鏡の中のあなたへ
-前編-

  
 『恋』と言う字は『変』と言う字に似ている。
 ずっと、そう思っていた。
 そんなものにうつつを抜かしているよりも、もっと有意義に時間を使う方法はいくらでもあるはずだ。
 そんな、得体の知れないものに一喜一憂するような神経は私には理解できないし、別に理解したいとも思わない。
 それは私にとって、取るに足りない、必要の無いものだ。
 ずっと、そう思っていた。


 村雨紫苑は十六才になった。
 体は小柄だったが、けれども子供の頃から病気らしい病気もせず、健康そのものと言った風に育ってきた。
 そして時折あどけなさを残り香のように見せる表情は、しかし却って、その秘めた意志の強さを見る者全てに印象付けた。
 美しい少女だった。
 瑞々しさを内にたっぷりと封じたなめらかな肌。朝日を虹色に反射し、美しく光の輪を作る流れるような黒い髪。
 長い睫毛と吊り上がり気味に緩やかな弧を描くアイライン。アメジストの滴を集めたように瞬く光を宿す瞳―。
 「女の子にしてはキツ目の顔立ち」と評される事もあったが、幼少の頃より次期村雨グループの統括者としての教育を受けてきた紫苑にとっては、むしろ「下々の者に命令を下す立場の者は、少しくらい厳しい顔立ちの方が好ましい」のであって、そのような評はどちらかと言うと誉め言葉の部類に入るものだった。
 目を覚ました紫苑はしばらく布団の中で思索に耽っていたが、やがて起き上がると、寝間着にしている襦袢のまま寝室から襖一枚隔てた隣室へと移り、学校の制服へと着替え始めた。
 学校へなど行かなくとも教師がこちらに来れば済む事だしそれで十分なのに、なぜか形式や体面を気にした両親は、私を学校へやりたがった。
 「―でもね、紫苑。学校へ行ってたくさんのお友達を作るのも大切な事なのよ」
 お母様はそう言ったけれど、下賎の者が私の友達になんかなれる訳はないし、そんなものは犬のエサにもならない。けれどあんまり意地を張るとお母様に悲しい顔をさせてしまいそうだったので、「私のために新しく学校を造る」事を条件に、私の方から折れる事にした。
 そんな訳で、週に二三回はちゃんと制服に着替えて、別に楽しくもない学園生活を送っている。
 そんな、ごく普通の女子高校生だった。


 着替えを終えた紫苑は再び襖を開け、寝室へ戻った。が、今度はそのまま寝室を抜けて中庭に面した廊下に出ると、朝の黄金の光を浴びながら、居間へと泳ぐような足取りで歩を進めて行った。
 歩くたびに、マイクロミニのプリーツスカートから白い脚が流れ出す。
 もし紫苑が制服のまま自分の脚で街を歩くような事があれば、男女を問わず必ず誰もがその目を奪われるに違いない。そんなローマ彫刻の美しさと十六才の生命力を、その脚はもちろんの事その全身で表しているかのような、そんな姿だった。
 不意に池の鯉が跳ね、水音が静寂の中に心地よく響いた。ネオアクロポリスの都心部に位置するにも関わらず、紫苑の住む村雨家の別邸は、余りに広大なために街の喧騒とは無縁の世界だった。興味の無い事だったが、今しがた跳ねた鯉も一般職の年収ほどはするらしい。
 廊下の角を曲がり、紫苑は立ち止まった。向きを変え、障子を引く。音もなくすっと障子は開き、そこには―また紫苑が座っていた。
 「おはよう、桜」
 初めて見た者は皆そう言うのだ。けれど、二人を見比べれば顔の印象は多少違うし、何よりも全身に纏った雰囲気は全く違っている。
 「おはようございます、お姉さま。先に頂いてます」
 広大な居間の中央に据えられた重厚に光る黒檀の和テーブルで、先に制服に着替えて朝食に箸を付け始めていた双子の妹、桜が姉、紫苑を見上げた。
 美しかった。
