散華
〜小説・土方歳三〜


第四章 池田屋事件

血の臭い

 

 

 臭いがした。
 それは微かだが、間違いなく血の臭いだった。
 街から血が滲み出ている。そんな感じだ。
 こうして見廻りをしていると、それがよくわかる。不自然に眼を逸らす者。さり気なく人混みに紛れる者。慌てて逃げ出す者。すべて街の傷だった。
 今日は平助の隊の見廻りに同行していた。たまに、このようなことをやる。もちろん治安維持が目的なのだが、隊士たちを見ることもできる。
 いざというとき、どのように動くか。それで、その人間の大抵のことはわかった。勇敢な者もいれば、臆病な者もいる。勇敢であればいいというわけではない。臆病なことは、慎重なことと同じだからだ。ただ、信用できるか。それを見ていた。
 新選組内に長州の間者が紛れ込んでいた。報告を受ける前に大体の目星はついていたが、いつかは使えると思い、そのまま泳がせておいた。そして、使えるときはすぐにきた。
 芹沢暗殺。
 俺が殺したのだ。
 しかし公では、御倉伊勢武、荒木田左馬之助ら六人による殺害となっていた。この六人が長州の間者で、俺の代わりに罪を被ったのだった。
 暗殺は、会津藩からの密命のようなもので、内密にやらなければならなかった。近藤、山南、総司、左之助、そして俺。この五人の秘密となった。決して、表に出ることのない事実だ。
 世の中に真実など存在しない。あるのは事実だけだろう。こうして闇に葬られ、塗り替えられた出来事も、塗り替えられたという事実なのだ。
 後ろめたさなどはなかった。もし少しでもそう感じるのなら、はじめからやってはいない。そこまで考えて決めたことだ。あとは飛び込むだけでよかった。
「平助」
 俺は前方に視線を送り、平助に眼で合図した。平助が微かに頷く。
 通りの傍らに、下品な笑みを浮かべている男がいた。こっちをずっと見ている。仲間は二人。若い男と年嵩の男。平助は気付いていたようだ。
 明らかに俺たちを挑発していた。最近このような輩が多い。
 八・一八の政変によって入京を禁じられているはずの長州藩士が、多数潜伏しはじめたのだ。
  通りに人は多かった。ここで暴れられるのは、さすがにまずい。しかし、男たちもここでやる気はないようで、こっちを見てにやにやしながら、さり気なく小路に入って行った。
 誘い。
 俺は平助を見た。平助は真っ直ぐな視線を返し、力強く頷いた。そして後ろを向き、隊士たちに小休止の合図を送った。
「行きましょう」
  そう言って、平助は男たちが入った小路を曲がった。
 『魁先生』。平助は、隊士たちに敬意を持ってそう呼ばれていた。どんな危険な場所でも先頭に立ち、自ら道を切り開く。先駆け。平助らしい、真っ直ぐないい渾名だと思った。
  俺も平助に続き、小路に足を踏み入れた。
  三人は俺を待っているはずだ。誘うからにはそれなりの計画があり、退路も確保してあるだろう。ここで隊士たちに踏み込ませたら、それこそ逃してしまう可能性が高い。
 男が一人、さらに小路を曲がった。やはり誘っている。人通りのない、寂れた通りだった。
  曲がった。三人の男がいた。廃寺だろうか。木が鬱蒼と生い茂り、昼間なのに辺りは薄暗かった。
「チッ! 本当に二人で来やがった」
 朽ち果てた本殿の前。下品な笑みを浮かべていた男が、舌打ちして喚いた。その声にも品がなかった。
「だから言っただろう。先生はすべてを見通しておられると」
 そう言って、頭の後退した年嵩の男が、もっともらしく頷いた。どうやら、この二人の間にいる若い男が先生というらしい。
「わかった、わかったよ。俺の負けだ。あとで好きなだけ呑ませてやるよ」
 賭けでもやっていたのだろう。まったく舐められたものだ。
「なに笑ってやがる!」
 下品な男が、俺を見てまた喚いた。どうやら口元が綻んでいたらしい。自分に対する苦笑のつもりだった。
「賭けに勝たせてやれなくて、すまなかったな」
「二人で来るとは、まったくいい度胸だよ」
「お前らなど、二人で充分だからさ」
「そういう口は、これを見てからほざくんだな」
 下品な男が、口笛を吹いた。すでに、その口笛さえも下品な音に聞こえるようになっていた。
