アブラハム物語 31
「吾子イサクの為に妻を娶れ」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章25節
旧約聖書 創世記24章1-14節
老後の平和
 創世記24章は、イサクの嫁探しについて書かれています。たいへん長い章となっておりますけれども、一つの物語としてたいへんおもしろく、また示唆に富むものになっています。今日はこのストーリーを追いながらお話をしてまいりたいと思います。

 まず1節からて見て参りましょう。

 「アブラハムは多くの日を重ねて老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた」

 この時、アブラハムが何歳であったかということは書かれておりませんが、アブラハムは100歳でイサクを生んでおります。そして、25章20節に出てくるのですがイサクは40歳でリベカと結婚したとあります。ですから、アブラハムは140歳であったということが分かるのです。波瀾に満ちた人生を送ってきたアブラハムでありますが、ようやく平和な日々がアブラハムに訪れたということなのです。

 しかし、この老後の平和というのは、アブラハムが信仰によって神様から受け取った祝福であったということを忘れてはなりません。年をとれば身体も不自由になりましょう。わびしさ、寂しさもありましょう。心配や悩みは年をとっても尽きることはないのです。しかし、アブラハムは神様を知っていたおかげで、そのような老後を穏やかに、平和に過ごすことができたということなのです。
最後の望み
 このように祝福された老後を過ごすアブラハムでありましたが、なお一つの望みがアブラハムにありました。それがイサクの結婚、今日の物語なのであります。

 それは、孫の顔がみたいという人情もありましたでしょうけれども、「あなたの子孫を大いなる国民とする」という神様の約束に対する望みがいつもアブラハムの心にあったのです。

 聖書の箴言という書に「幻なき民は堕落する」という言葉があります。望みや夢を失った人間は、人生の目的を失い、堕落し、自滅していくという言葉です。

 しかし、アブラハムはイサクが生まれても、さらになお「あなたの子孫を大いなる国民にする」という神様の約束に対する望みをもって、夢のある人生を送り続けたということは、本当に素晴らしいことではないでしょうか。
天の神、地の神である主
 アブラハムは、そこで家の全財産を任せている年寄りの僕を呼び寄せました。この僕というのは、はっきりしたことは言えませんが、かつてアブラハムが自分の跡継ぎにしようと考えたエリエゼルではないかと思います。いずれせよ、アブラハムは最も信頼できるこの僕に息子イサクの嫁探しを託したのでありました。

 「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」

 アブラハムが「天の神、地の神である主にかけて誓いなさい」と言っていることが大切です。私たちの主は、天の営みをご支配する神であると同時に、この地の営みをご支配なさっている神なのです。

 イエス様は、天国では嫁いだり、娶ったりすることはないのだと、はっきりとおっしゃっておられますから、結婚というのは永遠の事ではなく、この地上における営みだと言えましょう。しかし、神様はそのような私たちの地上の営みにも深く関心をお持ちになり、それを導き、祝福をお与えようとしてくださるお方であるということなのです。

 みなさんは、「こんな自分勝手なお祈りをしても聞かれないのではないか」とか、「こんな小さなことまで神様はお聞きくださらないのではないか」と、祈りをためらうことがありませんでしょうか。神様は気高いお方なのだから、自分の小さな喜びや楽しみのために祈る祈りなど関心をお持ちにならないのではないかと思うことがありませんでしょうか。

 アブラハムは決してそう思いませんでした。神様は我が子イサクの嫁探しに、好意と善意と親しみをもって関わってくださると信じているのです。このアブラハムの信仰は正しいものです。神様は天における永遠の営みについてはもちろんのこと、私たちの地上の生活のどんなこともに親しみをもって関わってくださり、好意をもって力をかしてくださるお方なのです。

 神様は天の神であると同時に、地の神なのです。偉大な天の神は、この地上の取るに足らない小さな人間を心から愛してくださるお方なのです。ですから、私たちの地上の生活のどんなことも天の神であり、地の神である主に祈って、神様の祝福を求めて歩む者でありたいと願います。
アブラハムの真実
 さて、アブラハムは、イサクのお嫁さんを選ぶにあたって、二つの条件を出しました。一つは、イサクのお嫁さんはこの地に住んでいるカナン人の娘ではなく、故郷にある自分の同族の者の娘でなければならないということです。もう一つは、この向こうに連れて行くのではなく、この地に来てくれる娘でなければならないということです。アブラハムはこう言っています。6-8節、

「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」

 アブラハムにとって、イサクの結婚はあくまでも神様の約束、つまり「あなたの子孫にこの土地を与える。あなたの子孫を大いなる国民する」という神様の約束に基づくものでなければならなかったのです。

 カナンの娘を候補者に入れれば、それだけお嫁さん探しは楽になるでしょう。また、同族の者であるにしても「親族を離れてカナンの地まで来てくれる娘がいるかどうか」それは、たいへん難しい条件だったと思うのです。アブラハムもそれは十分に分かっていました。ですから、もしこの地に来てくれる娘がいなければ、あなたの誓いは解かれると僕に言っているのです。しかし、それにも関わらず、アブラハムは「神様は真実なお方なのだから、自分の真実をもって行動しなければならない」と考えるのです。

