散華
〜小説・土方歳三〜


第三章 新選組

八・一八の政変

 

 

 鎖帷子を着込んだ。鉢金、籠手。
  胴は着けなかった。刀だけなら、鎖帷子だけでも充分に防げる。その前に斬り伏せる自信もある。相手が銃の場合は、胴を着けても気休めにしかならないだろう。なにより動きが鈍くなる。そして重さは身体の力を奪う。
  大きな戦にはならないだろうと、どこかで感じていた。臭いだ。血の臭いがしない。
  いま考えると、ことの発端だけは血なまぐさかった。
  文久三年五月二十日。国事参政であった姉小路公知が、御所の猿ヶ辻で何者かに暗殺された。その下手人として『人斬り新兵衛』と異名をとる薩摩藩士の田中新兵衛が捕らえられた。しかし田中は、猿ヶ辻に捨てられていた刀、奥和泉守忠重を見せられると一言の申し開きもせず、見事に腹を切ったらしい。死人がなにも語るはずはないが、他に決め手もなく、田中が下手人だということになり、薩摩藩はその責任で乾御門の警固から外された。警固を解任させられるということは、政治力を失うことと同じだ。
  そこから長州藩の一人舞台が始まった。八月十三日には大和行幸の詔が発せられ、桂小五郎には学習院出仕の命が下った。
  すべては尊王攘夷のため。長州藩を含め、不逞浪士たちが掲げていたことである。しかし、いまではその言葉の意味するものが以前と違ってきていた。壬生浪士組も尊王攘夷だったはずだ。公武合体の尊王攘夷である。いまは尊王攘夷といえないのかもしれない。倒幕。尊王攘夷には、この意味も含まれるようになっていた。大和行幸も、攘夷親征と称した倒幕への足がかりと見ていいだろう。挙兵への口実だった。
  実際に大和では、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石などの『天誅組』と称する者たちが挙兵し、代官所を襲撃したらしい。京で政治を支配している長州藩と呼応しようというのだろう。どこか遠い話のようだが、昨日のことだ。
  これで長州の天下、とは誰も思っていないだろう。激しすぎで反感を買っている部分もある。天誅組の挙兵にしてもそうだ。遠い話に聞こえるのは、緊張が伝わってこないからだ。京にまで血の臭いが届いていない。それに薩摩藩がこのまま終わるとも考えられない。実際に薩摩藩は、そこから猛烈な巻き返しを展開した。京都守護職である会津藩と提携したのだ。動きはまったく見えなかったが、薩摩藩と会津藩が周旋を依頼した、国事御用掛の中川宮がかなり強引に動いたようだった。
  ―――非常の大議あるゆえ、子ノ刻に参内すべし。
  このような令旨が、薩摩藩と会津藩に下った。そして壬生浪士組にも。八月十七日の夜。ついさっきの話だ。
  薩摩藩が会津藩と手を結び、長州藩を追い出そうとしているくらいは俺にもわかる。だが目に見えるものではなかった。影で政治が動いている。政治というものは闇の中で動くものなのか。政治自体、俺にはよくわからない。興味もない。戦に結びつく政治もあるようだが、それとは少し違う気がした。やはり血の臭いがしない。たぶん壬生浪士組の出番などないだろう。
  俺は鞘から刀を抜いた。眩い光。和泉守兼定。
  兼定は、会津藩お抱えの刀匠である。四代目のときに会津に移り住み、それから会津藩のお抱えになったと聞いた。いまの十一代目兼定は、弟子の大隅守広光と一緒に刀を鍛えている。通称、会津十一代兼定と呼ばれていた。
  壬生浪士組でも、会津藩を通して刀を鍛えてもらっていた。俺は二振りの兼定を持っている。どちらも大業物だ。
 俺は兼定を見つめた。蝋燭の炎が兼定を照らす。刃。光が交錯し、霧のようにぼやけた波紋が浮かんでいた。見つめていると、その光に吸い込まれそうになる。砥ぎに出したばかりなので、兼定は少しの刃こぼれもなく、美しかった。
  砥ぎには出すが、仕上げは自分でやらないと気がすまなかった。目の細かい仕上げ砥石で、時間をかけて砥ぐのだ。その時間だけは、誰にも邪魔されたくはなかった。最近では、砥いでいるとき話しかけると、不機嫌になるのがわかっているようで、誰からも声をかけられなくなった。かけるのは総司くらいだ。
  一回ごとに体重を乗せ、ゆっくりと砥ぐ。すぐに額からは汗が噴出してきた。拭わない。そのうち気にならなくなる。無心。精神統一とは違った。無意識の中で、兼定に情念のようなものを擦り込んでいるのかもしれない。語りかけるのではない。無意識にぶつけていた。そして兼定を抜いたとき、その情念のようなものごと斬った。自分を断ち切るように。
  見入っていた。眩いが、それは冷たい光だった。人を斬るためだけに作られた道具。一切の飾りをなくし、そのためだけに作られた光。それは恐ろしく無機質な光だった。だからこそ美しいのだろう。
  刃に軽く指を当てた。少しひっかかったような感じがした。この感触が一番斬れると思っていた。指からは、血の玉がぷつぷつと噴出していた。俺は、その血を舐めた。
  刀は武士の誇り、命とも言うが、俺にとってはただの人斬りの道具にすぎなかった。道具は道具でしかなく、それになにかを預けようとも、求めようともしたことはない。あるとすれば、それは自分自身だけだ。
「副長。お時間です」
  どこからともなく、山崎の少し気だるそうな声が聞こえた。
  山崎は、斎藤に似た気配を持っていた。違うのは、斎藤は気配そのものを消すが、山崎は気配を同化させるとでもいうのだろうか。人ごみなら人ごみに、林なら林に、気配を溶け込ませてしまう。いまは、なにになっているのだろうか。
  俺は兼定を鞘に収め、返事をした。
  立ち上がり、兼定を腰に差す。障子を開ける。
  闇が一瞬、歪んだような気がした。しかし山崎の姿はそこになかった。どうやら闇にでもなっていたようだ。
  俺は羽織を無造作に肩にかけ、壬生寺へ向かった。
 虫の音。わずかに人が動く気配。耳を澄まさなければ、聞こえはしないだろう。辺りは静寂が支配していた。それでいて張り詰めた空気が濃厚に漂っている。出陣前らしい、いい緊張感だ。
  壬生寺。焚木の近くに座っている、小具足に烏帽子姿の二人の男が目に留まった。一人はよく見ると近藤だった。戦国武将さながらで、よく似合っている。眼が合った。俺は頷いた。近藤は眼を細め、口をへの字に曲げた。しばらくしてから俺は、近藤が笑っていたのだということに気付いた。緊張して顔が強張っているだろう。それでよかった。
  隣は芹沢だ。近藤が戦国武将なら、芹沢は戦国大名といったところか。手には大鉄扇を握り、堂々と床机に座っていた。
「うちの大将もなかなか様になってきましたねえ」
 総司が愛嬌のある笑みを見せながら近づいてきた。
「そうだな」
「それに引き換え土方さんは、その背負ったダンダラからもはみ出してきちゃってますね」
「どういう意味だ?」
「自覚してないんですか? まあ、そのうちわかりますよ」
 総司が微笑を返した。俺は、思わず肩をすくめた。緊張感のない奴がここにいた。総司も戦にはならないと、どこかで感じているのかもしれない。剣の腕もそうだが、血の臭いを嗅ぎ分けることについても天性のものを持っている。
「やはり臭わないのか?」
「やだなあ。私は、ちゃんと風呂に入ってますよ」
「そういうことじゃない」
 総司が、じっと見つめてきた。俺は横を向いた。たぶん表情を、そして心を読んでいるのだろう。
「しますよ。退屈そうな臭いがプンプンとね」
 総司はそう言うと、つまらなそうに山南の方へ歩いていった。
 そろそろ頃合いだろう。無駄話をしている時でもない。俺は芹沢と近藤の隣に立ち、二人を見た。二人同時に無言で頷いた。
 俺は片手を挙げた。隊旗が翻る。誠の旗印。
 芹沢と近藤が立ち上がり、先頭に立った。新見、山南、俺はその後ろに続いた。
 壬生寺から御所まで、わずかな距離である。四条から烏丸通りを進めばいい。
  粛々とした隊列であった。それでいて、いい緊張感がみなぎっている。
  ―――方今の形勢。
 後ろから渋味のある吟詠が聞こえてきた。松原だろう。坊主頭に薙刀。武蔵坊弁慶を彷彿させるような姿だったが、なかなかいい声をしている。俺は止めなかった。
「続けろ」
 前から低くよく通る声がした。意外にも、促したのは芹沢だった。
  ―――累卵の如し。
  ―――天下の有志これを知るや否や。
 松原もいいが、芹沢が詠えばもっといい声を出すのではないかとなんとなく考えて、自分に苦笑した。俺も緊張感がない。