 その下品な口笛に呼び寄せられて、木の影からばらばらと四人の男が飛び出してきた。
 いるのは気付いていた。あれで隠れているつもりだったのだろうか。気配を消すこともできず、逆に殺気を漲らせていた。たぶん金で動く輩だろう。前の三人とは明らかに毛色が違った。連携がない。囲まれたが、逃げようと思えば逃げ切れるだろう。
「おいおい、どうした? 恐くなって言葉も出ねえか」
 下品が大声で笑った。俺は黙っていた。
「馬鹿にされているのがわかりませんか。少しは慎んで下さい」
 先生と呼ばれていた若い男が、静かな声でそう言った。笑っていた下品がうつむいて黙った。どうやら先生と呼ばれるだけあって、この若い男が頭株のようだ。
「新選組の土方歳三さんと藤堂平助さんですね?」
「だったら?」
「申し訳ありませんが、ここで死んでもらわなければなりません」
「わざわざ断るようなことじゃないな」
「死んで逝く者に対しての、せめてもの礼儀です」
「人を勝手に殺すなよ」
 若い男が軽くため息をついた。
 俺は、この男の考えがわからなかった。今から斬りあいをするというのに、しゃべりすぎている。今まで、このような連中のほとんどが問答無用で斬りつけてきた。

  時間を稼いで、なにかを待っている。増援。まずそれを考えた。しかし、すでに七対二だ。それに事を大きくしないために、わざわざこんな廃寺まで俺たちを誘い込んだのだ。これ以上、騒ぎを大きくするとは考えにくい。この男の言動がどうも腑に落ちなかった。
「あなたはなかなかの切れ者だと伺いましたが、この状況を計算できないようでは、間違った報告だったのでしょうね」
「そうだな。大きな間違いをしているよ。そいつはたぶん『キレモノ』じゃなく『ケモノ』と言ったはずだ」
 俺はさり気なく一歩前に出た。わからなければ、ぶつかってみることだ。それで見えてくるものもある。
 下品と年嵩の男が、俺の動きに反応して構えた。
「平助。後ろは任せた」
「わかりました」
 後ろは四人。今の平助なら、三人までは渡りあうことができるだろう。残りの一人をどうするか。平助が簡単に倒されるとは思っていない。平助なら切り抜けられるという確信のようなものがあった。
「話は、もういいかな?」
「どうやら本当に死にたいようですね。残念ですよ」
 若い男が一歩下がり、下品と年嵩の男が抜刀した。
 後ろで、平助の鋭い気合が聞こえた。
 平助は刀を抜くと同時に、なにかを吹っ切る。たぶん、自分の中にある恐れのようなものだろう。
  誰でも死ぬのは恐い。当たり前のことだ。だからこそ、恐怖というものを自分の中で飼い慣らしておくべきなのだ。
  平助のように吹っ切ってしまう人間は、極度の興奮状態に陥り、周りが見えなくなる。そして大抵、死ぬ。
  俺は平助を試しているのかもしれない。生き残るという確信はあるが、それはどこか諦めにも似ていた。ここで倒れればそれだけの命。たとえ逃げて生き残ったとしても、それは死んでいるのと変わりないのだ。そして平助が死んだとき、俺も死んでいる。
 俺は兼定の鞘を払った。自分の情念のようなものも一緒に振り払う。しかし無心ではなかった。やはり恐怖はある。そして、その恐怖と戯れている一頭の獣がいた。もしかしたら獣は、俺自身であり、恐怖そのものなのかもしれない。
 俺は兼定をだらりと下げたまま、一歩前に出た。前の二人が構え、様子を窺っている。考えているのだろう。今の俺は隙だらけだった。
 右足を少し前に出した。誘い。乗ってきた。二人が同時に動いた。わずかだが連携がある。
 俺は肩にかけているだけのダンダラ羽織を放り投げた。右。下品な男の平突き。羽織に遮られ一瞬遅れた。左に跳び、それをかわす。左から光。俺は着地と同時に身体を捻り、兼定を下から上に撥ね上げた。火花。年嵩の男の腕が上がった。股間を蹴り上げる。呻き。腰が海老のように折れた。後ろから下品な気合。俺は年嵩の男の背後に回り、背中を軽く押した。
 下品と年嵩の男がぶつかった。絶叫。年嵩の男の背中に、赤く染まった刃が突き抜けていた。年嵩の男が、下品にすがるように膝を折った。下品がそれを支える。じわりと、背中が赤く染まった。
「どうして―――」
