|
|
|
アブラハムが天幕を張って住んだ土地に激しい飢饉が襲いました。土地の人もたいへんだったでしょうが、旅人であり、寄留者に過ぎないアブラハムにとって、その影響はたいへん深刻なものだったと思います。蓄えもなく、頼れる人とのつながりもなく、結局、アブラハムは一時避難として、エジプトに下ったのでした。
さらにアブラハムは、エジプトで安全に過ごすために一計を案じます。自分の妻であるサラを妹だと偽り、エジプトのファラオに差し出したのです。聖書には、積極的に「差し出した」と書いてあるわけではありませんが、同じことでありましょう。アブラハムの妻はたいへんな美貌の持ち主であったらしく、エジプトのファラオに気に入れられ、宮廷に召しいれられました。アブラハムは、その見返りとしてエジプトの手厚い保護を受け、豊かな財産を得ることができたのです。
ところが、当然と言えば当然ですが、神様はこれを良しとしません。神様は、エジプトのファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気で撃つのです。病気で苦しんだファラオは、この災いがアブラハムの妻サラのゆえであることを知り、アブラハムにこう言いました。「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」こうして、ファラオはサラを夫アブラハムのもとに返し、アブラハムらはエジプトを立ち去ることになったのでした。
これが今回のアブラハムの話でありますけれども、何だかすっきりしない話なのです。何がすっきりしないのでしょうか。それは、ここに私たちが信仰生活でもしばしば突き当たるような、信仰生活の矛盾があるからなのです。しかも、そういう問題が、今日の話の中に一つではなく、二つも三つも出てくるのです。 |
|
|
|
|
たとえば飢饉であります。10節に「その地方に飢饉があった」とあります。厳しい自然の中の生きているわけですから、飢饉があっても少しも不思議ではありません。
しかし、飢饉があった「その地方」とは、他のだれでもない神様が「そこに行きなさい」と、アブラハムに示された土地でありました。ここに矛盾があります。アブラハムはその神様のお言葉に従って、何かも捨ててこの土地に来たのです。それは祝福を信じたからです。ところが、そこでアブラハムを迎えたのは祝福ではなく、飢饉であったというわけです。
「主は従う人を飢えさせられることはない」(箴言10章3節)と、聖書の言葉にあります。しかし、神様に従ったアブラハムが飢えに苦しんだのです。しかも、神様に住みなさいと言われた土地に住んで、このような試練に遭ったのです。
私たちも、神様の言葉に従うなら、神様がきっと守って下さると信じていると思うのです。私も、牧師になるために神学校に入学するときに、神様に「あなたが召し出されたのですから、必要なものはすべてあなたが備えて下さると信じます」と真剣に祈りました。そして、実際、神様は本当に驚くべき仕方で私の必要を満たして下さったのです。しかし、「なぜ、与えて下さらなかったのか」「なぜ、いやして下さらなかったのか」「なぜ、助けて下さらなかったのか」・・・そういうことも、経験するのです。
「主は従う人を飢えさせられることはない」というみ言葉と、「約束の地に飢饉があった」というみ言葉はどのように矛盾なくつながるのでしょうか。
|
|
|
|
|
この話には、こういうすっきりしない話が幾つも出てきます。次の問題は、アブラハムは「飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした」と書いてあることです。この話はしばしば、アブラハムは、神様ではなく、この世の豊かさ、この世の力を誇るエジプトに頼ったと説明されるところです。確かに、聖書には「エジプト人は人であって、神ではない」(イザヤ31:3)という言葉があります。神様ではないものに頼るのはアブラハムの不従順だったと言われても仕方がないことかもしれません。
では、アブラハムには他にどんな取るべき道があったというのでしょうか。アブラハムは神様に従ったのだから、当然、神様のお守りがあると思っていました。しかし、その地ではげしい飢饉に見舞われるのです。その時、アブラハムの心に真っ先に浮かんだことは、エジプトではなかったはずです。彼の生まれ故郷であるメソポタミヤも、エジプトに負けず劣らず豊かに穀倉地帯でありました。そのメソポタミヤに帰るということこそ、飢饉のただ中でアブラハムの心に幾度となく浮かんだ考えではなかったでしょうか。
