散華
〜小説・土方歳三〜


第二章 壬生浪

誠の旗印


 四月。
 京の街は桜で染まり、人々も競うかのように、春めいた着物を小粋に着飾っていた。
 そんな中で、俺たちだけは、いまだに綿入れなど野暮なものを着ていた。真冬から、なにも変わっていない。
 唯一、斎藤だけが、二藍の単衣で涼しい顔をしていた。
 斎藤とは清河暗殺の一件から、行動を共にしている。志願してきたのだ。
 あのときもそうだったが、ちょっと計れない男だった。自分のことを、ほとんど語らない。家族、田舎、そして剣についてもそうだった。流派でさえ、言葉を濁された。もしかしたら、俺と同じ雑流なのかもしれない。それでも信じることはできた。昔の俺に、どこか似ていた。
 浪士組に入る前の俺は、時だけがいたずらに過ぎ、なにをやっていいのかさえわからなかった。時の中に置き去りにされた迷子。だから、できることだけをやった。志願したとき、斎藤が語った思想は、言葉少なく非常に曖昧なものだったが、最後に「いまできることから、やらなければなりません」と付け加えた。それだけでよかった。
 剣は、かなり使える。試しに総司と手合せさせてみた。
 三本のうち二本は総司が取ると思っていたが、一本目で両者とも構えたまま動かなくなった。お互いに、計りきれないのだろう。
 斎藤には気配というものが、ほとんどない。そして総司も、気を外に発する方ではない。気が満ちないのだ。肌を刺すような張り詰めた空気ではなく、静かで、それでいて澱んだいやな空気が流れていた。
 長い対峙だった。不意に、二人の間の空気が、一瞬ぼやけたようになった。斎藤に、総司の気が侵蝕したような感じだった。妖しい気。総司の剣先がぴくりと動いたその時、近藤が「そこまで!」と止めた。
 総司が、得意の突きを出す瞬間だった。突きを出さなければ勝てない。それだけで、斎藤の腕を計るには十分だった。
 新たに斎藤を加え、清河と袂を分けた俺たちは、京都守護職である会津藩へ、京に残る決意を伝えた。元々、京都守護職と浪士組の目的は同じで、京の治安回復と将軍警護だからだ。俺たちの決意は、会津藩主松平肥後守の心を大きく動かしたようだった。
 浪士組取締役の佐々木只三郎の口添えもあったらしい。あの身体を舐め回すような気配は、いま考えてもぞっとする。そして、なにかを計るような視線。それは不意に興味を失ったかのように消えたが、一応は認められたということなのだろうか。
 少々気に入らないが、こうして俺たちは晴れて、松平肥後守御預かりということになり『壬生浪士組』と名乗った。
 しかし、金がなかった。どうやら会津藩は徴募した幕府が資金を出すと考え、幕府は預かった会津藩が出すものと考えているらしい。
 いまとなっては清河暗殺の失敗が悔やまれる。もし成功していたら、斎藤ではないが、いくらかの恩賞が出たかもしれない。また待遇も違っただろう。
 俺たち壬生浪士組は通称『壬生浪(みぶろ)』と呼ばれていたが、最近ではその身なりから『身ボロ』と呼ばれるようになっていた。
 春物を買うどころか、その日の飯にありつけるかどうかも、あやしくなってきている。俺の従兄弟である佐藤彦五郎や、天然理心流の支援者である小島鹿之助から小金を無心するだけでは、そろそろ限界だろう。なにかしらの金策を考えなければならなかった。しかし、ほとんどの者が剣は使えるが、そのようなことには無頓着であった。この中で金策ができそうなのは、平間くらいだろうか。剣よりも、そろばんでも持ったほうが似合いそうな男だ。だが、平間だけでは、いかにも頼りなかった。
 俺は、煙管の火皿に刻み煙草を詰め、火をつけた。深く吸い、ゆっくりと吐き出す。煙が風に乗り、流れた。煙草銭も馬鹿にならないと思った。
「どうした土方君。浮かない顔をしているな」
 木刀でも振るっていたのか、芹沢が少し上気した顔で現われた。
「いや、少し考え事を」
「これか?」
 芹沢が小指を立てながら俺の前に座り、豪快に笑った。その息は酒臭かった。
「芹沢先生。呑んでいますね?」
「なに、迎い酒を少しだ」
 酒を呑まなければ、立派な男なのだろう。豪快で、なによりも人を引っ張る力がある。性格、風貌ともに人の上に立つ者だと思った。その器は残念ながら、近藤よりも上かもしれない。しかし酒を呑むと、豪快さに拍車がかかり、粗暴になった。酒に呑まれてしまう。これが、この男の唯一の欠点で、最大の欠点だと思った。
「それで、なにを考えていたんだ?」
 大きな鉄扇で自分の首筋を叩きながら、芹沢が言った。その大鉄扇には『尽忠報国芹沢鴨』と彫られてあった。
 俺はゆっくりともう一服し、灰吹きに灰を叩き落した。
 迷っていた。芹沢に言ったところで、どうにかなるとは思えない。「男がそんな細かいことを気にするな」と一笑にふされて終わりだろう。それに酔っている。
「黙っていてはわからんぞ。この芹沢が相談に乗ってやろうではないか」
 酔っ払いが絡むのと同じだった。しかし、機嫌はいいらしい。酒には、まだ呑まれていないのだろう。
「芹沢先生。一つ約束して下さい」
「約束だと?」
「そうです。必ずなんとかしてもらえると」
「そういうことか。この男芹沢が約束しよう」
 赤ら顔の芹沢が、大鉄扇で、ぴしゃりと自分の掌を叩いて言った。
「二言はありませんね?」
「くどいぞ、土方君」
「わかりました。実は―――」
 俺は幕府と会津藩のことから話し、壬生浪士組がどのような状況に置かれているのかを、かいつまんで説明した。
 芹沢は、途中から腕を組み唸り出した。酔ってはいるが、俺の話を真剣に聞いているようだ。
「それはまずいな。あとどのくらい持ちそうなのだ?」
「持ってあと半月です」
「むう。それほどまでか」
 芹沢は腕を組みなおし、難しい顔をしてしばらく思案していた。