 御所。蛤御門前。
「どうか広沢様にお取次ぎを!」
 山南が必死になって説得している。
  会津葵紋。それは間違いなく会津藩兵だった。しかし俺たちは、その会津藩兵に阻まれ御所に入れないでいた。どうやら俺たちを不逞浪士かなにかと間違えているようだ。たぶん、交代で上京したばかりの人間なのだろう。
「ならぬものはならぬ」
 押し問答は依然として続いていた。気に入らないことになりそうだった。
 痺れを切らしたのか、いままで黙って聞いていた芹沢がゆっくりと前に出た。手には『尽忠報国芹沢鴨』と彫られた大鉄扇を持っている。止めようと近藤が芹沢の腕をつかんだが、振りほどかれた。槍。会津藩兵が芹沢の前に立ちふさがった。
「待ってください!」
 山南が叫びに近い声を上げたが、芹沢は止まらなかった。抜き身の槍先が芹沢の喉元に向けられた。
 止まった。槍先が肌に触れてもおかしくない距離だ。緊張が走った。いや、芹沢は笑っていた。豪快にではなく、よく通る低い声だ。それは不気味に響きわたり、会津藩兵を一瞬、尻込みさせた。
  その瞬間だった。乾いた金属音がした。見ると芹沢は片手を挙げていた。頭上に掲げられた大鉄扇。しばらくしてから、地面になにかが刺さるような音がした。槍。見事に一本、地に生えたように突き刺さっていた。
「会津様お預かり壬生浪士組巨魁局長芹沢鴨。命により罷り通る。開門せよ!」
 雷鳴のような大音声だった。恐らく御所内にも広く轟いただろう。
  会津藩兵が浮き足立った。しかし、すぐに持ちこたえた。槍を構え直す。隊列に微塵も隙はなくなった。さすがは京都守護職を背負っているだけのことはある。
 殺気。今度は威嚇ではなかった。芹沢もいつ暴発するかわからない。このままでは長州藩が抵抗する前に、血が流れそうだった。
 近藤は唇を噛みしめながらうつむき、山南は懸命になにか捲くし立てているが、まったく相手にされていなかった。新見にいたっては涼しい顔で見守っている。
「気に入らねえ」
  俺は心の中で舌打ちした。
 下の隊士は結束してきたが、上はまったく歯車がかみ合っていなかった。
 大阪力士との乱闘から、その溝はさらに深まったように思えた。芹沢は放っておけと言ったのだが、そうはいかずに尻拭いをしたのが近藤だった。死人も出たのだ。
 それから会津藩の近藤に対する評価は上がった。しかし、まだまだだ。壬生浪士組は芹沢がいるから持っているようなところがある。それだけ芹沢の存在は大きい。
 いまも芹沢は少しやりすぎてはいるが、命に従っているだけでこちらに非はないはずだ。このまま帰れるわけもなく、ここで口論している場合でもない。それを一番わかっているのは、間違いなく芹沢だった。
 俺は芹沢を見た。大鉄扇を握っている手は、力の入れすぎで震えていた。もうあまり持たないだろう。俺はさりげなく後ろを向いた。総司、永倉、斎藤が頷いた。流血沙汰だけは避けなければならない。
「はいはい、そこまで」
 パンパンと手を叩く音と、少し間の抜けた濁声が門内から聞こえた。どうやら血を流さずに済みそうだ。蛤御門が開く。数人の供を引き連れて、見事な甲冑姿の男が出てきた。広沢富次郎。会津藩公用方でなかなか食えない男だが、少なくとも壬生浪士組の理解者ではあった。
「槍を収めよ」
 手を叩きながら、ツカツカと無造作に広沢は藩兵と芹沢の間に入っていった。慌てて槍が収められる。芹沢の前で止まる。
「お前もやりすぎだ」
 言いながら広沢は、芹沢の胴を軽く小突いた。芹沢は照れたように口元で笑い、頭を下げた。
「ついてこい。陣立ては決まっている」
 言いながら、広沢はツカツカと門内に入っていった。
「そうそう。これを着けてもらわないといかんのだった」
 広沢が供の一人に合図して、なにやら黄色いものを持って来させた。
「広沢様これは―――」
 近藤は絶句していた。会津藩合印の黄色木綿襷。会津藩士が着けているものと同じであった。
「そうだ。そなた達も我らと同じに存分に働いてもらうつもりだ。心せよ!」
「はっ!」
 壬生浪士組一同が片膝をついた。
 仙洞御所正門前。広沢に案内されて、壬生浪士組はここに布陣した。
  蛤御門をくぐり、ほぼまっすぐ行った場所である。右手前には京都御所。右手後ろに清和院御門があり、左手後ろが寺町御門である。要するに九門いずれかの警固ではなく、御所内の警固であった。
「気に入らねえ」
  俺はまた心の中で舌打ちした。今日は舌打ちしてばかりのような気がする。どうやら広沢に一杯食わされたらしい。こんな場所を守ってもなんの意味もないことくらい俺でもわかる。合印の襷でいい気にさせておいて、厄介払いもいいところだった。
  確かに壬生浪士組だけに一門を任せるのには、絶対的な数が足りないというのもわかる。それ以上の理由もわかりきっているほど、わかっているつもりだ。しかし一度命を受ければ、先陣をきって死ぬ覚悟はどこよりもあるはずだ。九門どこかの片隅でもいいのだ。
  芹沢、新見、山南などは、この陣の意図がわかりきっているようで少々白けているが、近藤だけは床机に座り微動だにせず、まっすぐ前を向いていた。息もしていないのではないかと思えるほどだ。
  だんだんと門内が慌しくなってきた。遠くで小走りに行き交う人々の足音が聞こえる。しかし誰もこの陣には近づこうともしなかった。
  寅ノ刻。一発の砲声が轟いた。九門の配置が完了した合図だ。
  不意に南の方が騒がしくなった。怒声が入り乱れているのが、かすかに聞こえる。堺町御門。長州藩が警固していた門の方角だった。最後の抵抗をしているのだろう。しかし、これは勅命である。退去せざるを得ないだろう。やはり血の臭いはしない。
  少し経つと、辺りが急に静まり返った。聞こえるのは、遠い足音くらいだ。それがやけに大きく響いた。
  長州藩が撤退を開始したのだろう。これにより長州藩は完全に警固の任を解かれ、政治力も失った。尊攘派の公卿も罷免と同時に参内停止となり、大和行幸の無期延期も決定されたはずだ。
 これから長州藩はどう動くだろうか。すぐには動かないはずだ。動きようにも動けないだろう。京にもいられないのだ。だが、このままでは終わらない。それはどこかで感じていた。そして長州藩が再び動いたとき、京に血の臭いが満ち溢れるのだろう。
 昼が過ぎ、夕になった。広沢の指示で、壬生浪士組は仙洞御所正門前から建礼門前に移された。京都御所の前である。かなり疲れの色を見せていた隊士たちにも、緊張感が蘇った。芹沢でさえ背筋を伸ばし、硬直したまま座っている。後ろには天皇が控えているのである。俺は思わず生唾を飲み込んだ。そんな音でさえ、聞こえてしまいそうな緊張感だった。
 それから何事も起きなかった。硬直したまま、時間だけが過ぎていった。待っているのが長いのだか、短いのだかもわからなくなった。
 足音が聞こえた。遠くにではなく、明確な意思がありこちらに近づいてきていた。広沢ではない。さらに緊張が高まった。
「上意である。控えい!」
 束帯姿の一見して高貴そうな人物が、芹沢と近藤の前に立ち甲高い声を上げた。武家伝奏だろう。俺たちは芹沢と近藤にならい平伏した。
「上意。この節の功により、壬生浪士組を新たに新選組と命名し、市中見廻りの任を与える。これからも忠勤に励むよう。以上だ」
「ははっ!」
 壬生浪士組、いや新選組一同はさらにかしこまって、足音が遠くなるのを待った。
「新選組―――」
 俺は平伏しながらつぶやいてみた。なんの感慨も抱かなかった。たぶん名誉なことなのだろう。しかし、俺たちはなにもやってないのだ。取って付けたような名だと思った。






