1 ともあれ葵は出掛けることにした。トーナメント出場を決めた以上やることはある。連絡もしてあるし、時間も決めてある。 葵はトレーニング用のジャージに着替えてウエストポーチを腰に付けると、鼻歌混じりに玄関を出た。 そしてうんせとガレージから最近買った赤い折り畳み自転車を出して跨(またが)り、右足に体重を掛けて勢いよくペダルをこぎ出した。 秋口は空が高くて気持ちいい。ちょっと風が肌寒いが、自転車に乗っている分にはちょうどいい具合の涼しさだった。 住宅街の中をくねくねと曲がって街の外周道路へ抜け、そのまま山側へと進んでいく。しばらく走り、そして目的地の長い石段の下で止まった。 サドルを降り、自転車を道の端に寄せてチェーンロックをかける。 よっと軽く弾むように石段を上がり始める。ついこの間来たようでもあり、もう随分長い間来ていないようでもあった。 視界の左右に茂る広葉樹は、こんな町中でもそろそろ色付き始めていた。木々の赤や黄色だけが、経過した時間の確かな流れを感じさせる。 「―?」 違和感があった。 いつものような神域独特の静謐(せいひつ)な空気を感じない。 妙な気配だった。 熱さ、と言うのか。それとも痺れ、と言った方がいいか。そんな、感覚。 妙な胸騒ぎがする。突き動かされるように葵はダッシュした。 石段を三段跳びに駆け上がる。こんなにここの石段を長いと感じたのは初めてだ。登っても登っても上に上がっている気にならない。 「―ハァッ!」 突然声が響いた。―女の声!? 鋭い発気(はっけ)のような声が周囲の木々に反響して消えていく。 立ち止まる。どう判断したものか瞬時には分からなかったが、しかし不用意に飛び込んでいくよりも、まず状況を見極めることが先決だと思った。 葵はダッシュからまるで忍び足のような歩調に変えて石段を一歩一歩登り、その度に少しづつまだ見えない境内を覗いてみたりした。 ―ズシン!! 「!!」 不意に地響きがした。それはお腹の底に響く一瞬の力の炸裂― ―震脚! 悟った瞬間、葵は再びダッシュした。残りの石段を一息で行く! ―今時中国拳法でもこれだけの震脚を遣える人はいない。と言うことは…。 最後の二段を跳ぶ。と同時に目の前に見慣れた神社の境内が広がった。 「えっ!?」 咄嗟に理解できなかった。 そこには二つの人影が、今まさに戦っている最中だった。 「―えっ、えっ?」 訳が分からなかった。状況が全く飲み込めず、ただオロオロが心の中から湧き出してきた。 女が突き出した右拳を男は体(たい)を開いて僅かにかわし、そのまま固めた右鉤拳を女の左胸へ打ち込む。そして女が左腕でガードしたところを更に踏み込み、拳を引き様に右肩をぶつけにいく。 ―『肩把(けんは)』! 肩での打撃。実際には初めて見る。 しかし女は瞬時に体をずらしてそれをまともに受けることは避けた。何という反射神経! とは言え肩は避けたものの背中でぶつかられて女はバランスを崩し、やむなく大きく下がって体勢を修正した。そして再び対峙。 「うぅぅぅぅ〜〜…」 しかし葵は成長していた。心の中のオロオロをぎゅっと押さえ付け、目に浮かびそうな渦巻きをぐっとこらえて現実世界に踏み止(とど)まった。 そして目の前の二人が同時に動いた瞬間― 「先生っ!」 静寂を貫く葵の声。それは戦う二人の間の気勢を僅かに逸らせたか。 「チッ!」 女は葵の姿をチラと確認するや短く舌打ちした。そして急に目標を変えるとこっちに殺到してくる。 「えっ? えっっ!?」 一瞬何の事だか分からなかった。しかし葵は半ば反射的に構えを― 「戦(や)んじゃねぇっ!!」 そこに男の声が飛び込んできた。えっ? っと躊躇した葵の眼前にしかし女の姿が既に迫っている。間に合わない! 「くっ…!」 必死に上半身だけでも構える。せめて防御を…。 「……………」 しかし打撃は来なかった。女は目の前でただ立ち止まり、半端に構える葵をただ見やっていた。 「ほぅ…」 値踏みするような冷ややかな視線。それは生殺与奪を手にした者の横柄な余裕。 「お前が噂の女弟子か。…マガイモノめ」 そしてただ、女はそう吐き捨てた。 「えっ…?」 何のことか分からなかった。しかし、この畏れや怯えに体の芯が震える感覚には覚えがあった。 「あ…あなた一体…?」 「―狼」 言うが早いか、女は葵の端(はた)を何の苦もなく抜き去った。