アブラハム物語 03
「わが歩む道、神知り給う」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書1章26-45節
旧約聖書 創世記12章1節-4節
アブラハムの生涯の鍵
 今から四千年前、チグリス、ユーフラテス河の流域にメソポタミヤ文明という、人類最古の文明が栄えていました。その中に、今も世界中で多くの人が「信仰の父」として仰いでいる人、それがアブラハムです。これまでお話してきたことですが、神様を信じる前のアブラハムは悲しみと失望の中に生きている、ごく当たり前の人間でした。そのような人がなぜ「信仰の父」と呼ばれ、わたしたちを含め世界中の人たちに祝福と希望を示す人となったのでしょうか。その答えとなるみ言葉が、第十二章四節にあります。

 アブラムは主の言葉に従って旅立った。

 主の言葉に従って旅立った! ここに、アブラハムの生涯の鍵があります。これがなければアブラハムは塵の中に住まうただの人でした。しかし、アブラハムは、「わたしの祝福の中に住まう者になりなさい」という神様の言葉を聞き、その言葉に従って旅立ちました。その結果、アブラハムは塵の中から引き上げられ、神様の祝福の中に生きる者とされたのです。
いい人生
 今日なおも、世界人口の五十四パーセントにあたる二十七億人の人たちが、アブラハムを信仰の父と仰ぎ、アブラハムの人生に連なりたいと願っています。それはどういうことなのでしょうか。人間は、四千年前とは較べものにならないほどすばらしい文明を築き上げ、その恩恵に浴しています。それにも関わらず、自分を塵の中に住まう者に過ぎないと考えている人たちが、世の中には今もたくさんいるということなのです。文明の恩恵に浴するだけでは駄目で、神様の恩恵に浴したアブラハムの人生に連なる者になりたいと願っているのです。

 実は、文明も決して捨てたものではありません。人間の知恵や技術は、多くの問題を解決してきました。たとえば、現代の最新技術を用いた義手や義足の話を聞いたことがあります。生身の手の働き、足の動きを驚くほど正確に、巧みに再現することができる義手や義足に、わたしはたいへん驚かされました。その技術者は胸を張ってこう言いました。「わたしたちは将来、この義手や義足をもって生身に近づけることができる。そうすれば、身体障害の問題は一切なくなる日が来るだろう」。確かにそうかも知れないと思いました。

 けれども、騙されてはいけないのは、それは決して手の不自由な人、足の不自由な人の救いの日ではないということであります。完全な義手と義足を手に入れたとしても、その手で幸せを掴むことができるかどうか、その足で喜びの人生を歩けるかどうかは、結局はその人の生き方次第なのです。

 レーナ・マリアさんというスウェーデンのゴスペル・シンガーがいます。生まれつき両手がなく、足も右足は左足の半分しかありません。それでも、とても素晴らしい笑顔で神様を讃える歌をたくさん歌い、多くの人を励ましている人です。あるテレビ番組でこの人が紹介されてから、日本でもよく知られるようになりまして、毎年のようにコンサートが開催されるようになりました。そのレーナ・マリアさんが『マイライフ(私の人生)』という本の中でこういうことを言っておられます。