二つの名

 

 

 名が二つあるようなものだった。
 新選組と壬生浪士組。
 もっとも、まだどちらの名も知らない者もいる。二つが別の組だと思っている者、中には『壬生新選組』と混ぜてしまっている者までいた。
 飾りだけの名だった。名など、どうでもいい。放っておいても、あとから自然についてくるものだ。
「歳。ちょっといいか?」
 奥から近藤の呼ぶ声が聞こえた。
「どうしたい」
 俺は襖を開け、なにか書きものをしている近藤の後ろに座った。
「しんせんぐみの『せん』の字は、手偏と之繞(しんにょう)どっちだったかな?」
 俺は思わず肩をすくめた。近藤でさえ、この調子だ。
「それは局長である近藤さんが決めてもいいんじゃないか」
 俺が言うと、近藤は腕を組み、口をへの字に曲げた。近藤が考えるときの癖だ。
「それもそうだな」
「で、どっちにするんだい?」
「両方使うまでさ」
「違いねえ」
 お互い笑ったが、近藤は力のない笑みだった。すぐ表情に出てしまう。近藤の悪い癖だ。
「―――」
 近藤が不意にまじめな顔になり沈黙した。わざわざ字などを訊くために、俺を呼んだのではないことはわかっていた。不安なのだろう。
「歳―――」
「ちょっと出かけてくるよ」
 俺は近藤が言い終わらないうちに、立ち上がった。
「どこへだ?」
「ちょっとだ」
「無茶はするなよ」
「わかっている」
 不安げな顔をしている近藤に背を向け、俺は外に出た。
 京の街は、八月十八日の政変により長州藩と尊攘派公卿が追放されてからというもの、随分と静かになった。それは逆に活気がなくなったともいえる。長州藩士は金を湯水のように使うので、商人の間や色街ではかなりの人気があった。政治的にはやりすぎたが、この街の人々は少なからず長州藩に同情しているようだった。
 俺は通りの茶屋に腰を下ろし団子を頼んだ。出てきたのは当然のように、みたらし団子だった。べたべたしていて甘辛い。山南が言うには、たれに昆布だしを使っているのだそうだ。京の味にはやっと慣れてきたが、やはり江戸の味が好きだった。団子といえば羽二重団子である。あっさり醤油の焼き団子とあん団子。これに限る。
 俺はべたべたした団子に苦戦しながら、通りを眺めた。俺の視線に気付きながらも、気付かない振りをして歩いている女。商家の娘だろう。荷車に野菜を積み、振り売りしている婆さんたち。寺の方からは子供たちが遊んでいる声も聞こえてきた。のどかなものだった。
 京を騒がせていた不逞浪士たちも、長州藩という後ろ盾を失い、めっきり姿を現さなくなった。自主的な見廻りから、やっと市中見廻りの任を正式に受けたというのに、なにも手柄を立てられずにいた。要するに暇なのだ。
 そして、暇になると悪い気を起こす奴が出てくる。それは不逞浪士などではなく、皮肉にも俺たちの中にいた。
 先日、会津藩公用方の広沢から近藤、山南、総司、左之助、そして俺の五人が会津本陣に呼び出された。内密にである。
「悪い知らせではあるが、そなた達にとっては良い知らせかもしれぬな」
 広沢が意味ありげな前置きで話し出した。
「最近、そなた達への苦情が、我が藩にあちこちから入ってきておる」
「新選組への苦情でございますか?」
 近藤が怪訝な表情で広沢に訊いた。
「そうだ。先の政変により不逞の輩どもが消えたと思ったら、今度は新選組と名乗る者が押し借りや強請りを繰り返しているという」
「まさか、そのようなことは―――」
「心当たりはないか?」
「神明に誓ってございません」
「では、そなた達は自分の組の者のことをどこまで把握しておる?」
 広沢の問いに、近藤はうつむき沈黙した。
 新選組にも調査機関は設けてある。監察だ。しかし、それは長州藩や不逞浪士の動向を探るためのものであり、自分たちを監視するものではなかった。俺の構想にはあったが、時期尚早だと思っていた。そのための数を割くことは現状難しく、また内部の人間を疑っているのも同じだからだ。気持のよいものではなく、当然反発も出てくるだろう。俺は甘かったのだろうか。
「別にそなた達を疑っているわけではないのだが、少し調べさてもらった。間違っていたら訂正してくれ。芹沢たちのことである。そなた達は芹沢たちと一緒に浪士組として上京してきたわけだが、それ以前に芹沢たちとの関係はないな?」
 近藤は頷いた。
「そして考えの異なった清河と袂を分け、芹沢たちとは成り行き上、壬生浪士組を結成したわけだが、それも考えの違いからいまは関係があまりよくない。どうだ?」
 近藤はそれに頷かず、俺の方を向いた。俺は気付かない振りをした。広沢の言おうとしていることが、なんとなくわかってきたからだ。それは局長である近藤がはっきりと答えればいいことだ。
「相違ございません」
 そう答えたのは近藤ではなく山南だった。それに広沢は満足気に頷いた。
 余計なことを。俺は山南を睨んだが、気付いてないようだった。
「さて、ここからが本題だ。田中伊織という者に心当たりはあるか?」
 また近藤が俺を見た。俺は首を横に振った。
「心当たりはございませぬが、その田中という者がいかがなされました?」
「うむ。実は田中という者が新選組の名を騙り、押し借りを繰り返しているようなのだ。そして田中は芹沢に近い人物であるということまでわかっている」
「その田中という者を捕らえろということでございますか?」
「そうだ。もちろん手に余るようなら―――」
 広沢は扇子で自分の首を叩いた。
「その前に一つだけ伺ってもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「芹沢局長に近いというのは、まことにございましょうか?」
