散華
〜小説・土方歳三〜


第一章 浪士組




入京


 すべてが華やかに見えた。
 行き交う人々、その言葉。建物、草木、川、匂いまでも。
「気に入らねえ」
 俺は心の中で舌打ちした。
 すべてが上っ面だけに見える。虚飾。なにか得体の知れないものを、無理やり押し込んでしまっている。そんな気がした。
 京。
 この街を、好きになれそうもなかった。
「京に来てまで仏頂面ですか。土方さん?」
 総司が、俺の顔を覗き込みながら言った。
「うるせえ。俺は生まれつき、こういう顔なんだよ」
「そうですか? 気に入らないって顔に書いてありますよ。なにがお気に召さないのでしょうかねえ。こんなに美しい街並みなのに」
 辺りを見回しながら、総司がのんびりとした口調で言った。
「―――」
 俺は黙って、総司を睨みつけた。
 総司は、臆する風もなく笑っている。人を惹きつける愛嬌のある笑顔。日焼けした健康そうな顔からは、真っ白い歯がこぼれていた。その笑みにつられそうになり、俺は思わず横を向いた。
「おやおや。土方先生はご機嫌斜めだ。退散、退散と」
 総司は笑いながら、前を歩いている山南敬助の隣に逃げた。
 俺は、軽く肩をすくめた。どうも総司といると調子が狂う。無邪気。いや、邪気はあるのだが、本人にはまったく悪気がないのだから始末が悪い。まるで子供だ。それでいて物分りのいいところなどは、妙に大人びていた。
 俺は沖田総司という男を、あまり理解していないのかもしれない。しかし総司は、俺のことを理解している数少ない人間の一人なのだろう。顔を見ただけで、俺がなにを考えているのか、わかっているようだ。
 総司が山南と話しながら、こっちを振り返っては笑っていた。どうせ、俺がふて腐れているという話でもしているのだろう。
 この二人が並んで歩いていると、親子のように見えることがある。
 山南は、俺の二つ上で三十一歳。総司が二十二歳。九歳しか違わないのだが、山南が総司に向ける眼差しは、ちょっと悪戯な子供をなだめているようだし、総司は父親に甘えるような眼で山南を見ていた。雰囲気。親子に見えるのは、山南が落ちつきすぎていることもあるのだろう。
 また総司が、俺を見て笑った。これ以上、話の種にされてはかなわなかった。
 俺は総司から離れるため、列の一番後ろをゆっくりと歩いた。
 この隊列を傍から見る。道中、何度もそうやって見てきた。
 浪士組。
 ことの起こりは文久二年六月十日、左衛門督に任じられた大原重徳が江戸城に入り「孝明天皇の叡慮は攘夷につき、将軍家茂公は速やかに上洛せよ」との勅諭を伝達したことから始まるのだろう。
 浪士組は、その公武合体の攘夷祈願のため、文久三年三月上旬に上洛される家茂公の先陣として、不逞浪士はびこる京の治安回復、そして将軍警護のために幕府が徴募した組である。
 その条件とは、尽忠報国の志を持ち、公正無二、身体強健、気力荘厳の者、貴賎、老少にとらわれないというものだった。
 身分にとらわれない実力主義。このことが伝わってきたときの近藤の表情といったらなかった。
 武州多摩郡。俺と近藤はその天領の地に生まれた。物心ついたときには、すでに将軍というものが絶対の存在となっていた。
 たとえ百姓でも、徳川の変事あるときは、鋤鍬を持って馳せ参じる。そういう土地だ。
 とくに近藤は情にもろい。その眼はすでに潤んでいた。一介の百姓が、将軍様のために働ける。そんな純粋な感動だったに違いない。
 また、なにより近藤の心を揺さぶったのは、文武両道の者には百二十石から二百石まで、一通りの者には五十石まで下されるというものだろう。要するに、腕次第では禄をもって幕府に召抱えられる。いずれは直参になれるかもしれない。武士というものに憧れを抱いている近藤にとって、これほど名誉なことはないはずだった。
「歳。やるか」
 近藤は俺に同意を求めたのではなく、自分の決意として言ったようだった。その眼は遥か遠くを見ていた。
「ああ」
 俺も自分の決意として頷いた。