 咳と一緒に血を吐き、年嵩の男の声は途切れた。ひゅーひゅーという息が身体から漏れている。
「楽にしてやれよ」
「俺は、俺は―――」
 下品な男が、血まみれの刀を引き抜いた。年嵩の男が微かに呻いた。顔から急速に生気が失われていく。血が噴出す。臭い。下品な男の顔がみるみる赤く染まっていった。下品はそれを拭おうともせず、屍になった年嵩の男をそっと血の海に寝かせ、ゆっくりと立ち上がった。
「お前がやったんだ」
 眼が合った。憎悪に満ちた、激しい光だ。しかし獣の眼とは違った。自分を失っている。
 女の悲鳴のような叫びだった。長い。そして真っ赤に染まった下品な男が、片手で刀を振り回しながら迫ってきた。狂喜と歓喜が交じり合ったような複雑な顔をしている。もはや人の表情ではなかった。
 風。かわした。白刃。受け流した。ただ声を荒げて、振り回しているだけだ。
「一緒に寝てろよ」
 俺は下品な男の腹に、兼定を突き刺した。一瞬の呻き。下品な男の熱い息が頬を掠めた。それでも刀を持った手が上がった。俺は、下品な男の身体の中で兼定を回転させ、刃を上向きにした。そのままゆっくり突き上げる。鳩尾。その上。骨に当たった。低い喘ぎ声。口から吐瀉物のような泡の混じった血が流れ出た。さらに突き上げる。長い痙攣。下品な男の眼がぐるりと回転した。俺はゆっくりと兼定を引き抜き、血を振り払った。
 平助の気合は、まだ聞こえていた。生きている。あと何人残っているのかわからないが、俺は振り返らなかった。
 俺は、先生と呼ばれていた若い男に視線を送った。
「たしかに、あなたは獣ですね」
 若い男が、口元だけで笑った。
「随分と落ち着いているんだな」
「ここまでくれば、逆に肚は座るものですよ」
 若い男が、ゆっくりと刀を抜いた。下段。
「なにを迷っているんだ?」
 俺の問いには答えず、若い男が横に走った。俺は舌打ちして、合わせるように走った。走りながら互いの呼吸を計る。距離が縮まる。間合い。光が交差した。鋭い太刀筋ではなかった。やはり迷いがある。下段は相手を窺う構えで、どこか暗い。
 逆に走った。間合い。止まる。若い男の気合。光の軌道が見えていた。鈍い。受け止めた。力任せに押す。若い男が後ろに転がり、尻餅をついた。
「なにを迷っている?」
 俺は、もう一度同じ質問をした。
 男が立ち上がった。無言。そして下段。迷いのある構えのまま、男は跳び込んできた。
「それが答えなのか」
 呟いていた。軌道。遅すぎだ。俺は、刃が軌道に乗る前に、男の懐に入っていた。兼定を薙ぐ。若い男の呻き。血を噴出しながら片膝をついた。俺は兼定を鞘に収めた。
「なぜ、ひと思いに殺さないのです?」
 男が、掠れた声でそう言った。脇腹。傷は浅い。致命傷にはならないが、時間が経てば死ぬだろう。
「斬りあいの最中に迷っている奴なんか殺したら、寝覚めが悪くなるだけでね。死にたきゃ自分で死ねよ」
 これで三度目だ。男がうなだれゆっくりと首を振った。
「私にはわからないのです」
「なにが?」
「なにが正しいのか―――」
 男は脇腹を押さえて、肩で息をしていた。
「正義なんてものは、立場によって変わるものだろう」
「それでは、あまりにも理不尽ではありませんか!」
 男が声を荒げた。痛みが走ったのだろう。顔が苦痛で歪んだ。
「いつも理不尽に掲げられ、力によって捻じ曲げられる。正義なんてそんなものだ」
「では、あなたはなにを信じているのですか?」
「自分。俺自身さ」
 男がゆっくりと息を吐いた。そして顔を歪めながらも、微かに笑ったような気がした。
「もしかしたら私たちは、とんでもない者を相手にしようとしているのかもしれませんね」
「どういう意味だ?」
「―――近く、途方もない計画が実行されようとしています。この京を、いやこの国を揺り動かすようなことです」
 男が袖を引きちぎり、脇腹の傷をきつく縛りあげた。どうやら生きることを選択したようだ。
「それ以上は話してくれないんだろうな」
「ええ。私が生きる可能性の分だけです」
「五分五分ってところだな」
「だから、私も半分だけです」
 縛ったところが、すでに真っ赤に染まっていた。この男が生きるか死ぬかは運だろう。傷は浅い。しかし内臓にまで届いていたら、血が溜まりじきに死ぬ。
