散華
〜小説・土方歳三〜


断章 芹沢鴨

 

 

 死んでいた。それでも、どうしようもないほど身体は生きていた。
 心の死。
  人間とは不思議なもので、身体さえ動いていれば生きていることになる。しかし本当は、心が動かなければ死んでいるのと同じなのだ。
  俺は生きながら死んでいた。
 退屈なのだ。退屈は簡単に人を殺す。
 心に大きな空洞があった。
 なにかを失ってしまっていた。遠い過去。どこで。なにを。
 枯渇していた。満たされないものだけが、退屈の中でいつまでも心の底に澱んでいた。
 それを少しでも満たそうとして酒を求めたが、いくら呑んでも本当の酔いはやってこなかった。
  死んだ心が酔うはずはない。
 酒は嘘をつかない。俺以外にはだ。俺がなにを語りかけても、酒はなにも答えてくれなかった。酔える奴が羨ましく、同時に妬ましくもあった。
  よく退屈しのぎで、酔った振りをして暴れてみた。そんなとき、人間という生き物の愚かさがよく見えた。俺を宥める者、煽る者、蔑んだ眼で見る者、遠くで薄ら笑みを浮かべている者。様々な人間性がでる。それを冷めた眼で見ている自分。本当に愚かなのは俺だった。
  満たしたかった。いつも心をヒリヒリさせていたかった。
  身体とは違い、心は蘇らせることができるはずだ。
  天狗党に入ったのもそんな理由からだ。俺に思想などない。尊皇攘夷。それは水戸学として小さい頃から与えられた思想であり、俺が考えて行き着いた思想ではない。
  もし俺に思想があるとすれば、視界に入った夷人を斬るということくらいだろう。
  天狗党でも、俺の心は満たされなかった。
  水戸藩は長い間、内部抗争を繰り返してきた。一番の原因は皮肉にも徳川御三家であることだろう。水戸藩は参勤交代のない『定府制』であり、江戸に藩主と江戸詰めの藩士が永住していた。藩士の数は、やや江戸にいる者の方が少ないくらいだろう。要するに、水戸と江戸に二つの藩があるのと変わりなかった。永住なので生活そのもの、言葉遣い、身なりまでまったく違った。そしてお互いに疎通はなく、逆に警戒し合っていた。鷹狩りの視察という名目で、水戸に江戸詰めの重臣たちを遣わし、水戸の内情を探らせたりすることは当たり前のように起きていた。
  そんな内部抗争をしている藩が、攘夷の先鋒になれるわけがない。俺は水戸藩に、そしてその内部の縮図であるかのような天狗党にも失望していた。待っているのは自滅だけだろう。
  人を斬ってしまったのは、そんなときだった。
  そのときのことをあまり思い出せないのだから、些細なことが原因だったのだろう。ただ、ひどくなにかを傷つけられたことだけは覚えている。失ってしまったなにか。
  無意識に手が動いていた。そして俺の前に立っていた男の首から上はなくなっていた。
「江戸へ遊びに行きませんか?」
 首なしの男を見て、平然と甲高い声で言ったのは新見だった。
 新見と出会ったのはいつだったか。気が付くと俺の周りにいた。
 口から生まれたような、調子のいい奴だった。そして俺は口先だけの奴が嫌いではなかった。
 罪から逃れ、江戸に行こうと思ったのも新見がいたからだ。新見の口車に乗ってやった。どうせ退屈していたところだ。天狗党から抜けるのにも丁度よかった。
  水戸から江戸に行く道中、本当に旅でもしているかのように、ゆっくりと歩いた。風景を愉しみ、会話を愉しむ。ほとんどしゃべっているのは新見だった。
  追っ手など気にもしなかった。来たら追い払えばいい。それもどこかで愉しみにしていた。しかし、江戸に着いてからも追っ手は来なかった。来るわけがない。水戸から江戸に連絡などありはしないのだ。
 逆に張り合いをなくし、江戸で退屈しそうになった俺を楽しませてくれたのも新見だった。なぜか金には困らなかった。いつも新見が金を持っていた。俺たちはその金で豪遊した。
  平間と野口もいた。平間とは同郷で、俺の親父からの付き合いだった。世が世なら俺は一城の城主だった家柄だ。その家来にあたる家系に平間がいた。だからといって、平間を家来として扱ったことは一度もない。俺の相談役みたいなものだ。少なくとも俺の周りでは、良識と知識を合わせ持った男だった。