 将軍警護、直参。そんなことは、俺にはどうでもいいことだった。しかし百姓で、そして天然理心流という田舎道場で一生を終わらせる気はなかった。どこかで自分の力を試してみたい。叫びたいくらいの衝動が襲ってくることがあった。欲していた。自分の中のなにかを解き放つ場所。探していた。自分のいるべき本当の場所。
 文久三年二月八日、浪士組の徴募に応じて、二百四十名もの人物が小石川伝通院に集まった。
 それはまさしく玉石混交で、紋付羽織から股引半纏、僧服まで混じっていた。得物も太刀、槍、弓など様々だった。
「近藤さん。これは―――」
 俺は言葉を失った。近藤も唸っている。
 いくら身分にとらわれない実力主義の募集だとしても、これはひどかった。有象無象。中には博徒までいるようだった。
 しかし自分の姿を見て、俺は思わず苦笑した。百姓の四男が、あり合わせのものでどうにか体裁は整えているが、傍から見れば奴らと同じだろう。得物だってそうだ。腰に差している刀は、天然理心流の数少ない支援者である小島鹿之助から拝借したものだった。無銘のちょっとした業物。大して変わりはしないはずだ。玉石だったら、間違いなく石に入る。
 だが、剣の腕なら玉に入る自信はあった。道中、つぶさに観察して、それは確信へと変わった。腕が立つのは、ほんの一握りだ。
 まずは浪士組取締役の山岡鉄太郎だろう。講武所の鬼鉄と呼ばれ、その名は天然理心流の田舎道場にも聞こえてきていた。筋肉質の大きな身体の男だ。その大きさは、ほとんどの者の頭一つ出ていた。額が広く、猪首。一見して、人を威圧するような容姿だが、その眼は驚くほど澄んでいた。
 次に芹沢鴨。水戸浪人で、これも山岡と並ぶ巨漢だ。剣は神道無念流皆伝。もとは天狗党だったという噂だ。天狗党といえば知らない者はいない。この浪士組の中で、一番華々しい経歴の持ち主といっていいだろう。結成当初は三番組頭だったのだが、そのようなことで誰もが一目置くようになり、最終的には取締役付となって幅を利かせていた。同志にも四番組頭の新見錦や平山五郎など、なかなかの使い手がいるようだった。
 最後に清河八郎。北辰一刀流目録で、晶平黌でも学んだ文武両道の持ち主だ。自分で『経学文章剣指南所』という欲張った塾を開き、一時期噂になった。浪士組の発起人として囁かれている男でもある。しかし、組には加わっておらず、特定の役職にも就いていないようで、列の前後を悠然と歩いていた。高下駄を履き、鉄扇片手に人を値踏みしながら歩くその様は、どこか不気味だった。
「土方さん、大変です!」
 随分と前を歩いていた総司が、走って戻ってきた。その顔からは、笑みが消えていた。
「どうした?」
「あれを見てください」
 総司が指したのは、三条大橋下の河原だった。人だかりができている。
「なんの騒ぎだ?」
「あそこに首が三つ晒されているのですが、どうもおかしいんですよ」
 俺は怪訝な眼を総司に向けた。奥州白河藩の江戸下屋敷に生まれた、歯切れのいい江戸っ子である。このような遠まわしな言い方は、総司らしくなかった。そして大抵こういうときは、ろくなことがなかった。
「あれは見なきゃわかりません。とにかく来てください」
 晒し首。流行の天誅騒ぎなら、総司がこんな回りくどいことを言うはずはなかった。いやな予感がした。俺は総司に連れられるまま、人垣を押し分けて、晒し首の前に立った。
 三つの晒し首に位牌が置いてある。晒し首の眼を見た。当然、生気はなかったが、前にあったとも思えなかった。人の顔ではあるが、人間の顔ではない。木像。
「どうです? おかしいでしょう。木像の晒し首だなんて」
「これは―――」
 俺は言葉を切った。そして後ろの立札を読んだ。
―――逆賊足利尊氏、義詮、義満。鎌倉以来の逆臣を誅戮すべく、この三賊巨魁の醜像に天誅を加えるものなり。
 鮮やかな筆跡で、そう書かれてあった。
 俺は拳を握っていた。なにかが腹の中でうごめいた。感情。怒りに似たなにか。
 これは足利将軍を、上洛する家茂公に擬したものだった。陰険な警告。
