1.肉弾凶器(グラマラス・スタンピード)

   1

 その瞬間は意外な程あっけなくやって来た。
 レフェリーが両手を高く挙げて振り、そしてゴングが幾度も打ち鳴らされる。
 試合終了の合図。
 同時に満員の会場からは一斉に歓声とそして溜息が湧き上がり、それはまるで建物全体を震わせる渦のような熱気となって、光に浮かぶリングを取り巻いた。
 「予想通り」と得意げに声を弾ませるものが三割、後の七割は落胆し、予想し得なかった結末に未だ席を立てないままでいた。
 レフェリーストップ。
 スタンドの打撃を主とする彼女の試合ではそうあることではない。しかし、この結果が全てだった。


 エクストリームは実戦(リアルファイト)に極めて近い。
 時間無制限でラウンドもない。TVの事を考えて流血の起きやすい頭突きはさすがにないものの、最近のルール改正でムエタイの大きな武器である「肘打ち」も遂に解禁された。
 「一騎討ちの決闘」を理想と考えているためレフェリーの介入も最小限で、結果として膠着によるブレイクも他のルールと比べると極端に少ない。しかしそこが―ネックと言えばネックだったのかも知れない。それが今更ながらのことだとしても。
 今までもグラウンド系の相手とは何度も戦っていた。しかし寝技は寝なければ喰らわないのだ。タックルを切る技術やタックルに蹴りを合わせるタイミングを身に着けてしまえば、後はほぼ自分のフィールドで戦っていけた。
 エクストリームは元々「立ち技こそが美しい」と考える綾香の思想がルールのベースにある。だからリングにはロープがない。最悪例え組み付かれても、倒れる前にわざと場外に落ちてしまえばブレイクとなる。つまり打つ側には逃げやすく、組む側には仕掛ける場所を選ばされるルールにそもそもなっているのだ。
 他のルールが寝技で決まるケースが多い中、KO率の高いエクストリームはそれを大きな特徴としていた。スター不在となった時期でも人気が持続した要因もそこにあると言える。
 それだけに…、強力で正確無比な打撃を誇る彼女が青い柔道着に押し潰され身動きが取れなくなっていく様は、彼女の勝利を見にやって来た観客にとって信じられない光景だった。
 王者坂下敗れる。
 しかし、それが結果の全てだった。

