小林会長の「時節一言」 過去の掲載文
 

 第66回掲載文   市民の郷土愛醸成に寄与    〜郷土史の夕べ挨拶より〜
 第65回掲載文    「文化の歩みは百尺竿頭の精神で」  
 第64回掲載文    復刊10年 ・ 文芸「のぼりべつ」
 第63回掲載文   新たな短歌の道を願う
 第62回掲載文   避難所で川柳句会
 第61回掲載文   震災と動物達
 第60回掲載文  「艱難汝を玉にす」を信じたい
 第59回掲載文   地域文化の創造を目指す連携を
 第58回掲載文    「書の道は人の道」
 第57回掲載文   室蘭民報 新春インタビューに答える
 第56回掲載文   文化の日を期し想うこと ー表彰式の祝辞よりー   
 第55回掲載文   再び 白石市を訪問して
 第54回掲載文
   川柳「のぼりべつ」号 450号刊行を喜ぶ
 第53回掲載文   「心が晴れやかになる言葉、元気をいただく言葉」(7)
 第52回掲載文   「文化の光を見出したい」
 第51回掲載文   一年を振り返って
 
第50回掲載文   病院の待合室でもらった元気
 第49回掲載文
   文化の継承の礎に (21年度文協表彰式式辞抜粋)
 第48回掲載文   心晴れやかなる言葉 元気をいただく言葉 (5) 
 第47回掲載文   心晴れやかなる言葉 元気をいただく言葉 (4) 
 第46回掲載文  心晴れやかなる言葉 元気をいただく言葉 (3) 直心道場(じきしんどうじょう)
 第45回掲載文  心晴れやかなる言葉 元気をいただく言葉 (2)そっ啄の機」(そったくのき)
 
第44回掲載文  心晴れやかなる言葉 元気をいただく言葉 (1)「日日是好日」(ひび これ こうじつ)
 第43回掲載文  中国黒龍江省芸術団の公演においでください
 第42回掲載文   人間(ひと)はカルチャー(文化)に憧れる
 
第41回掲載文  桜花点描その3、その4
 第40回掲載文  桜花点描その1、その2
 第39回掲載文  文化の香り高いまちづくりを目指して
 第38回掲載文  書はこころの道 
 第37回掲載文  新年にあたって 
 
第36回掲載文  室民 新春インタビューに答える
 第35回掲載文  輝いて生きたいもんだ
 第34回掲載文  まずは郷土を知ることから始まる
 第33回掲載文  市民の希望と期待に応えたい
 第32回掲載文  創立四十周年記念誌に寄せて
 第31回掲載文  吟道のこころに触れて
 第30回掲載文  桜花点描
 第29回掲載文  万歳!! 男の料理
 第28回掲載文  「晩  鐘 (暮らしと祈り) 」
 第27回掲載文  「文化の香り高いまちづくりを目指して(2)」
 第26回掲載文  「わたしのガイアナイト」
 第25回掲載文  「文化の香り高いまちづくりを目指して」
 第24回掲載文  「冷凍ギョウザ中毒事件」
 第23回掲載文  「共に生きる心を」
 第22回掲載文  「祖父からのメッセージ」
 第21回掲載文  「輝く女性たち」         
 第20回掲載文  立ち合いの妙         
 第19回掲載文  「学社融合のパラダイム」      
 第18回掲載文 「文協フエステイバル」盛大に開催 
 第17回掲載文  「文化の香り高いまちづくりのために」―登文協が目指すことー  
 第16回掲載文  「メタボリに罹った詩嚢(しのう)」   
 第15回掲載文  「広げたい心の唄」           
 第14回掲載文   「和のこころが満つる詩吟にふれて」   
 第13回掲載文   「私と紙芝居」を読んで        
 第12回掲載文   「ブッタのことば・こよなき幸せ]      
 第11回掲載文   「暑中見舞いはがき」             
 第10回掲載文  「文章の底力」                
 第09回掲載文   「子守り歌の魅力(その1)」       
 第08回掲載文  「今のままの暮らし」           
 第07回掲載文  「和のこころで親子の絆を」        
 第06回掲載文  「江戸の食・医文化に学びたい」     
 第05回掲載文  「衣替え」                   
 第04回掲載文  「わたしと紙芝居」              
 第03回掲載文  「ありがとう」                 
 第02回掲載文  「風吹けば 落ち葉の海が 波立てる」  
 第01回掲載文  「荒地を耕し種を播く」       
   