 将軍警護、治安回復。そんなものはどうでもいいはずだった。俺の求める居場所が見つかればいい。少なくとも自分ではそう思い込んでいた。だが、違ったようだ。それは天領の地に生まれたからかもしれない。絶対の存在である将軍。子供のころから聞かされていた。
 許せるものではなかった。
「土方さん?」
 俺の異変に気づいて、総司が心配そうな顔を向けた。
「ああ」
 俺は大丈夫だと頷き、ゆっくりと息を吸い、吐いた。心を落ち着かせる。本当にそうなのか。ふと、自分の心に疑問を抱いた。
 これは俺たちへの挑戦状とも受け取れないか。だから俺は、怒りを感じている。
 振り返った。人垣。俺が進むと、自然に道が開いた。自分がどんな顔をしているのかわからなかったが、おそらく総司が言う仏頂面なのだろう。
 また、なにかがうごめいた。腹の中で吼えている。どうしようもなかった。
「土方さん」
 総司の声が後ろから聞こえたが、無視して歩き続けた。
「気に入らねえ」
 呟いていた。
 虚飾に包まれた、得体の知れないものが、少しだけ見えた気がした。






黒幕


 障子を開けて、中庭を見渡した。
 美しく形作られた木々、五つほどの燈籠、中井戸。風、そして匂い。
 俺はゆっくりと息を吸った。
「これは名庭だな。歳」
 縁側に座りながら近藤が言った。俺は軽く頷いて、隣に座った。
 近藤は腕を組み、なにかわかったような感じで、しきりに頷いている。しかし、それを表現する言葉が見つからないのだろう。
 たしかに名庭だと思った。これほどの庭は見たことがない。虚飾ではなかった。美しさの中に、なにか素朴なものを感じる。それは家主の人柄というものなのだろうか。嫌いではなかった。
 壬生村、八木源之丞邸。ここが、俺たちに割り当てられた宿だった。別室には芹沢一派もいる。
 浪士組の本部は、この八木邸の斜め向かいにある新徳寺で、取締役である山岡鉄太郎、そして清河八郎などがいた。取扱役の鵜殿鳩翁は隣の南部亀二郎邸、その他は中村邸、四手井邸、更雀寺などに分宿していた。
「ははあ。これは見事な庭ですなあ」
 原田左之助がのっそりと縁側に顔を出し、腹を擦りながら興味なさそうに言った。
 伊予松山藩の中間の生まれで、試衛館道場の食客だった男だ。腹に刀傷がある。それは、国許の武士と喧嘩になり「切腹の作法も知らないのか」と侮辱され、その場で切腹しようしたときにできたらしい。付いたあだ名が『死に損ねの左之助』だ。
「それより飯はまだですかね?」
 刀傷のある腹を擦りながら、左之助が暢気にそう言った。
「原田さんは、花より団子ですからね」
 すかさず総司が引き受けて、一同を笑わせた。
 夕になり、ようやく左之助が待っていた膳部が運ばれてきた。
「これは美味いな」
 感嘆の声を上げたのは近藤である。しかし、近藤には味覚というものがほとんどない。すべてのものを美味く食べられる。それは、俺にとって羨ましいことだった。
「まさしく王城の味です」
 近藤に頷いたのは山南だった。左之助も夢中になってかっ込んでいる。
 俺は三人の様子を見ながら、漬物に箸をつけた。京名物の千枚漬け、すぐき漬け、しば漬けというものらしい。
 噛む前に、奇妙な味が口の中に広がった。腐っているのかもしれない。千枚漬けは糸まで引いていた。
「歳。どうした?」
 箸が止まっている俺に、近藤が怪訝な表情を向けた。
「近藤さん。これ腐ってないか?」
 俺は漬物を箸で指しながら言った。
「む。これか? 美味いじゃないか」
「土方さん。京漬けとは、こういう味なのですよ」
 山南がにこやかな表情で、そう答えた。しば漬けには、ちょっと醤油をたらして食べている。
「たしかに独特の甘酸っぱさがあって、慣れないとわからないかもしれませんが、これが旨味というものです」
「歳に、この味はわかるめえよ」
 近藤が言って、大声で笑った。山南も口元を押えて笑っている。
 俺は舌打ちして、味噌汁を飯にぶっかけ、かっ込んだ。味噌汁は薄味で、これも俺には合わなかった。