 「私は神様を讃えるために、よくコンサートで旧約聖書から作曲した『詩編23編』を歌います。「主は私の羊飼い。私には乏しいことがありません」と歌うのを聞いて、「この人は両手がないのに、あんなに喜んで『わたしには乏しいことがありません』と歌っている」と驚くかも知れません。けれども、私はこの歌を心から歌うことができるのです。神様は私に、手の代わりに心の中に豊かさを与え、私が私自身を愛せるようにしてくださいました。だから、私には、このような体で生きることの意味を、いつも見つけるゆとりがあるのです。
 たとえば、私は障害をもっていたためにたくさんの友達を得ました。パラリンピックに出場することも、歌うことも、海外への旅行もできました。もちろん、最初はコップ一杯の水をこぼさずに飲めるようになることさえ、普通の人では考えられないぐらい時間がかかったのです。でも、そのおかげでわたしはずいぶん忍耐強なり、いろいろな知恵も与えられました。
 このように私が生きるのに必要な力や喜びは、すべて神様が与えて下さることが分かったので、まさに「乏しいことはない」のです。だから、神様に、「この体をどうして治してくれないよ」などと言って腹を立てたり、恨んだりしたことは一度もありません。いい人生だと思っています。」
完全な義手、完全な義足を手にした人が、かならず自分の人生を「いい人生だ」と胸を張って言い切ることができるようになるわけではありません。しかし、手足が不自由であっても、神様の恵みに浴して生きる人は、「主はわたしの羊飼い、わたしには乏しいことがありません」と感謝に溢れ、自分の人生を「いい人生だ」と胸をはって言い切ることができるのです。


 わたしたちはそれなりに「いい暮らし」をしたいと思って、一生懸命に働きます。一生懸命に働けばそれなりに財産を得、文明の恩恵にも与って、「いい暮らし」を手に入れることもできるかもしれません。しかし、わたしたちが心の深いところで求めているのは、実は「いい暮らし」ではなく「いい人生」なのです。「いい暮らし」なら、それなりに努力をすれば手に入れられるでしょう。しかし、「いい人生」は、一生懸命に働いて与えられるのではなく、ただ神様の恩寵によってのみ与えられます。それは今も、昔も少しも変わることがない事実なのです。

 だから、《アブラムは主の言葉に従って旅立った》というみ言葉をしっかりと心に留めましょう。神様は、アブラハムに「わたしの祝福の中に住みなさい」と呼びかけられました。「いい暮らし」はしていたかもしれませんが、悲しみと失望の人生を生きていたアブラハムに、神様は「いい人生」を与えようとされたのです。このように神様は、塵の中に住まう者を呼び出して、御自分の祝福の中に住まわせようとして下さるお方です。失望している者には、わたしが与える希望を持ちなさいとおっしゃって下さいます。力無き者には、わたしの力を頼りなさいとおっしゃって下さいます。悲しみに沈む者にはわたしの慰めを受けなさいとおっしゃって下さいます。道を踏み外した者には、わたしが罪を赦すから、もう一度やり直しなさいと励まして下さいます。神様は、わたしたちにも「いい人生」を与えようとして、「わたしの祝福の中に住みなさい」と招いて下さっているのです。
招きに従い続ける
 けれども、それは同時に「今までの生活に別れを告げて、新しい生活を始めよ」という、神様の召し出しの言葉でもあります。アブラハムにとってもそうでした。神様は、「わたしの祝福の中に住みなさい」と言われただけではなく、「生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」とも言われたのです。

 そして、アブラハムは主の言葉に従って旅立ちました。残念なことに、多くの人がここで後込みしてしまいます。確かに今までの生活を少しでも変えるということは易しいことではありません。教会に行くということがなかなか決心できない人からもよく電話がかかってきます。深い悩みから救われたいと、聖書も自分で読み、救われたいと思って教会に電話をかけてくるのでしょうが、「日曜日、早起きができない」とか、「家族や友達のつきあいがある」とか、なかなか最初の一歩が踏み出せないのです。けっして神様の祝福を疑っている人ではありません。それが自分に大切だと十分に認識しながらも、なかなか主の言葉に従って旅立つ者になれないのです。

 わたしたちは、今日、教会に来て一緒に礼拝をしているのですから、神様の招きに応じる最初の一歩は踏みだしていると言ってもいいかも知れません。しかし、九節をみますと《アブラムはさらに旅を続け》という言葉があります。生涯にわたり、アブラハムは神様に応える旅を続けるのです。わたしたちも、生涯にわたって主の言葉に従い続けなければなりません。そうして神様の祝福の中に住む人生を生きる者になるのです。