しかし、アブラハムは「帰る」ということを拒んだのです。それは、アブラハムの神様に従う信仰が、飢饉にも関わらず少しも衰えていなかった証しです。アブラハムがエジプトに下ったというのは、決してアブラハムの不信仰だけの話でもないのです。
確かに「エジプト人は人であって、神ではない」という言葉もありますけれども、逆に神様は、人を用いたり、この世の力を用いて、信仰者を助けられる時もあるのではないでしょうか。
たとえば、アブラハムの孫にあたりますヤコブは、飢饉を逃れるためにエジプトのヨセフのもとに行こうとするのです。神様はそのヤコブを励ましてこう言われました。「エジプトに行くことを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトに下り、わたしが必ず連れ戻す」と。
それから、私たちの主であるイエス様も、エジプトの避難しました。ヘロデが、幼子イエスを探して殺そうとした時のことです。主の使いがヨセフの夢に現れ、「起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまでそこに留まっていなさい」と言われたのです。こういうこともあるのですから、この世の力を借りるということがすべて悪いことだと決めつけることはできないのです。
では、アブラハムはこれで良かったのかというと、やはり何かすっきりしないものがあるのです。アブラハムは神様に祈ってエジプトに行ったかもしれませんが、神様の言葉を聞いてエジプトに行ったわけではありませんでした。また、エジプトでのアブラハムを見ても、エジプト行きが祝福されているとは決していえないのです。本当にこれで良かったのかという疑問は残るのです。
私たちも、同じです。信仰生活といいましても、祈り以外は何もしないということだけではなく、この世の知恵や力を用いて神様に従っていくという部分もあるのです。たとえば、食べていくためにはこの世の仕事が必要でありましょう。病気になれば医者も薬も必要でありましょう。人を助けるために祈ることも必要ですが、実際に手を貸すことも大事でありましょう。この世の知恵や力を用いるからといって、それは決して信仰を捨ててこの世に頼るということではないのです。
しかし、そうは言いながら、本当にこれでいいのかと常に迷っているのではないでしょうか。 |
|
|
|
|
三つめのことは、アブラハムが自分の妻を妹だと偽ったということです。そのために、たいへん美しかった妻サラは、エジプトの王に目に留まり、宮廷に召し入れられました。19節を見ますと、ファラオはサラを自分の妻にしたと、はっきりと言っています。これは、決して正当化できないアブラハムの罪でありました。
ダビデも、人妻であるバテシェバと姦通の罪を犯したと言われています。しかし、アブラハムの罪はそれ以上です。男性の一人として申しますと、そのダビデの罪というのは、男なら誰のうちにある誘惑として分からないでもないのです。しかし、アブラハムがしたことは理解できないのです。自分の妻を妹と偽って、他の男性の娶らせるなどといういことは、同じ男としてもまったく赦せない、考えられないことです。まして、女性の方々がこれを読むならば、このような人が信じるすべての人の父と呼ばれることに拒否反応さえ起こすのではないでしょうか。
すっきりしない話が多い中で、アブラハムのこの罪は、非常にはっきりとしてます。しかし、ここにもやはりすっきりしない部分があるのです。16節にこう書いてあります。「アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた」アブラハムは彼女のゆえに幸いを受けた・・・そんなことがあっていいのでしょうか。幾ら聖書の言葉でも、これは腑に落ちません。
私は決してフェミニストというわけではありませんが、ここで女性が男性に虐げられているということを見るのです。そして、それはもっと言えば、今もある弱い者が強い者に虐げられているという世の中の姿を映しているということです。そのようなところで、アブラハムが幸いを受けたとはいったいどういうことなのでしょうか。
さらに不可解なことがあります。17節に「主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオの宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」とあります。これはまったく筋違いではないでしょうか。神様に罰せられるべきは、ファラオではなく、アブラハムのはずです。しかし、神様は、アブラハムではなく、エジプトのファラオを病で撃たれたのです。