「気に入らねえ」
 俺は心の中でつぶやき、味気のない飯をかっ込み続けた。
 二杯目の飯に味噌汁をぶっかけたとき、触れが回ってきた。
 ―――食後に一同、新徳寺に集まるように。
「着いたその日になんだってんだ? 明日でもいいじゃねえか」
 早々に食い終わり、横になって腹休めをしていた左之助が、楊枝をくわえながら面倒くさそうに言った。
「原田君。ここは試衛館ではないのです。いつまでも明日と、後回しにしているようでは、いつか大きな時代のうねりに飲み込まれてしまいますよ。とくにこの京は、時の流れが急なのです。以前のような心構えではいけませんね」
 山南が箸を置き、左之助を諭すように言った。しかしその言葉は、妙に引っかかるものだった。
「試衛館の心構えがいけないと聞こえるな」
 俺は、つまらないことだと思いつつも口走っていた。
「いえいえ、そのようなことではありませんよ。試衛館には試衛館の、京には京の心構えがあるということです」
 山南は表情一つ変えず、にこやかに答えた。
「まったく山南先生の言うとおりだ。試衛館よりも一層、気を引き締めなければならないな。気組だ。気組」
 最後に笑いながら近藤が言った。どうやら上手くかわされたようだ。
 近藤はこの『気組』という言葉が好きだった。門人たちに剣を教えるときも「剣は畢竟、技よりも気組だ」と言っていた。天然理心流は大道場の諸流派に比べ、巧緻な技術が必要な竹刀での勝負では話にならなかった。しかし、真剣ではわからない。あくまでも実戦的な剣であるからだ。真剣勝負というものは、一瞬の気で決まる。それは『気』であり、また『機』でもあると俺は思っていた。呼吸(いき)、間合い。その一つ一つ。
 それにしても、最近の山南はどこかおかしかった。短気になったとでもいうのだろうか。
 普段は、にこやかな表情を崩さない温厚な男だ。剣は北辰一刀流皆伝。神田お玉ヶ池の千葉門下なので、顔が広く知識も深い。周囲からの人望も厚く、皆から先生と慕われ、とくに総司などは父親のように思っているはずだ。それが国事の話になると、にこやかな表情のまま、眼だけが笑っておらず、言葉も鋭くなった。
 京への道中で山南は、六番組頭の村上俊五郎と国事を論じていたのだが、些細なことで口論となり、なにかにつけて村上に絡むようになった。最終的に山南は、村上に謝罪させ、事なきを得たのだが、そんなことも以前の山南ならなかったはずだ。
 信念、憂い、そして迷い。すべてが混同しているように見える。それが山南の中で、うまくかみ合っていないのかもしれない。自分を持て余している。逸る気持ちはよくわかるが、それを表面に出すのは、山南らしくなかった。
「そろそろ行きましょう」
 その山南が、一同を見回しながら言った。
 新徳寺は、この八木邸の斜め向かいにある。本堂はすでに大勢の人間で埋め尽くされていた。俺たちはその最後尾に座った。
 全体がざわめいていた。無理もなかった。なぜ、わざわざ着いたその日に集めるのか。疑問や不満を持っている者が多いだろう。ただ一人を除いてはだ。
 清河八郎。その男は、須弥壇を背にして静かに端座していた。燭台からの明かりで、なんとか表情が窺える。眼を閉じて微動だにしない、蝋燭の炎がゆらゆらと照らすその顔は、まるで能面のようだった。
「いよいよ黒幕の登場だな。近藤さん」
「清河八郎か。これはなにかありそうだな」
 近藤は、複雑な表情で清河を見ていた。
 浪士組の発起人と噂される男。役にも就かず、高下駄を履き、鉄扇片手に悠々と歩いていた様を見て、誰もが黒幕と思ったに違いない。
「俺はいやな予感がするよ。どうもあいつは気に入らねえ」
「最近の歳は、すべてが気に入らねえんだと、総司が言っていたよ。でも、歳の予感は当たるからな。なにも起きなければいいが」
 ざわめきは続いていた。清河は、そのざわめきが聞こえないかのように、少しも表情を変えず静かに座っていた。やはり能面のような顔だった。
「失礼する」
 ちょっと甲高い声が、後ろから聞こえた。
 振り返ると、新見錦が立っていた。後ろには、新見より一回り大きな芹沢鴨。そして三人の男が控えていた。芹沢一派だ。その五人が、俺たちの隣に座った。
 不意に、ざわめきが止まった。前を見ると、清河が眼を開けていた。人を射るような、するどい視線を放っている。能面が、一瞬にして割れたようだった。
 清河が静かに立ち上がった。全員が、清河の一挙手一投足に注目している。すでに場を呑み込んでいた。
「本日、ここに集まってもらったのは他でもない。我々、浪士組の今後の進退についてである」
 ゆっくりと一人一人を見回しながら、清河が朗々と言った。
「このたび我々浪士組は、幕府の徴募によって上京したわけだが、禄や位などはまったく受けておらず、幕臣として命を受けた者もいないはずだ。私は、皆が朝命によって、尊攘の大義を貫くためだけに集ったものであると信じている。この場で、万が一にも朝命を妨げ、私意の者がいたならば、容赦なく咎める覚悟である」
 清河はここまで一気に話し、一呼吸おいた。そして、もう一度ゆっくりと見回してから言った。
「異存はあるまいな」
 すぐさま「異議なし!」という声が、まばらに上がった。
 俺は心の中で舌打ちした。どうせ清河に言い含められた連中だろう。これは最初から清河に仕組まれたことだった。
 しかし、ほとんどの者は唖然とした顔で、清河に呑まれたままでいた。
 取扱役の鵜殿鳩翁、取締役の山岡鉄太郎などは青ざめた顔をしていた。清河の言っていることは、幕府に対する裏切りだった。
「異存なければ、この微衷を学習院に上書しようと思う」
 清河がたたみ込んだ、その時だった。
「異議あり!」
 甲高い声が響き、俺の隣に座っていた男が立ち上がった。新見錦だ。
 清河の表情が、わずかに動いた。
「清河氏。なぜ貴公が、取扱役であらせられる鵜殿様を差し置いて、我々に命令を下しているのだ?」
「そこにいるのは新見君だな。君は幕臣なのか? 禄は受けたのか? 我々は幕臣ではないはずだ。だから、必ずしも幕命に従うことはないと言っているのだ」
「我々は、清河氏の家臣でもない」
「家臣と言っているのではない。我々は朝命を受け、尊攘の大義を果たすために集ったはずだ。君には尊攘の志がないのか!」
 清河の一喝に、新見はうつむき沈黙した。
 尊皇攘夷の志。誰もが持っているもので、人々の根底にあるものだ。いまこの場で、開国論者がいたとしたら、それは気が触れた者か、死にたい者だけだろう。
「話の筋が違っているようだな」
 腹に響く、低い声だった。新見の横で一際大きな男が、ゆっくりと立ち上がった。芹沢鴨だ。
「筋が違っているとは?」
 いささか狼狽した声で清河が言った。
「我々は幕府の徴募を受け、将軍警護の任で上京した。その信義は通さねばなるまい。それだけだ」
「君は朝命より幕命の方が重いとでも言うのか!」
 清河が声を荒げた。
「それこそ筋違いだ。いまは天皇、幕府と言っているときではない。その公武が力を合わせ、夷狄を打ち払わねばならないときである」
 静かで、よく通る低い声だった。びりびりと腹に響く。一瞬にして、芹沢が場を呑み込んでしまった。
 清河が芹沢を睨みつけた。芹沢は、それを歯牙にもかけていない様子だった。それもそうだろう。片や天下の水戸藩、それも名家の生まれで、片や庄内藩の酒屋の息子である。役者が違った。
「異論がないのなら、我々はここにいても仕方がない。行くぞ」
 芹沢一派の五人がすっと立ち上がり、颯爽と本堂を後にした。 一瞬の静寂。誰もが芹沢の大きな後姿を、無言で見送った。そして、ざわめき。
 俺は近藤を見た。大きな口はへの字に曲がり、その下の角ばったあごには、かなりの力が加わり歪んでいた。眉間にしわを寄せ、腕を組んでいる。近藤が考えるときの癖だ。
 ここにいるべきではなかった。俺たちは天皇、幕府の公武が一体となり、攘夷を実行させるために集まったのだ。清河の言ったことは、この京を騒がせている不逞浪士と変わりなかった。これは明らかに清河の策謀であり、裏切りだ。
 俺が近藤に話しかけようとした、そのときだった。
「信義を貫くため、我々も去らせてもらう」
 近藤が立ち上がり、はっきりとそう宣言した。その顔は、少し上気していた。
 嬉しかった。その近藤の心意気が。俺も思わず立ち上がっていた。信義を貫く。これは間違いなく近藤の根底にあるものだ。信義を貫くのが武士だと信じている。それはこの男の美徳で、純粋な心だった。
 清河は明らかに狼狽していた。
「待たれよ、近藤君!」
「議論は無用。ここで袂を分けたほうが、お互いのため。御免!」
 近藤は清河に一礼し、本堂を後にした。俺たちも近藤に続いた。
「山南さん?」
 後ろで総司の声が聞こえた。振り返ると、山南が清河に顔を向けたまま、呆然と立ち尽くしていた。
「―――ええ」
 やや遅れて、山南が返事をして振り向いた。その眼はどこか虚ろだった。






気配


 手に息を吐いた。摩る。拳を握り、開く。
 いつでも動かせるようにしておく。俺の癖のようなものだ。

 昼は小春日和で暖かかったのだが、夜になるとさすがに冷え込んできた。
 吐く息は白かった。
「まだ来ないのか?」
 後ろで、新見の甲高い声が聞こえた。これでもう五回目になる。三回目から答える気がなくなり、俺は無言で手を動かし続けていた。
「清河の奴め。いつまで待たせるつもりだ。今日という今日は必ず叩き斬ってくれる」
 暗闇の中で、新見が一人でしゃべっていた。言わずとも当然、斬るつもりでいた。しかし、清河が待たせているわけではなかった。俺たちが勝手に待っているのだ。
 清河は見事に幕府を手玉に取った。幕府の支度金で上京を果たし、着いたその日に裏切った。しかも一日にして、二百人以上の兵を持ったのである。
 その清河の行動に、俺は思わず唸り声を上げていた。複雑な心境だった。やり方は汚いが、清河はどの藩にも、そして幕府にも属さない軍を作ったのである。浪人だけの自由軍。俺は自分の心の中にある、なにか漠然としたものが、形となって見えたような気がした。俺の求めている場所。
 それからの、清河の動きは迅速だった。
 翌日には学習院に上書を提出し、土佐藩邸の武市瑞山らとも会合していたようだ。
 武市は、尊攘の志士と名乗る者たちの間では、名の知れた存在だと聞いた。名が広まっているのは武市のほかに吉村寅太郎、長州の桂小五郎、吉田稔麿、肥後の宮部鼎蔵、松田重助などがいるらしい。
 裏切られた幕府も、清河の動きを黙って見ているわけではなかった。浪士組頭である板倉周防守から、鵜殿鳩翁を通じ、清河と袂を分けた俺たちと、取調役の佐々木只三郎らに清河暗殺の命が出たのだ。
 近藤は、密命ではあるが幕命ということで、躊躇なく受けたが、俺は暗殺という手段をとった幕府に物足りなさを感じた。公に捕らえればいいのだ。この時期に、ことを荒立たせたくない幕府の気持ちもわかるが、そんなことだから不逞浪士をのさばらせることになるのだ。しかし、これは浪士組内の問題でもある。俺たちが片付けなくてはならないことでもあった。
 だから俺たちは、このくそ寒い夜に清河を待っていた。
 奇しくも清河から分かれたのは、八木邸が宿だった俺たちと芹沢一派だけだった。板倉周防守からの命でもあり、俺たちと芹沢一派は、清河の浪士組とは別な一団となった。
 清河暗殺の編成は二人一組で二手に分かれ、俺たちと芹沢一派からそれぞれ二人ずつ出すことにした。
 数日間で清河の行動を調べ上げ、土佐藩邸近辺か、この四条通り近辺という配置となり、今日は俺と新見が四条通り西の寺に、もう一組の永倉新八と野口健司は東の酒屋の影に潜んでいた。
 組み合わせは順当だろう。免許皆伝と目録。新見が神道無念流皆伝で、俺は天然理心流目録だった。