 さすがに双子だけあってその美しさに遜色はなく、しかしその身に纏う雰囲気は紫苑のそれよりも柔らかで、真珠色のオーラがミルクの雲のように小柄な体を包んでいるかのようだった。
 後ろ手に障子を閉めて部屋へと入り、桜の正面に向き合って座った。朝食たちは、その座の主を待って既に整然と並んでいる。
 「はい、お姉さま」
 桜が紫苑の茶碗にご飯を盛り、手渡した。紫苑が手を伸ばしてそれを受け取る。
 「ありがとう、桜。今日は体調いいみたいね」
 「はい。お姉さまが色々気に掛けてくれるから…」
 桜には、生まれつき病弱なところがある。紫苑は時折、自分が桜の分まで健康に生まれてきてしまったせいだと思う事もあったが、しかし、そのか弱さまでもが桜の美しさなのだと知っていた。
 「そう、よかった。でも無理をしてはだめよ」
 「はい―」
 そして心地よい沈黙が二人の間を満たし、ただ火鉢の炭の崩れる微かな音だけが、たまに部屋の空気を揺らすのみとなった。
 お互いの全てを知る二人にとって、コミュニケーションに会話は特別必要の無いものだった。もそもそと箸を動かし口を動かす桜を見ているだけで紫苑は幸せだったし、紫苑の発てる衣擦れの音や茄子の浅漬けを噛むリズミカルな音を聞いているだけで、桜はとても幸せだった。
 しかしその幸せすらも永遠に続くわけではなく、不意に、夢のような静けさを低い声が貫いた。
 「お嬢様がた―」
 声は中からだった。もっとも、外の廊下に踏み入る事の出来るのは、本邸に住む両親と桜、紫苑以外にはいないのだが。
 「お入りなさい」
 紫苑が声を掛けると静かに襖が滑り、その向こうには下男の松村が控えていた。かしこまっていた松村が頭を上げる。
 「お嬢様がた、今朝方またこのような郵便物が届きましたのですが…」
 松村が勤続五十年の洗練された動きで、塗りの角盆を部屋の中へと押し入れた。盆には一通の封筒が乗っている。
 「まあ、お手紙! お姉さま、またお手紙ですわよ」
 「そうね。また手紙ね」
 ぱっと表情に花開かせた桜とは対象的に憮然と言った紫苑の表情は、露骨に嫌悪の滲むものになっていた。手紙と聞いて、先日の中沢翔太郎の件が思い出されたのだ。
 たかだか“フケ専”の音楽家のよこした手紙のせいで、紫苑は思いがけず自分の弱さも脆さも思い知らされる事になった。
 自分が心のどこがで誰かに想われたいと思っていたのだと言う事実めいたものは、少なからず紫苑の心を揺さぶった。
 自分は強いと思っていた。少なくとも桜さえいてくれれば、自分の心はどんな攻撃にも耐え得る堅牢な城壁であるはずだった。自分の背に隠れている桜のためにもそうでなくてはならないのだと、紫苑は自らにそれを課していた。しかし―
 フケ専バイオリニスト中沢翔太郎からのハートの付いた封筒は、簡単に紫苑の心の城壁を乗り越えてきた。
 紫苑にしてみれば当然、壁の中で護られていた桜がやられたと思った。大事な大事な、私だけが足を踏み入れていい純粋な花園が、中沢などと言うその辺の犬と大差ない男に踏み荒らされたのではないか、と。
 それで自分は柄にもなく取り乱してしまったのだ、と思っていた。
 しかし、桜の言葉が紫苑の心に混乱の一石を投じた。
 『私が後ろで見詰めていなければ、お姉さまは何もできないんだもの……』
 小さな石による小さな波紋はやがて穏やかだった水面に次々と広がり、そして遂には紫苑の心全体を激しく波立たせた。
 ―もしかしたら違うのかも知れない。
 もしかしたら堅牢な城壁はむしろ桜の方で、私は桜に背中を護られているからこそ、前だけを向いていられるのかも知れない。
 もしかしたら中沢の封筒は、後ろから城壁を乗り越えてきたのかも知れない。だとしたら―やられたのは一体誰なのだろう…?