「時節一言」 第45回目掲載 心晴れやかなる言葉 元気をいただく言葉 (2)
そっ啄の機」(そったくのき)

 昭和20年5月 私たち一家は神戸から富良野の山村に疎開しました。本当に食べ物が不足の時代でありました。伯母は4羽の鶏の雛を小脇にかかえて持ってきてくれました。雛はすぐに大きくなり、まもなく卵を生み食卓に花を咲かせました。

 その鶏の1羽がある日突然に消えたのです。私たち兄弟は、周りを懸命に捜しました。そして、3日後の夕方近く裏庭の竹やぶの中にうずくまるように卵を抱いている鶏をみつけることができました。静かに近づきみていたら、なんと卵を一個胸元においてやわらかく口先でつつき始めたのです。あっけにとられて見ているとどうも卵の内側からも割れかかっています。卵が割れた瞬間、私は目玉も体もいっぱいになり驚きで動けなくなりました。

 「そっ啄(そったく)」の言葉を知った私は20歳になっていました。この言葉のもとになっているのは“卵の孵化”です。「そっ」とは鶏の卵が孵化しようとするとき雛が殻内からつつくことであり、「啄」とは母親がそれに応じて外から殻内をつき、殻を破ろうとする意味です。

 もし、親鳥のつつくのが早すぎると卵の中はどろどろになり、雛は死んでしまいます。逆に遅れると中の雛は呼吸できなくなり死んでしまいます。言うまでもなく、そっ啄の機」というのは、親鳥が孵化しようとしている卵をつつく、雛が卵の中からつつく殻を破ろうとするその呼吸がぴったりと合うことであります。正に命がけの行いでありました。教師であった私はこの言葉を大切にしてきました。

 子ども一人ひとりの成長をしっかりと見つめ、「今がチャンス」「今時しかないチャンス」と言う好機を見逃すことなく、適時適切な指導が出来なくてはプロフェッショナルとは言えないのだと自分に言い聞かせてきました。

 しかし、なかなかうまくいく場合は少なかったかもしれません。教育だけでなく、人間関係の中でもタイミングが早かったり、遅くなって失敗したなあと思ったり。しかし、「早すぎず、遅すぎず、まさにこの時」と思うタイミングを逃さぬようにと意識していることが大切であろうと思っています。

 後になって「そっ啄」は禅宗の修行の言葉であることも知りました。それは機を得て、学人と師家との両者の心が投合することを例えたのでありました。そういえば、私が満5才という幼少時にそっ啄の鶏に出会ったのも、ものの見方、考え方を培う「そっ啄の機」であったかも知れません。

   










「時節一言」 第44回目掲載 心晴れやかなる言葉 元気をいただく言葉 (1)
「日日是好日」(ひび これ こうじつ)


 唐国の雲門宗の開祖である雲門禅紙師の言われた言葉である。
 雲門宗は、禅の五家七宗の一つであり、雲門高層が韻宗(いんしゅう)の雲門に住み、独特の宗風をつくった。宗祖以後200年ほど続いたが、南宗末に衰退し、日本には伝わらなかった。

 しかし、上記の言葉は脈々と生きているから不思議といえば不思議である。雲門禅師曰く一日一日がよき日となり毎日毎日が悦びの日になるべきだ。
 我々は充実した人生を生きなくてはならない。健康が充実し、知恵が満ち溢れ、悦びが一杯で、物質も豊かであり、平和が充満し、幸福に満たされていなければならないのである。

 「我が酒杯(さかずき)はあふるるなり」
 我々の生命の杯に、歓喜が溢れ、感激が溢れ、感謝が溢れ、恩恵が溢れ、歌が、笑みが、祈りが、そして生きる張り合いが溢れていなければならないと。

 「日々是好日」であろうとすれば人生を賢明に、誠実に、情熱を持って生きなければならないとつくづく感慨をもった。
 しかし、そうは言っても何をどう生きるといいのだろうか。
 雲門禅師は説いている。人生は、すなわち「生」とは多元的な行動体系であり、人生というこの創造的な綜合芸術を美しく構成、形成しなくてはならないと。人生の綜合芸術の要素と何か。