 俺は、また煙管に火をつけた。もとはといえば芹沢らが悪い。酒だ。遊興費が出費の大部分を占めているだろう。芹沢一派は、かなりの酒豪揃いだった。試衛館でも、俺と近藤以外はかなり呑む。総司でさえ強いとは言わないが、俺よりも呑んだ。
 俺は軽い怒りを覚え、煙管を灰吹きに叩きつけた。
「気に入らねえ」
 心の中でつぶやき、じっと芹沢を見つめた。そのとき芹沢が、ぴしゃりと大鉄扇を打ち、立ち上がった。
「行くぞ」
 俺は、呆気にとられながらも頷いていた。立ち上がった芹沢の顔は真剣そのもので、酔いなどは微塵も感じられなかったからだ。


 大阪。
 着いたのは、この活気ある街だった。
 それにしても、芹沢の行動力には舌を巻いた。言ったその場で決めて、すぐに出立したのだ。連れ出したのは近藤、新見、総司、永倉、野口の五人。芹沢が言ったのは「おい、出かけるぞ」の一言だけだ。芹沢が一人、黙々と歩く中で、俺はこの五人に急いで事情を説明した。
 新見と野口は、いつものことだというような感じで苦笑いをしていたが、他はさすがに顔をしかめていた。
「ここでいいだろう」
 芹沢が、一際大きな店の前で立ち止まり、そう言った。店の看板には『鴻池』と書かれてあった。富商、鴻池。山中鹿之助の子孫という家柄で、大阪で随一の両替商だろう。その主人は代々、善右衛門を名乗り、通称『鴻善』で通っている。俺でも知っている有名な豪商だった。
「失礼する」
 芹沢が低いよく通る声を出し、店の中に入っていった。
 当てでもあるのか。全員が疑問を持ったらしく、互いに顔を見合わせながら、芹沢に続いた。
「これはこれは、お武家さん。ようこそ、いらっしゃいました」
 揉み手をしながら、いかにも人のよさそうな番頭が、笑顔で出てきた。商人特有の作られた笑顔だ。だが俺は、その笑顔の中に、引きつったものがあるのを見逃さなかった。
「主人はいるか?」
「失礼ですが、どちら様でございましょう?」
「これは失礼した。水戸脱藩、芹沢鴨だ。これから色々と世話になるから、覚えておくがよい」
「へい。よく覚えておきます。立ち話もなんですから、ささ、こちらへ」
 身を低くしながらも、番頭が案内したのは、玄関脇の部屋だった。その対応に、新見が声を荒げた。
「無礼であるぞ。天狗党の芹沢鴨と知ってのことか!」
「て、天狗党にございますか?」
「いかにもそうである」
 芹沢が胸を張り『尽忠報国芹沢鴨』と彫られた大鉄扇で、自分の首筋を叩きながら言った。これではまるで、不逞浪士の押し借りと同じだ。
 番頭の顔色は真っ青になっていた。笑顔は完全に固まっている。
「俺たちは、松平肥後守様御預かりの壬生浪士組だ。そんなに怖がらなくてもいい」
 俺は、まだなにか言いたそうな新見を手で制し、努めて優しい声で番頭に言った。
「あ、会津様のところの方でございましたか。これは失礼致しました。ささ、うちへどうぞ」
 番頭の笑顔は柔らかくなり、俺たちは丁重に客間へ案内された。
 肥後守の名を出してからというもの、番頭の対応が一変した。さすがに期待されているだけのことはある。
 文久二年十二月二十四日、俺たちより少し前に、肥後守は千人もの精兵を率い、会津本陣と定められた黒谷に入った。その道中は、この行列を歓迎する人々で溢れていたらしい。その後「会津肥後さま、京都守護職つとめます。内裏繁盛で公家安堵。トコ世の中ようがんしょ」という俗謡まで流行ったほどだ。不逞浪士はびこる京で、どれだけ期待されているかがわかる。
 俺たちの前にも、煙草盆をはじめ、茶菓子まで用意された。
「さすがに酒までは出てこんか」
 煙草をふかし、煙を吐きながら芹沢が満足気に言った。これで、事が成ったと思っているのだろう。しかし、これからどうするのか。俺たちは肥後守御預かりというだけであって、金策できる当てはないのだ。
「芹沢先生―――」
「大丈夫だ、土方君。この芹沢にすべて任せておけ」
 俺の心を見透かしたように、芹沢が言った。新見と野口も頷いている。だが、さっきのような態度では、上手く行く話しも流れてしまう気がした。
 そうこうしているうちに、主人の善右衛門が現れた。
「失礼致します。善右衛門にございます。さきほどは番頭がとんだ粗相をしたようで、平にご容赦下さいませ」
 深々と頭を下げながら、善右衛門が俺たちの前に座った。
 恰幅のいい身体。芹沢にも引けをとらない、堂々とした押しがあった。
「いやいや、気にする事はない。こちらも悪かったのだ」
「会津様御預かりの芹沢様ですね。ご高名は存じております」
 善右衛門が面を上げた。その顔は、意外なほど若かった。俺と同じ、いや総司くらいだろうか。その眼は生気に満ち溢れ、しっかりと芹沢を見つめていた。
「そうか、それなら話が早い。すまんが少し用立ててくれんか?」
 芹沢がなんの脈絡もなく、ずばりと言った。俺は唖然とした。なにか当てがあってのことなどではなかった。無策。この自信はどこからくるのだろうか。いや、これが芹沢の魅力というものなのだろうか。
「いかほどにございましょう?」
善右衛門は四、五両のはした金とでも思っているのだろう。顔に似合わず、落ち着いた声で答えた。
「三百両、都合つけてくれ」
「三百両にございますか―――」
 さすがの善右衛門も絶句したようだった。無理もないだろう。いきなり現れ、しかも初対面で三百両だ。
 沈黙。芹沢は煙草をふかしながら、善右衛門を見据えていた。出すまでは動かない。そんな威圧感さえあった。これでは押し借りと同じだ。しかし、善右衛門に動じた様子はなく、興味深そうに芹沢をじっと見つめ続けていた。
 芹沢が、灰吹きに灰を落とした。善右衛門が手を添えて、ゆっくりと茶を啜った。張り詰めた空気だ。どこか立ち合いに似ている。俺も思わず茶を啜っていた。その茶は、すでに温くなっていた。
 善右衛門が茶を飲み干し、静かに茶碗を置いた。その間も、芹沢を見つめていた。芹沢を前に、いささかも臆していない。一角の人物だろう。
「百両なら、なんとかしましょう」