 野口は水戸で拾った。捨てられた犬。野口をはじめて見たとき、俺はそう思った。拾ったのは気まぐれだ。ただ、いい眼をしていた。なにかに飢えた眼差しだった。しかし、その光はいつの間にか消えていた。野口が飼い主を求めていたということに、俺はそこで気付いた。頭を垂れた犬に用はなかったが、野口は尻尾を振りながら江戸まで付いてきた。
 番犬にはならないが、野口は鼻が利いた。本能からくる保身だろう。危険を察知したりするのには長けていた。原田左之助が俺たちを尾行(つ)けているのに気付いたのも野口だった。
 来るべきものがやっと来た。野口から、それを知らされたとき、俺はそう思った。
  新見が死んでから五日経っている。遅いと考えるべきだろう。隙はかなりあったはずだ。わざわざ連日の宴会で隙を作っていたのだ。
  たぶん近藤の決断が遅れたのだろう。
 新見の話は山南から聞いた。死人に口なし。いいように言っていたが、殺されたのも同然の死に方に違いない。
  俺が殺したようなものだった。
  江戸でも京でも新見は金を持っていた。どこからか、かなり強引に調達してくる。それはわかっていた。しかし俺はそのことに、なに一つ触れなかった。すべては死んでいる俺のためにやってくれたものだ。
  新見と微妙な距離ができたのは、壬生浪士組になってからだろうか。もしかしたら、もっと前からかもしれない。ただ壬生浪士組の役を決めるときに、大きな溝ができたのはたしかだ。
  新見は局長になりたがっていた。あってないような役など、俺にはどうでもよかった。役で俺の心が満たされるはずもない。だが新見はこだわった。それが俺の立場を少しでも有利にするためだと気付いたのは、随分と後だった。すべて俺のためだった。
  俺は新見の心に、なに一つ応えてやれなかった。気付いてやろうともしなかった。いつしか新見は自棄になり、独りで呑みはじめた。そして殺された。俺が殺したようなものだ。
  山南から新見の話を聞いたとき、土方もいたのだが、この男は山南の傍らで押し黙り、最後まで一言の言葉も発さなかった。
 近藤、山南。いつもこの二人の影には土方がいた。近藤を説得して決断させたもの、山南に新見のことを話させたのも土方だろう。
 いつも眠そうな眼をしていた。だが、その瞳の奥には、なにかを狙っているような隙のない鋭い光があった。それを決して表情に出さない男だ。
 それに気付いたのは浪士組として上京する道中だった。
 背中に射抜くような視線を感じた。殺気はないが、なにかを計っているような感覚だ。勝てるのか。どのあたりまでやれるのか。
  俺はゆっくりと振り返った。眼が合った。一瞬にして射抜くような視線は消えたが、俺は強い眼の光を隠す瞬間を見逃さなかった。
  獲物を品定めしている獣のような眼だった。俺と同じ光。
  やっと見つけた。俺を退屈させないもの。俺の失ったなにかを満たしてくれるもの。
  土方歳三。その中に潜んでいるものは、まだ生まれたばかりの小動物のように弱々しかったが、間違いなく獣になる眼の光だった。
 浪士組に入ったのは、天狗党と同じような心境だった。そして同じように失望した。清河八郎が幕府を裏切ったのだ。またか。俺はそう思った。水戸の内部抗争と似ていた。その先にあるのは自滅だけだ。そして清河は暗殺された。
  自分で創るしかなかった。俺の心を満たしてくれる場所。失ったなにかを取り戻せる場所。死んだ心を蘇らせてくれる場所。
  そして、あの男も付いてきた。やはり獣だった。獣は獣を呼び寄せる。
  獣、あの男と接するごとに、失ったものがなにであるのか、わかりかけてきた。
  そしてそれは、俺が思っていたよりもずっと早く見つかった。大阪で力士と乱闘になったときだ。
  牙。
  俺は長い退屈の間に、この牙を失っていた。そして俺の中の獣はすっかり老いてしまっていた。だが失った牙を、鋭い牙に見せる知恵持った獣になっていた。まだまだ動ける。
  久しぶりに心の底から叫んだ。俺の中の老いた獣も咆え続けた。心が満たされた。
  俺の叫びに、老いた獣の咆哮に共鳴するかのように、あの男の中の獣もゆっくりと立ち上がった。もう小動物などではなかった。鋭い牙を生やした獣。俺にはないもの。それをあの男が持ったのだ。
  獣を育てようと思っているのではない。獣は戦いの中で、自然と逞しくなる。ただ、その獣と向き合いたかった。