一瞬、長く伸びた黒髪が頬を微かに撫でていく。 「……………」 恐ろしい目だと思った。まるで獲物を嬲(なぶ)る獣のような…。 足が竦(すく)んだ。 膝が笑い、腰が砕けそうだった。 今まで戦ったどんな世界の強豪からも感じなかったこの感覚。それはそう―初めて先生と手を合わせた時のような…。 はっと葵は振り返った。しかし石段にはもう女の姿はない。そして境内へ目を移す。 「―先生っ!」 視線の先で男は倒れていた。と言うより「ぶっ倒れる」という感じで大の字になっていた。 駆け寄る。と、男は左胸を押さえてむくりと上体を起こした。 「うぅ…」 そしてしゃがもうとした葵と入れ替わりに立ち上がる。「いてて…」と軽口めいた言葉がその口から漏れる。 「だだだだだだ」 動転して「大丈夫ですか」の言葉すら出てこなかった。一度にいろいろなことが起こりすぎて、葵の頭はパンク寸前だった。 葵は男が「避け」の名人だと知っている。高度な「避け」の技術があるからこそ高度なカウンターが使えるのだ。それは大岡流の基本であり神髄でもある。 それだけにこの男が誰かに「倒れるほどの」攻撃を加えられた事が、葵には俄(にわか)に信じられなかった。 「大丈夫」 そんな口をアワアワさせて手をオタオタする葵を見て、男は思わず苦笑した。 「ダメージじゃない。気が抜けてへたり込んだだけだ。まぁ、効いたけどな」 男はそう言って微笑んで見せた。本当に大丈夫そうに見えて葵はひとまずほっとする。 「急所は外した。ちょっとびっくりしてうっかり喰らっちっただけ」 「びっくり?」 意外な一言に葵の眉がぴくりと上がる。こっちの方がびっくりだ。 ―このひとは強い。戦いの最中(さなか)に精神(こころ)を乱したりなんか決してしないと、そう思っていた。 しかし、その理由を聞いて葵の体は固くなった。 「誰だあいつ。なんで―『梓弓(あずさゆみ)』を使う」 「梓弓!?」 その単語に葵は思わず小さな驚きを漏らした。 ―『梓弓』。それは大岡流の中でも最高の威力を持つ斜め下からの打撃。葵自身も実際に見たことはなかった。 でもそんなことが…。と言う思いが怪訝と共に葵の心をよぎった。 ―似た技は他の流派にもある。一つのコンセプトを突き詰めれば形は自(おの)ずと似てくるものだと、葵はそう考えた。その方が見ず知らずの女が大岡の技を使うと考えるよりずっと自然だ。しかし― 「間違いない、梓弓だ。呼吸も同じだった」 しかしそんな葵の疑念は一瞬で吹き飛んだ。間違いないだろう。最も流派を知る者が自分の流派の技を判別できない訳はない。疑いを持った自分に少し居心地が悪くなる。 「くっそ。あの野郎、どこで梓弓を…」 葵はまだ胸をさすったまま毒づく男に思わず「女は野郎じゃないですよ」と言いかけたが、ふと女の残した言葉を思い出した。 「狼…」 「ん?」 男は葵の思わず零した独り言を聞き逃さなかった。それは流派にとってとても大事な言葉でもある。 葵は慌てて両手を胸の前でいえいえと振った。 「あ、いえ。そういえばあの女の人、自分のこと『狼』って…」 「ふぅん」 男は葵の言葉にそう答えたっ切り黙り込んでしまった。まるで思索の海に身を沈ませるようにじっと石段だけを見詰めている。 取り敢えず葵も黙っていたが、動転して忘れていた言葉をもう一つ思い出す。 「あ、あと私のこと『マガイモノ』って…」 「紛い物?」 「はい」 全く失礼な話だった。目の前にいる自分の師は「ド」の付くくらいの正統なのだ。曲がりなりとは言え、その弟子の自分が偽物呼ばわりされる謂(い)われはない。 「なるほど…」 「?」 今度は葵の方が男の独り言を聞き逃さなかった。しかし一人納得したように頷く男に対して葵はさっぱり事情が分からず、ただくにゃりと首を捻るばかりだった。 「あいつ、深沢さんの弟子だろ」 「??」 ゴチック体で大きく「誰?」と大書きされた葵の顔を見て男は小さく失笑し、しかし説明の必要は感じたのか一つ手招きして自分は石段に腰を下ろした。葵も倣って隣に座る。 自分が落ち着くためか葵が落ち着くためか男はしばらくの間黙っていたが、やがてゆっくりと、自分の子供に言い聞かせるように話し出した。 「深沢さん。『深草派大岡川上流』の宗主」 「はぁ…えっ、ええっ!?」 一瞬事態が飲み込めなかったが、突然の告白に葵は思わず立ち上がった。 ―流派に傍系が存在する。 降って湧いたようなその意外な事実は驚愕の声となって、落ち葉の積もり始めた森の斜面に静かに吸い込まれていった。 * * * 「つまりこういう事ですか?」 葵は男が当たり前のように話す事柄を一つ一つ頭の中で整理していたが、いよいよ諦めて口に出すことにした。いちいち確認しなければ混乱してしまうくらいに思いがけないことばかりで、だんだん頭が練りウニになってくる。 「おじいさん(おおせんせい)には元々後継者がいたけれども破門になって、でも今でも勝手に流派を名乗ってる」 「そゆことだね。でその後釜が俺っち、と」 「でも―」 葵はそれでも納得できない風に小さく口を尖らせた。 「でも先生は二代目って…」 「うん、そう」 即答にえっ…と葵は言葉に詰まった。三人目に当たる人が「二代目」では、それは例えいくら「葵の脳ミソはきっとゼリーみたいにつるっとしてんだろうねぇ」と友達にしみじみ言われたことがあったとしても、それは納得できない。 しかしそれを察したのか、男は言葉を付け加えた。 「ちょっと数え方が複雑なのよ、ウチの流派」 「はい…」 理解する自信は既に無くなっていたが、しかし葵は物凄く集中して練りウニたちに再び鞭打った。 「今の代が決められるのは必ず次の代なのね。 だから、例えば二代目が事故とか破門とかでいなくなると、一代目はまた新しく『二代目』を決めなくちゃならない。分かる?」 「あぁ!」 葵の頭にぽん、と電球が灯った。つまり先生は「二人目の二代目」と言うことかと、ようやくゼリーに皺が増える。 と同時に背筋を寒気が駆け上がった。 要するに、あの相手は自らを「狼」と名乗れるほどの腕だったと言うことだ。もしあの時あのまま殴りかかりでもしていれば、今頃自分はどうなっていたか分からない。自分に先生の避けられない打撃を避けられるとは思えない。 「……………」 と、一人で想像して恐くなっていた葵の脳裏に、新たな疑問が湧いてきた。 「あの…その、破門って…」 それは何だか聞いてはいけないようなことに思えて、その声は自然と躊躇(ためら)い混じりに小さくなった。 「ああ、それね」 しかし男の声は拍子抜けするほど何の躊躇いもなかった。 「考え方の違い。じーさんは流派を完成品とは考えてなくて、どんどん新しいものを取り入れて積極的に変えようとしてた。逆に深沢さんは大岡流は完全だと考えてて、代々の伝統をそのまま後世に残すべきだと考えてた」 「へぇ…」 何だか変な感じだった。師匠の方が伝統を壊そうとし、それを守ろうとした弟子が破門になるなんて…。普通は逆だ。 「まぁ、じーさんああ言うひとだしね。会ったでしょ? ザ・破天荒。 でも、元々は飛騨大岡流だってそうやって土着の拳法を壊して創られた訳だし、大岡川上流だってじーさんが飛騨流を壊して創ったんだしね」 男は何だかとても嬉しそうにそう話した。そうやって流派の話をする時はいつもそうだ。 「ふぅん…」 葵もようやく合点がいったのか、小さく頷くと再び石段に腰を下ろした。 ―そう言う意味では、おじいさん(おおせんせい)は初代の思想、即ち流派の源流により近い位置にいる人なのだと、葵は男の言葉に「流派を受け継ぐこと」の意味を垣間見た気がした。 そして―今自分の隣に何気なく座るこの男が、その精神と技術を最も受け継ぐ者。 その遺伝子は自分の中にも受け継がれている。 そう思うと、葵は何だか体の真ん中に感じるこの熱っぽさを誇らしく思う。 『魂』と言ってしまうのは安っぽいけれども、しかしそれを持っている者だけが次代を担っていける。 道とは、そういうものなのだ。 2 「―で、今日は何?」 「はぃ?」 突然振られた言葉に思わず間抜けた声を挙げてしまう葵。思いがけない事態に遭遇してしまってすっかり失念していたが、大事な用があったからこそ敢えて「師」に相談を持ちかけに来たのだ。 こほんと葵が居住まいを正す。何から話すかは予めシミュレートしてある。 「このあい―」 「そう言や坂下先輩負けちゃったね」 間の悪いことに、意を決した葵の言葉に男の声が被さった。 「はうぅ…」 「?」 話の腰を折られて前のめりに固まる葵。一瞬の沈黙。しかしすぐにその話題が自分の話題と離れていないのを理解して、気を取り直して大きく息を吸う。 「はい。私も今それを話そうと思ってました」 よかった。