 それは生きるということはいかなることなのかと問い続けることだという。
 そして
  ・ 生きるということは学ぶことだ、 ・生きるということは愛することだ
  ・ 生きるということは働くことだ  ・生きるということは対話することだ
  ・働くことだ。 ・闘ふことだ。 ・読書することだ。 ・考えることだ。
  ・信じることだ。・出会うことだ。 ・追求すことだ。  ・修業することだ。
  ・表現することだ。・楽しむことだ. ・管理することだ。 ・売春することだ。
  ・関係することだ。・奉仕することだ。・達成することだ。・離別することだ。

 の20項をあげている。実に深い意味がある。雲門宗は衰退しても、言葉が脈々と生き残っている。言語のもつ力の偉大さを感じ取った。私の机上には、写真の楯をおいている。大切にしている言葉の一つである。(2009/09/10)

   <参考文献>  「雲門語録」(〜949) 「国語大辞典」(小学館)              

   









「時節一言」 第43回目掲載 中国黒龍江省芸術団の公演においでください 会長  小林正明

 「新涼や 犬がよろこぶ夏の揺れ」新涼は秋の季語です。

 お盆が過ぎると周りも秋の気配を感じる頃となりました。。

 さて、823日(日)午後430分 登別市民会館 大ホールで上記のイベントがあります。

 北海道と黒龍江省とは、今から22年前に友好提携の調印をしました。以来、文化交流が始まり、隔年相互訪問が道文協を中核として行われてきました。  

 この度、道文協の推薦を受けて登別公演が実現しました。

 歌曲や劇、二胡の演奏など素晴らしい中国伝統舞台芸術を堪能していただけると思います。当日券は立見席となり限りがありますが、皆様方のお出でをお待ちしております。(2009/08/20)

   問い合わせ  登別市文化協会 事務局  TEL0143−85−8886

   












「時節一言」 第42回目掲載 人間(ひと)はカルチャー(文化)に憧れる  会長  小林正明


 山の木々も深い緑色が広がる時節となりました。本来なら、過ごし易い頃なのですが、何ともすっきりしない天候が続いておりますね。理事の皆様には、お元気でお過ごしでしょうか。

 20年度を振り返りますと、これまでの成果を踏まえ着実に歩み続けていることです。

 平成22年には創立45周年を迎えます。各団体は諸活動を展開する中で、文化の香り高いまちづくりのために、会員一丸となって研鑚努力を重ねている姿があります。各ジャンルは、全国全道の大会等で高い評価を受けております。自分がこだわり続け追求していることは自分達だけのものではないのです。市民の豊かな心づくりと生きがいに寄与しているのです。日々研鑚の積み上げが、地域文化の創造と発展に寄与することになり、私共の役割であることをみんな体感しているのです。諸活動を通して「町づくりは人づくり、人づくりは文化づくり」のために精進努力することが最も大切なことであることを共有できていることを嬉しく思います。

 「文化」という言葉は、英語では「カルチュア、カルベート」で、「土地を耕す」という意味のラテン語に由来するものです。それぞれの国に、また、それぞれの土地には、そこに根付いた固有の特色を生かした文化があります。それは、長い年月をかけて、生活と密着して培われてきたもので優れた才能による創作活動の成果が人々に受け継がれてきたものが伝統として今日あるのだと思います。そして、この創造の中には、一見伝統に反逆するような大胆な試みが内包されなければならないと思います。そうして栄えるものだということは、歴史が証明しています。すなわち、先人が創りあげた伝統を重んじながら、新しいものへのあくなき挑戦を続けるということです。あたらしい文化創造、魅力ある文化団体の創出、いつも私がいうところの『動く文協』の基本の考えであります。そこから、「他人を思いやる優しい心は、文化に接し、親しむことで生まれる」と言えると思います。

 地域の文化振興と発展に寄与するための活動を創意と工夫を凝らした勇気を持って実践することが市民に期待され愛される文化団体の生命です。社会的地位もこのことが原点です。

 さて、21年度の事業について、私から次の三点について簡潔に話します。

 一つに、北海道及び北海道文化団体協議会の要請を受けて、中国黒龍江省芸術団の公演を8月23日に開催します。ご存知の通り本市は中国の広州市と姉妹都市提携を結んでおりますが、中国文化に触れる機会がありませんでした。これを機会に市民の方々に中国芸術を鑑賞する機会を提供して、国際化社会の中の登別の1ページを作りたいと思います。皆さんに趣旨しっかりとご理解いただき、成功のために是非とも一丸となって力をいただきたいと思います。

