その日の夜、桜といつものように就寝の挨拶を済ませたあと、紫苑は独り広大な自室で襦袢のまま机と向き合っていた。 既にどのくらいの時間そうしているであろうか。紫苑はただひたすら机を睨み付け、思いを巡らせていた。 机の上には一通の封筒が置かれていた。 『村雨紫苑様』 そう宛ててある以上、これは自分が何とかしなければならない問題だと、紫苑は思っていた。宛名不明だった中沢の時よりは、その点で不愉快な思いをせずに済む分くらいはマシだとも思っていた。 読まずに捨てる事もできる。ちょっと手を動かして封筒をごみ箱の中へ放り込む。たったそれだけの事だと分かっていたが、なぜかそれを実行に移す事はためらわれた。理由はよく分からなかったが、けれどそれ故に紫苑はこの封筒の処遇に窮していた。 そしてまた長い間、紫苑はただ自分宛ての封筒を睨み付けていた。しかし残念ながら紫苑に透視能力はなく、ようやくそれに気付いたのか、紫苑は意を決して机の上の封筒に手を伸ばした。紙の封筒がやけに重く感じられる。 紫苑は机の引き出しから純金製のペーパーナイフを取り出すと、無意識に一つ小さく深呼吸をした後、ゆっくり慎重にその封筒の封を切った。ペーパーナイフを置き、中の便箋を取り出す。なぜそんな事をしたのかは自分にも分からなかったが、部屋の戸を振り返り、そこに僅かな隙間もない事を確認した。 再び無意識に小さく深呼吸をし、そして紫苑は手にした便箋を開いた。そこには想像していたよりもずっと整った、男にしては上品な文字が整然と並んでいた。 《村雨紫苑様… 先輩を初めて目にしたとき以来、ずっと先輩の事を想い続けてきました。今までは遠くから先輩の凛々しい姿を見ているだけで満足でしたが、日に日に私の心の中で大きくなっていく先輩への想いに、思い切ってお手紙しました。もしも直接会ってお話しがしてもらえるなら、どんなにか幸せでしょう。火曜日の三時に中央公園の噴水の前で待ってます。 瀬川あきら》 「……………」 読み終わってみると、意外なほど何の感想もなかった。「ちゃんと敬語も使えないのか」とか「名字あったのか」とか、そのくらいの事しか思わなかった。ましてや礼もわきまえず一方的に呼び出すなんて問題外だった。 「下らない、笑わせるわ―」 結局、それが紫苑の感想だった。 けれども再び封筒に戻された手紙の行き先はごみ箱ではなく、鍵の付いた螺鈿細工の飾り箱の中だった。 カチャリと小さな鍵が音を発てる。 そして飾り箱を引き出しの一番奥へと仕舞い込んだ紫苑は、なぜ自分がそんな事をしているのか理解できずにいた。 それは―なぜ自分の頬が熱くなっているのかと言うくらい、理解できない事だった。 「―桜、まだ起きてる?」 紫苑は月明かりに照らされるばかりの仄暗い廊下に立ち、障子に向かって呼びかけた。 数瞬の間の後障子は内側から照らされ、庭に伸びた紫苑の長い影は、部屋の主が間もなく返事をするであろう事を予感させた。 「はい、お姉さま。どうぞお入りになって」 声を聞き紫苑が障子を開けると、そこには襦袢姿で微笑む桜が、布団の上にちんと正座をして紫苑を見上げていた。その姿は自分と同じ顔とは言え、息を飲むほどに美しかった。 紫苑が畳を踏みしめて部屋に入り、桜の前に座を取った。と、入れ替わりに桜はぽんと手を打ち、「そうそう」と立ち上がると隣の部屋へ出て行った。すぐにティーセットを持って戻ってくる。 「お姉さま、シャモン農園の夏摘みが手に入ったの。試してみて」 そう言うと、桜は銀のポットからカップに金色の液体を注いだ。途端にマスカットのような香りが部屋中に広がり、この広い部屋をして全く散らないほどにその香りは芳醇で濃厚だった。 「いい香り…」 香りに重きを置く春摘みのファーストフラッシュよりも、味に重きを置く夏摘みのセカンドフラッシュの方を紫苑は好んだ。なのに夏摘みにしてこれだけの香りがすると言う事は、このお茶にどれほどの実力が秘められているのか十分に推測できた。 一口口に含んでみる。 途端に口の中いっぱいに高原の風が広がり、もぎたての果実ににかじりついたような充実した清涼感の迸りが、あっという間に紫苑の体全体に満ちていった。 