「なんのために、そなた達だけを内密に呼んだと思っているのだ。早々に対処せよ。この件に関して容保様も非常に御心を痛めておられる」
「はっ」
「それと―――」
 広沢は濁声を急に小さくして、口元に扇子を添えながら言った。
「私がはっきりと聞いたわけではないが、容保様はどうやら近藤に新選組を任せたいとお考えのようだ」
「私に、でございますか?」
「はっきりと聞いたわけではないがな。最近の芹沢の行動は目に余るものがある」
 大阪力士との乱闘と、政変時の蛤御門での無礼のことを言っているのだろう。
「承知いたしました。重々、心に留めておきます」
 そう言ったのは、また山南だった。顔には、いつものにこやかな笑みが浮かんでいた。
「これ以上、そなた達のことで容保様の御心を煩わせないようにせよ」
 そう言い残すと、広沢は部屋から出ていった。
「要するに芹沢を斬れってことだろう?」
 広沢の足音が消えると、左之助がずばりと言った。
「広沢様は田中という者を捕らえろとおっしゃっただけですよ」
 山南が、にこやかな表情でそう答えた。
「それだけには聞こえなかったけどなあ」
「広沢様は芹沢局長を斬れとは一言も口にしていません。これは重要なことなのです。しかし、恐らく田中という者は―――」
「新見錦だ」
 俺は畳に視線を落としながら言った。広沢が田中の名を口にしたとき、俺はすぐに新見の顔が頭に浮かんだ。新見は最近、昼は妙にこそこそ行動し、夜になると派手に遊んでいるようで、どこか引っかかるものがあった。
「調べてみなければわかりませんが、恐らくそうでしょう」
「なるほどなあ。罪状があるにしても新見を捕らえれば、芹沢は黙ってないだろうな。あとは御心を煩わせないようにせよか。まったく面倒臭く言いやがる」
 左之助がいまにも横になりそうな姿勢で、本当に面倒臭そうに言った。
「肚を決めなきゃならないときが来たようだな」
 俺は近藤の顔を覗き込んだが、近藤は固く眼を閉じ、口をへの字に曲げ、腕を組んだまま黙っていた。
 いつかはこうなるという予感はしていた。それは俺の想い描いているものでもあった。近藤一人が頂点に立つ新体制。だが、俺の考えていたものは芹沢から独立するというものであり、芹沢を潰すものではなかった。少なくとも俺は芹沢を認めていた。かなり強引なところはあるが、上に立つ者としての牽引力がある。そして決断力、行動力もあった。同じような組が二つあってもいいだろう。名も二つあるようなものだ。これからのことを考えると、お互いに協力し、また切磋琢磨できるものも必要となってくる。
 だが、俺の考えは見事に打ち砕かれたようだ。それも外部から急速に形となって現れた。最悪の形だった。もう少し時間が欲しかった。最低でも近藤が局長としての自覚を持つまで。まだ芹沢の下という格好で、芹沢には遠く及ばない。
「他に道はないのか?」
 近藤の眼は開かれていたが、その視線は遠かった。
「ないだろうな。それも俺たちだけでだ」
 俺も肚を決めなければならなかった。そして肚を決めた。来るところまで来てしまったのだ。
 肚を決めるのは簡単だった。難しいのは、どう動くかだ。そして、どこまで動くか。すべてが終わるまで。それも決めた。決めたら余計なことを考えず飛び込めばいい。それが決めるということだ。
「それができるか?」
 近藤が遠い眼のまま言った。
「この際、できるかが問題ではないでしょう。私たちが会津様のお預かりである以上、その命令は絶対であり背けば信義に関わります」
 そう答えたのは山南だった。俺は頷いてみせた。
「そうか。そうだな。やらねばなるまいな」
「しかし、近藤局長には決断して頂くだけにしましょう。それでいいですね。土方さん?」
「山南先生、なにを―――」
「いいんだよ、近藤さん。手を汚すのは俺たちだけで充分だ」
「その通りです」
 山南が、いつもの表情で答えた。しかし、その表情は冷たく凍っているようだった。
「副長、報告に上がりました」
 風。ほんのりとしたいい香りと、それとは正反対な山崎の気だるそうな声が、俺の背後でそよいだ。俺は思わず団子を咽喉に詰まらせそうになり、急いで茶を啜った。
 内部調査で、さすがに監察は使えなかった。動きが目立ってしまう。それに俺たちだけで内密にやらなければならないことだった。それでも山崎だけは使うことにした。あまり目立たず、初めから監察にしようと考えていた男だ。しなかったのは心のどこかで、このようなことに役立つと思っていたのかもしれない。山崎に具体的なことは一切言っていない。ただ、田中伊織という男を、苦情が出た所から調べ上げろと言っただけだ。それを山崎は驚くほど的確にこなしていた。
「どうだった?」
 俺は後ろを振り向かず、通りに眼をやったまま訊いた。
「ほぼ間違いありません。ですが、この男は―――」
「あまり首を突っ込まないほうがいい」
「―――失礼しました」
 山崎には一つだけ欠点があった。深入りしてしまうことだ。俺たちが、近藤をこの一件から外したように、山崎も自分で背負ってしまうような、なにかを持っていた。
「いまどこにいるかわかるか?」
「祇園の『山緒』です」
「そうか。いままで、すまなかったな。もうこの件に関しては忘れてくれ」
「―――わかりました」
 山崎が背後で立つ気配があった。また、微かないい香りがそよいだ。俺はそれでも後ろを振り向かなかった。
 わずかに眼の端に映ったのは、艶やかな女の後ろ姿だけだった。