アブラハムはどうかというと、結局、最後まで罰せられないのです。20節を見ますと、「ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた」とあります。信仰者であるアブラハムのしていることもよくわかりませんが、神様のしていることもよくわからないのです。 |
|
|
|
|
今回のアブラハムの話が、いかに信仰生活の矛盾をついた話であるかということがお分かりいただけたと思います。「神様に従う人は、神様に保護される」という約束があるのに、神様に従い、信仰に生きる人が、災いに遭い、苦しんでいます。また、一方では「この世の力に頼るな」といい、他方では「神様は、この世を用いて助けられる時がある」といいます。その狭間で、私たちは祈りに専念して何もしない方がいいのか、それとも祈りつつ、この世の知恵や力を駆使しながら精一杯働いた方がいいのか、判断に迷うことがたくさんあります。また、強い者が弱い者を虐げながら、しかも幸いを受けている世の中がある一方で、罪のない者が罰せられたり、苦しんでいるという世の中の矛盾があります。
これらの問題にどういう答えを出すのか、それが教会の務め、牧師の務め、説教者の務めであろうと思います。しかし、それは簡単なことではありません。今日、私たちが確認したいことは、それでも、私たちは神様を信じ、神様に求めて生きていくのだということです。
イエス様が、ペトロのこう言ったことがあります。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7)信仰生活は、「後で分かる」ということもあるのです。ヨブ記37章21-22節には、こういう言葉があります。「今、光は見えないが、それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと、北から黄金の光が射し、恐るべき輝きが神を包むであろう」
私は今日、何の答えも出さないで、問題をだけを出して、説教を終わるというのではありません。「今、光は見えないが、それは雲のかなたで輝いている」これが答えなのです。「やがて風が吹き、雲を払うと、北から黄金の光が指し、恐るべき輝きが神を包む」これが答えなのです。
神様の栄光がどこにあるのか、私たちはそれが分からないまま、雨雲のたれ込める空の下で信仰生活を送ることもあります。しかし、その雨雲の向こうでは、必ず神様の栄光が輝いているのです。雲が風に吹き去られれば、必ず私たちはその輝きを見ることになっているのです。それを信じて、畏れつつ、この世の生活を過ごすのが信仰者の生き方なのです。
少し長くなって恐縮ですが、もう一つだけお話をさせていただきます。今は、圧力の単位にもなっていますパスカルという人がいます。17世紀、フランスで活躍した自然科学者であり、同時に哲学者であり、神学者であり、生き生きとした信仰をもった尊敬すべきクリスチャンでありました。
パスカルは、生ける神様と直面するような決定的な回心を経験します。そして、その日以来、衣服の内側に小さなメモを縫い込んで、死ぬまで肌身離さずにいました。そこには回心によって神様に出会ったことについて短く記されているのだそうですが、その中にこういう有名な言葉があるのです。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者および識者の神ならず」と。
神様は人間の頭で考え出されるお方ではないのです。哲学者が考えた神ではなく、教会が考えた神様でもなく、牧師が考えた神様でもありません。神様は、アブラハムの人生、イサクの人生、ヤコブの人生、そして私たちすべての人生に関わり、その中で、自ら、「わたしはこういうものである」とお示しになる神様なのです。
神様を信じていくには、今日の話のようにすっきりしない部分もありましょう。フィリポのように「主よ、神様をお示し下さい。そうすれば満足できます」と言いたくなる時もあります。しかし、イエス様はそれにストレートにお答えにならなかったように、「神様を知る」ということは人の説明を聞いても分かることではないのです。それを知る方法は、神様を信じて、実際に神様と共に生きていく生活をすることです。そして、問題が起こる度に、神様に祈り求め、そこで生きた神様に出会ってこそ、分かっていくことなのです。
「今、光は見えないが、それは雲のかなたで輝いている」。雨雲のようにすっきりしない人生の空模様においても、神様を信じ、神様を求めて、神様と共に歩み続けましょう。「やがて風が吹き、雲を払うと、北から黄金の光が射し、恐るべき輝きが神を包むであろう」これが私たちに与えられた答えなのです。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|