「―素晴らしいわ」 「でしょう?」 桜が自信ありげな笑顔を作った。 「お姉さまの好きなウバの葉っぱじゃないんだけど」 「そうなの?」 「ええ。ダージリンの端の辺の有機農園って言ってたわ」 紫苑がまじまじとカップの中のお茶を見た。自分の顔が、光と共に紅茶の面に揺れている。 「―やっぱり色々試してみないとダメね。おいしいお茶はたくさんあるわ」 「ええ、また探しておきます。お姉さまが喜んでくれるなら」 「桜…」 紫苑は妹の優しさに感動をすら感じた。が、その感動は、妹の一言によってすぐに破られた。 「ところでお姉さま、あのお手紙はどうなさったの?」 カチンときた。せっかく幸せな気分に浸っていたのに、なぜ今そんな事を思い出さなければいけないのか。紫苑はすっかり自分がその事でここへ来た事を棚に上げて、桜を睨み付けた。 「なぜそんな事を訊くの?」 「なぜって…ただ、どうしたのかなって」 「どうって何? そんなに気になるの?」 紫苑の言葉は感情に支配され、徐々に熱を帯び始めていた。ムキになっている自分が気に入らなかったし、平気でいる桜も気に入らなかった。 「気になるって言うか、お姉さまはどうなさるのかしら、って…」 自分は常に平静でなければならなかった。そう、決めたのだ。しかし― 「あのお手紙はお読みになったんでしょ?」 桜の言葉はそれが無意識であるが故に、的確に紫苑の心を掻き乱した。 「よ、読んだわ」 「なんて書いてあったの?」 今や上に立っているのは桜の方だった。「下らない」ものだったはずの手紙を結局読んだ事を告白させられ、そのプライドの仮面を剥がされた紫苑は、衆目に裸体をさらすような激しい羞恥を覚えていた。 「な、何でもいいじゃない。下らないわ」 「ほらまた」 その静かな態度は余裕の現れなのだろうか? 「お姉さまはいつもそう。自分の都合が悪くなるといつも“下らない”で済ませてしまうの」 「おやめなさい、桜」 「恋をする事は下らない事じゃないわ。お姉さまはそれで自分が変わってしまうのが恐いのよ」 「桜っ!」 思わず振り上げた右手を紫苑は自制し、何とか下へ下ろした。鋭く張り上げた声が広い部屋に反響しながら染み込んでいく。 紫苑は静かに立ち上がった。もうこれ以上は耐えられなかった。もうこれ以上心を見透かされるのは、耐えられなかった。 桜はじっと黙ったが、声の残響と感情の熱波が消えるとすぐに言葉を継いだ。諭すように、宥めるように…。 「―お姉さま、無理をなさらないで…」 紫苑はその言葉を背中で聞いていた。そして後ろ手に障子を閉め、その部屋を―逃げ出した。 仄暗い廊下を歩き、紫苑は独り呟いた。 「無理? 私が?」 その声からは、いつもの自信は失われていた。 「村雨さん、少しくらい休まれた方がいいですよ。一応睡眠剤と筋弛緩剤処方しときますけどね。結局はメンタルな事ですから、薬にはその場しのぎ以上の効果は期待しないで下さいね」 年下のセラピストは、そう言って心配そうに笑い掛けた。全ての患者にいちいちこんな笑顔を向けていてはとても体が保たないに違いないが、彼女とこの患者―村雨緑との間には、既に友情と呼ぶべき絆が生まれていた。 「ありがとう。―自分でも分かってるんだけどねー、なかなか社長ってのも忙しいのよ。現場の人間がみんな私だったらもっと楽ができるんだけど」 「よして下さいよ。そんなに患者が増えたら大変だ」 「あら、言うじゃない」 二人の声を潜めた笑い声が、まるで応接室のような診療室に控え目に響いた。 「ところでさあ…」 緑が机に向かってカルテを書き込む白衣の背中に話しかけた。「何ですか」と背中越しに返事がする。 「ウチの一人娘なんだけどね」 「はい。えーと、紫苑さんでしたっけ? 確か十六才でしたか…」 「そう、高二。で、その娘がさあ、最近ちょっと情緒不安定気味なのよ。一度連れてこようかと思ってるんだけど…」 母親にしては余り心配していなさそうな声だったが、この人は物事に余り深刻にならない人だと、セラピストは知っていた。ぐるりと椅子ごと回転し、再び気の合う彼女の患者と向き合った。 「どんな風にです? ヒステリーとか?」 「うーん。