幸せホルモン物語

昭和六十二年頃、盛岡でレストランを二軒やっておりました。その一つが自然食レストラン「菜根亭」です。当時岩手県では珍しい存在でした。大阪の高島屋というデパートの人から一週間、難波の店で出店してくれと言われ、「岩手物産展」に出店いたしました。

 初日、朝一番で年配のご夫婦が見えられ、玄米定食を食べてくれました。気にも留めずにいましたが、午後三時過ぎに又来店され、食事をするのです。気になって声をかけました。

「何で又おいでになられたのですか」

「いやあ、私は枚方市から来ました。チラシを見て、自然食と書いてあったので、嬉しくて来たのです」

「何で自然食が嬉しいのですか」

「私はね、かつて腎臓の癌になりまして、病院の先生から末期なので治療は出来ません。と見放されて家に帰されたのです。だからといって、黙って死を待つことも出来ません。何とか直す手立てはないかと色々調べて、自然食とお灸に辿りつき、それで癌を治したのです」

そこまで聞いて私は、採算が合わない仕事と分かっていながら付き合いで大阪まで来てしまったが、そのお陰で大変素晴らしい人物に出会わせてもらったと思いました。私も自然食の店を通して色々な病人や健康志向の強い人達と付き合ってきたのですが、こんな珍しい人と会ったのは初めてでした。食事療法で癌は治ることはあります。しかし末期癌は食事だけでは治りません。まして肝心要の腎臓の末期癌ですから。唯一この大病を治せるのは幸せホルモンの分泌だけです。そこで私はもっと突っ込んで色々と聞いてみました。そうするとこういうことを話してくれました。

「床に寝ていて、時計が要りませんでした」と言うのです。

「なぜですか」

「子供は男の子三人、中学生、高校生、大学生ですが、みんな授業が終わるとクラブ活動もしないで、一目散に帰ってきて看病してくれるのです。学校というところは時間割で動いているので、毎日それぞれの子が帰ってくる時間が正確に決まっていますから」と言うのです。このお父さん、そのことが嬉しくて、ありがたくて、感謝感謝の日々だったと言うのです。それで幸せホルモンが出たのです。幸せホルモンが出てくると、嬉しくて心わくわくです。そして血流が良くなって身体がぽかぽかしてきます。そこで、お医者様でも草津の湯でも治らない腎臓の末期癌が治ったのです。その素晴らしい話を聞いて、私は嬉しくて涙が出てきました。医者に行ったら、奇跡だと言ったきり、言葉も出なかったそうです。先生は何で治ったのか理解できなかったのでしょう。このご夫婦は大病を通して、新の幸せを感じられたことでしょう。

また、私の友人から聞いた話です。その方は岩手医大で看護師をしていました。同僚の看護師が子宮癌になり入院しました。職場の中のことですから毎日お見舞いに行きます。いつも痛みを訴えていたのですが、ある日その同僚がこんなことを言いました。

「私は長年看護師として病人を見てきたけれど、その人達の痛みを分かっていませんでした。私は独身で分娩をしたことがないけれども、出産する時はこんな風に痛いのではないかと知りました。もし病気が治ったら今度はこの痛みの体験を無駄にしないで、今後の看護に生かそうと思います」

そのような志を立てたなら、何と痛みが消えたというのです。そして回りの人達に感謝の言葉を言いながら、その一週間後に安らかな死を迎えられたそうです。

自分ひとりが助かりたいと思っていた時には苦しくて、人様のために生きようと思った途端、幸せホルモンが出て安らかな気持ちになれたのでしょう。

つい先日のことです。姉から電話がありました。八十才になる義兄が末期の癌になって、いつ亡くなっても不思議ではない状態だと言うのです。妻と二人ですぐ自宅の方に駆けつけました。十日ほど入院して、薬が合うかどうか様子を見ましょうと、医師は言ったそうです。 

 今までは、いたって健康、趣味の旅行で北海道から沖縄まで全国を駆け巡るし、グランドゴルフの名手でもあります。それが食欲がなくなって病院に行ったところ、即入院。血算値が三千三百、正常値が四~八なそうですので、とんでもない数値です。前立腺癌が全身に転移しているので、生きているのが不思議なくらいだと言うのです。義兄は、そのことを伝えられても俄かに信じることが出来ません。胃癌や大腸癌なら分かるけれども、前立腺など今まで自覚症状がなかったからです。青天の霹靂ですが、本人も覚悟を決めました。息子も東京から駆けつけて来ました。