長い沈黙のあと、ようやく善右衛門が口を開いた。どうやら腹を決めたらしい。
「三百だ」
芹沢が、すぐに突っぱねた。
「百五十」
 善右衛門も、そこは大坂で名の知れた豪商だ。負けてはいなかった。
 不意に、二人の間の張り詰めた空気が割れた。ほんの一瞬だった。立合いなら、どちらかが倒れているだろう。しかし、それは芹沢の笑い声とともに吹き飛んだ。
「この芹沢を前にして、首を縦に振らなかった者は久しぶりだ。愉快、愉快だ。善右衛門。安心せい。金は肥後守様が保証してくれる」
 また、じっと善右衛門が芹沢を見つめた。計っている。
「わかりました。間をとって二百両ということで、いかがでしょうか?」
 なにか、吹っ切れたように善右衛門が言った。
「こやつめ。なかなかやりおる」
 芹沢が、豪快に笑いながら言った。新見と野口も笑っている。
 保証などあるはずはなかった。お預かりだといっても、いまは名目だけともいえる。これでは名義の無断借用である。
 俺は、近藤に視線を送った。近藤は苦い顔をしていたが、頷いた。ここは芹沢に任せようということか。
「では、一筆願います」
 善右衛門が、筆を用意した。借用書に芹沢が署名し、近藤、新見、そして俺に回ってきた。俺は、芹沢を見た。眼が合った。芹沢が無言で頷いた。
 全員書き終えたあと、芹沢がもう一枚の紙に、なにやら書き出した。かなり長い文面だ。
「これを、水戸藩邸に届けておいてくれ」
「水戸様にございますか?」
「そうだ。公用方に、この芹沢の兄がおる。肥後守様からのご信頼も厚いようだから、上手く取り計らってくれることだろう」
 俺は耳を疑った。善右衛門も、さすがに驚いていた。芹沢が名家の出であることは知っていたが、兄が水戸藩の重役であることまでは知らなかった。
「承知致しました。それにしても、芹沢様もお人が悪い。そのようなことは、はじめに言って下されば、こちらとしてもそれなりのご用意ができましたのに」
 まったくだった。しかし、これで芹沢の自信の根拠がわかった。もしかしたら肥後守御預かりになれたのも、芹沢の存在が大きいのかもしれない。
「大阪随一の豪商、鴻善をちょっと試してみたくなってな」
 芹沢が豪快に笑った。善右衛門も笑っている。
 どうやら金策は成功したようだ。これで、小金に頭を悩ませずに済むだろう。
 数日後、その金で仕立てた単衣の紋付、そして小倉の袴が、大丸呉服店から届いた。さすがに新しいものを着ると、身が引き締まる。これで『身ボロ』などと呼ばれることもないだろう。
「歳。これも着てみろ」
 近藤が浅葱色の服を、俺の前に出して言った。
「なんだいこれは?」
「隊服さ。公務はこれを着て出勤する」
 広げてみた。安手の麻の羽織である。袖口のところが、いくつもの山形に白抜きされていた。
 派手すぎだと思った。こんな羽織を着て、街を巡回するのは御免だった。
「どうだ、なかなかのものだろう?」
 近藤が、袖を通しながら言った。その無邪気さに思わず笑いそうになった。まったく似合っていない。この羽織が似合うのは、若い総司か平助くらいだろう。
 平助は小兵ではあるが、洒落者の江戸っ子で、どんな服も無難に着こなした。それでいて、どこか気品を感じさせるのは、伊勢津藩藤堂和泉守の落胤だからだろうか。
「近藤さん。ちょっと派手すぎやしないかい?」
「目立つくらいでいいのだ」
 羽織までしっかり着込んだ芹沢が現われた。これも似合っていなかった。
「土方君は、歌舞伎の忠臣蔵を観たことがあるか?」
「赤穂義士ですよね」
「そうだ。これは、その四十七士にあやかったものだ」
 どうやら芹沢が考えたものらしい。憧憬、気概。赤穂義士の想いは、たしかに俺たちにも通じるものがある。しかし、派手すぎだ。いまは春だからいいが、一年中着られるものではない。
「こんなものも作ってみた。おい、見せてやれ」
 芹沢の後ろから、新見と平山が見事な旗を持ってきた。
 緋羅紗の地の真ん中に白く『誠』の一字を抜き、その下に羽織と同じような白い山形の模様があった。
「誠―――ですか」
「そうだ。四十七士の誠だ。これを壬生浪士組の旗印とする。どうだ?」
 俺は素直に頷いていた。羽織はいただけなかったが、この旗はなかなかのものだ。芹沢も似合わない羽織で腕を組み、満足気に頷いていた。
「隊服、隊旗ができて資金も豊富にあります。あとは人ですね。芹沢先生」
「その通りだ土方君。これから忙しくなるぞ。その前に祝いだ。この旗を肴に呑もうではないか」
 芹沢が豪快に笑いながら、奥に消えていった。
「誠の旗印―――」
 つぶやいていた。身体が熱くなっている。誠。俺は、この一文字に惹かれていた。それは自分が思っていたよりも、ずっと大きな存在となり意味を持つのかもしれない。
「どうした、歳?」
「いや、なんでもない。俺たちも行こうか、近藤さん」
 もうすぐ宴が始まるだろう。誠の旗印の下で呑むのも悪くないと思った。






予感


 局長―芹沢鴨、近藤勇、新見錦。
 副長―山南敬助、土方歳三。
 助勤―沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、平山五郎、野口健司、平間重助、斎藤一、尾形俊太郎、山崎烝、谷三十郎、松原忠司、安藤早太郎。
 調役並監察―島田魁、川島勝司、林信太郎。
 勘定役並小荷駄役―岸島芳太郎、尾関弥兵衛、河合耆三郎、酒井兵庫。
「これでいいだろう?」
 俺は、一息ついた。
「まあ、いいだろう」
 新見が甲高い声を出し、ようやく頷いた。始めからそうすればいいのだ。そんな顔だ。
 すでにこの部屋には、俺と新見しかいなかった。局長と副長を誰にするかで、俺と新見が揉めたからだ。最初は、芹沢と近藤の二人が局長で、新見と山南と俺の三人が副長だった。その編成に新見が納得しなかった。芹沢一派のほうが上だ。そう直接は言わなかったが、言っているのも同じだった。実際にはそうなのだろう。浪士組でも新見は組頭だった。身分の上ではだ。それでいいとも思った。ただ、最初から馬鹿正直に受け入れてしまうのが癪に障った。つまらないことだと思いつつも、俺はなかなか首を縦に振らないでいた。そして、ただ疲れただけだった。