どうやら若干の変更でシミュレーション通りに続けられそうだった。 葵の表情に立っていたパニックの波が凪いだ。替わって落ち着きが心の表面を薄く覆う。 「で―正直、どうでした?」 漠然とした質問だと思った。しかし男は葵の意図を汲み取ったのか、的確な答えを返してきた。 「うーん、ちょっと慎重すぎたね。でも、あれで勝てないなら正直勝てないよ」 「はあ」 やっぱり、と思った。同じ分析を出したことがちょっと嬉しい。 「少なくとも、ローで崩せないと判断した時点でとっとと次の手に行くべきだったんだ。坂下先輩ほどの腕なら2・3回蹴りゃ崩せないって分かっただろうに」 「次の手…?」 分析は同じではなかった。自分は次の手は考えていない。 葵が促すような目を男へと向ける。お伽話をせがむ子供のように。 「確かにローキックでヒット・アンド・アウェイは正しい。でも足がダメならそれに固執する必要はない。慎重さを捨ててでも」 そして男は「セオリーはセオリー、臨機応変、だよ」と付け加えた。 「それは…」 恐る恐る葵が口を開く。自信はなかったが、しかし慎重さを捨てて足の他を狙うと言えばもうこれしかない。 「―飛び込め、と言うことですか?」 「そうだね」 歯切れのいい即答。この人の中では答えは決まっているのだろう。 「まぁワンチャンスの勝負になるけどね。それで倒せなければ掴まってお仕舞い。 でも相手は打撃の専門家じゃないから防御も甘いだろうし、決められる確率は高いだろうね。先輩打撃力あるし」 「はぁ…」 頭の中でその言葉をイメージしてみる。 …今の自分なら飛び込むことは可能だろう。横に動いて、相手が向き直るところへ踏み込む。で―どこを打つ? あの体(にく)だ。身央にせよ水月にせよ、脂肪に阻まれて正確に当てられる保証はない。よしんば当てられたにせよ、自分の打撃力では一撃で倒せる自信もない。 なら―選択肢は多くない。 「―顎、ですか?」 「そう。飛び込んで、思いっ切りぶっ叩け。あんなのもう脳震盪狙いしかないだろ。それで倒せなかったらもう諦めろ」 そう言って男はははと気楽に笑った。しかし対戦するかも知れない葵にとっては笑い事ではない。 やれやれと葵が溜息をつきかける。と、 「あっ!」 突然立ち上がる葵。 ―対戦! そのキーワードで不意に本題を思い出し、ウエストポーチから封筒を取り出した。 「これ―」 そして男に差し出す。 男は「素手なら霞を打つかな」とか「肘で天突のがいいか…」とかまだ一人で呟いていたが、目の前に封筒を出されて口を止めた。少し逡巡(しゅんじゅん)したがそれを受け取り、「見ていいの?」と確認して中身を取り出す。 男が文面を目でなぞる。しばらくそうして、そして唐突に口を開いた。 「―そう、戦(や)るんだ」 落ち着いた口調。それは出来の悪い弟子に対する愛情を孕(はら)む低い響き。 「そのつもりです」 何も言ってないのに、男は葵が出場する気だと看破していた。 まだ協会に返事はしていない。しかし綾香の要請を断る理由は葵にはなかった。 「そう。じゃあ、もうちょっと具体的な対策考えんとね」 「はい!」 葵の表情にぱぁっと光が射した。 まさに、それを頼みに来たのだ。どう頼んだものかと悩んでいたが、とんだ取り越し苦労だった。 ―やはりこの人は頼りになる。ウイリアム戦に向けて目の前に立ちこめていた不安の霧が晴れ、一本の道が拓けてくるのを葵は感じた。 「強いぞ―綾香さんは」 「えっ?」 意表を突かれて葵の表情が笑顔のまま固まった。 「あ、あの…私、ウイリアムの…」 「いいよ、それは」 「え? でも…」 きゅっと眉根を寄せて困ったように言葉を絞る葵。 しかし男はちゃいちゃいと煩(わずら)い事を打ち消すように手で払う仕草を見せた。 「ウイリアム戦は度胸一発だ。さっき言った通り。打撃が体を貫通できないなら他に方法はないよ」 男はきっぱり言った。しかし葵も下がらない。 「でも、崩骨点を打てれば…」 そう躊躇いがちに反撃を試みる。大岡流には人間の骨を簡単に折る秘伝がある。自分も練習しているし、それを使えばきっと…。 しかし男の返刀は痛烈だった。 「自惚れなさんなよ」 眉間に軽く皺を寄せ、是も非もなく葵の言葉を遮る。 「確かに崩骨点を打てば折れる。でも骨は剥き出しじゃない。あの分厚い肉に覆われた膝を折るには、そこまで辿り着くだけの貫通力がいる。