教会ニュース


2022年六月号(6月発行)

一面

アカシアの花が犀川の河川敷で、その白い花と深緑でうめ尽くしている。
   さっそく一枝もらっ来て天ぷらにした。天ぷらうどんである。香りがいい。味がいい 最高である。旬の味である。菜の花も、まだ若い茎の柔らかい、太いところをバキンと採って来て、こちらは茹でて、おしたしで食べる。教会の玄関先では、ヤマボウシの薄ピンクの花が咲いた。
   野の花では矢車草が、紫、白、ピンクと同じ土手に必ず、顔を出している。やや濃い赤のカワラナデシコの花が見事である。 


五十年前の教え子が死んだ。67歳だった。当時は気づかなかったが、ぼくとは10歳しか違わなかったのだ。ぼくが26、27歳の時だった。大阪水上隣保館という養護施設で、ぼくは中高生の男子生徒のホームの指導員をしていた。その後、彼は美容師の道に入り、長年その道で頑張ったようだ。
彼の納骨式があり、ぼくは出席出来なかったが、文書で「弔辞」を送った。たった三年間という短い出会いだったが、ぼくの青春がギュッと詰まった三年間だった。親を知らない子だった。大阪の映画館で、発見された赤ちゃんだった。季節は夏だった。
「わが子よ、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたを子として取り扱っておられます」(ヘブル人の手紙12章)。わが子よと呼びかける真の父が天におられ、その全てをみまもっておられる。君は神の寵児なのだ。


創世記、出エジプト記に続いて、今回は、ヨシュア記の要点を記したい。

ヨシュアは、モーセの死後、イスラエルの指導者とされる。しかし、ヨシュアは自信がなかった。その彼に、強く雄々しくあれ、うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたはどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。と神は言われた。
  そして雨季のヨルダン川を目の前し、いよいよ四十年、足踏みをした放浪の旅に終止符を打ち、神の約束の地、イスラエルに入る。春の刈り入れ時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、彼らが渡り始めると、壁のように立って、水は断たれ、彼らがエリコに向かって渡り終わるまで、干上がった。
  あのモーセが渡った紅海の奇跡が、ここでも起こったのだ。
  「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者とする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる」。
  過ぎ越しの翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を食べた。その日以来、荒野で四十年間、彼らを養って来たマナは止まった。
  神が与えると約束したカナンに入り町々を攻略して占領し、土地を十二部族間で配分した経緯をヨシュア記は物語る。 「えッ」と思われるかも知れない。それじゃあ今のウクライナと同じだと。神は四百四十年もの間、忍耐して待ったのだ。しかし、カナン人は悔い改めることなく、偶像礼拝に走り、神に背を向けたままだった。悔い改めない民は滅ぼされる。

一日を終えて、眠りにつく時、いつも思う事がある。「悔い改めに導かれる、悲しみや苦しみには、希望がある」という事だ(第二コリント7章10節)。
「だから、明日のことまて思い悩むな、明日のことは明日自ら思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6章24節)。

二面

ウクライナの戦下、「わたしに覆いかぶさって、誰かがわたしを助けてくれたの」と、叫ぶように話す小学一年生ほどの少女の映像を観た。
この少女は、この時のことを生涯忘れないだろう。人は、考えて見れば、一人では生きて行けない。誰かの助けが必要なのだ。誰かに助けられて生かされている。
 城山三郎(1927-2007) という作家が書いている。 「国あげて正しいと言っていたこと、自分もそう思っていたことは、うそだった。旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため」。 旗をおろして、たたんでしまえ、そこには城山の憤りがあります。 組織、歯車の一つのように、自分の考えを踏みにじり、組織の中で、善悪を考えずに動く事への反発。今のウクライナ戦争も、やがて歴史の中で、裁かれる。すでに、ロシア人の多くが国外へ出たり、おかしいと立ち上がる人々が出ている。

夏の草花を観ても、昆虫観察をしても、そこには神の限りない、緻密さを感じずには、おれない。
ここに紹介する本は、自然がつくりだした色とデザインの目をみはるような凄さに改めて気づかせてくれる。 
 神の創造の業を崇め、その偉大な業をパウロは、ローマ人への手紙で以下のように記す。
 「神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」と。
 生物学者の多くが、これらを、造られた、設計されたサムシング・グレートが、いることに、気づき始めているのです。

今年は蜜蜂が戻って来たように感じる。事務所横に、大樹になったロビンの木がある。それが今満開で、窓越しにも、ブーンブーンという蜜蜂の賑やかな羽音が聞こえる。
散歩で歩く道でも、野の草花のなかに、蜜蜂の姿を見ると、安心する。蝶もたくさん飛んでいる。
レイチェル・カーソン著の「沈黙の春」にならないかと、安曇野の自然の中ても心配する。今年はイナゴはどうだろうか。昨年はその姿は見られなかったのだ。
藤棚の紫の花には、例年のように熊んバチが何匹も来ていた。弱肉強食の関係ではなく、蜂と花の関係はいい。

ふと気づくと、右肘の上に血が滲んでいた。
その夜、布団に入る時、今度は右の尻が痛い。自転車で転んだ時に怪我をしたようだ。転び方がうまいなどと言ってはおれない。
  夜寝るのが遅いのに、朝は明るくなる四時過ぎには目が覚める。その分昼寝をする。
  柱時計が、伊那と豊科で、同時に狂い始めた。冬の間に電池が消耗したのだ。机の上などに上らなくて済む、手の届く低い所にした。
  コーラ類もいいが、お茶類を買った。最近のは驚くほど味がいい。しかし、二リットルを買うと、結構重い。これに牛乳やトマトジュースなども加わるとさらに重い。
  スーパーの屋根から、鳶が、広い駐車場の買い物客の肉類などの、商品を狙った被害があり、注意を呼びかけていた。いたいた、あいつだな。


 
 


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