  もう一度、牙を持つことができるか。それには獣と向き合うことだ。そして、そのとき俺は、失ってしまった本物の牙を持つことができるだろう。
「早くこい」
 呟いていた。
「どうかしましたかい?」
 俺の呟きに反応した平山が、ぶっきら棒にそう言った。
「いや、こっちのことだ」
 結局、最後に残ったのは平山だけだった。
 新見は死に、平間と野口は原田がいなくなってから逃がした。
  平間は断固として残る姿勢を見せたが、俺は水戸に帰るように命令した。お前には故郷(くに)に伝える義務がある。最初で最後の家臣に対する命令だった。
  野口は犬のように追い払った。頭を垂れ、悲しい顔を見せたが、俺は許さなかった。またどこかで新しい飼い主に拾ってもらえばいい。しかし、まだその辺でうろうろしていそうだった。次に飼い主を間違えれば、待っているのはたぶん死だけだろう。早くどこか遠くへ行ってしまえばいいと思った。
「これは俺自身の問題なのだ」
 平山には、そう言った。
  獣と獣が向き合う。それは食うか、食われるかのどちらかでしかない。そして俺の老いた獣は、間違いなく若い牙の前に倒れるだろう。後悔はない。ただ俺は、自分に本物の牙があったことを確かめたいだけだった。それに付き添いはいらない。
「あっしには左眼がねえです。だからあっしだけには、ここに残る権利があります」
 俺に酌をしながら、平山はそう答えた。
 失ったものの話などしたことはなかった。だが、平山には気付かれていたようだ。平山は失った左眼の代償として牙を手に入れていた。平山も、また獣だった。碧眼の獣。
 俺は平山に注がれた酒を一息であけた。
 平山が微笑んだ。口で微笑むのではない。平山の表情は、すべて左眼で表現された。潰れた左眼が、別の生き物のようにうごめく。
 はじめて会ったときから、平山の左眼は潰れていた。出会ったのは江戸へ出てからだ。神道無念流。同じ流派で、俺の師である戸ヶ崎熊太郎の紹介だった。
 強かった。潰れた左眼の方から狙うと、必ず返された。しかし右はそれほど強くない。面白い男だと思った。すぐに意気投合した。
 寡黙な男だった。それも気に入った。俺から話さない限り、平山から話しかけることはない。
 その少ない話から推測すると、姫路出身らしかった。それを知ることに意味などない。自分のことなど、話したい奴が話せばいいのだ。話したところで、それが自分のすべてであるわけがない。言葉でなく通じ合えるなにか。それがあればいいのだ。
「月が出ているようだな」
「ええ。満月のようですぜ」
「呑みなおしだ。月見酒と洒落込もうではないか」
 障子を開け放ち、縁側に座った。平山の酌。俺は口に杯を運びながら、夜空を見上げた。丸い大きな月が輝いていた。
「芹沢先生は月がお好きですかい?」
「どうだろうな」
「あっしは鳥になりたいと思ったことがありますぜ。大空を自由に羽ばたく鳥でさあ」
「月となにか関係あるのか?」
「―――花鳥風月」
「どういう意味だ?」
「花を愛し、鳥を愛し、風を愛し、月を愛す。そうやって人はだんだんと歳を重ねていく。あっしの爺さんが、よくそんなことを言っていたのを、ふと思い出しましたよ。本当の意味なんてわからねえですが、なんとなくそんな歳のとり方もいいんじゃないかってね。柄でもねえですが」
  平山が低い声で笑った。月に照らされた左眼がうごめいた。
 平山がこんなことを言うのは珍しかった。いや、はじめてかもしれない。家族の話など聞いたことはなかった。

 いま、このときを楽しんでいるのだろう。獣が現れるのを待っている。この男も、やはり獣だった。
 俺の中の老いた獣も月を眺めて、じっと待っていた。もう月に向かって咆えることもない。
 花鳥風月。よく言ったものだ。たしかに俺の獣は老いていた。しかし、鳥のように飛べなくても、風のように疾く動ける。そして牙も失っていないはずだ。
 平山の酌。杯に満ちた酒の中に、丸い月が浮かんでいた。
 近くで微かな物音がした。そして濃厚な獣の臭い。やっと来た。俺の中の老いた獣がゆっくりと立ち上がった。
 どうやら、この酒が最後の一本となりそうだった。
 俺は酒の中に浮かんでいる月ごと、一息で呷った。




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