 三味線の音と共に、あの男特有の甲高い嬌声が障子の奥から聞こえてきた。
 祇園、山緒。どうやら今日も派手に遊んでいるようだ。店の主人にはいくらか掴ませておいた。口止めと、座敷が汚れるのでその分のものだ。段取りも決めた。そろそろ女たちがはける頃だろう。
 三味線の音が止んだ。障子が開かれ、女たちが出て行く。俺たちは、それと入れ替わるようにして踏み込んだ。
 新見は手酌で酒を呑むところだった。
「会津様お預かり新選組副長土方歳三である。田中伊織だな?」
 杯を持った手は口元で止まり、眼は見開かれていた。俺はもう一度訊いた。
「土方君、なんの冗談だね?」
 新見は固まった笑顔でそう答えた。
「副長は名を訊いておられるのだ。答えろ!」
 左之助が一歩前に出て怒鳴った。その手は刀に添えられていた。
「局長の私に向かって、その態度は無礼であるぞ!」
「局長だと? お前が田中伊織だということは、わかっているんだ」
「なら、その証拠を見せてみろ!」
 新見は畳を拳で叩き凄みを見せたが、その声はすでに上ずっていた。
「まあまあ、原田君。ここは私に任せて頂けませんか?」
 山南がにこやかな表情で間に入った。
「おお、山南君か。こいつらをどうにかしてくれ」
 新見が山南にすがるように近づいたが、山南はそれを払いのけ話し出した。
「最近、田中伊織という輩が新選組の名を騙り、押し借りや強請りを繰り返しているという報告を会津藩から受けました。もちろん京の治安を守る私たちの中にそのような輩がいるはずはありません。そうですよね、新見局長?」
「もちろんだ」
 新見が何度も頷いた。
「もし、例えばの話です。そんな輩が私たちの中にいたら、局長はどうしますか?」
「―――それは罰せねばならんだろうな」
 少しの沈黙のあと、重い口調で新見が答えた。
「その通りです。これは許し難い行為です。もし、そのような輩がいれば、誠の旗に誓い裁かなくてはなりません。ましてや、新選組の名を騙った不届きな輩であれば、即刻斬らなければ示しがつかないでしょう」
「山南君、何故わかりきったことを、わざわざ私に言うのだ?」
「それはあなたが田中伊織だからですよ」
「だから証拠はあるのか。証拠を見せてみろ!」
 やれやれという感じで、山南が俺の方を向いた。
「証拠ってのはな、まともな奴だけに必要なもんなんだが、今日は特別にその証拠ってもんを見せてやるよ。入ってもらえ」
 俺の合図と共に、総司が商家の男を連れて入ってきた。
「前に、あなたのところから金を奪い取ったのは、この男で間違いありませんね?」
 商家の男は伏し目がちに新見を見つめた。
「へい。間違いございません」
「この男は、なんと名乗りましたか?」
「田中伊織と―――」
「貴様っ!」
 新見が手に持っていた杯を男に投げつけた。それは男に当たる寸前に、あっけなく総司に叩き落とされた。 
「もう終わりにしませんか?」
 山南は小刀を新見の前に置き、宥めるように言った。
「新見局長は素晴らしい人物でした。ですが、私たちの余りにも拙い思想に絶望し、どこかへ隠遁してしまった。そうですよね?」
 新見は険しい表情で眼を閉じ、山南の言葉を聞いていた。その眼が開かれる。
「私は新見錦として死ねるのだな?」
「そうです。しかし、亡骸は田中伊織として葬らせて頂きます。新見錦はずっと生き続けるわけですから」
「―――山南。貴様もろくな死に方はせんぞ」
「わかっています」
 新見がもろ肌を脱ぎ、小刀を持った。
「最後に一つ訊いていいか?」
「なんなりと」
「芹沢先生はこの件を知っているのか?」
「いえ。後ほどお話しします」
「そうか。ならば、貴様にもすぐ会えるかもしれないな」
「私はまだ死ねませんよ」
 左之助がゆっくりと刀を抜き、新見の後ろで構えた。
「介錯不要。新見錦の死に様、しかと見届けよ!」
 山南を見て、新見が微かに笑ったような気がした。






けもの

 

 