葵ちゃんは揺らさずにウォーターバッグを打てるか?」 「……………」 その言葉に、一瞬にして葵の顔から血の気が引いた。 ―確かにそうだ。 ケイト・ウイリアムは並の選手ではない。あの力、あの技、あの体。今までやっていたことがそのまま通用しないと言うことは、坂下先輩が身を以て示してくれたはずだ。なのに― 今更ながら、その言葉の重さに事を軽く考えていた頭が下がる。 葵は項垂(うなだ)れ、悔しさに拳を握りしめた。 ―自分は愚かだ。 師匠がそうだと言ったことに弟子の自分が刃向かってどうなるのか。 今までこの人の言う通りにしてきて間違いだったことは一度もない。自分の考えとどちらが正しいかなんて明々白々のはずなのに。 そんな簡単なことも分からないなんて…。 バッとおもむろに葵は立ち上がった。 「すいませんすいません…」 そして必死になって何度も頭を下げる。 驚くほど必死になっていた。破門…と言う言葉を聞いていたせいかも知れなかった。 「いいよいいよ、そんなの」 即座に、しかし驚くほど簡単に師の許しは出た。そして泣きそうな顔を上げた葵に座るよう促す。 「どのみち綾香さんとは当たる。大一番になるぞ。 ―綾香さんは強くなってる。誰が考えてる以上に」 「はい…」 そうだろうと思う。 そして綾香さんに勝たなければウイリアム戦はない。でもそれは向こうも同じ。自分に勝たなければ綾香さんも「仇」は取れないのだ。その気合いたるや相当のものだろう。 「まあ…」 男が立ち上がった。黒いカーゴパンツに付いた砂を軽く払う。そして振り向いた。 「…練習すんべ」 「はい!」 視線が交錯する。それなりに師弟の絆は固い。 葵も立ち上がった。そして背を向け既に境内へと歩き出している男の揺れる長い髪を追って、自分も歩き出す。 (―まあ何て言うかな…) 男の考えている事は葵とは少し違った。 ウイリアム(あのでぶ)は倒せるイメージが出来る。しかし綾香さんにはそれが出来ない。 ―恐らく、それは自分が綾香さんの「師匠」を知っているせいだろうと思う。 師と自分と二代に渡って大岡流を知り、冷静で実戦経験も豊富。そして綾香さんのように手足が長く、その使い方に熟達するあの老人。 (…俺でも勝てねぇかも知れんぞ) そんな相手と戦う我が弟子の非力さを思うと、全くもって溜息が出る。 (それにしても…) 「はい?」 独り言かと思ったが、取り敢えず葵は返事をしてみた。無視するよりはずっといい。 どうやら独り言だったらしく返事がしたことに少し男は戸惑ったが、すぐに取り直して「会話」に切り替えた。 「うん。あの女、何だったんだろうなと思って」 「さあ…」 また真剣に首を傾げている葵の姿を背中に感じて、男は声を殺して苦笑した。別に答えを求めた訳でもないのに、本当にこの子は素直なものだ。 (―まあ挨拶代わり、と言うところか。 首が欲しいのなら闇討ちでもすればいいことだし、こんな所に来る理由はない) とは言え自分が襲われる分にはいいが、葵が襲われるのは心配だ。 相手も大岡流。宗主にのみ伝えられる秘密の「同門対決のための技」を授けられている自分は負けはしないが、しかし葵はそうではない。恐らく為す術はないだろう。 (―教えた方がいいのかな〜…) 「はい?」 「ん? いや…」 またつい口に出してしまい男は少し慌てて場を取り繕った。 葵を次の代にと決めているのなら教えてもいいようなものだが、しかし使う可能性のある時代に教えずに済むのならそれに越したことはない、と言うのもまた本音だった。 『同門相討ってはならない』 それは流祖である初世鷹若丸の教えだ。しかしやむを得ない時もある。そして―宗主は敗れてはならないのだ。宗主の敗北はそのまま流派の失伝を意味する。 立ち止まり、振り返る。 大きな目をキラキラさせ、子犬のようにちょこちょこと着いてくる葵と再び目が合う。 「さて―」 「はい」 素直で、熱心で…。 「相手が誰であれ基本がしっかりしていれば負けることはない。稽古は付けてあげる。でも、取り敢えず自分で今必要なものを考えて練習して、それで分からないところは聞いておくれ」 「はい!」 元気よく返事するや葵はその場で上着を脱いでTシャツになり、ゆっくり体を動かし始めた。 しかしそれを見る男の目に翳(かげ)りが差す。 同門相討てばどちらかが死ぬ。