実のところ忙しくてあんまり会ってないからよく分からないんだけど、どうも『妹』がいるみたいなのよ」 「?」 セラピストは怪訝な顔をしてしまったのだろう。緑は違う違うと手を振ってその頭に浮かんだであろう下世話なゴシップを払い、説明を続けた。 「もちろん、私にもダンナにも不貞の子はいないわよ。子どもは紫苑一人よ。でね、問題のその『妹』はあの子の中にいるらしいのよ」 「――多重人格ですか?」 「うーん…」 緑が目を天井に向け、一瞬考えた。 「たぶん、そこまでは進行してないと思う。人形遊びの延長みたいなもんよ。ただ…」 「ただ?」 「どうも機械を使ってるみたいなのよ、松村が言うには。あ、松村はウチの使用人ね」 「機械!? 機械と言うと例の?」 「そ、“例の”。発売は中止されたけど、あの子はよくも悪くも「村雨」の名前の使い方を知ってるわ」 「はあ、そうですか、機械ですか……」 今度はセラピストが考える番だった。白衣の下のミニスカートから伸びる細く白い脚を組み替え、口にすべき言葉を頭の中で組み立てる。 「…一応、症名は『電脳性乖離人格障害』と言います。自己への解答を求めて、別の自我を自分の中に作っちゃうんですね。それで、それを電脳空間の助けを借りて疑似現実化する訳です。最悪の場合やがて夢と現実の分別を失って自己が破綻します。いわゆる精神崩壊と言うやつです」 「―そりゃ放っとけないわね」 「放っとけないですよ。本とにそう思ってます?」 緑が眉間に皺を寄せた。 「思ってるわよ、私の子よ!?」 応えるようにセラピストは両肩を少し竦めた。のほほんとした彼女の中に母親の姿を確かに見て他人事ながら少し安心し、謝罪する。 「―自己のハタンかあ…」 「最悪、ですよ。大抵の場合はその“例の機械”の使用をやめ、何か精神的な支えが出来れば自然に治っていくもんなんですが…」 「自然にねえ…」 「はい。―きっと娘さんは村雨家の娘として一生懸命なんですよ。誰かを支えとし、誰かに支えられたいんだと思います。 何にせよ、一度連れていらっしゃったらどうですか? 私もお話ししてみたいですし」 「うーん…いいけど、気難しい子よ? 変わってる、って言った方が合ってるかしら…」 セラピストがにっと笑った。 「大丈夫ですよ。お母さんも変わってらしたから―」 「言うじゃない」 そう言って両眉を上げて見せた緑だったが、この頼りになる年下の友人と一人娘を対面させる事を、心の中で既に了承していた。 紫苑は自室に戻り、鏡の中に自分の姿を見詰めていた。 …自分の顔をまじまじと見るのは、一体どのくらいぶりになるだろうか? ずいぶん変わってしまった―それが紫苑の持った自分への印象だった。 いつも見ている桜の顔が、自分の顔だと思っていた。優しく、可憐で、物静かな姉思いの妹―。 けれど今鏡に映る顔は、そんな形容からはほど遠い「醜悪な」顔だった。鋭利で、冷酷で…そして子供だった。 自分は村雨の後継者として、常に完璧である事を自分に課してきた。けれどもそれは、果たして本当に自分の望んだ村雨紫苑の姿だったろうか…? …桜は自分が今まで捨ててきたあらゆるものを持っている。或いは、桜こそが鏡に映った自分の本当の姿なのかも知れなかった。 ―私が影で桜は光。 桜は私の唯一の理解者であり、唯一の安らぎであり、そして唯一の心の支えだった。 桜がいる限り私は強くいられるし、桜なしでは一秒たりとも生きてはいけないのだろう。そう、光なくして影が存在し得ないように…。 ―私は自分が変わるのが恐いんじゃない。自分が変わる事で、桜が離れて行ってしまうかも知れない事が恐いのだ。 確かに、私は桜を愛している。はっきりと、そう明言できる。 けれど―自分自身の存在価値として桜を愛しているのだとすれば、それは、本当に桜を愛していると言う事になるのだろうか? ―そもそも鏡に映っているのは光? それとも影? 私は一体…… 紫苑は鏡の中の自分に問いかけた。 「お姉さま…」 不意に障子の向こうから聞き慣れた声がして、紫苑を鏡の国から現実へと連れ戻した。 紫苑はもう一度鏡を見て自身に乱れがない事を確認すると、居住まいを正し障子に向かって返事をした。 