  闇。
 その中で息遣いだけが、別の生き物のようにうごめいていた。俺の呼吸(いき)。まるで獣のようだった。闇の中で眼だけを光らせ、獲物を狙っている獣。
 息を潜める。しばらくすると闇に眼が慣れてきた。明るい月夜のようだ。俺は夜空を見上げた。そこには手を伸ばせば届きそうなほど大きな月が輝いていた。
 月が嫌いではなかった。夕日のように、俺の心に直接飛び込んでくることはない。沈んでいく夕日は生々しすぎるのだ。街のすべてを血のように赤く染め、そのまま闇に覆ってしまう。月はその闇を照らし、街に染まった血を洗い流してくれる。満ち、そして欠け、友のように近づいてくるときもあれば、遠くでそっぽを向いているときもある。いつも違った表情を俺に見せてくれた。
 月明かりが総司の横顔を照らしていた。その顔には、なんの表情も感情も浮かんでいなかった。まるで仏のような顔だ。緊張して硬くなっているわけではない。この表情のときの総司が一番怖いことを、俺は知っていた。
 剣術の稽古中にも稀にこの表情をするときがあった。きっかけはわからない。なにかを求めるように、時にどこかへ堕ちていくかのように、不意に変わるのだ。こうなった総司を誰も止めることはできなかった。急所ぎりぎりを狙い、相手を徹底的に叩きのめす。殺気というよりは、殺意そのものであった。立ち合った相手は「殺す気でいる」ではなく、間違いなく「殺される」と感じるだろう。表情はないのだが、楽しんでいるようにも見え、逆に酷く自分を痛めつけているようにも見えた。
  総司は芹沢を斬る気でいる。その表情で、俺はわかった。しかし、芹沢は俺の獲物だった。獣がそれを欲している。それは闇の中で眼だけを光らせ、ゆっくりと牙を研ぎ始めていた。
 新見が祇園の『山緒』で腹を切ったあの夜、現場の後始末を総司と左之助に任せ、俺と山南で芹沢のところに向かった。
 近藤には決断させただけだ。そういう形で関わらせる。人生の中には待つことのほうが、よほど辛いことがある。そしていまは、それが局長である近藤の役目だった。
  芹沢は一人で呑んでいた。その周りには、すでに酒瓶が何本も転がっていた。
 山南は空の酒瓶を並べ、自分の座る場所を確保すると、事の顛末を慎重に言葉を選びながら話し出した。
 山南が話している間、芹沢の表情が変わることはなかった。ただ黙々と酒を呷っているだけだ。耳に入っているのかどうかもわからない。
「そうか」
 山南の話が終わると、芹沢はそう一言だけ言った。すべてを受け入れてしまったような重い声だった。
 沈黙。もう用はないというように、芹沢が酒を呷った。すべてを拒絶するように、杯を重ね続けている。
「いつまでそこにいるつもりだ?」
 その眼は山南にではなく、俺に向けられた。それは、はっとするほど深く暗い瞳だった。俺は思わず眼を逸らした。
「芹沢局長、もう一つだけお話ししたいことがあります」
 山南が姿勢を正して言った。
「つまらないことでなければ聞こう」
「芹沢局長ご自身のことです。さきの件は新見局長の独断で、芹沢局長とは一切関係のないことです。それは会津藩も調べればわかるでしょう。しかし、芹沢局長は新見局長と親しい間柄だったことから、現在は非常に危険な状態にあります。ですから、芹沢局長にはほとぼりが冷めるまで一時、どこかに身を潜めて貰いたいのです。少しだけお時間を下さい。その間に私たちがなんとかしましょう」
「つまらないことだな」
 芹沢が哀れなものでも見るような眼で、山南を見つめた。
「この芹沢に逃げろと言うのか?」
「ですが局長!」
「―――いまは独りで呑みたいのだ。帰ってくれ」
 また芹沢が酒を呷った。その呑み方は暗く、痛々しかった。新見への弔い酒。そうではないような気がした。なにもしてやれなかった自分への怒り。懺悔。自分を壊すように酒を呷る。そのまま壊れてしまえばいい。
 まだなにか言いたそうな山南の肩に、俺はそっと手を置いた。
 無駄だ。山南はなにもわかっていなかった。男というものを。
 たとえ濡れ衣で自分が疑われることになっても、仲間が死んでいるのに、なにもせず自分だけ逃げることなどできはしない。
 逃げるくらいなら、死を選ぶ。それが男だ。そして間違いなく芹沢は男だった。
 その男を、俺は斬らなければならない。覚悟を決めた男がそこにいる。俺がやらなくてはならないのだ。
 俺は手首をゆっくりと回した。止める。拳を開き、握る。また開く。繰り返す。
 癖のようなものだった。無意識に動かしているときもある。
 手の感覚。力。刀の握り方。そのようなことで命を拾うこともある。
 八木邸門前。俺と総司はその影に身を潜めていた。山南を俺から見て正面にあたる母屋側の門、左之助を坊城通りに面した庭へと繋がる門に配置した。
 左之助の報告だと、中には芹沢、平山、平間、野口がいるらしい。
 四人は島原の『角屋』で遊んだあと、この八木邸に戻りまた呑み始めたようだった。
  左之助の報告はそこまでだった。あまり動くと芹沢たちに気付かれる恐れがある。また、隊内でも不審がられるだろう。これは俺たちだけで内密にやらなければならないことなのだ。
  指を一本ずつ丁寧に揉んだ。指先が熱を持ってきた。血が通っているのがわかる。
  総司が無表情な眼で、俺の動作を見ていた。もういいだろう。八木邸は静まり返っている。芹沢たちも酔いつぶれて寝ているはずだ。俺は最後に拳をきつく握り、総司に頷いた。総司が立ち上がり、小石を投げる。突入の合図だ。
  遠くで微かに、小石がなにかに当たる音がした。
  俺は走っていた。総司も後ろに続いているようだ。
  八木邸の間取りは知り尽くしている。正面から影。山南。頷き、土間へと続く戸から入って行った。俺は玄関から踏み込んだ。四畳。右に茶室。無視した。正面の六畳。ここに誰かいるはずだ。襖を開けた。刀に手をかける。蒲団。誰も寝ていない。
「鼠でもいるのか?」
 さらに奥の十二畳から、芹沢の低いよく通る声が聞こえてきた。
 俺はその襖をゆっくりと開けた。
「ええ、大きな鼠が三匹、いや四匹入ってきましたぜ」
 縁側で芹沢と平山が酒を酌み交わしていた。
 庭では左之助が呆然と立ち尽くしている。たぶん隣の六畳では、山南も同じような格好をしているのだろう。
「こんな静かな月夜の晩に、鼠とは無粋だな」
「まったくですな」
 芹沢と平山が静かに笑った。退くべきだった。奇襲は見破られている。平間と野口の姿も見えない。罠。しかし、俺はそこから動かなかった。どこかでわかっていた。芹沢が俺を待っていたことを。
 後ろで総司が辺りを警戒している気配を感じた。平間と野口を探しているのだろう。