   *   *   *

 葵はその光景をTVの前で身を乗り出すように見ていた。
 もちろん葵も坂下の勝利を信じて疑わない一人だったが、しかし心のどこかに「もしかしたら」という思いもあったのだろう。その瞬間の表情は驚愕と言うよりむしろ苦渋に近いものだった。
 「……………」
 息を付くことも忘れていた葵がふーっと大きく空気を吐き出し、そしてどさりと床に倒れ込んだ。
 通常は考えられない対戦相手ではあった。
 相手の柔道家は体重135キロ、坂下の有に二倍半はある。重量無差別のエクストリームならではの対戦ではあったが、坂下本人は周りが言うほど特に特別な相手だとは思っていなかった。
 今までも自分より大きな相手と戦ったことはあるし、別に自分は中量級なのだから自分より大きな選手がいくらでもいることはよく知っている。
 それに柔道家との試合も何度か経験している。特に対策を講じなくとも、相手の投げの間合いがこっちの打撃の間合いである以上、どのみち相手は組み付いて倒しにくるしか方法はないのだ。そこに打撃を合わせ、横に動いて突進をかわしてやればいい。かわしざまに下段蹴りでも付けておけば、体重の重い相手はそれだけで勝手に崩れていくだろう。
 葵の考えも同じだった。自分の「師」がどう思うかは分からないが、しかし大きな相手に対するセオリーが足殺しであることに変わりはあるまい。
 ―そう自分ですら分かるのだ。それだけに先輩の悔しさは察して余りあった。
 何も出来なかった。あの坂下先輩に限って相手を甘く見ていたとは思えないが、しかしどこかに油断がなかったとは言い切れないかも知れなかった。そしてそれは時として命取りになると、葵は改めて痛烈に思い知った。
 カナダ人として初めてエクストリーム王者となったケイト・ウイリアムが、長さが足りなくて腰に巻けないベルトを肩から掛け巨体を揺らしながら満面の笑みで飛び跳ねる姿を、画面の中の先輩は半ば呆然と見ている。
 悔しいだろうと思う。先輩にダメージらしいダメージがないことが何より。
 まだ出来る。まだ何もしていない。
 常に完全燃焼の先輩にとって、それは何よりの屈辱で苦痛だろう。
 TVでは試合のリプレイが始まるようだった。葵は体を起こし、床に座ったままベッドに寄り掛かっていつもの「TVの体勢」に戻った。
 「……………」
 試合自体は葵の、そして恐らく先輩も考えている通りの展開だっただろう。
 いくら試合中に相手を殴って資格停止中の暴れん坊とは言えそこは柔道家、打撃の専門家ではないので殴りには来ず、やはり組み付きに来た。
 雪崩のような突進。
見た目は肥満(でぶ)でもその鍛えた足腰は並ではない。巨体は意外なほど俊敏に動き、巨大なエネルギーとなって坂下に襲い掛かっていった。
 ビチッ!
 乾いた音が響く。軽快なフットワークで素速く体(たい)を入れ替え、そして避け様に下段蹴り! それも場内ギリギリまで下がり、落下の危険から相手がブレーキをかけ失速するところを狙っての的確な一撃。葵の目から見ても見事の一言に尽きる。
 突進のたび面白いようにヒットする下段蹴り。ウイリアムは万策尽きたかのように同じ動きを繰り返し、そして同じように同じ箇所に蹴りを受け続けた。柔道家に本格的な防御が出来るはずもなく、徐々にその脛が紫に変色してくる。
 蹴りが当たるたびに会場は興奮の泡が弾けるようにわっと沸き立った。ウイリアムにもはや打つ手はないと、坂下の防衛はもはや揺るぎないと、誰もがそう確信していた。しかし―
 蹴りを受けるたびに苦痛に顔を歪め体勢を崩しながら、しかしウイリアムの動きは止まらなかった。武骨に突進を繰り返し、紙一重でかわし続ける坂下の心に確実にプレッシャーを蓄積していく…。
 葵は唇を噛んだ。
 見ている方は気楽だ。しかし観客が思っているほどこの時点で既に坂下先輩は有利ではない。
 この突進にかすりでもすれば一瞬で自分なんか持って行かれる。そんな実際に対戦するまで分からなかった圧力の中で、ひたすら同じ動きを続けねばならない先輩の緊張感はいかばかりだろう。それに、どれだけ蹴っても崩れない相手に対する得体の知れない恐怖もあるはずだ。
 坂下先輩の精神力は尋常ではない。それは葵が二番目によく知っている。
 しかし先輩の精密な打撃もこの極限の緊張の中で続く単調な動きに、徐々に僅かづつではあるがリズムがかみ合わなくなってきているようにも見える。
 そして―決定的な瞬間が訪れた。
 ビシッ!
 坂下の十何発目かの下段蹴りが相手の左足を正確に直撃し、相手が遂にがくりと体勢を崩した。しかし崩れは小さい。坂下は深追いせず今まで通り回り込んで―
 と、ウイリアムが襟を守るように折り畳んでいた腕を突如いっぱいに伸ばした。咄嗟に身をかわす坂下。しかし僅かに道着がその腕をかすめた。
 あっという間にそのまま袖を引っかけられ、坂下の体がその怪力に持って行かれる。
 そしてそこに肉雪崩が襲い掛かかった!
 「!!」
 ズシンと響く重低音。―最初からこれを狙っていたのか、今まで隠しに隠して初めて伸ばした長い腕(リーチ)で坂下を絡め取り、そして全体重を使って押し倒した。
 あっと葵の思う間もなくウイリアムは一気にポジションを取り、そして縦四方。さすがに北米王者、流れるような動作だった。
 坂下が渾身の力を込めて押さえ込みを返そうとする。しかしいかに坂下と言えど135キロは持ち上がらない。
 一分、二分…とそのまま時間だけが過ぎていく。
 まるで無尽蔵に体力があるかのように坂下は抵抗を続けるが、しかし道着を着ている自分が本物の柔道家にまともに押さえ込まれて返せる望みが薄いことは、もちろん知っていた。
 押さえ込みは人間工学に基づく。ただ押さえ付けているのとは違い、単純な力で何とかなるものではないのだ。
 「……………」
 葵はそこでチャンネルを変えた。この後の結果は知っている。それが勝負とは言え、何度も先輩の負ける姿は見たくなかった。
 どさりとまた床に倒れ込んだ。そしてほーっと息を吐き出す。
 …先輩のやり方は間違っていなかった。ちょっと慎重すぎた気もするが、でも相手の間合いに不用意に入らないのは「負けない」為の鉄則だ。
 それに先輩の下段は効く。それは自分もよく知ってるし、現にウイリアムにも相当のダメージを与えていたように見えた。けど…壊せなかった。あの丸太のような太い足を。
 「……………」
 それは打撃系の遣い手にとって共通の弱点なのかも知れない。
 どんなにいい突きが入っても、一瞬で掴まれ一発投げられればそれで終わりだ。投げのダメージは部分的に与える突きのダメージの比ではない。
 それは「制圧技(サブミッション)」にも同じ事が言える。倒れた瞬間に技に入れるのなら、ワンチャンスあれば勝てるのなら、どんなに殴られても蹴られてもその心は決して折れたりしない。
 葵はころりと寝返りを打ち、仰向けになって見慣れた天井を見上げた。
 「……………」
 ―強い。
 確かにケイト・ウイリアムの破壊的な体格には圧倒される。実際に対峙すればもっとだろう。しかし今日、何より葵は初めて本物の柔道の強さと言うのを知った。あれで北米チャンピオンなのだから、世界チャンピオンとはどれ程のものだろうか…?
 今までに葵も「柔道三段」や「学生柔道連覇」などの「肩書き」と戦ったことはあった。しかしそれはあくまでも「柔道経験のある格闘家」であって、ストイックに柔道だけを極めようとした「武道家」ではない。
 よっと足で反動を付けて体を起こす。軽く俯き、脳裏から離れない突進するウイリアムの残像に鋭く視線を向けた。
 「……………」
 先輩のやり方は間違っていなかった。ただ…先輩は人の壊し方を知らなかっただけだ。破壊力だけではバットは折れても足は折れない。
 しかし自分はそれを知っている。自分なら―勝てる…!
 と、葵ははっと我に返った。
 「そっか…」
 そしてぽそりと呟く。
 「私…やめちゃったんだ…」
 自分は格闘家とは違う武道家の道を選んだ。そのことに未練はない。しかし…
 ふと葵は、今でもひっそりと入場ガウンの掛けてあるクローゼットへと目をやった。
 確かにエクストリームに未練はない。それは事実だ。
 しかし、未知の強豪と戦ってみたい、本当に強い相手と手を合わせてみたいという「好奇心」の火は、自分の中に今も燃え続けている。それもまた事実。
 (仕方ないですよね…)
 葵は自分にそう言い聞かせると、海外の為替情報を流していたTVのスイッチをリモコンで消して立ち上がった。
 未練はない。
 しかしその口元は、なぜだか少し寂しそうだった。