 それにしても、一癖も二癖もある男たちが、これだけよく集まったものだ。
 美濃大垣脱藩の島田魁は、心形刀流坪内主馬道場の門人で、同門の永倉とは知り合いのようだった。とにかく巨大な男だ。六尺(百八十二センチ)に四十貫(百五十キロ)はありそうで、相撲取りのような体格だった。そして、相撲取りのようによく食べる。先日、壬生浪士組の屯所である八木邸の家主、源之丞から大福の差し入れを貰ったのだが、三十個はあった大福を一人で平らげたのには驚いた。全部食べられるか、賭けをしたのだ。結果は島田の一人勝ちだった。大の甘党で、大福を肴に酒でも呑んでしまいそうだが、どうやら下戸らしい。
 肥後熊本の尾形俊太郎は、いかにも実直そうな男だった。剣の腕が立ち、学識も高いので、近藤のお気に入りとなった。近藤は自分より学識が高いと、すぐ尊敬してしまう。それは近藤の悪い癖だと、俺は思っていた。
壬生浪士組に、学識のある男は少ない。国事をまともに論じられるのは、山南くらいだろうか。俺は、そんなものは必要ないと思っていた。腕っ節が強ければいい。しかし、会津藩の公用方などと話す機会が多くなってくると、そう言ってばかりはいられなくなった。これからもっと公式の場が多くなるだろう。そのような場では、どうしても地が出てしまう。礼儀作法、話し方、もちろんその内容もだ。俺はどう思われてもいいし、変わるつもりもないが、最低でも局長である近藤の側には、山南や尾形などの論客が必要だった。
 大阪の鍼医者の倅であるという山崎烝も、尾形とはまた違った雰囲気で、学識がありそうだった。機転が利くとでもいえばいいのだろうか。そんな面構えをしている。なにか、気だるそうな感じなのだが、その細い目に隙はなかった。剣はそれほど使えないらしい。しかし、棒術は見事なものだった。助勤として前線に立つよりも、調役の方が合っているかもしれない。山崎の従兄弟である林信太郎は調役並監察となっていた。
 その他にも、ちょっと大言の癖はあるが「槍は千石もの」と言われる谷三十郎や、坊主頭で破戒僧のような姿をした松原忠司など、戦国武士を彷彿させる左之助にも劣らない豪傑が揃った。
「決まったのか?」
 俺と新見の議論に飽きて、隣の部屋で呑んでいた芹沢が、障子を少し開け、赤ら顔を覗かせた。編成を決めている途中で、芹沢が一番に席を立ったのだ。芹沢と近藤が局長というのは決まっていた。あとはどうでもよかったのだろう。しばらくは黙って聞いていたが、おもむろに席を立つと、隣の部屋に行ってしまった。
「小せえ―――」
 席を立つとき、芹沢がそう言ったように聞こえた。確かに小さいことだ。新見を局長にしても芹沢、新見の線は変わらない。仮に山南を局長にしても近藤、山南の線も同じだ。そして、新見と山南の下に俺が入る。助勤を統括するのが、俺の役目だと思っていた。近藤も、やれやれというような感じで苦笑いをしながら、芹沢に続いた。山南は、なにか言いたそうな顔だったが、無言で席を立った。山南の言い分はわかっていた。いや、この編成の真の意図を見抜いたのは、山南だけだろう。実際に組を掌握するのは俺だ。厳しくなくてはならない。憎まれることも多くなるだろう。山南では優しすぎる。同じ副長だが、俺の上に山南を置くことで、隊士は局長に近い山南を頼るだろう。人望もある。それでよかった。俺は憎まれるくらいでいいのだ。
「それでは集合させますので、少し経ったら壬生寺までご足労願います。局長」
「うむ」
 赤ら顔の局長の方が、満足気に頷いた。
「俺も行こう」
 立ち上がった近藤に、俺は無言で首を振った。近藤も芹沢と同じ局長なのだ。芹沢と同じように堂々と構えていればいい。


 気合の入った声が聞こえてきた。壬生寺。壬生浪士組は、この境内で剣術などの稽古をしていた。
「出勤ですか、土方さん?」
 平助に見事な胴を決め、面具を取った総司が、俺に気付いた。
「これからは、副長と呼んでもらおうか」
「これは失礼致しました。役がやっと決まったんですね。おめでとうございます。副長殿」
 愛嬌のある笑顔で、総司が恭しく頭を下げた。なにか、からかわれている気分だった。
「全員揃っているな?」
「いるかと思いますよ」
「局長から、皆に話があるから、稽古を中断して集めてくれ」
「わかりました、副長殿」
 総司が、また恭しく頭を下げ、くるりと後ろを向くと、口に手を添え大声を出した。
「皆さーん。副長殿がお呼びですー。集まって下さーい」
 それはひどく間延びした声で、皆の注目を引いた。その視線はなぜか総司ではなく、後ろにいる俺に集まった。やはり総司にはかなわない。まったく、俺を間抜けな副長殿にしやがった。
「土方さん。いや、副長殿。お呼びでありますか?」
 左之助が、にやりと笑って言った。このように、すぐ調子に乗る奴が出てくる。総司と左之助が、にやにやしているのを横目に、俺は咳払いをしてから言った。
「全員整列!」
 隊士たちが、すばやく横二列に並んだ。俺は頷いてみせた。計ったかのように、芹沢が近藤、新見、山南を従えて現われた。このような呼吸はさすがだった。機を逃さない。近くで見ていたのではないかと思えるくらいだ。しかも、すでに酔っ払いの顔ではなかった。
 芹沢は、ゆっくりと隊士を見回し一度頷くと、低いよく通る声で言った。
「本日、各役職が決まったので申し渡す。山南君、よろしく」
 山南が一礼して、一歩前に出た。そして一人ずつ、名前と役職を言い渡していった。
 ようやく組らしくなってきた。壬生浪士組。隊服、隊旗、そして人。編成もどうにか決まった。資金も芹沢の手紙のおかげか、会津藩から毎月支給されることになった。