 アブラハムのお父さんであるテラは、カナンの地を目指して進んだものの、その途中で旅を止めてしまったというお話しをしたことがあります。そして、亡くした息子と同じ名前を持つハランという町に、死ぬまで留まり続けたのです。わたしたちもそういうことがあるのではないでしょうか。神様がもっと大きな祝福に入るようにと招いてくださっているのに、何かに執着してしまうとか、前途に不安をもつとか、気力が失せてしまうとか、なかなか前に進めなくなってしまうがあるのではないでしょうか。

 アブラハムが、生まれ故郷を離れ、父の家を離れ、主の言葉に従って旅立ったときに、孤独や、恐れや、不安が何もなかったと考えてはいけません。アブラハムも焼け付くような太陽を恨めしく思い、見渡す限りの荒れ野をみやって気力が失せてしまうようなことが度々あったに違いないのです。ある夜、アブラハムは寄る辺なき旅に疲れ果て、望郷の念にかられ、孤独にさそわれて夜空を見上げました。すると、そこに神様が語りかけてきて、「あなたが見ている星の数を数えてごらんなさい。あなたの子孫はこの星の数のようになる」と約束して下さったという話もあります。このように、神様は何度もアブラハムに語りかけてくださいました。そして、その度に信仰を新たにして、《主の言葉に従って旅立った》《さらに旅を続け》たのでした。
わが歩む道、神知り給う
 神様の言葉に従うためには、もちろん大きな決心が必要です。犠牲を払う覚悟も必要です。次回は、このことについてもう少し丁寧にお話をしましょう。しかし、そういう厳しさもありますが、神様は決して「ついて来られるなら、ついて来い」と、わたしたちを突き放しておられるのではありません。私たちが弱くても、愚かでも、従うことが出来るように、ちゃんと道を備え、手を差し伸べてくださっているのです。

 ですから、わたしたちは、「わが歩む道、神知り給う」という信仰をもって、神様に従うことが大切なのではないかと思います。これは旧約聖書のヨブという人の言葉です(ヨブ記 第二十三章十節)。ヨブは、神様の前に正しく生きていたにも関わらず、神様から大きな苦しみを与えられます。「なぜ、わたしがこんなに苦しまなければならないのか」と、ヨブは神様に激しく訴え続けました。しかし、ヨブは「わたしには分からないし、尋ねても神様は答えて下さらないけれども、それでも神様はわたしの歩む道を知っておられるはずだ」と言ったのであります。そして、「わが歩む道、神知り給う」との信仰をもって、神様に従い続けたのです。

 アブラハムも、この信仰をもって、神様に従ったのではないでしょうか。ヘブライ人への手紙には、アブラハムは《行き先も知らずに出発した》(ヘブライ人への手紙 第十一章八節)と言われています。「主の言葉に従う」とは、すべてが分かって進んでいく人生ではないのです。分からないことや、納得できないこともいっぱいあります。だから、いつまでも迷っていたり、後込みしてしまうようなことがおこります。そこから抜け出すには、「わが歩む道、神知り給う」と自分の人生を神様に委ねる信仰をもって、言い換えれば神様に下駄をあずけて進んでいくしかないのではないです。それはたしかに人生の冒険です。清水の舞台から飛び降りるような気持ちかもしれません。けれども、後で自分が歩いてきた道を振り返るとき、実は一番安全な道を歩いてきたのだということがきっと分かるのでしょう。

 主の母となったマリアもやはり同じ信仰をもって、主の言葉を受け入れました。そして、親類エリサベトは、《主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう》(ルカによる福音書 第一章四十五節)と、マリアを祝福しました。その通りなのです。「汝の言葉のごとく我になれかし」と、神様の言葉を信じて、受け入れて、従うということが、わたしたちの人生を塵の中から引き上げ、祝福の中に住まわせる力なのです。
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聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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