   2

 数日がたつと、世間は何だかえらいことになっていた。
 あの素人の女性と玄人の男性に大人気の無敗のエクストリーム・チャンピオン「K−スピリット」坂下好恵が敗れたと言うニュースは、深夜のスポーツニュースなどでも取り上げられ、そしてその坂下を敗ったケイト・ウイリアムは、その巨体の存在感と天性の明るいキャラクターもあって一躍脚光を浴びる存在となっていた。
 そんな訳で今日も彼女はTVに出ている。大学で日本語を専攻しているとかで、ニコニコしながらカタコトの日本語をたどたどしく話すところは、確かにちょっと可愛いと葵も思った。
 (―先輩どうしてるだろ…)
 だからこそ、そんなウイリアムを見る度に葵の心には坂下のことが思い出された。
 ―先輩のことだから落ち込むようなことはないにしても、無茶な、また修行僧のような命がけの特訓を始めていないとも限らない。
 (綾香さんがいればなぁ…)
 そうすればわざわざちょっかいを出しに飛んでいって先輩の無茶を止めてくれるのに…。
 しかしその綾香は今はいない。異国の空の下で、あの人はどんな思いで先輩の敗北を受け止めているのだろうか…?
 と、不意に一階(した)から声がした。
 「葵ー、封筒来てるわよー。取りにらっしゃーい」
 母親のその声に葵は「ハーイ」と返事をしてよっと立ち上がり、部屋を出て階段を下った。
 「はいこれ」
 リビングに入るなり母に突き出された封筒を葵は反射的に手を出して受け取った。そして差出人を確認する。
 はっと目を瞠(みは)った。
 途端に心臓がばくばくと胸を突き破らんばかりに打ち始め、そして全身に熱い血が駆け巡った。
 白地に黒い『EX』のエンブレム―。
 それはエクストリーム事務局からの封筒だった。