 自主的ではあるが、市中見廻りも始めている。自主なので不逞浪士がいても、捕縛や切捨てなどの権利はないが、事後承諾で、会津藩や京都所司代である長岡藩に引き渡していた。暗黙の了解というものが確立されつつあった。
 取り締まりだけが目的ではない。見廻りには、この壬生浪士組の名を広めるという役割もあった。壬生村周辺だけは、なんとか名が浸透してきた。しかし、そこから一歩出ると、まだまだ知られていなかった。だから、あの派手なダンダラ羽織も着なくてはならなかった。あの羽織は、いやでも人目を引く。たぶん、芹沢の思惑通りなのだろう。目立つくらいがいい。芹沢は、そう言っていた。俺は、羽織に袖を通したことがなかった。やはり、この羽織だけは御免だった。出勤のときも、肩から羽織るだけにした。それが逆に、人目を引くようになった。
「洒落てますねえ。それが土方流羽織の着方ってやつですか?」
 総司に、さんざん冷やかされたが、それでも俺は羽織に袖を通さなかった。もう意地のようなものだ。
 見廻りの合間は、剣術などの稽古をしたり、国事を論じたりしていた。剣術は総司、永倉、斎藤などが指導をして、国事は山南や尾形などに任せられる。順調にいっている。そう思う。しかし、なぜか得体の知れない不安に襲われることがあった。焦燥。俺の知らないところ、俺の手の届かないところでなにかが動いている。それは、この京に入ったときからずっと感じていることだ。それは少しずつだが見えはじめていた。
 文久三年三月四日、将軍家茂公が無事に上洛を果たした。そして、早くも十一日には、孝明天皇の加茂神社への行幸が実現された。攘夷機運を高めるためである。在位中である天皇の行幸は、約二百二十年ぶりの異例のことだと聞いた。この行幸に将軍も、在京の諸大名を率いて参加した。しかし、それはまるで、天皇が将軍と諸大名を率いているかのようであった。
 なにか大きなものが揺れた。予感。いや、はっきりとわかっていた。ただ、考えたくなかっただけだ。この行幸で幕府の衰えを、誰もがはっきりと感じたはずだ。
 続いて四月十一日には、石清水八幡宮への行幸が実現したが、家茂公は病ということで参加しなかった。加茂行幸の二の舞を避けたのだろう。もっと恐ろしいことが起こるような気もした。精神的な負担も大きいはずだ。一時期、仮病という噂が頻繁に流れたが、俺は病というのは嘘ではないと思っていた。
 尊攘の志士。すべては、そう称する不逞浪士たちに踊らされていた。幕府も朝廷もだ。
 そして、ついに家茂公は、朝廷の圧力に屈し、四月二十日に、攘夷期限を五月十日にすると約束して大阪に下った。このとき壬生浪士組も将軍警護の列に加わった。初の公式な出勤といっていいだろう。俺たちにとっては、晴れの舞台になるはずだった。しかし、それは非常に情けないものであった。いま思い出しても、どうしようもない黒い怒りが、腹の底で疼いた。家茂公は朝廷、そして尊攘の志士から逃げるようにして大阪に下ったのである。敗軍の将。まさに、逃げ落ちる軍のようであった。俺の怒りは、将軍を追いやった尊攘の志士だけに向けられたわけではない。将軍そのものにも向いた。歯痒いではないか。公武が一体となり、攘夷を行うための上洛だったはずだ。清河が言っていた。朝命より、幕命の方が重いとでもいうのかと。そんなことを言っている時ではなかった。難しいことはわからない。時勢、幕府の内情なども知りはしない。知りたくもない。しかし、上洛したからには、攘夷を行うと誰でも思うだろう。たとえそれが、尊攘の志士の思惑であろうと、朝廷の圧力であろうとだ。俺に語れる思想などないが、少なくとも壬生浪士組は、そのために結成された。俺たちを先鋒にして、堂々と攘夷を実行すればいいのだ。これでは、朝廷や尊攘の志士たちのご機嫌を取るために上洛したと言われても仕方ないだろう。本当に歯痒かった。こんなに近くにいながら、なにもできない自分自身も。
 攘夷期限である五月十日、幕府による攘夷は行なわれなかった。代わりに長州藩が、攘夷を断行した。外国船を砲撃したらしい。世間は、長州藩の勇気に喝采を送った。そして、幕府の軟弱さを非難した。尊攘の志士の後ろには、いつも長州藩が見え隠れしていた。それが、颯爽と表舞台に立ったのだ。
なにか起ころうとしていた。いや、変わろうとしているか。それは、とてつもなく大きなものかもしれない。そしてそれは、俺にとって気に入らないことになると、俺の中のなにかが感じていた。
 山南の言葉が終わった。一礼して、一歩下がる。芹沢が頷くと、低いよく通る声で話し出した。時勢、そして心構え。やはり、場馴れしている。近藤では、こうはいかないだろう。局長としての自覚を、早く持ってもらわねばならなかった。
いつか来る、なにかのために。






 

乱闘


 うだるような暑さだった。
 江戸の暑さとは、まったく違う。風がないのだ。なにより、蒸す。京は、もっと暑いのだろう。
 俺たちは、大阪にいた。八軒家の船宿、京屋忠兵衛。ここが大阪での宿だった。
 家茂公が上洛してからというもの、京の警護はかなり強化されたので、治安は表面上だがよくなった。その代わりに、大阪の治安が悪化したようだった。どうやら、不逞浪士たちが、この大阪に流れたらしい。『天下浪士』と名乗る輩が横行し、辻斬りを繰り返しているようだった。
 それで壬生浪士組に、白羽の矢が立ったわけだ。大阪の治安回復という役目である。
 京を新見に任せ、芹沢、近藤、山南、総司、永倉、斎藤、平山、野口、井上、島田、そして俺の十一人で、大阪に来ていた。
 いつまでも、こんな小さな仕事ばかりやってはいられなかった。確かに壬生浪士組の役目は、将軍警護と治安回復にある。それは公武が合体し、攘夷を速やかに行なうという前提の上にあったはずだ。しかし幕府は、五月十日の期限日になっても、攘夷を実行しなかった。
 考えるのをやめた。
