風雨有情

新の幸せに気付く

私は花巻市の生涯学習センターの「食と健康」の講師になっているので、時折呼ばれてシニヤクラスなどで話をしたりします。高齢者の人達の興味は長生きですが、皆さんが言うには、「ただ長生きでもだめだ、健康でなければ」と言います。「それでもまだ足りません」と私は言います。健康で長生き、そして幸せでなければ生きている意味がありません。

幸せと長生きは大いに関係があります。 健康で長生きしていると、必ず誰かに聞かれます。「長生きのコツは何ですか」と。そうすると同じような答えが返ってきます。「のんびりとして、くよくよしないこと」。すべてのことに感謝して生きているということです。それでこそ生きて甲斐ある人生と言うことでしょう。イライラして腹を立て、悔しい思いをして長生きしても意味がありません。つまらないです。なのに多くの人は何故新の幸せに気付けないのでしょう。それはその人なりの幸せ感で満足しているからです。もっと素晴らしい大きな幸せがあることを知らないのです。 

かつて私もそうでした。盛岡で繁盛しているレストラン二店舗を持ち、まずまずの収入もあり、満帆順調。そんな暮らしをしていると、皆が応援し大事にしてくれます。銀行も土地を買いませんか、金を借りてくれませんかと声をかけてくれます。地位もお金もあればありがたいことです。世の中が生き易くなります。そんな中で私は、ほどほど幸せだと思っていたのです。

 そんな時に内観というものに出会ったのです。内観とは過去の自分と人との関わりを調べていくうちに、普段気付けない本当の自分の姿に気づくことなのです。

幼い頃両親を亡くし、家庭は崩壊し兄弟と離れ離れになり、親戚の家で育てられ、そこの姑、小姑にいじめられ、家を出て行った兄たちを恨みひねくれている自分でした。世間の波をかいくぐってきた私ですから、そんな嫌な思い出は露ほどにも表には出さず、我一人何とか生き抜くために歯を食いしばって頑張っていたのです。むしろ義理人情に厚い良き人間を演じて生きていたのです。気付いてみれば中身は醜い自分です。今の暮らしはほどほど幸せなのだとか、真っ当な生き方をしているとか、自分自身にも嘘をついている始末です。

それまでは人に物をもらうのが苦手でした。もらったならばお返しをしなければならないと思っていたからです。そして相応なお返しをすることが、義理堅いことだと思っていたのです。気が付いてみれば、私が人に物をあげるときは、人に良く思われたいとか、物をあげればそれ相当のお返しが来るはずだと、ひも付きのプレゼントを人にあげていたのです。ですから人から物をもらうのが億劫だったのです。何が義理人情の男伊達か、小賢しいだけのねずみ男ではありませんか。人のことをなじったり、批判できるような自分ではなかったのです。

 又こんなことも気付きました。「人を呪わば穴二つ」、こんな言葉があります。人を呪っちゃあいけないよ、人を呪うということは、呪われた人に呪いはかかるが、呪った自分の心の中にも呪いが生まれるのだから。自分の得にはならないよ、そんな意味でしょうか。ところが本当のところ、呪われた相手の人が腹痛でも起こすのでしょうか。人のことをいくら呪っても、相手は何の痛みも感じないのではないでしょうか。それより人のことを勝手に恨み、呪っている自分だけが面白くもない気持ちになるだけです。だから「人を呪わば穴一つ」なのではないでしょうか。自分の生い立ちの中で、裏切られたり傷つけられた人達をいつまでも放さないで掴んでいると、不幸せホルモンがしみ出ているのです。恨めば恨まれる、愛すれば愛される。愛も恨みも人のせいではありません。自分の心の中を愛で満たすのか恨みで満たすのかは、全部自分の問題なのです。 

 そのことに気付き、恨みを全部放したなら、何と幸せホルモンがどんどん湧いてくるではありませんか。見るもの聞くもの全てのものが美しく、私を祝福してくれているではありませんか。もともと大自然から許され生かされて見守られていたのに、自らが気付かなければ見ることも感じることもできなかったのです。

 

うれしさを 昔は袖に包みけれ

  今宵は 身にもあまりぬるかな  (蓮如)              

 

そう、ほどほどの幸せもある、それ以上を知らなければそれでも満足できます。でももっともっと大きな幸せがあることを知れば、その光に向かって歩きたくなるのではありませんか。

幸せの輪を広げよう