 もちろん、紫苑はその答えを遺憾ながら知っていた。知っていたからこそ、不覚にも心を乱してしまったのだ。そしてその心の乱れは、村雨の後継者として決して許されない事なのだと思っていた。
 それ故に、紫苑は己れの不覚を深く恥じた。そしてなお一層『恋』など自分には必要なく、ただ桜だけが必要なのだと思うようになった。前を向いて進むために…。
 そんな濁った泥水のように渦巻く昏い思いを、紫苑は誰にも悟られぬように心の中に抑え込んだ。
 「それで? 誰に宛てたものなの?」
 松村が「また」と言った時点で、その手紙がまたラブレターである事は想像が付いていた。
 「紫苑お嬢様でございます。―御覧下さい」
 鋭く吐き捨てるように言った紫苑の言葉を受けて、しかし松村は動揺一つ見せず淡々としていた。
 紫苑は仕方なくと言った態で無造作に封筒を取り上げると、表に記された自分の名前を一瞥し、こんな愚かで恐れ知らずな真似をする者の名を確認すべく封筒を裏返した。
 控えめに紫苑の手元を覗き込んでいた桜は「まあ」と感嘆の声を上げ、紫苑は封筒を破り捨てそうになる自分を抑えるのに全力を使わなければならなかった。
 それは恐らく身分の低い者の作法なのだろう。そこにはやはりピンクのハートの封緘があり、それは「愚を赦すも王者の器量」と言う言葉が思い浮かばなければ、紫苑の手によって既にこの世にないような物だった。
 差出人は「From Akira」となっていた。
 流れるような自筆の筆記体はそれなりに知性を感じさせるものではあったが、頭は悪くとも字は練習すれば上手くなるのだ。それよりもむしろ「いくら身分が低くても名字くらい許されているはずだが…」と半ば反射的に思った自分が、紫苑は少し可笑しかった。


 「お姉さま―」
 ふと桜の声が、囁きのように優しく紫苑の耳をくすぐった。
 色とりどりの薔薇が、紫苑の視線の先で風に光に踊っている。宝石箱をひっくり返したかのような多彩な色彩が、延々と敷地の果てまで広がっていた。
 紫苑はこの薔薇園が好きだった。
 広大な敷地に年中花の絶えぬように何種類もの品種を植え、そこに造られた泉や小川は、今や都会に住む鳥や動物たちの貴重な憩いの場となっていた。
 その一角に「観月台」と名付けられた小さな丘がある。丘の頂上には天然木を使用したあずまやが造られ、鳥と動物以外の者は、この屋根の下をよく憩いの場として使っていた。
 紫苑の表情に満足げな微笑が浮かぶ。その視線の先には、自らが設計した自分たち姉妹のためだけの庭が広がっていた。それは、紫苑のやがて実現する“理想郷”の最初の一歩でもあった。
 風がそよぐと薔薇は囁き、甘い香りが紫苑の白磁の頬を優しく愛撫していった。
 「お姉さま」
 ―何度目かの桜の声。
 紫苑はようやくふと我に帰り、未来から現在へと想像の翼を引き戻した。「なあに」と返事をして振り向き、アメジストの瞳を声の主である双子の妹へ向ける。
 「もう、お姉さま全然返事して下さらないから…」
桜が形のいい眉をハの字に下げ、少し困った表情を作った。左手に砂糖皿、右手にトングを持って、紅茶の湯気の向こうで固まっている。
 すぐに紫苑は事情を察し、桜の硬直を解いてやる。
 「ああ、ごめんなさい。いいわ、いつも通りふたつで」
 ようやく解放された事が嬉しいのか、姉に声を掛けられたのが嬉しいのか、桜は喜々として角砂糖をふたつ紫苑のカップに入れると、スプーンでひと混ぜしてそれを紫苑の前に置いた。
 途端に手作りのローズティーの香りが紫苑を包み、その香りは、思わず紫苑に深呼吸をさせるほどに甘美だった。
 「お姉さま、今日はケーキを焼いてきたの」
 言うが早いか桜はバスケットから新たにケーキ皿を取り出し、自作の苺ショートを二人分取り分けた。
 紫苑と違って桜は、料理や洗濯など世俗じみた事を好むところがある。紫苑はそんな桜を見ていると「泥遊びをする子供」を見ているような気分になった。保護欲は極限まで刺激され、どうしようもなく桜が愛しく感じられてくる。
 確かに同じ顔をしている。紫苑が鏡を覗けば、そこにいるのは桜なのだ。
 だからこそ、自分を愛するように紫苑は桜を愛している。―生まれるずっと前、二人は一つの細胞だったのだ。お互いを愛するのはむしろ当然の事だろう。
 「はい、お姉さま―」
 桜が取り分けた皿を紫苑の前に置き、自分も早速ケーキを一口食べてみる。
 フォークで一口大に切りとられたスポンジが桜の懸命に大きく開けた口の中に納まると、途端にその表情が幸せな驚きに染まった。
 「あ、おいしい!」
表情が思わず声になる。桜は同意を求めて双子の姉を振り見た。
 「?」
 桜の表情に怪訝の色彩が混じる。紫苑はケーキを前にただ不機嫌そうな顔で前を、遠くに見えるタワーを眺めているだけだった。桜が小首を傾げる。
 「お姉さま?」
 「桜―」