 二つに、白石市文化協会との交流事業についてです。実は私共の40周年記念事業として、平成17年2月に交流団を組織して、白石市を訪問いたしました。22年に白石市文化協会が40周年を迎えるにあたり、当市を訪問したいとの要請がありました。日程など詳細になっておりませんが、私共温かい歓迎をいただいたので、具体的になりましたら改めて理事会で決めていただきたいと思います。

 三つに、先ほど申した「動く文協」をスローガンとして進めている我が文協、会費を値上げし、ぎりぎり切り詰めた予算のもとでの執行であります。皆様方の協力は勿論ですが、会計担当や事務局の並々ならぬ切り詰め努力で、何とか乗り切っております。 会計プロジェクト」のもとに今後のあり方をいろいろ検討してまいります。このことを視座に入れて取り組みます。

「登別窯の会」から加盟申請があり、総会にて承認されました。これで加盟団体は37となりました。どうぞ仲良くしてください。

 何より大切なことは、各団体の活動が自分達のためだけでなく、市民の目線に立った多角的に且つ客観的な反省と評価をすることです。そして、文協が、真に社会貢献する団体となるためには、他機関、団体をいろいろな機会に市民各層の願いや要望意見を謙虚に聞き入れて、適確正確に把握するとともに内容を分析して論議を重ね、方向付けることがも大切です。具体的に何をどのように実現していくことが、文化の香り高いまちづくりを目指すことになるのか。「市民活動センター構想」や「文化交流館・カント、レラ」「知里真志保生誕100年、知里幸恵記念館などのアイヌ文化振興」などに文化の振興と発展に寄与することは何をなすことなのか。真剣に考え取り組みます。新時代に対応する文協像を見出し、将来の展望を構築したいです。

 確かに、今日の日本には、厳しい状況にありますが、「元気、勇気、やる気」の三気の精神を大切にして、明るい笑顔で地道に粘り強く登別の魅力ある自立した文化創造に努めたいものです。

                    (21年度 第一回理事会 挨拶要旨)     


 

   













「時節一言」 第41回目掲載 桜花点描その3  会長  小林正明


 こうして、春の桜は"花王"と言われ、淡紅白色の花容は古来、特に日本人に賞されてきた。花と言えば咲くあのことであり、"国花"とされ、菊の花と並んで人々に慕われている。
爛漫と咲き誇ったばんだの花の散り際のあわただしさが愛惜されるのである。最も早く咲く彼岸桜の美しさ、山桜の優雅さとその散り際清さに私たちの先祖から心動かしてきたのであろう。武士文化の多くの場面で、桜が武士に結び付けられるのはやはりその散り際の美しさ、潔さであったのだろう。「花は桜木、人は武士」に象徴される日本人特有の文化について、新渡戸稲造の「武士道」と、古今や万葉など歌人が詠んだ短歌の中から、日本人と桜の係わりをもっと知りたいと思い調べることにした。

 本居宣長は、
   「しきしまのやまとの心を人間はば 朝日にも匂ふ山桜花」
 清少納言は、
   「桜は、花びら大きに 葉の色濃きが枝細く咲きたる」
と枕草子34段で山桜を賞賛している。

 在原業平(ありはらのなりひら)は、古今集に
   「見る人もなき山里のほかの散りなむのちぞ咲かまし」
とある。同じく
 素性法師(すじょうほうし)は、
   「たれこめて春の行方もわかぬまに待つし桜も移ひにけり」
 藤原因香(ふじわらのよるか)の作
   「咲いた桜になぜ駒つなぐ駒がいさめば花が散る」
 芭蕉の句に、
   「さまざまの事思ひ出す桜かな」
   「命二つの中に生たる桜かな」がある。
 桜の散り際の美しさで印象的なのは、「伊勢物語」(82段)に描かれているこれ喬親王(文徳天皇の皇子)が桜の名所・三無瀬を訪れた場面である。馬頭(うまのあたま)というのは、在原業平のことだといわれるが
   「世の中の絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」
という歌を詠んだ。

 これは表向き「この世の中に全く桜が無かったら、春の心はのんびりとしたものであろう」という意味だが、その真意は「桜が無かったら散るのを心配しないですむ」という、事実に反した仮定を通して、かえって桜を讃えた歌と解釈されている。(渡辺実校注「伊勢物語」新潮社)この歌に対して別の人が詠んだ歌が
   「散ればこそいとど桜はめでたけれ 浮世になにか久しかるべき」
である。これは「あっさりと散るからこそ、桜はますます賞美に値するのだ。そもそもこの辛い世の中で、何が長続きするであろうか」の意味である。(前掲 伊勢物語)



