アブラハム物語 04
「主の親愛は主を畏れる者と共にあり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書8章14-22節
旧約聖書 創世記12章4-9節
人の子は枕するところがない
 ある時、イエス様のもとに一人の男が近づいてきて、弟子になりたいと申し出ました。

 「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」(マタイによる福音書 第八章十九節)

 この男に、イエス様はこうお答えになります。

 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところがない」(マタイによる福音書 第八章二十節)

 イエス様は、自分自身のことを言われるときに、しばしば《人の子》という特別な言い方をなさいました。わたしたちの信仰から言えば、イエス様は神のお子です。けれども、イエス様はご自身を「神の子」と名乗らず、敢えて《人の子》と言い表されたのです。そこに、イエス様が本気で人間の隣人となろうとし、そのためには《枕するところがない》生活も辞さないという、堅いお心を見ることができるのではないでしょうか。

 《枕するところがない》とは、ゆっくり休む時間も場所もないということです。イエス様にとって、それは決してたとえ話ではありませんでした。同じ日、イエス様が弟子のペトロの家をお訪ねになると、ペトロのしゅうとめが熱を出して寝ております。イエス様は彼女の手をお取りなって、その病気をお癒しくださったということが、聖書に書かれています。ペトロのしゅうとめは、健康を回復した喜びをもってイエス様をおもてなししました。そこでイエス様は少しお休みになれたでしょうか。いいえ、町中の人々がここぞとばかりに、悪霊につかれた者や病人を連れて次から次へとペトロの家に、つまりイエス様の御許に押し寄せてくるのです。休む間もなく、イエス様はそのすべての病人をお癒し下さったと言われています。マタイによる福音書第八章十六節を読んでみましょう。

 夕方になると、人々は悪霊にとりつかれた者を大勢連れてきた。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆癒された。

 《病人を皆癒された》と書いてあります。イエス様がこのように奇跡を行って病人を癒されたということを、当たり前のように考えてはいけません。確かにイエス様にはお出来にならないことはありません。こういう話もあるのです。ある婦人が、イエス様の衣の裾にでも触れば病気が治るだろうと考えて、後ろからそっと近づき、誰にも気づかれないようにそっとイエス様の衣に触れました。すると、イエス様はご自分の中から力が出ていくことをお感じになったというのです。わたしたちも、人を見舞ったり、悩みを聞いてあげたり、そのように何かしら人の力になり、助けようとすることがあると思います。それは、たとえ心からそうしたいと願うことであっても、自分を犠牲にするといいますか、自分を人に与えるという大きな負担がかかることだと感じることはないでしょうか。それにもかかわらず、わたしたちが喜んでそのようなことをするのは、愛があるからです。人を癒すということは、イエス様にとっても決して簡単なことではなかったといったのは、その点についてです。「人を救う」ということは、イエス様がたとえ奇跡でそれをなさるとしても、御自分を犠牲にし、御自分を人に与えるという大変な大きな仕事であられたに違いありません。それにも関わらず、愛をもってしてくださる大いなる業なのです。

 ですから、聖書を書いた人は、訪ねてくる病人をすべてお癒しになるイエス様を見て、《彼は私たちを患いを負い、私たちの病を担った》という預言者の言葉をイエス様に当てはめました。《負い》、《担った》ということは、病の癒しはイエス様にとって相当の負担であったということでもあるのです。しかし、たとえ《人の子には枕するところがない》と言われるほど大変なことでありましても、イエス様は愛のために喜んでそれをしてくださったのです。人々の重荷を負い、枕して休む時間さえも惜しみなく人々に与えられたのです。

 こうして考えてみますと、《人の子には枕するところがない》とは、イエス様が旅人であったということもありますが、それだけの意味ではないように思います。イエス様は、わざわざ天国からこの地上に降りて住まれました。わざわざ病める人々を尋ね、自らその病を担って下さいました。また、罪人の友となり、その罪を自らに負って十字架にかかり、罪人をお救いくださいました。さらにイエス様は陰府に降り、その死を身に負われ、なおそれに打ち勝たれて、死の絶望にとらわれている人々に復活の命の希望を与えて下さいました。《人の子には枕するところがない》とは、このような愛のための敢えて苦労を買われ、重荷を負われるイエス様のご生活の本質を言い表すお言葉なのです。

イエス様の弟子になるとは
 さて、話をもとに戻しましょう。イエス様は、弟子になりたいという男に、「わたしの弟子になるということは、このような枕するところもない生活を、わたしと一緒に生きることだ。大変だぞ。あなたにその覚悟があるのか」と言われたのでした。イエス様の弟子になる大変さを、わたし流にまとめますと三つのことがあります。

 第一に、自分を捨てることです。自分の為とか、自己実現を追い求めながら、イエス様に従うことはできません。

 第二に、自分の十字架を負うことです。それは単に苦しみを負うということではありません。愛をもって、他者のための苦労を自分に負うということであります。

 第三に、イエス様のおられるところに、わたしもいるということです。この逆ではありません。つまり、わたしがいるところに、イエス様がいてくだされるのではないのです。自分が先ではなく、イエス様が先です。そういう考えを持たなければ、自分の道ではなく、イエス様の道を進むということはできません。

 弟子になりたいと申し出た男は、イエス様のお言葉を聞いてどうしたのでしょうか。聖書には何も書いてありませんから、どちらとも言えません。ただ思い起こすのは、この男の話ではありませんが、金持ちの青年がイエス様の弟子になろうと訪ねてきた時のことが、聖書に書かれています。しかし、イエス様の話を聞いているうちに怖じ気づいて、悲しみながらイエス様のもとを立ち去ってしまったという話なのです。この男も、そうであったかもしれません。
イエス様のすばらしさ
 しかし、「大変だ」と言って立ち去った人のことばかり考えるのではなく、そういう大変さがあるにも関わらず、喜んで従った人たちのことをも考えなければならないと思います。何もかも捨てて、イエス様の弟子になった人たちも大勢います。そのひとりがパウロです。彼はこんなことを言っています。

 わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。(フィリピの信徒への手紙 第三章八〜九節)

 イエス様を知る《素晴らしさ》とは何でしょうか。イエス様には何にも代え難い《素晴らしさ》があるのです。それは、イエス様が天国の王であるということであります。天の都がどんなに喜びに満ち、楽しみに満ちたところであるか、そこに住むことができるということがどんなにワクワクする希望であるか、残念ながら今日はそこまでお話しする時間がありません。けれども、わたしたちは、この地上の生活が決して天国の生活ではないことを知っています。この世の楽しみは儚く、すぐに悩みに変わり、贅沢さや快楽の追求は空しさを深めるだけなのです。病に満ち、悲しみに満ち、暴力に満ち、不義に満ちているのが、この世です。聖書には、この世の支配者は悪魔であり、必ず神様によって滅ぼされる国であるといわれています。しかし、わたしたちはそのような国の中に閉じこめられているのではありません。天国の王であるイエス様が私たちのところ来て下さり、「わたしに従ってきなさい」と言って下さったのです。素晴らしいことではありませんか。この《素晴らしさ》を知るから、パウロは「もう、イエス様以外ものは、わたしにとって何の価値もないんだ」とまで言い切ることができるのです。そして誇らしげに、また楽しげに《私たちの本国は天にあります》(フィリピの信徒への手紙 第三章二十節)と語るのです。