 俺は十八、九の頃から『石田散薬』という家伝薬の行商をやっていた。ただ売り歩いていたわけではない。薬は打ち身やねんざに効くので、剣術道具一式を担ぎながら道場へ売りに行くのだ。そこで、商売がてら剣術の稽古をつけてもらっていた。それはあらゆる流派だった。天然理心流でも、もちろん稽古をつけてもらっていたが、俺が正式な門人になったのは二十五歳になってからである。その頃には、諸流派の様々な癖がついていた。そんな俺に、師である近藤周助は「歳の剣は天然理心流じゃねえ。雑流だよ。雑流なら皆伝だな」と言って目録までしか認めてくれなかった。たしかに俺の剣は、天然理心流の型ではなかった。雑流。しかし、天然理心流の精神だけは持っているつもりでいた。
 もう一方の組の永倉は、試衛館道場の食客だった男で、神道無念流皆伝。心形刀流にも学んだ、かなりの使い手だ。歯にもの着せぬ言動で、しばしば衝突を起こすことはあるが、裏表のない正直な男である。野口は神道無念流目録。もの静かな、あまり目立たない男で、腕もあまり立ちそうではなかった。 配置は完璧なはずだ。四条通りの東西に潜んでいるので、挟み撃ちにできる。しかし、清河に隙はなかった。出かけるときは、必ず数人を連れて歩く。清河は『虎尾之会』というもの結成しており、同志の村上俊五郎や石坂宗順らが、いつも付いて回っていた。それだけならなんとかなるが、清河の隣にもう一人の男がいるために踏み切れないでいた。
 山岡鉄太郎。剣は北辰一刀流皆伝。六尺二寸(百九十センチ弱)はありそうな巨躯から繰り出される強烈な突きは、玄武館でも恐れられていたらしい。
  清河もできる。この二人と対峙するとなると、よくて相討ちだろう。なにより山岡は幕臣である。老中板倉周防守からの命であるから、山岡がいる限り踏み込むことはできなかった。
「それにしても今日は冷えるな」
 後ろから身体を擦る音がした。俺は黙っていた。
「確認しておくが、清河は私がやる。雑魚は君に任せる。いいな?」
 しゃべりすぎだ。沈黙に耐えられない性格の男もいる。新見もそうなのだろう。いまは、黙って機を待つべきだった。
「土方君。聞いているのか?」
 新見が声を荒げた。俺が黙っているのが、気に入らないのだろう。
「黙れ」
 俺は前を向いたまま、声を殺して言った。
「なんだと?」
「黙れと言っている」
 俺は振り向いて、腹から声を出した。
 闇。しかし、新見の表情はわかる。お互いに睨みあった。
「つまらないですね―――」
 低い声がした。背筋が凍った。その声は、新見の後ろの闇から聞こえたのだ。
「何奴!」
 新見が、より甲高い声を出して慌てて後ろを向き、抜刀した。俺も思わず刀に手をかけていた。
 沈黙。闇。
 気配はない。しかし、声はした。闇がしゃべった。そんな感じだった。
 身動きせず、気配を窺う。風の音すら聞こえはしない。聞こえるのは新見の息遣いだけだ。
 俺はゆっくりと息を吸い、止めた。神経を闇に集中した。おかしかった。肌に感じる気配がまったくないのだ。寒いのに、汗をかいていた。いやな汗だ。額からの汗が頬に流れた。それを拭う余裕はなかった。気配はないが、なぜか動いたらやられる気がした。
 新見の息遣いが激しくなってきた。沈黙に耐えられない性格。肩で息をしているのが、闇の中でもわかった。
 新見に動く気配があった。限界。止めようとした。しかし、声は出なかった。
 その動きを止めたのは、闇からの声だった。
「あなた方の敵ではありませんよ」
 闇の中から、すっと人影が浮かんできた。
「何者だ?」
 俺は、ゆっくりと息を吐きながら言った。
「明石浪人、斎藤一と言います」
「いつからそこにいた?」
「お二人が来る少し前です。土方さんと新見さん」
 名を言われて、新見が殺気立った。
「どうして知っている?」
「あれだけ大声で話していれば、いやでもわかりますよ」
 斎藤と名乗った男が、少し笑いながら言った。その声は低いが、若いように思えた。
「それよりも、その刀どうにかしてくれませんか。新見さん?」
 新見がこちらを向く気配があった。斎藤という男から殺気は感じられない。いや、最初から殺気どころか気配すらなかったのだ。俺は闇の中で頷いてみせた。見えたかどうかわからないが、新見は黙って刀を鞘に戻した。
「なぜこんな所にいる?」
「目的は同じだと思います」
「目的だと?」
「清河八郎暗殺―――」
 はっきりと言った。瞬間、俺は刀に手をかけた。これは幕府からの密命である。場合によっては斬らなくてならない。
「なぜ知っている?」
 新見が、甲高い声で慌てて言った。まずかった。それでは認めていることになる。
「それも話していたでしょう? 清河を斬るだとか」
 言葉も出なかった。すべて新見のせいだ。
「斎藤君と言ったね。なぜ君が、清河をやるのだ?」
 俺は質問を変えた。
「なぜって、清河をやれば幕府から恩賞が出るという噂を聞いたもので。もちろん確信はなかったのですが、お二人を見てやっと確信が持てました」
 要するに、密命は筒抜けだった。いや、幕府が故意に流した噂かもしれない。そのくらいのことはやるだろう。噂は噂でしかなく、なんの責任もない。
「俺たちは恩賞のためにやるわけではない」
「では、なぜこんな危険なことを?」
「それを君に説明する理由はないな。だが、恩賞なんて本当に噂だろう。それに君だって、噂でしかないものに、危険を冒そうとしていた。そうだろう?」
「―――そうですね。いやあ残念だな」
 少しの沈黙のあと、斎藤と名乗った男は、あまり残念そうではない声で、そう答えた。
 俺は、闇の中で斎藤という男を見つめた。恩賞などと、本気で言っているのではないだろう。なにか自分に似たものを、斎藤に感じていた。場所を求めている。そんな気がした。
「なんですか。土方さん?」
 斎藤が気配を感じたのか、そう言った。
「斎藤君。君は恩賞など―――」
 そのとき、斎藤が「しっ!」という言葉と共に身を伏せた。俺と新見も伏せ、辺りを窺った。
「誰か来ます」
 斎藤が声を殺して言った。四条通り。人影は見えない。斎藤はよほど夜目が効くのだろうか。
「あそこです」
 うっすらと光が見えてきた。提灯。四人の男。
 先頭を歩いているのは、小太りの村上俊五郎だ。その後ろに、一際大きな男がいた。山岡鉄太郎。山岡の影に隠れて見えないが、隣にいるのが清河だろう。一番後ろには石坂宗順がいる。談笑しながら歩いているが、四人に隙はなかった。
 俺は首を振った。新見は闇の中でうな垂れているようだ。清河は山岡を離さないだろう。打つ手はなかった。黙って見送るしかない。
「清河ではなかったのですか?」
 清河らが通り過ぎ、少し経ってから斎藤が言った。
「もしかして君は、清河を知らないのか?」
「ええ。恥ずかしながら」
 俺は唖然とした。
  知らないで、どうやって清河をやろうとしたんだ?」
「それは―――」
 斎藤が俺の近くに寄り、闇の中で向かいにある四、五軒先の店を指した。
「あの店がどうした?」
 そのとき、その店の影から二人の男が、ぬっと現われた。
 こっちを見ている。いや、もっと先の清河の後姿でも見ているのだろうか。
「佐々木と速見だろう」
 新見が、つぶやくように言った。取調役の佐々木只三郎と速見又四郎だろう。俺たちと同じく、板倉周防守から清河暗殺の命を受けていた。
「あの二人も目的が同じようだったので、それで当たりをつけようかと思っていました」
 俺は佐々木を見た。眼が合った様な気がした。
 ぞくり。背中に悪寒が走った。確実に眼が合った。暗闇でもわかる。身体全体を舐め回すような気配。息が詰まった。
 計っている。しばらく睨み合いが続いたが、不意に佐々木は興味を失ったかのように後ろを向くと、悠然と歩いて行ってしまった。
 俺は息を吐いた。背中は、うっすらと汗ばんでいた。
「かなりの使い手ですね」
 斎藤も息を吐きながら言った。
「ああ」
 俺は頷くことしかできなかった。会津五流と総称される流派の一つ、神道精武流皆伝で「小太刀をとっては無双」だと聞いたことがある。いやな気配だった。少なくとも敵には回したくない男だと思った。






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