                桜花点描 その4

 新渡戸稲造は、「武士道」の中でつぎのように熱をこめて大和魂と桜を讃歌している。本居宣長が、「敷島の大和心を人間はば朝日に匂う山桜花」と詠じた時、彼は我が国民の無言の言を表現したのである。しかり、桜は古来我が国の愛花であり、我が国民性の表象であった。特に歌人が用いたる「朝日に匂う山桜花」語に注意せよ。
 大和魂は柔軟なる培養植物ではなくして、自然物という意味において野生の産である。それは我が国の土地に固有である。その偶然的なる性質については他の国土の花とこれを等しくするかも知れぬが、その本質においてはあくまで我が風土に固有なる自然的発生である。しかしながら、桜はその国産たることが吾人の愛好を要求する唯一の理由ではない。その美の高雅優が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花も及ぶところではない。薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分かつことをえない。薔薇は桜の単純さを欠いている。さらにまた、薔薇が甘美伸の下に刺を隠せること、その命に執着すること強靭にして、時ならず散らんよりもむしろ枝上に朽つるを選び、あたかも死を嫌い恐るる如くであること、その華美なる色彩、濃厚なる香り気分全てこれらは桜と著しく異なる特質である。
 我が桜花はその美の下に刃をも毒をも潜めず、自然の召しのままに何時なりとも生を棄て、その色は華麗ならず、その香りは淡くて人を飽かしめない。およそ色彩形態の美しさは外観に限られる。それは存在の固定せる性質である。これに反して香り気持ちは浮く浮く動しく、生命の気息のごとく天にのぼる。この故人ゆえに全ての宗教上の儀式において、香りと没薬は重要なる役割をもつのである。香りには幽霊的なる或るものがある。太陽東より昇ってまず絶対の東嶼を照らし、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸いいるにまさる清澄爽快の感覚はない。
 世界に武士道を謳歌した新渡戸稲造の原著"BUSHIDOU"(丁未出版発行)の表紙の左下に、先の本居宣長の歌、
    「敷島の大和心を人間はば 朝日ににおうふ山桜花」
をかな文字にして、
    「しきしまのやまとこころを人とはば 朝日ににほふ山ざくらかな」
と印刷されている。新渡戸は、この歌からもののあわれさを感じ取り「花は桜木、人は武士」という武士道精神を極めたにちがいない。
 新渡戸は終りにこう記している。
 しからばかく美しく散りやすく、風のままに吹き去られ、一道堂の香り気分を放ちつつ永久に消え去るこの花、この花が大和魂の型であるのか。日本の魂はかくも脆く消えやすきものであるか と。

 
 参考文献 <いま 新渡戸稲造 武士道を読む 志村史夫著 三笠書房>
      <新渡戸稲造の原著 "BUSHIDOU"(丁未出版発行)
      <国家の品格 藤原正彦著 新潮新書>
      <室蘭民報 忙中閑>
      <北海道新聞 卓上四季> 

                          平成21年5月26日

 

   














「時節一言」 第40回目掲載 桜花点描その1   会長  小林正明


 三月初旬から始まった桜前線がつい北海道にやてきた。沖縄を起点に計算すると約2ケ月の長旅だという。札幌気象台は4月8日、今年最初の道内でのサクラの開花予想を発表した。好天に恵まれ開花が全10地点で平年より2〜6日早くなるということであった。日本気象協会道支部もその頃今年4回目の予想を発表、対象の全14地点のうち、松前町を除き3回目より1〜3日早めた。最も早い開花は函館市と同町の28日、次いで札幌市と江差町の30日とした。
 ゴールデンウイーク中に道内各地で桜花を楽しめることになるだろう。
 と思っていたら、17日、テレビの山形、宮城県各地のソメイヨシノ満開画面に目を奪われた。さらに驚きは同日の北海道新聞の室蘭、胆振版。伊達市の大雄寺境内にあるチョウセンザクラが開花した記事である。昨年私が訪れたときは例年より10日も早く開花したとのことだったのに、なんと5日も上回ったのだ。確かにこの桜の木は樹木高さが2、3メートルほどで、実に美しく愛らしい薄桃色の花が魅力である。
 私は居ても立ってもならず、早朝のJRに乗って出かけることにした。
 
 私が、桜を意識したのは幼少時代にさかのