アブラハム物語 29
「サラの為に悲しみ且つ泣けり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書 11章35-36節
旧約聖書 創世記 23章1-20節
サラの人生
 アブラハムの長年の伴侶であった妻サラが死にました。127年の生涯でありました。どんな人生でありましたでしょうか。サラは65歳の時、アブラハムと共に信仰の旅路を始めました。エジプトに滞在した時やペリシテ滞在したときには苦い経験もしました。女奴隷ハガルやイシュマエルの事については、女ならではの弱さを露呈し、自分自身も苦しみました。90歳で、サラははじめての子を産みました。

 しかし、これらのことは波瀾に満ちた127年の人生のほんの一部に過ぎません。私はアブラハムを陰で支え、アブラハムの信仰の道に最後までしっかりとついていったサラについて、もっと知りたかったと思います。もしサラを主人公にした物語があれば、私はぜひそれは読んでみたかったと思うのです。アブラハムの物語が神を信じて希望と勇気をもって生きる信仰の父の物語であるならば、サラの物語はきっと謙遜と服従をもって生きることを教える信仰の母の物語になったのではありませんでしょうか。

 しかし、聖書は、サラの生涯について、おもしろい言い方をするのです。つまり、「サラの生涯は100歳と20歳と7歳であった」という言い方です。これがヘブライ語の原典での言い方なのです。単に127歳というのではなく、「100歳と20歳と7歳であった」と、ここは聖書の中でもユニークで回りくどい言い方がしてあるのです。何か意味があるに違いありません。聖書は余計なことは一つも言わない代わりに、意味のないことも一つも言わないからです。

 サラは90歳で約束の子イサクを生みました。神様は、それに10年を加えて、サラの人生をまず100歳まで生きたと言うのです。加えられた10年は、幼子イサクが立派な少年に育っていく期間であり、イサクにとってはもっとも母親の愛を必要とする大切な10年でありました。そして、サラにとっては、子育てという苦労も多いけれども、幸せも多い、恵みの10年であったと思われるのです。

 100歳まで生きて、最後の10年がそのように幸せに満ち足りていれば、人生は十分でありましょう。しかし、神様はそのようにして100歳を生きたサラに、20年の人生を重ねられます。120歳、これも一つの意味があります。それは神様が人にお与えになった寿命です。創世記6章3節をみますと、神様は「わたしの霊は人の中に永久に留まるべきではない。人は肉に過ぎないのだから」と言われ、こうして人の一生は120年となったと言われているのです。

 もっとも寿命というのは誰にも同じように120年あるということではありません。それに長ければ長いほどよいということでもありません。それぞれに神様が与え給う人生の長さがあるのです。サラの場合は、神様が人にお与えになっている肉体の限界である120年(といってもアブラハムは175歳まで生きたとありますが・・・)、そのすべてを生ききることがゆるされたということなのです。

 そして、聖書はサラの人生にはもう一度7年が重ねられたとあります。つまり、神様は子供を産むことができないはずのサラにイサクをお与えになり、サラに対する人生の約束を果たしてくださいました。しかし、それだけではなく愛らしいイサクを愛で育てる喜びを与え100歳までの命を与えてくださり、それに加えて立派な若者になったイサクを見る満足をお与えになるために120歳までの命を重ねてくださり、さらになお7年を重ねてくださったのであります。これは、神様は、サラに子供を与えてくださるという約束を、サラの願いと理解をこえて豊かに果たしてくださるお方であったということを示しているのではありませんでしょうか。

 神様が単に恵みを与えてくださるというだけではなく、恵みの上に恵みを重ねてくださるお方であるということは、イエス・キリストの恵みを語る新約聖書の中でもこのように語られています。

 「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」(ヨハネ福音書1:16)

 みなさん、私たちを愛し、祝福してくださる神様は最低限、最小限の恵みを与えてくださる方ではなく、満ちあふれる豊かさの中からに恵みに恵みを加えてくださる方なのです。サラは、そのような神様を信じ、ひたすら待ち望み、その結果として100年と20年と7年の人生が与えられたというのであります。
アブラハムの悲しみ
 そして、サラは亡くなりました。妻サラが息を引き取ったとき、アブラハムはサラのために二つのことをしましたといいます。一つは、サラのために悲しみ泣いたということです。そして、もう一つのことはマクペラに墓を買い、そこにサラを葬ったということです。

 今日は初めのこと、つまりアブラハムが泣いたということについてご一緒に聖書の言葉を聞きたいと思います。2節の後半にこう書いてあります。

 「アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」

 アブラハムはきっと声をあげて泣いたのです。妻サラのために号泣したのです。

 アブラハムが妻ために泣いたということは、素晴らしいことではないでしょうか。イエス様も、ラザロの死に際しては涙を流されました。イエス様がラザロの死に対して涙を流してくださったということは、本当に素晴らしいでした。それを見た人々は、「ああ、どんなにラザロを愛しておられたか」と、深い感動を覚えたと言われています。同じ事をアブラハムの涙に思うのです。「ああ、アブラハムはなんと深くサラを愛していたのか」と。

 下世話では「女房と畳は新しい方がよい」などと言ったりするのですが、アブラハムはそうではありませんでした。古女房だからこそ、つまり一緒に年老いてきた妻サラだからこそ、誰に対するよりも深い愛をもって結ばれていたのであります。

 サンテグ・ジュペリという人の『星の王子様』というお話があります。実は、先日の沢野忠さんの結婚式の式辞でもお話しさせていただいたことなのですが、王子様は小さな星に住んでいて、一本のバラを、全宇宙でたった一本しかないと信じて、それはそれは大事に育てていたのです。ところが、王子様が地球にやってくると、そこにはバラの花が咲き乱れるお庭がありました。そのお庭をみて、王子様はたいへんなショックを受けます。全宇宙でたった一本だと思っていた花は、実はこの地球ではありふれた何でもないバラの花だったと気づいてしまったからです。

 しかし、しばらくして王子様は気を取り直し、庭に咲き乱れる5000本ものバラの花たちに向かってこう言います。「あんたたちは僕のバラの花とは全然ちがうよ。あんたたちのためには、死ぬ気になんかなれないよ。それりゃあ、ぼくのバラの花も、何でもなく、そばを通っていく人がみたら、あんたたちとおんなじ花だと思うかも知れない。だけど、あの一輪の花が、ぼくにはあんたたちみんなより、たいせつなんだ。だって、ぼくが水をかけた花なんだからね。覆いをつくり、つい立てで風にあたらないようにしてやったんだからね。毛虫をとってやったんだからね。不平も聞いてやったし、自慢話も聞いてやったし、黙っているときにはどうしたのだろうと聞き耳を立ててやった花なんだからね。じゃあ、さようなら」

 アブラハムにとって、老いさらばえて死んだ妻サラは、どんな若い美しい女性たちにも代えられない大切な女性であったのです。アブラハムとて人の子でありますから、信仰によって捨て去ってきた家族や友達のこと、生まれ故郷を懐かしむような時があったことでしょう。そのアブラハムの懐かしみを一緒に懐かしんで、いつまでも耳を傾けてくれたのが、妻サラであったのです。あるいはアブラハムに与えられた神様の約束を一緒に信じ、子供が与えられる希望を一緒にもって、毎日祈ってくれたのが、妻サラだったのであります。喜びの時も悲しみの時も、強いときも弱いときも、過去を振り返るときも未来を望み見るときも、サラはいつもアブラハムと心を一つにして一緒に人生を歩んできたのでした。アブラハムはもちろん若き日の美しい妻サラをも深く愛していたのでしょうが、一緒に年老いてきた妻サラを比べようもないほど深く愛していたにちがいありません。

 それゆえにアブラハムは妻サラのために号泣したのです。それは、アブラハムとサラがどんなに幸せな夫婦であったかということの証しだと言えましょう。

 それから、別の点からも、私はアブラハムがサラのために泣いたということにある種の感動を覚えます。今までアブラハムの物語を読んできまして、アブラハムの心の弱さについても語ってきました。しかし、いつもそれはアブラハムの心の奥に秘められていまして、このように決して表にあらわにされることはなかったのです。

 最初の旅立ちの時、つまり神様の言葉に従ってアブラハムが愛する親族や故郷を後にしたとき、アブラハムが涙を流したとは言われていません。甥のロトと別れて住むことになったときも、そのロトが戦争捕虜として捕らえられたときも、ロトの住むソドムが滅ぼされるときも、アブラハムは泣いたとは言われていません。イサクを神への献げ物とするためにモリヤの山に連れて行くときですら、彼は泣かないのです。しかし、サラの死に直面して、彼は心おきなく涙を流します。はじめて声をあげて泣くのです。

 子供の頃、わたしは泣き虫でした。本当は、今でもそうなのです。けれども、「めそめそ泣くのは男らしくない」とか、「悲嘆にくれているのはクリスチャンらしくない」とか、「感情による思いは、信仰による思いに劣る」いうことを、誰からともなく覚え込まされ、泣いてはいけない、泣いてはいけないと自分に言い聞かせているようなところがあるわけです。

 確かに信仰からすれば、神を信じて死ぬということは、神様のもとへと移されるということです。それは永遠の終わりではなく、新しい命の始まりなのです。ある牧師は、母親の葬儀をすることになったとき、「これは天国への凱旋であって、おめでたいことなのだ。だから、黒いネクタイはしない。」と言われて白いネクタイで葬儀をなさいました。正直に言って、私は、信仰によって母親の死という悲しみに対する慰めを得ておられるその牧師に感動しました。

 けれども、妻サラのために節度を超えて号泣したアブラハムにも感動するのです。アブラハムは人間らしい感情をもって泣くことを決して恥としませんでした。信仰的に振る舞うということは、人間的に振る舞うことを捨てることではなのです。信仰を持つ者はいつも喜んでいなさいと教えられるのは、決して悲しい時に泣いてはいけないということではないのです。信仰者は、悲しいときに思いっきり泣けることを喜ぶべきではありませんでしょうか。

 イエス様も「悲しんでいる人は幸いである。その人たちは慰められる」と言われました。悲しんではいけないと言われたのではありません。神様の慰めを信じなさい。そして、悲しい時には思いっきり泣きなさいと、イエス様は言われているのです。神を信じるから、神様の慰めを信じるから、決して悲しみの底なし沼に沈むことはないと知っているから、悲しみ時にはその悲しみを本気で悲しむことができるのです。
自然な人間になる
 もう少しこのことを発展させて考えますと、わたしは人間が神様を信じるということはまことに自然なことなのだ、人間が人間らしく、肩肘張らない自然な生き方をするためには、神様を信じ、神様の愛のもとで生きなくてはいけないのだと、心から思うのです。

 神様などいない、神様などに頼らなくてもやっていけると、神様を見ようとしないから、人間の生活は底なし沼の悩みや悲しみや争いに陥ってしまうのではありませんでしょうか。

 いろいろな宗教がありますけれども、人間は基本的には神の存在を信じ、恐れ敬ってきたのです。神様の存在を信じない人々が出てきたのは、西洋では18世紀ぐらいからで長い長い人間の歴史においてみれば、ごく最近のことなのです。日本においては20世紀になってからではないでしょうか。その背景には、人間の知恵や知識、特に科学の知識や技術の発展があります。それが人間には何でもできるという勘違いを起こさせ、神様を忘れさせていったのです。神様ではなく、人間の知恵や力に希望を持つようになったわけです。確かに、科学は、今まで神の奇跡を願うしかなかったような病気をいやしたり、生活の問題を解決してきました。

 しかし、人間は、科学的には無知であっても神を信じていた人間に比べて、幸せになったのでしょうか。今やほとんどの人が携帯電話をもっていたり、インターネットで世界中の人たちでつながることができる時代です。しかし、人と人の愛の絆は深まったでしょうか。逆に、夫婦や家族の絆ですから、いつ失われるか分からない孤独な時代ではないでしょうか。科学が悪いのではありません。人間がうぬぼれて神様を捨ててしまったことが悪いのです。そのために、人間は生きる意味や力を失って、人間らしい愛や希望をもてなくなって、世の中も、心も、荒涼とした砂漠のようになってしまったのではないでしょうか。

 神を信じると言うことは、人間があるべき姿に立ち帰り、人間らしい心を取り戻すということなのです。悲しいときには泣くことができる人間になることです。苦しいときには祈れる人間になるということです。そして、愛を信じ、希望を信じる人間になるということなのです。

 涙と言えば、田中真紀子さんが悔し涙を流したとき、小泉総理大臣が「涙は女の武器だ」と言ってそれが議論を呼びました。私たちの国の首相たる人が、人の流す涙の意味をその程度に考えているとしたら、何ともやりきれいない思いがします。私たちは、このように悲しみや涙が簡単に汚されてしまような国に生きているのです。泣きたくても泣けない人がたくさんいても当たり前でありましょう。私たちの愛する人たちの中にも、そのような泣きたくても泣けない、苦しくても祈ることを知らないために、自分のもって行き場がない苦しみにもがいている人がたくさんいるのではないでしょうか。そのような人たちに、神様を、イエス様を伝えることこそ、私たちがまずしなければならない愛の業ではないでしょうか。
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