 暑い上に、こんなことを考えて苛立つのは、馬鹿げている。
 さきほどから島田が、ひっきりなしに水を飲んでいた。額からは、汗が滝のように流れている。無駄なことだ。いくら飲んでも、すべて汗で出てしまう。そして、余計に乾く。苦しくなるだけだ。
 こんなときは、日陰でじっとしているのが一番なのだ。
 俺は、煙草に火をつけた。一回だけ吹かす。煙管から、細い煙がまっすぐ上った。煙を見つめる。煙が少し揺らいだ。風。あるかなきかだ。風鈴さえ鳴りはしない。しかし俺は、その風を身体で感じていた。ゆっくりと、優しく撫でられるような感覚。風の流れに集中することで、余計なことを考えずに済む。そんなものだ。
「まったく、なんという暑さだ。これでは浪士どもも出てこんだろう」
 低いが、よく通る声が聞こえてきた。見廻りに出ていた、芹沢たちが帰ってきたようだ。
「お疲れさまです。芹沢局長」
「うむ。こっちはまったくだったが、そっちはどうだった?」
「浪士を、二人捕らえました」
「それは、ご苦労であったな。皆、無事か?」
「ええ。捕らえるとき少し暴れましたが、かすり傷一つありませんよ」
「それはなによりだ。それで近藤君は奉行所かね?」
「はい。井上さんと一緒に行っています」
「そうか。あまりにも暑いので、涼みにでも行こうかと話していたのだが、遅くなるだろうな」
「たぶん、帰ってくるのは夜になるかと思います。ですが、奉行所に使いを走らせておけばいいでしょう。ここは暑すぎる」
「まったくだな。それでは涼みに行くか」
 芹沢が、豪快に笑った。
 本当は、芹沢を奉行所に行かせたくなかっただけだ。俺は近藤に、局長としての自覚を持ってもらいたかった。名を広めると同時に、場に慣れてもらう。それには場数を踏むことだ。だから、山南が同行しようとしたのも止め、源さんに付き添ってもらった。源さんには、よく含ませておいた。言わなくても、源さんのことだから、しっかりとやってくれるだろう。近藤との付き合いは、俺よりも長い。なにより気が利く。周りをよく見て、細かい配慮ができる。
 俺もそうだが、近藤も源さんに学ぶことは多いはずだ。


 夕涼み出た。堂島川からの舟遊びだ。
「きれいな夕日ですねえ」
 真っ赤な夕日が、落ちようとしていた。
 総司の瞳も、夕日に照らされて輝いていた。純粋な子供の瞳だった。
「ああ、そうだな」
 俺は、総司から眼を逸らした。
「あまり好きではないみたいですね」
 夕日が嫌いだった。真っ赤な夕日は、生々しすぎるのだ。血の色。川の色も照らされて、真紅に染まっていた。沈んでいく夕日には、なにか儚さも感じる。
「詩心をくすぐりそうな夕日ですが、豊玉先生も暑さにはかなわないようですね」
 総司が笑った。
「よせよ」
 いつもの無邪気な笑顔も、なにか儚く感じた。どうやら総司の言うとおり、暑さにやられたらしい。
 豊玉。これが、俺の俳号であった。俺の祖父は三日月亭石巴と号した、少しは名の知れた俳人だった。長兄の為次郎兄さんも、閑山亭石翠と号して名吟を作っていた。しかし、俺に詩心があるわけではなかった。自分でも、それはよくわかっていた。ただ、心の中で暴れているなにかを、どこかにぶつけたかった。叫び、のようなものだ。俺は、それを俳句にぶつけた。上手いわけがない。
「斎藤さん、大丈夫ですか?」
 総司の心配そうな声が、後ろから聞こえた。
 俺は、斎藤を見た。普段から青白い顔が、日陰で余計に青白く感じられた。こっちは本当に暑さにやられたらしい。いや、舟酔いというやつか。
「剣では並ぶもののない斎藤も、舟には勝てないか」
 斎藤が、少し笑ったような気がした。
「土方さん。こんなときに冗談を言っている場合ではないでしょう」
「斎藤は、たぶん舟に酔ったのだろう。舟酔いってのは厄介なものでな。他人がどうこうできるもんじゃないんだ。ちょっと気を紛らわせてやるか、放っておくしかない」
「そんなもんなんですかねえ」
「そんなものだ」
 俺はまた、斎藤の方に顔を向けた。心なしか、息が荒くなっているような気がする。
「あと少しで鍋島岸に着く。そうしたら、常安橋の会所で休むといい」
「お気遣い感謝します」
 俺はかすかに頷いた。そして、安心した。斎藤も人の子であった。舟に酔って、青い顔をしている。
隙のない男だった。無口で無関心。心にも壁があった。出会ったときには、気配すらなかったのだ。
人間に媚びない猫によく似ていた。そして、どこか俺にも似ている。それは最初から感じていたことだ。場所を求めている。そして、まだ場所を探している。
 気まぐれな猫のように。


 どうやら、道に迷ってしまったらしい。
 常安橋に会所はあるのだが、蜆橋まで来てしまった。京の道は覚えやすいが、大阪は裏道が多く、不案内であった。
「ここまできたら、登楼(のぼ)って斎藤の介抱をしたほうが早いですね」
「そうだな。住吉楼でいいだろう。それまで我慢してくれ」
 芹沢が言うと、斎藤が青白い顔で頷いた。横になるだけでも、少しは楽になるはずだ。
 蜆橋。中央に、巨大な力士が一人歩いていた。それが、先頭を歩いていた芹沢とぶつかりそうになった。
「そこを退いてくれぬか」
 芹沢が、低いよく通る声で力士に言った。
「そっちこそ去ね。この浪人風情が」
 涼みなので、単衣に脇差だけという軽装だった。どうやら見くびられているらしい。
「どうしても、そこを退かぬか?」
 芹沢が腹の底から声を出した。くぐもったような声になり、なにを言っているのかわからなくなるが、脅しには効果がある。
 力士が、一瞬退いた。だが、どうにか踏みとどまったようだ。
 そのとき、さっと平山が、芹沢の前に出た。すでに脇差へ手をかけている。芹沢の影のような男だった。芹沢の用心棒。そんな感じだ。
 緊張が走った。平山が、威嚇の殺気を当てた。本気ではない。芹沢の許可なしには動かないだろう。芹沢の犬。そんな気もする。