 イエス様の弟子となり、イエス様に従うことは、厳しい一面があることはたしかです。しかし、それ以上の《すばらしさ》があります。天国の王であるイエス様が塵の中に住まう私たちのところまで来て下さり、「わたしに従ってきなさい」と言ってくださった。それがどんなに恵みに満ちた招きであるかを知るならば、だれでも喜んでイエス様の弟子になることができるのです。
アブラハムの天幕と祭壇
 そこで、アブラハムの話です。神様はアブラハムに、「国を捨て、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい」と言われました。それはアブラハムにとって決してたやすいことではなかったに違いありません。それにも関わらず、アブラハムは、《主の言葉に従って旅立った》のです。そのお話は前回までにしてきたことです。今回、お読みしまました四〜九節には、その後のアブラハムの生活が書かれていました。それは《天幕》《祭壇》というは二つのキーワードで言い表すことができるのです。

 アブラハムは、主の言葉に従ったその日から死ぬ日まで、簡便な《天幕》に住み続けました。それは、単に住まいの問題ではなく、生き方の問題でした。アブラハムは、この地上での生活を旅人として、寄留者として生き抜いたとうことなのです。彼は、絶えず移動していたわけではありませんが、決して特定の場所に永住しようともしませんでした。また彼は土地の人たちとの交わりにも常に一線を画していました。たとえばソドムの王がアブラハムに贈り物をしようとするのを断り、こう言いました。

 わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。(創世記 第十四章二十二〜二十三節)

 息子のお嫁さんを探す時にも、わざわざ一族のいる故郷まで人を遣わして嫁探しをさせるといった具合に、土地の人とは決して婚姻関係を結ばないように注意しました。また、妻サラのために墓地を購入するときも、土地の人に決して借りを作らないように注意しました。アブラハムは、土地の人を軽蔑したり、その交わりを疎んじたりしたのではありません。しかし、彼らの中に住みながら、決して彼らに属さないようにしたのです。

 その一方で、アブラハムは、《天幕》を張ったところにはどこでも必ず主のために《祭壇》を築きました。七節にはシケムに《祭壇》を築いたと書かれていますし、八節にはベテルとアイの間に《祭壇》を築いたと書かれています。それから第十三章の終わりにはヘブロンに《祭壇》を築いたということが書かれています。《祭壇》とは神様に生け贄を捧げる場所であり、また祈る場所です。しかし、《祭壇》の本当の意味は、自分を神様に捧げるということにあるのです。アブラハムは、自分を神様に捧げるということによって、自分が神様に属するものであること言い表してきたのでした。

 《天幕》《祭壇》は切り離して考えることはできません。つまり《天幕》は、アブラハムがこの地上に住みながら、この地上に属さないという生き方の現れであり、《祭壇》は、アブラハムが自分を神様に捧げ、神様の国に属する者として生きようとすることの現れだったのです。

 ヘブライ人への手紙 第十一章九〜十節にはこのように書かれています。

 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束を受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたのです。

 アブラハムもパウロと同じように、天国の希望をもっていたからこそ、国を離れ、家を離れ、この地上に属することを否み、神様に従い、神様に自分を捧げ、神様に属する者として生きたのです。
主の親愛は主を畏れる者と共にあり
 先ほど、イエス様に従うためには自分を捨てること、十字架を負うこと、そしてイエス様のおられるところにわたしもいるということが必要だという話をしました。そして今、アブラハムは神を畏れ、この地上での生活を神様に属する者として生きるために、《天幕》に住まい、《祭壇》に自分を捧げて生きたということをお話ししました。

 信仰生活は、信仰を持たないこの世の人たちと同じような感覚のままで送れるものではありません。はっきり言えば、たいへんな一面があるのです。しかし、さらに申し上げたいことは、《主の親愛は、主を畏れる者と共にあり》ということです。これは詩編二十五編十四節の文語訳です。そこには、「神様を畏れ敬って生きる者に、神様は生きる道をお示しになる。神様の畏れ敬って生きる者こそが、平安に満たされる。神様を畏れ敬う者にこそ、神様は約束を与えてくださる」ということが書かれています。

 主の親愛は、主を畏れる者と共にあり

主を畏れ敬う信仰生活こそが、私たちの心にまことの平安を与え、生き生きとした希望を与えるものなのです。
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