 葵は母の叱責を背中に浴びながらもバタバタと階段を全力で駆け上がり、部屋に入るや座ることも忘れて封筒の口を開いた。そして中から二つ折りにされたカードを取り出す。
 そして無意識のうちに小刻みに震える手でカードを開くと、急いでその文面に目を走らせた。整った印刷の文字なのに焦りからか全く日本語が理解できず、自分に落ち着けと言い聞かせてもう一度ゆっくり読み返す。
 「……………」
 ようやく思い出したように、葵は静かにベッドに腰を下ろした。眉間に軽く皺を寄せ、その一言一句を確認するかのように何度も戻りつつ読み進めた。
 動きが止まった。ようやく理解した。
 呼吸すら忘れ、目が一点に釘付けになる。
 『直(ただ)ちに次期挑戦者決定トーナメントを開催しますので、ぜひ推薦選手の皆様には出場して頂きたくまずは書面にて…』
 それは葵への出場要請だった。それも、あのケイト・ウイリアムへの挑戦を賭けて!
 後足で砂を掛けたとは思っていないが、スターだった綾香に勝っておきながら一度の防衛戦も、ましてや綾香のリベンジ戦もせずにエクストリームから身を退いた自分に、まさか今更こんなものが来るとは思っても見なかった。
 ―嬉しい。正直嬉しい。
 何よりも文面の最後に付け加えられた手書きの一文に、葵は身を弾ませるような思いがした。
 『必ず出なさいよ、葵』
 万年筆の整った筆致。―綾香だ。署名はないが一目で分かった。
 不意に目の奥に熱いものが膨らんできた。涙が出そうだった。いっそもう泣いちゃおうかと思った。
 「―はい…」
 しかし葵はぎゅっと目を閉じ、懐かしいような頼もしいような暖かなこの思いを、瞼の奥にそっと押し込めた。
 ふと涙が一粒、目からこぼれ落ちた。その葵の口元には安らかな笑みが浮かんでいる。

   *   *   *

 事務局からの連絡にあった綾香の文面が直筆で、その上エアメールでなかったのでもしやとは思っていたが、やはり綾香は日本に帰って来ていた。
 朝、コンビニで買ってきたスポーツ新聞を開くと、全紙の格闘技面を綾香の姿が飾っていた。曰く、
 『来栖川綾香緊急帰国、エクストリーム王座次期挑戦者決定トーナメントの開催を宣言』
 そんな見出しに続く記事では、「遂に切り札投入」だとか「背水の陣」だとか、綾香本人の参戦についてのセンセーショナルな文面がその殆どを占めていた。日本を離れて一年半になると言うのに、やはり綾香の注目度は並ではない。
 (やっぱり綾香さんの人気はすごいです…)
 葵は印刷された綾香の、少しほっそりして精悍さを増した顔を見てそう思った。自然に笑みが生まれて、そして表情が引き締まる。
 ―綾香さんはアメリカにいたとは言え、もちろんただ大学生活を送っていた訳ではない。プロ格闘家としての活躍は、そんな距離を感じさせない程に日本にいても逐一ニュースとなって伝わってくる。
 エクストリームから離れていたとは言え、その間のブランクはまず無いだろう。むしろムエタイやキックボクシングの試合に多く出ている分、その打撃には磨きがかかっていると考えていい。
 しかし―葵の目はなぜかますます強くなっているであろう綾香の姿を捉えてはいなかった。
 『世の中の全ての流派を経験し、世の中の全ての流派に対応できる術(すべ)を身に着ける』
 その大岡流の考えは「好奇心」と名を変えていても葵の中にも脈々と受け継がれている。
 綾香は強い。
 掛け値なしに強い。でも―その「強さ」は既に知っている。それは決して「得体の知れない」ものではない。それだけに、葵の興味は綾香のその先にいるあの「肉弾凶器(グラマラス・スタンピード)」にこそそそられる。
 何人のトーナメントになるのか誰が出場するのか。それはまだ何も発表されてないけれど、でも順当に行けば綾香とはどのみちどこかで戦うことになるだろう。
 「……………」
 お互いが全身全霊を掛けてぶつかったあの試合から一年半。また、あの綾香と全力で戦えるその喜び。
 それは葵にとってこの上なく魅力的なことだった。けれど…しかしそれよりも、かのケイト・ウイリアムと戦えるという思いこそが、葵のトーナメントに対するモチベーションをより高めていた。
 自分が途中で負けるなんて全く考えていなかった。
 誰にも。
 そう、綾香にさえも。