「桜ね、どうぞ」 少し遠慮がちに人一人分だけ障子が開き、襦袢姿の桜が青い月光を背に姿を見せた。 「あの…お姉さま…」 「なあに?」 桜は廊下で半ば俯いたまま、何と切り出していいものか思案している様子だった。そしてしばらくの間もじもじと逡巡した後、意を決して切り出した。 「その…さっきはごめんなさい。その…生意気なこと言って。きっとまだ怒ってらっしゃるんでしょうね…」 「さっき? …ああ、手紙のこと? 別にもう怒ってなんかないわ。今まで忘れてたくらい。そんな事より、そんなとこにいつまでも立ってないでこっちへいらっしゃい」 桜は「はい」と素直に返事をして、しずしずと布団に正座していた紫苑の前まで来ると、音もなく直接畳の上に正座した。何だかそのしょんぼりする姿が叱られた子犬のように思えて、紫苑はとても愛おしかった。 「本当にいいのよ、桜。別に怒ってないわ」 「本当? お姉さま」 「ええ、本当よ」 光が弱くなれば影は薄くなる。桜にはいつも輝いていて欲しかった。自分の失くしてしまった光の分まで…。 「よかった。でも―」 桜の表情に太陽のような明るさが戻った。つられて紫苑も何だか嬉しいような気分になってくる。 「でも?」 紫苑は微笑みを浮かべながら、小首を傾げて桜の次の言葉を待った。 「でもやっぱり、お姉さまが恋をしたらとても美しいと思うの」 「桜、あのね…」 珍しく、今は姉が妹を諭す番だった。吊り上がり気味の目に、いっぱいの優しさが溢れるように広がった。 「前にも言ったけど、私は他人に興味はないの。―正確には、私の心の支えになる事の出来る人以外には興味がないのよ。そしてそれが出来るのは桜、あなただけ」 「お姉さま…」 紫の瞳に映る紫苑の姿が不意に揺らいだ。けれど、その見詰める視線までもは揺らがない。 「お姉さま、でも―」 「……………」 紫苑には桜の次の言葉は想像がついたが、しかしその涙をいっぱいに溜めた瞳を前に、その言葉を遮る事は出来なかった。 「―それでもお姉さまは恋をなさった方がいいと思うの」 「桜…」 今や桜の声はどこか悲しげで、まるでガラス一枚を隔てているかようにくぐもって響いた。 「そしたらきっとお姉さまは変わってしまうだろうけど、でも…それでいいの。お姉さまが村雨のためでもましてや私のためでもなく、自分の幸せのために変わってしまうのなら、それでいいの…」 「もういいわ桜、ありがとう」 紫苑は立ち上がり、桜の頭を抱き寄せた。泣いているのだと本能的に分かった。両腕に力を込め、決して大きくはない胸の弾力の中にその全てを包み込もうとしていた。 「お姉さまだっていつかはきっと誰かに恋をする。そうしたらきっとお姉さまは私から離れて行ってしまうけれど…、でも…それでもずっと、桜のお姉さまでいて下さい…」 「馬鹿ねぇ…」 紫苑は慈母の目で桜を見降ろし、艶やかに光を照り返す黒髪を優しく撫でてやった。 「―私は何も変わらないわ、何があっても。私は村雨紫苑であり、村雨桜でもあるのよ。遺伝子レベルで二人は同一なんですもの、離れられるわけないじゃない」 「はい、紫苑お姉さま…」 桜が顔を上げ、胸の中から紫苑を見上げた。涙に潤んだアメジストの瞳が、星空を掻き集めたように煌めいていた。 「…桜…美しいわ」 飾らない素の心で、紫苑は本当にそう思った。 そして桜色のその唇は、同じもう一対と重なる事をお互いに望んでいた。 ぽっと表示がグリーンに変わったのを確認して、紫苑はゆっくりと目を開いた。 真っ暗だった。 ふと気付いて両手のセンサーを外し、密閉型のヘッドセットを頭から取り外した。と途端に朝日が目に飛び込んできて、紫苑は反射的にぎゅっと目をつぶった。 上体を起こし、隣を見た。 一緒に抱き合って眠っていたはずの桜はそこにはおらず、いた形跡すらなく、起き抜けの紫苑の頭は軽い混乱の小波に戸惑った。 しかし次の瞬間、目の端に映った装置の無機質な輝きは、紫苑の頭に急激な覚醒をもたらした。 「そうか…こっちが現実か…」 また使ってしまった。ここのところ疲れて気が滅入っていたから…。 この装置が「長期に渡る使用により精神に悪影響を及ぼす」のは知っている。それで発売中止になったものを、「村雨」の名を使って強引に一台手に入れたのだ。