 神様に対して真実をもって行動するということは、神様の約束を信じ切った姿勢を貫くということでありましょう。私たちも、神様を信じて祈っておりましても、「もし、祈りが聞かれなかったらどうしよう」ということを考えないわけではありません。しかし、「聞かれなかったらどうしよう」ということ前提にして何かをしたり、何かをしなかったりするということが不真実なのではありませんでしょうか。たとえ、「聞かれなかったらどうしよう」という気持ちが起こっても、いや「神は真実な方である」と思い直して、神様を信じるということを前提に生きる、これが神様への真実だと思うのです。
祈る僕
 それから、もう一つ、アブラハムはイサクのお嫁さん探しを、この忠実な僕に頼もうとしているわけですが、実はアブラハムの心にあることを言うならば、僕にではなく、神様にこのことを頼み、託していたのであります。ですから、アブラハムの選んだ僕は、ご主人アブラハムに忠実であるだけではなく、神様に忠実であるということが大切でありました。果たしてこの僕は、アブラハムが見込んだ通り、神への祈りと信頼をもって、忠実にこの務めを果たし、イサクのお嫁さんとなるリベカを連れてかえってくるのです。

 まず、この僕はアブラハムの故郷アラム・ナハライムのナホルの町に行きました。アブラハムが生まれたのカルデヤのウルですが、そこから一族でハランに移り住みました。そして、そこからアブラハムは信仰の旅路へと妻サラ、甥のロトを連れて旅立ったのです。アラム・ナハライムのナホルの町というのは、このハランのことでした。カナンの地から400キロも離れたところにありまして、およそ一ヶ月ほどの旅をして、アブラハムのしもべはこの町にたどり着きます。

 しかし、どのようにイサクのお嫁さんを捜したらよいのでありましょうか。アブラハムの僕は、そのことで迷うことはありませんでした。神に祈ったのであります。11-14節を見てみましょう。

「女たちが水くみに来る夕方、彼は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、祈った。『主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。』 わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」

 おもしろい祈りだと思います。この僕は、この僕なりにご主人様の一人息子イサク様のお嫁さんには、何よりも心優しい女性がよいと願いをもっているのです。そして、そういうお嫁さんを見つ出すためのアイディアも持っていました。それは井戸に水を汲みに来る娘に声をかけて「どうか水を飲ませてください」と頼んだとき、嫌な顔をしないで水を飲ませてくれ、しかも「らくだにも飲ませてあげましょう」と言ってくれるなら、きっと心優しくイサク様のお嫁さんにふさわしいに違いないという考えであります。

 けれども、この僕は、どんな素晴らしいアイデアであっても、事を為してくださるのは神様であるということを決して忘れていません。ですから、この僕の祈りは、ただ単に自分の計画が成功するようにと祈っているのではありませんでした。この祈りの肝心なことは「あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください」という部分にあります。つまり、イサクのお嫁さんは神様がお決めくださるということであります。ですから、この僕は、いかにして選ぶかではなく、いかにして神様の選び給う人を知るかということに心を砕き、祈っているわけです。

 言い換えれば、神様にしるしを求めていると言ってもよいでありましょう。みなさん、神様にしるしを求め、それを見るということは私たちの信仰に大きな利益があります。

 それは神様を試みることとはまったく違うことなのです。荒れ野でイエス様がサタンの誘惑に受けられた時、サタンはイエス様の神殿の屋根の上に連れて行き、「ここから飛び降りて見ろ。神の子なら、御使いが来て地に落ちる前にすくいあげてくれるだろう」と言います。その時、イエス様は「主なる神を試みてはならない」と答えるのです。それは、サタンが求めていることは、「本当に神様はあなたを愛しているのか。あなたは神の愛する独り子なのか。確かめて見よ」と、神様の愛を疑うことだったからです。愛というのは信じるものであって、確かめるものではありません。愛を確かめようとした途端、愛はなくなってしまうのです。

 それに対して、神様の御心をしっかりと知ろうとすることが徴を求めると言うことなのです。神様の愛を信じ、神様に御心に従って生きようとしても、何が神様の御心か、どうすれば神様に喜ばれるのか、分からなくなってしまうことがないでしょうか。そのような時、私たちは分からないまま見切り発進して、後で本当にこれでよかったのかと思い悩むことがありませんでしょうか。そんな時、私たちはもっと確信に満ちた生活を、確信に満ちた選択をすることができないものかと思うことがありませんでしょうか。

 しるしについて聖書を読んでみますと、しるしについては消極的、否定的な側面があることは事実ですが、一方、神様が寛大な心で、私たちに対する好意をもって、多くの徴を私たちに見せてくださるということも記されております。自分の頭で悩んだり、迷ったりして、確信のない信仰生活を送るよりも、大胆に神様にしるしを求め、確信に満ちた信仰生活を送りたいものだと思います。

 今日はここまでとし、次回、イサクの嫁探しのお話の続きをしたいと思います。
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