 紫苑の視線は揺らがない。それはタワーの建設を指揮する母への複雑な思いもあったかも知れなかった。
 「はい、お姉さま」
 「―私は自分で食べるのかしら?」
 「あ」
 桜は急いで紫苑の皿を取った。フォークを紫苑のものと替え、再びケーキを一口大に切る。
 「フォークは桜と同じでいいわ」
 「はい」
 姉のわがままに、桜は思わず微笑んだ。そしてまるで侍従のようにその指図に従う。
 桜は紫苑の自分に対する不躾な愛情も母に甘える事をよしとしなかったその性格もよく知っていたので、一見理不尽な紫苑のわがままも、桜にとっては姉を愛しく思う一つの要素でしかなかった。むしろ姉が自分の前でだけ甘えた面を見せると言う事実は、桜にとっては自分の存在価値を確かめる拠り所にすらなっていた。
 フォークを自分の使っていたものに再び持ち替え、桜は自作のケーキを紫苑の口へと運んだ。
 「―どう?」
 もぐもぐと無言で口を動かしていた紫苑が、不意に桜を振り見た。表情が変わらないのでまるで睨まれているようにも感じる。ただ生クリームが口に付いているのがおちゃめだった。
 「おいしいわ。最近のケーキの中でも出色ね。バターの量を増やしたのかしら?」
 「ええ。あと卵白を多くしてみたの。そしたらスポンジがこんなにフワフワに…」
 「そう…。桜は本当に料理が好きね」
 「ううん、私はお姉さまが喜んでくれる事をするのが好きなだけ」
言いながら、桜が紫苑の顔に手を伸ばした。
 「お姉さま、クリームが口に……」
 しかし紫苑は以外にも顔を遠ざけて、桜の手を拒絶した。
 「?」
 また怪訝の色に染まる桜の表情。
 「口で取って頂戴」
 一瞬だけ動きが止まり、そして桜は手を引っ込めた。
 「はい、お姉さま――」
 身を乗り出し、紫苑の口角に残ったクリームを舌を出してなめ取る。そして紫苑がそれを望んでいると知っていたので、桜はそのまましなやかに唇を重ねた。そしてたっぷり二呼吸の後に唇を離す。弾力と温もりと乳脂肪の微かな香りが、二人の時間を一つにしていた。
 「ありがとう、桜」
 それだけ言うと、紫苑はまたタワーの方へと目を戻してしまった。
 紫苑は相変わらず表情を変えない。さすがの桜も少しつまらなく感じる自分を抑えられなかった。
 沈黙が、少し気まずかった。
 仕方なく、桜はまた自分のケーキを片付けることにした。
 「桜―」
 不意の呼びかけ。
 「何? お姉さま」
 「――苺が食べたいわ」
 一瞬、大きな目をますます大きくさせてきょとんとする桜。そしてすぐに笑顔の天使が舞い降りる。
 「はい、お姉さま―」
 桜はその不器用さを、心から愛していた。


 ケーキを食べ終わり、二人は咲き盛る薔薇の誇らしげな姿を眺めながら、まるでその景色そのものを蒸留したかのようなローズティーを楽しんでいるところだった。馥郁たる芳香が、体の内と外から二人の時間をとても豊かなものに変えていく…。
 「でもよかったわ」
 それは暖かで心地よい沈黙だったが、それを先に破ったのは桜の方だった。
 「…何がよかったの、桜」
 「何って、今度のお手紙はちゃんと宛名が読めたから…」
 一瞬、紫苑の目が細く鋭くなった。それが憎々しげだったかどうかまでは桜には分からない。
 「―下らないわ」
 紫苑が言い放った。まるで唾でも吐き捨てるような口調だった。
 「そんな、下らないなんて…。じゃあお姉さま、あのお手紙はもう捨ててしまわれたの?」
 「あるわ。どうしてやろうか思って考えてるのよ」
 桜は姉が何か恐ろしい事を考えているような気がして、本能的に少し首を竦めた。
 「どう…って?」
 「決まってるわ。こんな馬鹿げた事をする輩は、一体どうしてやれば思い知るのかしら、って」
 淡々と辛辣な言葉を口にする紫苑を見ていると、何かに憎しみをぶつけているようにも思える。おかげで桜ははらはらしっぱなしだった。
 「『恋』なんていびつな感情、私には必要ないわ。むしろそんな事を考える事すら煩わしい」
 「そんな、お姉さま…」
 「じゃあ何? 桜は私が男なんかとつき合っていいって言うの!?」
紫苑が珍しく語気を荒げた。同意してくれない桜に憤りを感じていた。
 「違うの、お姉さま…」
 荒れる波涛となった紫苑の心を、桜が宥めるように柔らかく受け止める。
  「私はただ、今でさえ綺麗なお姉さまが『恋』をなさったら今よりももっと綺麗になって―今よりももっと私の自慢のお姉さまになるんだろうなって、それが―」
 突然、紫苑が立ち上がった。思わず縮こまる桜。
 そして冷ややかな目で桜を見降した。紫の瞳に映る桜が少し怯えていた。
 「学校へ行くわ」
冷たくそれだけを言い残すと、紫苑は踵を返してあずまやを離れ、階段を下ってずっと待たせてある車へ向かって行った。運転手を呼びつける声が小さく丘にこだまする。
 桜はただそんな姉の後ろ姿を見送る事しかできなかった。「でももうそろそろお昼よ」と言ってあげれなかった事が少し残念だった。