それくらい、紫苑にはその謳われる効果は魅力的に見えた。 ―たとえ精神にどんな影響が出ようとも、それが心の支えになるのならそんなものは安いものだ。 そんな事を考えながら、紫苑は隣室に移り学校の制服に着替え始めた。多分、今度は本当に。 と、ふと思い当たって、紫苑はスカートも穿かないままショーツ一枚で弾かれたように机に飛び付いた。引き出しを開け、その一番奥に隠すように仕舞ってあった螺鈿の飾り箱を取り出した。 胸ポケットから小さな鍵を取り出し、箱の鍵穴に差し込む。注意深く回すと、カチリと小さな音がした。 箱を開けた。 ピンクのハートが目に飛び込んできた。 紫苑は納得顔で机を離れるとスカートを穿き、ハイソックスを穿いた。上着を着て、自分の姿を姿見でチェックする。 そしていつもの自信に満ちた微笑みを顔に浮かべると、一つ小さくうなづいた。 「松村! 学校へ行きます!」 紫苑は肩の金モールを翻して机に取って返すと、封筒を掴んで押し込むように上着のポケットへ仕舞い込んだ。 日は早くも西に傾きかけている。冬の午後は思っている以上にあっと言う間だ。 ネオアクロポリスのほぼ中央に位置する緑地公園。それが通称中央公園だった。 平日の午後なので人は疎らだったが、たまたま通りかかった人は、恐らくそれを「奇妙」と感じたに違いなかった。 紫苑が立っていた。 たとえ彼女の事を「村雨家の御令嬢」と知らなくとも、その類希な美貌と陽光に輝くような黄金のオーラを纏うその姿に、目を止めない者はいなかった。中にはその股下10センチのスカートから伸びる脚にまず目を止める者もいたが…。 紫苑は待っていた。 「待つ」という行為自体が紫苑には殆ど初体験で、却って何もせずに時間を過ごすと言うのが結構楽しかった。 なぜ待っているのかは自分でもよく分からなかった。 両親は紫苑が幼い頃から今のように忙しく、広大な屋敷にはいつも紫苑はひとりぽっちだった。 考えた事はなかったが、自分の心は実はずっと独りで寂しかったのかも知れない。それなら、一時の気の迷いで人恋しくなる事もあるだろう。 気の迷い。そう、決めた。 左腕の時計をちらと見た―二時五九分。三時までは待つつもりだったが、三時一分には帰るつもりだった。三時と言えば三時。それは身分の上下に関係ないはずだ。 と、公園の大時計が三時を告げた。同時に紫苑の心の中でカウントダウンが始まる。 ―ガサッ! 突如、後ろの繁みから人影が飛び出した。 ぎょっとした紫苑はしかし咄嗟に飛びずさり、人影の正体を確認した。―何とそれは紫苑と同じ服、つまり聖祥学園の制服を着ていた。もちろん村雨の縁の者ではないのでその肩に金モールはなく、スカートも膝から計った方が早いくらいに長かったが…。 思わずあっけに取られていた紫苑が何とか体勢を立て直し、突然現れた人影に失礼を詫びさせようとしたその時― 「センパイっ、本当に来て下さったんですねっ!」 「は?」 先制攻撃に、紫苑は思わず間の抜けた声を出してしまった。相手が女の子だとは予想だにしなかったのだ。意表を突かれて事態が掴めず、ちょっと困惑していた。 「瀬川鏡です。本当に来てもらえるなんて、私感激しました」 せがわあきらと名乗ったその少女は溌剌としていて、弾けるような生気に満ち満ちていた。体は紫苑よりも少し小さかったが、しかしその内側を輝く活力でいっぱいに満たし、子犬の様にくるくるとよく変わる愛らしい表情がとても印象的だった。走って来たのか白い肌を上気させ、そしてその瞳は、まっすぐに紫苑の心を眩いほどの光で照らし出した。 勢いに押されて上体の引けた紫苑の内側で、どきりと何かが音を発てた。頬が熱くなってきたのは驚いたせいばかりではないと、遺憾ながら認めていた。 『恋』なんていびつなだけの感情だと、ずっと、そう思っていた。しかし― 対面の感激にその澄んだ大きな目を潤ませて、鏡は憧れの紫苑をじっと見上げていた。 不覚にも胸がときめいた。 『恋』と言う字は『変』と言う字に似ている。 「そうね、桜…」 今や、桜は紫苑だった。 もう二度とあの装置のスイッチが入る事もないだろう。 取りあえず、紫苑はまず紅茶の話から切り出す事にした。 |