「なぜ俺に?」
「あなただったら、正しい道を示してくれそうな気がしたからです」
「それが迷いか」
「正義なんてものは、立場によって違ってくるものでしたよね?」
 男が微かに笑った。今度は、気がしただけではなかった。確実に、死に近づいている微笑だった。
「もう行けよ」
 俺は、自分の投げ捨てたダンダラ羽織を拾い、男に渡した。
「これは?」
「それでは血が目立ちすぎるだろう」
 若い男は頷くと、ダンダラを羽織って、本殿の脇へゆっくりと歩き出した。
「名は?」
 なんとなく名前を聞いてみたくなった。
「敗者に名などないでしょう」
 若い男は振り返らずにそう言った。
「そうだな」
 尊攘派にも、そのやり方に疑問を抱いている者がいるようだった。やっているのは強盗まがいのことで、世を乱していることばかりなのだ。しかし、その混乱に乗じて、なにか大きなことをやろうとしているのがわかった。いわば今やっていることは、その陽動というわけだろう。
 やり方は巧妙だった。少人数で、助勤など腕の立つものだけを誘い入れ、複数で取り囲む。腕に覚えのある者なら、罠とわかっていても、俺と同じように誘いに乗るはずだ。今の新選組は、以前よりも戦力が上がったとはいえ、助勤を一人でも失えばかなりの痛手となる。そこを見事に突かれていた。もし、隊士たち総出で突入させたとしても、蜘蛛の子を散らすように消えていることだろう。それだけでも陽動にはなる。
 俺は若い男が完全に消えてから、ゆっくりと後ろを向いた。
 平助。
 生きていた。血まみれの姿で、呆然と正座していた。その眼は虚空を見ているようだが、しっかりとした光が灯っていた。
「平助、立てるか?」
「土方さん、私は―――」
「よくやった」
 俺は片手を差し出した。平助が握る。思いっきり引っ張って平助を立たせた。平助がよろける。
「怪我はないか?」
「これ、全部返り血です」
「ひどい顔だな」
「それはお互い様ですよ」
 平助が白い歯を見せて笑った。
「一人、逃げたようですが?」
「放っておけ」
「―――それは聞き捨てならないな」
 ぞくり。背後から、身体を舐め回すような殺気を感じた。
 この殺気。身体が覚えていた。佐々木只三郎。
「久しぶり、かな? それとも―――」
「なんでもいいさ」
 俺は、佐々木の言葉を遮った。
 佐々木は今年の四月に『京都見廻組』が創設されると、三位の役である与頭に抜擢され再上京してきた。清河暗殺の腕を買われたのだろう。
 見廻組は新選組とは違い、会津藩御預かりだった。新選組は会津様御預かりで容保様の私兵なのに対し、見廻組は正規兵だった。しかし、その活動は謎に包まれていた。表面上は見廻りをやっているのだが、命令が会津藩だけではなく、長岡藩に代わって京都所司代となった桑名藩からも出ているようだった。
 影で動いている。そんな感じがした。気に入らなかった。そしてなにより、直参であることも気に入らなかった。
「随分とご挨拶だな」
「佐々木様、ご用件はなんで御座いましょうか。これでいいかな?」
「忘れ物だ」
 佐々木がにやりと笑い、後ろに持っていた物を俺に放り投げた。
 赤い羽織。いや、血みどろになった俺のダンダラ羽織だった。
「貴様っ!」
 俺は一瞬、頭が真っ白になり、思わず刀に手をかけていた。
「抜ける、のか?」
 佐々木が静かに笑った。笑うと笑窪ができる。それが妙な凄味となっていた。
 斬られていた。
 自分の斬られている姿、そして血を噴出して倒れている姿だけが脳裏に浮かんだ。
  佐々木は手をだらりと下げたまま突っ立っているだけだ。
 動けなかった。自分のすべてが停止してしまっている。苦しい。呼吸さえできない。自分の身体ではないようだった。
 汗が流れてきた。頬を伝うその感覚だけが、はっきりとしていた。
 佐々木は、またにやりと笑うと歩き出した。俺の隣で止まる。
「―――温いな」
  一歩、二歩、三歩。佐々木の足音だけが、やけに大きく響いた。やがて、佐々木の気配は消えた。
 はあっ、俺はゆっくり息を吐いた。頬の汗を拭う。後ろから喘ぎ声が聞こえた。平助がうずくまり、黄色い液体を吐いていた。殺気に抗うこともできなかったのだろう。