大岡流はそう言う技だ。しかし宗主は敗れてはならない。即ち― (俺はこの子に人殺しをさせられるのか…?) 自問する男の前で、葵はせっせと準備運動を続けている。 3 「―ハッ!」 葵は低く跳躍すると左足から踏み込み、そのまま右拳を突き上げた。そして拳を引きながら素速く左に移動して間合いを取る。 再び構え。腰を落としたまま重心を前足に寄せ、そして跳躍。 「―ハッ!」 アッパーと言うより縦向きのフックに近い。背筋の絞まったいい打撃になったと、男は見ていて感心した。 特に何も新しくは教えなかった。 しかし葵は自分で考え、どうやら「飛び込んで顎をぶっ叩く」一番いい方法をずっと工夫しているようだった。 「相手は綾香さんだ」と言ってるのに聞きゃしない事には苦笑を禁じ得ないが、しかしそればかりをもう一ヶ月も反復し続けていることは立派だと思っていた。 反復こそが力になる。それだけが、強固な地盤を作り得る。 「……………」 先週発表された組み合わせ(オーダー)によると、やはり綾香さんは決勝で葵にリベンジを果たし、その上で坂下先輩の仇を討つと同時に女王の座に返り咲く、と言うプランを立てているようだった。 出場する8選手、葵と綾香を除く6人ももちろん強豪だ。葵にしても必ず勝ち残れるとは言い切れない。 しかし綾香は必ず戦わなくてはならない葵を初戦の相手に持ってこなかった。それは葵の強さを認めていることに他ならないのだろうが、それにしても、そう信用されても困ると言えば困ると言うものだ。 それに気になることがある。 葵の持ってきた格闘技雑誌の組み合わせ(オーダー)表には、各選手の国籍とジャンル(?)が書いてあった。 空手もいる、テコンドーもいる、アマレスもいる、キックもいる。まぁそれはいい。 しかし葵は気に止めなかったのだろうか? 今までずっと「総合格闘技来栖川ジム」となっていた綾香の肩書きが「マーシャルアーツ」と変わっていることに。 マーシャルアーツ…。 その言葉をせっせと練習を続ける今の葵に重ねてみる。 (―勝てないかもなぁ…) それが、師として弟子を見る男の率直な今の感想だった。 試合まであと2日。 勝たせてやりたいというのは本音だ。綾香戦は地力の勝負になるだろうが、ウイリアムには勝ち方がある。 (まぁまぁまぁ…) とにかく。 勝ち負けはともかく、一生懸命練習していることに「ご褒美」はあげておきたくはある。 (俺も甘いがなぁ…) ヤレヤレと男は自嘲気味に小さく溜息をついた。 「葵ちゃん、ちょっと来な」 「はい」 ちょうど構えに戻っていた葵は、一つ返事をするとふーっと張りつめていた息を吐き出して男に歩み寄った。 「今の、ちょっと打ってきてみ」 「え? あ、はい」 男の真意は汲(く)めなかったが、とにかく葵は男と正対したまま間合いを取った。上達すればするほど練習は自分自身で行うようになるので、最近では直接何かを教えてもらえる機会は少ない。取り敢えずワクワクはしてくる。 構える。腰を落として右手を顎先へと引きつけ、左手を軽く前へ出す。そして上体を僅かに前傾させた。 これは葵のオリジナルだった。十文字構えに工夫を加えたことで、自分的にもっとぐっと重心が落ちて瞬発力が増すような気がしている。 「行きます―」 すぅっと息を吸う。空気の塊をお腹の底に詰め込むように腹筋に力を入れ、そしてエネルギーを前足へ集中させる。 意識の流れを整え、対峙する相手以外の世界を自分の中から遮断する。 ―静止。 葉擦れの音がザザ…と流れ、落ち葉の落ちる音がかさりと大きく響いた。 構えた葵の気配が全く消え、静寂の世界と同化していく…。 ザッ! 葵が地面を蹴った。一気に気配が膨張し、真っ直ぐ男に向かって距離を詰めてくる。 拳を引く。右足でタイミングを取り、そして左足を踏み込む。 「ハッ!」 裂帛の気合い。続けて踏み込みを確実に力にした拳が男の顎に迫る。 ガッ…! (―えっ!?) 確かな手応え。 そのまま左へ移動して男の正面から逃れる葵の目に、棒立ちのまま顎を跳ね上げる男の姿が映った。 (えっ? えぇっ!?) 避けるものだとばかり思っていた。困惑の余り葵は慌てて練習を中断し、オロオロと男へ近寄った。 「だだだだだ…」 予想外にそのまま入ってしまった。そんなつもりじゃなかったのにと慌てる葵をよそに、しかし男は一歩退がっただけで別に何事もなかったように葵に向き直った。 