「平間さんと野口はここにはいないぜ」
 その気配に気付いたのか、平山が芹沢に酌をしながら言った。芹沢が、その杯を一息であける。
「そんなところに突っ立ってないで一杯どうだ? あまりにも月が美しかったので、月見酒と洒落込んでいたところだ」
 その言葉はさりげなく、本当に酒を誘っているだけのようだった。
 俺は頷き、芹沢の隣に座った。芹沢が口元を綻ばせながら杯を出してきた。お前を待っていた。そんな表情に見えた。俺は杯を受け取った。俺も待ち望んでいた。芹沢の酌。その酒は杯にぴたりと満ちた。俺は杯を少しかざし、一息であけた。
「いい呑みっぷりだ」
 俺は芹沢に返杯した。だが、酒は杯を満たす寸前で枯れた。
「これで終わりのようだな」
 芹沢が名残惜しそうに杯を呷った。
 そのときだった。後ろで、総司の動く気配があった。殺意が俺の背中から、芹沢に向かっている。
「伏せて!」
 背後から総司の鋭い声が聞こえた。しかし俺は伏せなかった。光。平山が抜刀するのが、わずかに見えた。その光は、平山の手元から真っ直ぐ総司の首筋に伸びていた。総司が止まる。総司の顔は平山ではなく、俺に向けられていた。やはり無表情で、仏のような顔だった。それでいて俺に様々な疑問を投げかけてきていた。なぜ。どうして。俺は眼だけで答えた。こいつは俺の獲物だからだ。
「間違うな。お前の相手は俺だ。それでいいですよね、芹沢先生?」
「好きにしろ」
 平山は切先を総司に向けたままゆっくりと立ち上がり、総司と共に部屋の奥に消えた。
「一雨来るな」
 芹沢が独り言のように、月を見上げながら言った。空には星も瞬き、雨など降る気配はなかった。
 芹沢が杯を置く。そしてゆっくりと庭に下りた。その後ろ姿は大きく、隙だらけだった。ここで斬ることもできる。しかし俺は抜かなかった。俺の中の獣がそうさせた。誘い。獣がそう感じたのだ。
「意外に慎重なんだな。いま抜けば、楽に死なせてやったものを」
 芹沢が振り返りそう言った。眼が合った。お互いに、口元だけで笑った。
「副長! ここは俺が」
 庭の木の傍にいた左之助が、俺と芹沢の間に割って入った。
「どけ。お前では俺を斬ることはできない」
 芹沢が静かな声で言った。
「なんだと!」
 止める間もなく左之助は抜刀し、芹沢に突っ込んでいた。上段。芹沢が、左之助の間合いをずらすようにして大きく一歩前に出た。左之助は刀を振りきれずに、正面から芹沢にぶつかった。呻き。左之助がゆっくりと膝を折るようにして倒れた。芹沢の腰からは柄が伸びていた。柄頭で鳩尾への一撃。間違いないだろう。
「山南先生、左之助を頼みます」
 俺は、縁側で芹沢をじっと見つめていた山南に声をかけた。山南はゆっくりと首だけを回し、俺の方に顔を向けた。視線が絡み合う。お互いになにかをぶつけ合った。気迫のようなもの。俺は引かなかった。
「どうやら私の出る幕はないようですね」
 山南は軽く息を吐くと、庭へ下り、左之助を引き摺るようにして縁側に寝かせた。
「一つ訊いてもいいですか?」
 山南の眼が、月明かりに照らされて妖しく光った。俺は頷いた。
「あなたはこうなる―――芹沢局長が待っていることを知っていたのではありませんか?」
 俺はそれに答えず、ただ山南を見つめた。
「そうですか。あなた達の間には、私の入ることができないなにかがあるのでしょうね。ここはお任せします。しかし手を出さない代わりに、あなた達のやり方を見届けさせてもらいます。その権利くらいは私にもあるはずです」
 山南の眼から光が消えた。俺はゆっくりと頷き、庭に下りた。芹沢の正面。視線がぶつかった。獣と獣。山南には入れない空間。芹沢がすらりと刀を抜いた。俺は足場を確かめた。ゆっくりと息を吐く。兼定を抜き、構える。中段。
 芹沢は両腕をだらりと下げたまま突っ立っていた。俺は軽く殺気を当てた。それでも芹沢は突っ立ったままだった。
 一歩前に出た。構えない。もう一歩。芹沢がゆっくりと両腕を上げた。刀が月明かりに照らされる。高かった。大上段。
 まるで牙を剥いた巨大な獣の口のようだった。隙はある。身体が、がら空きだ。しかし、そこまでたどり着けるのか。頭上には血に飢えた獣の牙が待ち構えている。
 息を吸う。まだ間合いではない。あと二歩。お互いに一歩。
 俺はゆっくりと左に移動した。芹沢はその場で少し回っただけだった。
 吐き、息を止める。強烈な殺気を当ててみる。やはり動かない。
 俺は兼定の切先を右にすっと開いた。左小手に隙ができる。俺の構えの癖。そう思っている者が、ほとんどだろう。違った。誘い。最初は癖だった。それで左小手を何度となく狙われた。やがて慣れる。返す術も覚えた。わざと狙わせる。これは俺の一つの技になっていた。
「小細工はよせ」
 芹沢の声。それは威圧するような感じではなく、ただ俺に教えているような口調だった。
 俺は無理に笑って切先を戻した。余裕などない。額から汗が流れてきていた。いやな汗だ。拭うこともできない。あと一歩が遠い。いや半歩でさえ、永遠にたどり着けないような気がした。踏み込めない。
 恐れているのか。俺は自問した。なにを。死を。恐れている。俺が。
 そのとき、俺の中でなにかが唸った。獣。いままで獲物に眼を光らせていた獣が、俺に向かって唸っていた。もう一人の俺。まるで嘲笑しているかのようだった。
 俺は舌打ちをした。気に入らねえ。声に出して呟いてみた。
 解き放ってしまえばいい。獣も、俺という檻の中で唸り続けている。
「いい眼になってきたな」
 芹沢がそう言ったような気がした。
 俺は左足を引き摺るように前に押し出した。つぶされそうな重圧がかかる。そして臭いがした。芹沢の中の獣の臭い。俺の獣がそれを感じ取っていた。重圧に耐えながらも、ゆっくりと立ち上がる。牙を剥く。
  俺は息を止めた。三つ数える。同時に踏み込んでいた。頭上から牙が襲いかかる。獣が咆えていた。俺は横に転がり、その牙をかわした。芹沢の刀は振り下ろされたままだ。立つ。そして獣を斬りつける。下から上に跳ねるような光。兼定が簡単に弾き返された。上体が浮く。腹に芹沢の蹴り。後ろに倒れそうになる。二歩よろけるように下がり、俺はなんとか耐えた。
  中段。軽く息を吸う。走り、直突きを繰り出す。左にかわされた。俺は振り向きざま、回転するように兼定を薙いだ。弾かれる。芹沢の袈裟斬り。俺は後ろに跳んで、それをかわした。構える。腕から微かに風が入ってくるのを感じた。見ると袖口がぱっくりと割れていた。芹沢が口元だけで笑っていた。俺もなんとか微笑みを返した。たぶん、ぎこちない表情だろう。
 