「行くぞ」
 俺はそんな平助を尻目に、廃寺の水場で血を洗い流し、通りに出た。
 小休止していた隊士たちがどよめいた。さすがに着物についた血までは洗い流せなかった。俺は隊士たちに簡単な説明をして、羽織を借りた。血みどろの格好で歩けば、つまらない混乱が起きる。今は早く屯所に戻ることだ。
「歳さん!」
 後ろから、そんな声が聞こえたような気がした。どこか懐かしい声だった。
 もう一度。今度は、はっきりと聞こえた。まさかと思い、俺は後ろを振り向いた。俺の下の名を、さん付けで呼ぶ奴は一人しかいない。
 若い女が走ってきた。
「やっぱり歳さんだ。ご無沙汰しています!」
 若い女から、懐かしい声が発せられた。
「八郎なのか?」
「やだなあ。俺の顔、忘れちゃったんですか?」
 若い女が、切れ長の眼を瞬かせた。はっとするほどの長い睫毛。よく通った鼻筋。薄い唇。面影は残っていた。ただ変わってしまっていた。それは少女から女になったような変わりようだった。
 伊庭八郎。江戸四大道場の一つ、心形刀流伊庭道場、八代軍兵衛秀業の長男である。
  八郎とは、俺が『茨垣(バラガキ)の歳』と呼ばれ、行商の傍ら剣術修行をしていた頃からの付き合いだ。
  八郎は『伊庭の小天狗』と呼ばれ、その凄まじい突きは江戸中に知れ渡っていた。
  俺と八郎は、ある時は助太刀に、ある時は助けられたりする仲だった。喧嘩仲間と言えばぴったりくるだろう。茨垣と小天狗が組めば無敵だった。負けたことは一度もないはずだ。
  あの頃から綺麗な顔立ちをしていた。二人で歩いていると、よく女に嫉妬されたものだ。俺が嫉妬されるわけではない。その女よりも美しい八郎に対する嫉妬である。
「久しぶりだな。それにしても、なんでこんな所にいるんだ?」
 俺が話し出すと、平助は気を利かせて隊を前進させた。
「俺、これでも剣術方で歳さんと同じように、上様の警護を仰せつかっているんですよ」
「こんな所で油を売ってていいのか?」
「まだ部屋住みの身ですからね。それに、せっかくの京ですから少しは楽しまなきゃ」
 八郎が微笑んだ。笑うと少女のようになる。その笑顔が眩しかった。
 しかし俺は、八郎の中に大きな闇があることを知っていた。笑顔の内側にあるものは闇だ。その正体はわからない。ただ八郎は、すべてを自分で背負ってしまうところがあった。
 喧嘩で助けられたときに、俺が軽い傷を負ったことがある。それだけで八郎は酷く自分を責め立てた。あのとき俺が。次第に心が内側へ向き、やがて闇に閉ざされる。それは絶望にも似ていて、腹を斬ろうとしたことも何度かあった。
 ずっと笑顔でいて欲しかった。闇の中でこそ、光は輝くはずだ。そう思いたい。八郎の微笑みは、陽の光のようで人々の心に安らぎを与える。
 今も夢中になって、俺に話しかけていた。義父は奥詰で忙しいが、元気にしていること。新選組の名が江戸にまで轟いていること。京料理の美味い店のこと。俺が偏食であること。
 それでいいのだ。少なくとも俺は、いま八郎が元気であることが嬉しかった。
 話しながら八郎が、俺の背後にあるかなきかの視線を送った。瞳だけでわかりあえる。背後に不審な者が近づいているということだろう。俺は八郎に眼だけで頷いた。
 俺はさり気なく後ろを振り向いた。同時に八郎も、さり気なく横に移動した。挟んだ。立っていたのは山崎だった。
「うちの者だ」
 山崎の背後をとった八郎に、俺はすばやく声をかけた。
「あまりにも楽しそうに話をされていたので―――」
 山崎が頭を下げ、少し気だるそうな声で言った。見廻りの途中で呼びにくることなど滅多にない。なにか火急のことなのかもしれない。
「どうした。急ぎの知らせか?」
 山崎が、ちらりと八郎を見た。どうやらここで話せるようなことではないらしい。
「すまないな、八郎。行かなければならないようだ」
「呼び止めたのは俺の方ですよ。構わずに行って下さい」
「暇があったら、屯所に顔を出してくれ」
 俺は軽く片手を挙げ、踵を返して走った。
 また血の臭いがした。着物に染みついた血の臭いだった。それは、この街の臭いとよく似ていた。







 




断章 戻る