「―こんなもんだ」 「えっ…?」 言葉の意味が分からなかった。殴られておきながらこんなもそんなもないものだ。 しかし男には別の意図がある。 「こんなもんなんだよ、今の葵ちゃんは。これでは―ウイリアムは倒せないぞ」 「えっ…!」 驚いた。思わず目がまん丸になり、口が半開きになる。 この人は、自ら殴られることで、今の自分の相対的な打撃力を教えてくれたのだ。何と説得力のある教え方だろう。 でも―、 今になってそんなことを言われてももうどうしようもない。そんなの「今までのお前の努力は無駄なのだ」と言っているに過ぎない。せめてもう少し早く指摘してくれれば…。 途端に葵の胸に暗澹(あんたん)たる思いがどんよりと垂れ込めてきた。 あさっては勝ってもウイリアムとは戦(や)らないとは言え、何もそんなヘコむような事を今わざわざ言わなくてもいいようなものだ。 がっかりと肩を落とす葵。どっと疲れが出てもう何も考えてられなかった。 「―聞いてる?」 「え?」 全く聞こえていなかった。もう、今更何を聞いても意味はないと、半ば投げ遣りな気分にすらなっていた。 「あ、いえ…。すいません」 「だから、踏み込む時にもっと低く。膝は80度くらいまで曲げていく」 「??」 一瞬、また何のことだか分からなかった。しかし男が踏み込んだ姿勢のままぐっと極端に腰を落としてみせるのを目の当たりにして、葵は初めてそれが「新しい技のレクチャー」であることを悟った。 慌てて葵も見様見真似で形を真似てみる。かなり辛い姿勢だが、実際にはこのまま静止する訳ではないので問題ないだろう。 「で、思い切り腰を折って前傾して、腰の回転を縦向きに使う」 そう言うと男はそのままの姿勢でお辞儀をするように前傾した。葵もそれに倣う。 ―そうだ。 この人はわざわざヘコむようなことを言ったり、そんな意地悪はしない。自分のことをちゃんと考えてくれて、今もこうして、きっと自分に足りないものを補う武器を授けようとしてくれているのだ。 「左手は相手に向かって大きく伸ばす。狙いを付けるような気持ちで」 信用できなくてどうすると言うのか。先生はこんなにも自分を信用してくれていると言うのに。大切な、宝物のような技をこんなダメ弟子に教えてくれているというのに。 「で、思い切り右は引き切る。肘を背中に付けるくらいの勢いで」 「はい!」 そんな申し訳なさへの謝意を込めて、葵は元気よく返事をした。そして男のする通りに拳をぐぐっと引き絞る。 「おし、そのまま顎狙って打て!」 「はい!」 気合いの込もった返事。そして葵は相手の、まだ見ぬ相手の顎を目掛けて拳を打ち出した。 「ふんっ! …っと、あっ!」 どさり と、バランスを崩して大きく尻餅をつく。照れ隠しに思わずたははと笑ってしまう。 「ふむ。ま、そりゃいきなりは無理だわな」 「は、はい。でも頑張ります」 その気持ちは本当だったが、しかしやることは相当難しかった。他のことはともかく、腰の回転を縦に使うなんて初めての経験だ。踏み込まずにただ「打つ真似」をしただけなのに、今だってくるくる回ってコケた訳だし…。 しかし、反復あるのみだ。自分には最初からそれしかないのだから。 取り敢えず、今度は「真似」ではなく最初からやってみることにした。 構える。そして考える。 「……………」 自分で考える→自分で工夫する→師匠に見せる、は大岡の練習の基本だ。 ―さっきコケたのは重心が泳いでしまったからだ。前傾した分重心は頭の方へ行く。そこへ斜めに拳を出せば軸足のない右半身はバランスを失う。―そりゃあコケようものだ。 とは言え…。 葵は構えたままじっと動きを失っていた。 とは言え技の完成イメージがどうにも浮かばない。どこへ向かって練習したものか、どうもイマイチもやもやしている。 「―葵ちゃん」 声がした。返事をしてその主の方を見る。 そこでは上着を脱ぎ靴を脱いだ男が、場所を求めて距離を取っているところだった。 そして立ち止まると足を開き、するりと腰を落とした。 「……………!」 目を瞠(みは)った。そこには美しい十文字構えがあった。 凄い。何も感じない。まるで何百年も前からそこに置いてある石のように…。 「見ときな」 男が目を閉じる。呼吸を整え、意識を体の内側へと集中する。瞬間、裸足の蹠頭(せきとう)がぐっと地面に吸い付くのが葵にも分かった。 