 芹沢は、そんな平山の肩に手を乗せ、首を横に振った。
「平山。こんなのは余興だよ。余興」
 芹沢がそう言うと、平山は素直に下がった。
「この芹沢が相手をしてやろう。お互い得物はなしだ。それでいいだろう?」
 芹沢が、豪快に笑った。その笑いが、力士に火をつけたようだ。みるみる顔が赤くなっている。
 力士が、四股を踏み始めた。橋に、足を叩きつけている。威勢のいい音だ。威嚇のつもりだろうか。しかし、芹沢は興味なさそうな顔で、ただ突っ立っていた。構えもしない。
 低い姿勢になった。芹沢を睨みつけている。相撲では、お互いに見合うところだろう。それでも芹沢は、ただ突っ立っていた。力士さえ見ていないような感じだ。
 力士が、ちょんと手を付いた。低い前傾姿勢。凄まじい勢いで、巨大な肉の塊が、芹沢に突っ込んでいった。
 芹沢が動いたような気がした。そのときすでに、力士は後ろへ吹っ飛んでいた。下から突き上げた芹沢の膝が、肉の塊の顔面を貫いていた。
 大きな音がした。肉の潰れるような音。四股の比ではなかった。大の字、白眼。すっかり伸びていた。本当に、巨大な肉の塊そのものであった。
「登楼る前の、いい余興になったな」
 芹沢が、また豪快に笑った。息一つ、乱していなかった。
 そのまま、迷うことなく住吉楼に登楼り、斎藤を介抱した。
 ほどなく、宴が始まった。近藤は奉行所に行き、新見は京で留守を任せてあるので、芹沢の隣には、山南と俺が座った。隣で呑むのは初めてだった。俺は杯を口に運びながら、視線を芹沢に向けた。
 芹沢は、芸妓に勧められるまま酒を呑んでいた。酌をするだけ呑んでしまう。そんな男もいる。そして、大して酔わないのだが、明るく酔った振りをする。芹沢は、そんな男なのかもしれない。
 芸妓を相手に冗談を飛ばし、豪快に笑ったりしているが、なぜか、その背中は暗かった。本来は、暗い男なのかもしれない。それを、作った明るさと豪快さで、無理やり包み込んでしまっている。呑み方もそうだ。浴びるように呑む。それは一見、豪快なのだが、俺には自分を壊しているかのように見えた。身体、そして心をも壊している。痛々しかった。その先に、なにが見えるのだろうか。希望、あるいは絶望。求めているのかもしれない。救い。いや、懺悔か。酒瓶に懺悔している。そして溺れる。
 不意に、外が騒がしくなった。階下で女の悲鳴も聞こえた。
「何事だ?」
 芹沢が、窓際に座っている平山に顔を向けた。平山が頷き、障子を開けて、通りを窺った。外から、野太い怒声が聞こえてきた。
「どうやら、夕の相撲取りがおいでのようですぜ。それも、ここで夏場所でも開けそうな団体さんだ」
 平山が振り返り、不気味に笑った。
「もてる男はつらいなあ、平山。あまり暑苦しいのは御免だが」
「まったくでさあ」
 二人が顔を見合わせて笑った。俺は構わず、杯を口に運んだ。酒はあまり呑めないので、銘柄など知りはしないが、土臭い酒だった。俺が呑むといっても、口を湿らす程度だ。
「どれ。せっかくきて頂いたのだから、それ相応のおもてなしをしてやらんとな」
 芹沢が立ち上がり、窓際に立った。その瞬間、野太い怒声が、また沸き上がった。平山が言うとおり、かなりの人数なのだろう。
「色街で男の怒鳴り声とは、まったく無粋だな。ここは、お前らが上がれる土俵ではないぞ」
 外に向かって、芹沢が低いよく通る声で言った。火に油を注いでいる。返ってきたのは、やはり野太い怒声であった。
「聞く耳も持たぬか。なら覚悟しろ。したたかに酔っているので、手加減はできんぞ」
 言うやいなや、芹沢は飛んでいた。飛ぶ瞬間、眼が合った。にやりと笑っていた。ここは二階である。下手をすれば、怪我だけではすまない。平山も芹沢に続き、不気味に笑いながら飛んでいた。
 野口が立ち上がった。俺の方を見ている。いや、一同の視線が俺に集まった。俺は、土臭い酒を少し舐めてから、杯を置いた。
 統率は確立されつつあった。命令系統は一つでいい。俺だ。それが複数あると、混乱を招くだけである。山南も黙っていた。よくわかっているはずだ。
 俺は、一同を見回し頷いた。
「永倉、野口、島田の三人は階下に降り、山南副長の指示に従え。俺と沖田はここで待機。頃合を見計らって局長に続く」
 一同が頷いた。
「これでいいかな?」
 俺は、山南に同意を求めた。山南の眼が一瞬、光を帯びた。それから、いつものにこやかな表情でゆっくりと頷くと、部屋を出た。俺の考えは伝わったはずだ。
「暑いのに、わざわざ暑苦しい中に飛び込むなんて、私は嫌だなあ」
 総司が、通りを見下ろしながら言った。
 通りでは、芹沢と平山がお互いに背を向け、力士と向き合っていた。弧を描くように囲まれている。五十人はいるだろうか。それぞれが長い棒を持って、芹沢と平山を牽制していた。
「まったくだな。女の蒲団に飛び込むのとは、わけが違う」
「それになら、私も飛び込みたいですね」
 いつの間にか、斎藤が後ろで立っていた。口元だけで笑っている。斎藤が、この手の洒落に乗ってきたことに、俺は戸惑った。
「気分はどうだ?」
「まだ優れませんが、こういうときは気を紛らわせたほうがいいって、副長は言いましたよね」
「そうだったな」
 俺は笑ってみせた。気を紛らせるために、洒落に乗ってみた。そう受け取った。
 そこで俺は、斎藤が猫のように足音も立てず、近づいてきたことにようやく気付いた。
「お前は、本当に猫のようだな」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
 やはり、いつもの斎藤だった。まだまだ固い。
「さて、そろそろ暑苦しい中に飛び込むか。局長が苦戦しておられる」
 本格的な争いは、まだ起きていなかったが、弧がだんだんと小さくなってきている。いつ始まるかわからない状況だった。二対五十だ。さすがの芹沢も勝てる相手ではない。
「行くぞ!」