覚悟を決めたものの一番の気がかりなのが、その後の妻の生活です。そのことを話すと、息子がはっきりと「私が長男ですから、後のことは全部責任を持ってやります」と言ってくれました。嬉しい言葉です。それで一番の気がかりも取れて、自分の死をも受け入れたなら、何やら心も軽くなりました。

 担当の医師は、毎朝一番で様子を見に来ます。ところが当の本人は笑いながら掃除のおばさんや看護師さんと立ち話をしています。日に日に元気になっていく姿を見て、十日どころではなく、六日で家に帰されました。

 退院前に本人から姉に電話がありました。病室から見る街の灯りが、今までにないほど幻想的で美しいから見に来い、と言うのです。本当に私は物事を見る目がありません。入院していて寂しいから妻を呼んだのだ、などと思いました。姉を病院に送り届け、帰りました。ところが翌日、今度は九階の病室から富士山が美しく見えると言うのです。岩手山が初冠雪の日です。普段私たちは街中から岩手山を上の部分しか見ていません。ところが九階から見ると、今まで見たこともない裾野の方まできれいに見えたのです。その姿は真に写真や絵で見た富士山のように映ったのです。その景色が今までに見たことのない、何とも素晴らしいものだと言うのです。

それで私はようやく気が付いたのです。義兄は医師に末期の癌で余命幾ばくもないと告げられ驚いたけれども、腹を定め、すべてを受け入れたことで、幸せホルモンが出るようになったのです。

予定より早く退院して自宅に帰ってきました。私たちは慌てて何とか二階からベッドを下ろし、テレビも移動して下の部屋に寝室を設えました。それに対して義兄はお礼としてお小遣いをくれると言うのです。お見舞いも出さない私たち、せめてものお手伝いと思って働いたのですからとお断りをすると、これはお祝いだと言うのです。かつて内観を受けて気付き、第二の人生を歩んできた、今癌と言われ、また新たな第三の人生を歩んで生きたい。これは門出のお祝いなのだから受け取ってくれと言うのです。

本来なら末期癌で家に帰って来ると、そこには暗く重苦しい雰囲気が漂うはずです。それが何と明るいことか、義兄のお陰で私たちまで楽で明るい雰囲気に包まれるのです。幸せホルモンって本当に素晴らしいです。

その後も義兄は元気で、息子、娘の招待で河口湖の高級ホテルで一家水入らずの歓談の旅をし、その後数日経ってから、全国旅行で行きそびれ心残りだった天橋立にも行き、悔いのない日々を送っています。十二月四日の検査では、血算値百三十八まで下がったそうです。私たちが尋ねていくと、敗戦で苦労した北朝鮮での少年時代のことなどを話してくれます。

私は義兄にもっともっと元気になって長生きをして、世の人に幸せホルモンの素晴らしい力を示す、現し人になっていただきたいと思っています。

         二〇一二年十二月八日 記

 幸せホルモンが出ている状態を、ナチュラル・ハイと言ったりします。山に登ったりする時、歩き始めは息が切れて苦しいのですが、ある時点からスーッと楽に歩けるようになります。またジョギングをしている時も、苦しい時を抜けると気持ちよく走れるようになります。これらの時も幸せホルモンが出ているのです。

 また中治りという言葉をご存知ですか。長らく病に臥せっていた人が幸せホルモンが出て急に意識がはっきりして元気になることです。本人も心が落ち着き気持ちよいのでしょう。回りの人達に感謝の言葉を述べて、幸せにあの世に旅立ったりします。これも自然の法則のお慈悲の現れでしょう。

 幸せホルモンが出ると、血の巡りが良くなるので女性は肌がしっとりして目が潤み、美しくなります。男性が美しい女性を求めるのは、自然の理、幸せホルモンに惹きつけられるからなのでしょう。幸せホルモンが出ている男性はどうかというと、清潔でさわやかな感じです。風呂から上がってきたばかりのような雰囲気です。

幸せホルモンがあるということは、勿論、不幸せホルモンもあります。私はなるべくそういう人のそばには近寄らないようにしています。不幸せホルモンも幸せホルモンも人に伝播していくからです。だからこそ自分が先ず幸せになることです。そのことが回りの人達を幸せにすることに繋がっているのです。

 あるお母さんが言いました。「私はどんな不幸になってもいい、子供たちが幸せになってくれれば」と。とんでもないことです。先ず、親が幸せになって見本とならなければ、子供は幸せになれるはずがありません。幸せとは我一人だけではなしに、回りの人みんなが幸せになることなのです。

風雨有情
幸せの輪を広げよう