また中段。そして芹沢は大上段。二度あの牙をかわせるか。考えてしまっている自分がいた。俺は頭を振った。考えるな。飛び込め。
  俺はゆっくりと前に出た。あと二歩。頭が勝手に考えようとしていた。そのときだ。いきなり芹沢の影が大きくなった。牙。かわせない。俺は兼定の反りを右手で支え、獣の牙を両腕で受けた。火花が散る。押される。眼の前に、血に飢えた獣の牙が迫る。俺は叫んでいた。渾身の力でそれを返そうとしたとき、不意に押す力が消えた。両腕が上がってしまっていた。懐に獣。疾い。巨大な獣だ。かわせるわけがない。芹沢の当て身。猪が突進してきたようなものだった。俺は全身に強烈な衝撃を食らい、後ろに吹っ飛ばされていた。
「立てよ」
 芹沢の低いよく通る声が聞こえてきた。わかっている。そう言ったつもりだが、声にならなかった。全身が痺れていた。痛みはそれほどない。麻痺しているようなものかもしれない。指を動かしてみる。自分のものではない感じだが動いていた。拳を握り、開く。腕、足、首。動かしてみる。大丈夫だ。
 俺は兼定を杖代わりにして、ゆっくりと立ち上がった。俺の中の獣も、また立ち上がる。息が荒い。細かい呼吸を繰り返す。息を整える。
 芹沢は大上段のまま構えていた。息一つ切らしていない。
 気に入らねえ。また呟いてみる。それは荒い息の中に飲み込まれただけだった。
 中段に構える。重心を下げる。低姿勢のまま俺は突進していた。兼定を薙ぐ。弾き返された。もう一度。返される。お互いの獣が咆えていた。もう一度。火花。受け止められる。鍔競り合い。芹沢の獣が牙を剥いた。完全に押し返された。腹に衝撃。芹沢の蹴りだ。浅い。一歩で踏みとどまった。体勢を整える。
 前に獣。いなかった。横に大きな闇。その闇から突然、白い塊が出てきた。芹沢の拳。それを視界の端に捉えたとき、俺の周りの景色がゆっくりと傾き始めた。木々、燈篭、井戸。縁側で暴れている左之助。それを必死になって押さえている山南。総司。平山に三段突きを決めた。平山がその場で崩れ落ちる。すべてがゆっくりと傾きながら俺の視界を回っていた。
  砂利と血の味がした。顔には冷たい土の感触。そして眼の前には草が生えていた。倒れている。どうやら俺が傾いていたようだ。
 何かが聞こえた。腹に衝撃。痛みが戻って来る。俺はのた打ち回っていた。また何かが聞こえた。そして衝撃。
「立つんだ」
 芹沢の声。そして蹴り。腹の同じところを何度も蹴られた。口から身体の中身が飛び出してきそうだった。
 蹴りが止まった。別の声が聞こえてくる。怒声。俺に向けられたものではない。なんとなくそう思った。鋭い気合。そして呻き。眼の前にある草の先に、左之助がゆっくりと落ちてくるなり寝てしまった。
  蹴り。声。それはまた俺に向けられた。このまま左之助と同じように寝てしまいたい。いま眠ることができれば、どんなに楽だろうか。そう思った。左之助は寝ているのか。俺は蹴られながら考えていた。また痛みの感覚が遠ざかっていった。
  足が見えた。俺はその足を両手で抱えるようにして掴んでいた。違う。左之助は寝ているのではない。叫び。俺は渾身の力でその足を持ち上げていた。
  立った。眩暈がして吐きそうになるのをなんとか耐えた。血が引いている。頭を振った。よろけた。身体が宙に浮いているような感覚だ。
  下を見た。大きな男が転がっていた。芹沢。無意識に、俺は両腕を振り下ろしていた。軽い。両手の拳を広げてみた。兼定は握られていなかった。俺はよろけながら兼定を探した。燈篭の下。兼定を握る。
「いまのは効いたぞ」
 後頭部を擦りながら、巨大な獣が立ち上がった。
 肩で息をしていた。完全に息が上がっていた。呼吸を整えられなかった。整えようとも思っていない自分がいた。ひどい呼吸だった。獣の呼吸(いき)。構えもしていない。両手をだらりと下げた前傾姿勢。獣そのものだった。俺の中でなにかが重なっていた。獣。もう一人の俺。解き放ってはいない。飼い馴らすことができたのだろうか。いや、獣を飼いならすことなどできはしない。飼いならされた獣は、牙の抜けた獣だけだ。それを獣とは言わない。俺の中の獣は、まだ牙を持っている。ただの気紛れか。なんとなく俺に付き合ってくれているだけだ。ただ不思議と身体は軽かった。
 獣の咆哮。俺も叫んでいた。俺の咆哮だ。両手を下げ、兼定を引き摺りながら突進していた。芹沢の大上段。頭上から牙。どうでもいい。構わず突っ込んでいた。巨大な獣の懐。もう少しだ。時間がひどくゆっくりと進んでいた。獣の牙が俺の背後に落ちた。やり過ごした。死の狭間。それを潜り抜けた。獣。俺はそれを右にゆらりとかわした。
 獣の背後に回った。そこには寂しそうな背中があった。老いた獣の背中だった。芹沢がゆっくりと振り返る。俺はそこでやっと構えた。兼定を身体に引き寄せ、そのまま芹沢にぶつかる。なにかが破れるような感触がした。しばらくすると手に温かいものが伝わってきた。俺はゆっくりと兼定を引き抜いた。芹沢の呻き。そして血。
 眼が合った。哀しい眼だった。ふっと吸い込まれそうになる瞳。やはり俺は、この男が嫌いではなかった。
 腹から血を噴出しながらも、また芹沢が大上段に刀を掲げた。俺は夜空に向かって兼定を薙いだ。月夜に二本の腕が飛んだ。そして袈裟懸けに斬り落とした。老いた獣がゆっくりと倒れた。
「その眼だ」
 俺は倒れ逝く獣の傍らで、確かにそんな声を聞いた。
 夜空を見上げる。月に霞がかかっていた。月明かりだけでは、この血を洗い流せそうもない。遠くで雷鳴が聞こえた。芹沢が言った通り、本当に一雨降りそうだ。思いっきり降って、すべてを洗い流してくれ。心までも。
 俺はもう一度、夜空を見上げた。月を嫌いになりそうだった。




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