 三人で、一斉に飛び降りた。弧の内側。着地。少し足が痺れたが、飛び込んでみれば簡単なものであった。
「芹沢局長、お助けに上がりました」
 俺は立ち上がり、身構えた。
「土方君か。この中に入ってきてどうするのだ」
「すぐにわかりますよ」
 俺たちが飛び込んだことで、弧が乱れ始めた。そして、すべての力士の意識が、弧の中心である俺たちに集まった。外は無防備。
 次の瞬間、四方から野太い悲鳴が上がった。山南の指示だろう。上出来だ。完全に弧が乱れた。後ろにも、意識が拡散する。内と外からの同時攻撃。こっちの人数も把握できないはずだ。狼狽がみてとれた。
「そういうことか」
 芹沢が、にやりと笑った。
「散れ!」
 芹沢の合図とともに、俺たちは駆け出した。あとは乱戦だった。九対五十。まともとにやり合うのは無謀だ。このようなときは、かく乱が一番だ。一人一人が動き回り、徹底的にかき回す。
 俺は一人の力士に、肩からの体当たりをお見舞いした。軽く弾き飛ばされた。やはり、力押しでは無理のようだ。
 横から棒。後ろに跳んでかわす。白い残像を残し、地面に叩きつけられた。棒が戻る前に、俺は力士の懐に入った。眼が合う。俺は少し笑い、腰を入れて力士の顎に拳を叩きつけた。白眼。力士が、膝から崩れ落ちた。芹沢のように、吹っ飛ばすことはできそうもない。
 背後を取られた。羽交い絞め。もの凄い力だ。首に太い腕が入ってきた。息が止まった。絞めつけられる。血が逆流してきた。俺は、自分の足を、勢いよく上に投げた。その反動を利用して、体勢を前にもってくる。しゃがみ込む。そして、足を跳ぶように伸ばす。叫び。俺の叫び声だ。絞められたまま、後ろに全体重を預けた。視界が回った。地面。背中に衝撃。二人して倒れた。太い腕が緩んだ。噛みついた。野太い悲鳴。上を見た。夜空。白い残像。振り下ろされていた。棒。俺は身体を回転させ、横に転がった。野太い悲鳴とともに、なにかが砕けるような嫌な音がした。
 俺は立ち上がった。思いっきり息を吸った。吐く。細かく呼吸を繰り返す。息が荒い。
 倒れた力士が、頭から血を流していた。同士討ちだろう。棒を振り下ろした力士と眼が合った。その眼は、怒りに満ちていた。お前が悪い。
 力士の叫び。棒を振り回して突っ込んできた。右、左。俺は上体だけで、棒をかわした。股が、がら空きだった。力士の股間を蹴り上げた。二回、三回。低い呻き声。力士が腰を折った。俺は首筋に、体重を乗せた肘を叩き込んだ。
「副長っ」
 瞬間、俺は脇差を抜き、振り返った。棒。受けきれなかった。左肩に激痛が走った。よろける。肩膝をついた。力士が体勢を低くして、突っ込んでくる。
 黒い影が、俺の視界を遮った。羽織がひるがえる。斎藤。低く、鋭い気合。白刃とともに、影が力士に向かって舞い上がった。それは、白い翼を得た、黒い鳥のようであった。飛び立つ鳥。その白く光る翼を羽ばたかせるたびに、夜空に数枚の赤い羽が舞った。血だった。
 羽ばたいている。いや、斬り刻んでいる。いやな叫び声。力士が、みるみる血だるまになっていった。血の滴った肉の塊。やめろ。言葉にならなかった。赤い羽根が飛び散る。やりすぎだ。
「斎藤っ!」
 俺は叫んでいた。斎藤の身体が、びくんと波を打ち、止まった。俺は立ち上がった。斎藤の肩に手を置く。斎藤が、ゆっくりと振り返った。その眼は、異様な光を帯びていた。
「もういいだろう」
 血だるまの力士が、ゆっくりと倒れた。
「殺しては―――いませんよ」
 それは、恐ろしく低い声だった。
 俺は、倒れた力士に眼を向けた。腹が上下に動いていた。息はしている。気絶。しかし、おびただしい量の出血だった。あまりもたないだろう。いや、よく見ると傷が浅い。すでに血が止まっているところもある。薄皮だけを斬っている。血を飛び散らせるためだけに斬った。そんな傷だ。
 斬り刻まれる恐怖。そして、派手に飛び散る自分の血。普通の人間なら簡単に気絶するだろう。あそこまでやらなくてもいいはずだ。
 斎藤が、深く息を吐いた。そして、口元だけで笑った。その笑みが、どういう意味かわかららず、俺はただ曖昧に頷いてみせた。
 雷が落ちたような音がした。近い。腹の底に、ビリビリと轟く雷鳴。違う。咆哮だ。雷鳴のような叫び。空が落ちてきたような重圧がかかる。殺気などという、生ぬるいものではなかった。気を抜くと、身体が押し潰されそうになる。そんな咆哮だ。
 俺の中のなにかが目を覚ました。いつもは俺の怒りに呼応するように、うごめくだけだった。それが、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。生まれたばかりの動物が、必死で立ち上がろうとするように。この咆哮と共鳴したというのか。俺は、咆哮の主を探した。
 すべてが止まっていた。脇差を風車のように回して、牽制していた総司。三人の力士に囲まれながらも、奮戦していた永倉。力士とまともに組み合い、力でねじ伏せていた島田。力士たち。時間すら止まっているかのようだった。そしてすべてが、この重圧に耐えながら、同じ方向に顔を向けていた。落雷した場所。
 凄まじい光景だった。咆哮の主。芹沢。自分よりも、はるかに大きな力士を、頭上へ持ち上げていた。足元には、無数の肉の残骸。肉の山だった。
 咆哮。力士を、ぶん投げた。山がさらに大きくなった。
 一瞬の静寂。そして、また咆哮。天に向かって咆えていた。
 野太い叫び声が聞こえた。恐怖に囚われた悲鳴だった。次の瞬間、堰を切ったように力士たちが逃げ出した。つまずいて倒れる者。助けを求める者。悲鳴と怒声が交錯した。
 芹沢は咆え続けていた。まるで獣のようであった。自分の檻の中から、獣を解き放ってしまった男。
 俺の中のなにかが、低い唸り声を上げた。共鳴している。同じ獣だった。






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