動いた。 低い跳躍―そして踏み込む! ドォン! 踏み込んだ左足がぐっと沈み込む。上体が傾き、そのまま胸を開くように左を伸ばし、右を引き絞る。 ヒュゥゥ… 弓が―鳴った。 腰が回転する。縦よりむしろ斜めに回り、長い髪が首に巻き付くようにうねっていく。 「―ハァッ!」 ビュォォッ! 空気を巻き込んで唸りを挙げる拳が、まるで竜巻のように渦を巻き昇っていく―。 そして倒れない。残身の形で後足の指が十分に地面を掴んでいるのが見える。 「……………」 竜巻に包まれたかのような錯覚。葵はどういう感情だと自分に説明していいのか分からず、目を皿のように見開いてただただ言葉を失っていた。 「―とまあこんな感じ」 残身を解き、男は葵に向き直って小さく微笑んだ。いきなりで腱に違和感が出たのか右腕を軽く回す。 「…す、凄いです」 ようやく何とかそれだけ口を開くことが出来た。 その衝撃からは立ち直っていなかったが、しかし今目の当たりにしたものこそがこの技の完成形なのだと、ようやく理解でき始めてきた。 「《梓弓》。持っときな」 「えっ…?」 一瞬どこかで聴いた単語だと、混乱した意識の中で葵はぼんやりとそう思った。そして回路が繋がり、急に思考が戻ってくる。 「ええっ!? 今のが…っ?」 「そう、《梓弓》。本当は左胸を打つ技だけど、顎ぶっ叩くのにも使える気がしてさ」 一瞬、また自分を見失いそうになった。 感激、と一言で表現していいものだろうか? まるで秘密のプレゼントを突然差し出されたような、そんな驚き。 ―嬉しい。 このひとは、結局のところちゃんと考えていてくれる。決して自分は独りではない。 そう思った途端、葵は自分の視界がぼんやりと滲(にじ)んできたのを自覚した。空と街との境界が徐々に曖昧になっていく…。 「有り難うございます! 必ず使います。使えるようになります!」 それ以外の言葉が見付からなかった。必要以上に下げた頭で、何とか涙に潤んだ目も隠せただろうか? 「うん。でもモーションが大きいから乱発はすんなよ。一発切りくらいの気持ちでね」 「はい!」 元よりそのつもりだった。自分のウイリアム戦のために先生がくれたこれは大切な流派の宝物だ。そう何度も見せるほど安くはない。 「じゃあまぁ、ちょっとやってみ」 「はい…」 ようやく感情は落ち着いてきた。これなら何とか普段通りできそうだ。 構える。 そして大きく踏み込み、前傾して斜めに拳を打ち出す。 ビュッ! 「……………」 何か違う。 「完成品」を見たお陰で後足を踏ん張ってコケこそしなかったが、でもこれでは全く打撃ではない。いいとこ前衛舞踊だ。 「はは…形はいい。 胸開く時に《翠》(すい)を使うんだよ。そしたら肺が圧迫されて勝手に音は出る。そしたらタイミングも合ってくるよ」 「《翠》…」 葵はその言葉を噛んで含むように繰り返した。 「翠」は呼吸法だ。空手をやっていた頃に教わった「息吹」と同じだと今は理解している。 「OK? じゃもう一回」 「はい」 師の言葉は理解した。今度は出来そうな気がしている。 …構える。集中力を内側へと高め、見たこと教わったことを全てイメージとして体の各部に伝達する。 完成のイメージはある。後は体が動くかどうか…。 静かに重心を移動する。そして前足の膝を正面へ向け…。 ザッ! 跳躍。そして踏み込む! 「―ヒュゥッ!」 鋭い呼気と共に腰の回転が肩に伝わり、肩が腕を押し出していく。 「ハァッ!」 瞬間、空気を巻き込んだ葵の拳から竜巻が立ち上がった。そして竜巻は今は遙か頭上にいる敵(ウィリアム)の顎を斜めに捉え、その脳を確実に揺さぶる。 ―どさり と葵が尻餅をついた。まだ踏ん張り加減が掴めていないのか、回転力が増した分さっきよりもコケ方は派手だった。 「たはは…またコケちゃいました」 そう言って頭を掻きながら照れ笑いを浮かべる葵。 「ダメじゃん」と笑いながらも、その観察力と学習能力の高さに感心する男。 遠い山の稜線は既に赤く染まり、鎮守の森の木々を一層赤く照らし出している。 二人の笑い声が、静かな神社の境内に響き吸い込まれていく…。 紫の秋空に、ぽっかりと切り抜いたような白い夕月が輝いている。 しかしこの空の下がいつも平和な訳ではないと、まだ二人とも知らないでいた。 《―To be Continued》 |