代金を支払わせてください。」と答えたのでした。

 エフロンは、「あの土地は400シェケルほどのものですが、どうぞそんなことは言わず受け取ってください」と、もう一度アブラハムに申し出ます。しかし、アブラハムは頑としてその申し出をことわり、人々の見ている前で400シェケルをエフロンに支払い、畑と洞窟、またそこに植わっている木々までを購入したというのです。

 アブラハムがエフロンの好意を受けずに、どうしてもお金を払いたいと申し出たのはどういうこことなのでしょうか。

 実はアブラハムには以前にもこういうことがありました。創世記14章にある話ですが、メソポタミヤから見たケドルラオメル王の連合軍が、アブラハムの住むカナン地方の王たちに戦いを挑んだのです。カナンの王たちは戦いに敗れ、財産を略奪され、多くの人々が捕虜とされました。アブラハムは寄留者ですから、その戦いに加わらないでいたのですが、メソポタミヤに連れて行かれる捕虜の中に甥であるロトも一緒にいることが分かるのです。そこでアブラハムは僕たちを引き連れて、ケドルラオメルを追跡し、ついにこれをうち破って捕虜を解放し、財産を取り戻します。

 こうしてアブラハムが帰ってくると、カナンの王たちの一人であるソドムの王がアブラハムを出迎えにきて、こう言うのです。「人は私たちにお返しください。しかし財産はあなたがお取りください」その時、アブラハムはこのソドムの王にこう答えました。「あなたのものは、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラハムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません」

 このようにソドムの王からの申し出を断ったこととエフロンからの申し出を断ったことはよく似ています。それはアブラハムはその生き方において一つの決まり事があったことを教えてくれるのです。その決まり事とは、神様の御手から受け取るのではなければ、決して贈り物は受け取らないということです。

 これを理解するのはなかな難しいことかもしれません。ただ私は自分自身こういう経験があるのです。私は最初、牧師になることを非常に迷っていました。しかし、祈りつつ、そのことを決心した時のことであります。私はこう祈ったのです。「神様、あなたが本当に私を牧師になさるつもりでしたら、私の必要をすべて満たしてください。その代わり、私もこれからはあなただけを当てにしていきます」そして、私は祈りに基づいて、神学校生活を送る上で一つのルールを自分に課しました。それはどんなお金に困っても借金はしないということでした。たとえ一時的であっても、金額がわずかであっても、借金はしないで、神様に必要なものを祈り求めるということを決めたのです。

 実際、私は幾たびか、お金に困ることがありました。教会に行く交通費や献金すらなくなりそうになる時があったのです。親に電話をすれば1万円ぐらい送ってくれたかもしれませんし、友達でも5000円ぐらいすぐに貸してくれたでしょう。しかし、私は、それをしないで神に祈ったのです。するといつも不思議な形で、私の必要は満たされました。

 このようなことは、信仰者すべてがそうあるべきであるということではなく、一人一人の信仰や祈りに基づいて、神様との個人的な約束ということになるのではないかと思います。アブラハムがソドムの王からの贈り物を受け取らなかったり、エフロンからの贈り物を受け取らなかったのは、贈り物を受け取ることが悪いことではなく、アブラハムが信仰に基づいて神様とのそのような約束をもって生きていた、それが大切だったということなのです。

 それは、アブラハムは自分の家族や生まれ故郷を離れて、見知らぬ土地に来て、そこで神様に従う生活をしたわけですから、神様だけを本当に当てになるお方であるということを、そのような約束を思い起こしながら確認していたのではないかと思うのです。
サラの葬り
 最後に、サラの葬りについてお話をしたいと思います。19節にこのように言われています。

 「その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。」

 みなさん、クリスチャンにとって墓地とはどのような意味をもっているのでしょうか。荒川教会にも墓地があります。墓地の購入は先代の勝野和歌子先生の悲願でもありまして、実は11年前、私が荒川教会に来て最初に取りかかったのがこのことでありました。最初は牛久に墓地の候補地があるということで役員の方と一緒に見に行きました。しかし、あまり良い印象を受けずに帰ってきたのです。

 しばらくして、ある信徒の方から今のラザロ霊園についての情報を戴きました。そして、さっそく幾人かの方々とその墓地を見に行ったのです。キリスト教の霊園であること、そして共同墓地として十分なカロートを持つことができること、周囲の環境も良いこと、教会からも車であれば一時間ぐらいで行けること、その時はぜひここに荒川教会の墓地が欲しいと思いました。

 しかし、墓地の購入には500万以上のお金が必要です。そんなお金はどこにもなかったのでした。まず、教会員みんながどうしても墓地を購入しようという祈りを持つようになり、それから何年かかけて購入資金を積み立てなければなりませんでした。けれども、墓地というのは空きがなければ買えるわけではありません。私はこんなに良い候補地があるのに、それを見送らなければならないと思うと残念でなりませんでした。

 けれども、そこで不思議なことが起こりました。私たちがラザロ霊園を見てきたその日、勝野和歌子先生が召天されたのです。勝野先生は生涯独身で、すべてをささげてこの教会に仕えてこられた方でした。この勝野先生を、荒川教会に墓地に葬りたいという熱い祈りが教会員の中に起こりまして、献金や教会債を戴いて、一気に墓地購入へと動き始めたのでした。荒川教会の墓地も、こうして神様の奇しき御業によって与えられたものなのです。

 クリスチャンの中には、極端な話、墓地なんかいらないという人がいます。土を土に、塵を塵に帰すのだから、遺骨は野にでも山にでも蒔いてくれというのです。このような人を、決して不信仰だと言うつもりはありませんが、私は違う考えを持っています。人間というのは死んだら自然に帰るのではなく、神様のもとに帰るのであります。もちろん、肉体は朽ちて自然に帰るのですが、それでも自然に帰るということよりも神様のもとに帰るということに重きを置くときに、墓地の意味というものがあるのではないでしょうか。

 アブラハムは、ヘトの人々に最初「わたしはあなたがたのところに一時滞在する寄留者です」と言っています。つまり、やがて自分は過ぎ去っていくものであり、この土地に自分のものは何も持っていない、持っていても一時的なものであるとうことなのです。そのアブラハムが、400シェケルの銀を払い、人々の立ち会いのもと念入りな契約を交わして、墓地を購入しました。そして、この墓地がただ一つ、この地にあってアブラハムの所有となったのです。それは、アブラハムが、この地にあってただ一つのもの、つまり天国の市民権だけを確かなものとしてもって生きているということの証しだったのではないでしょうか。

 このマクペラの墓地には、やがてアブラハム自身が葬られ、息子イサクとその妻リベカも葬られます。またイサクの子ヤコブ、その妻レアが葬られます。そして、『ヘブライ人への手紙』にはこのように言われているのです。

 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」

 私たちも同じです。私たちはこの地上にあって、天国の市民として生きているのです。イエス様は言われました。

 「時が来ると、墓の中にいる者はみな、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくる」

 私たちの最終的な目標は、この地上にあるのではありません。この地上の生涯を終えた後に、墓の中でイエス様の声を聞き、やがて復活して、約束のすばらしい天国を見ることにあるのです。

 その時まで、御言葉に励まされつつ、信仰の生涯を全うしたいと願います。
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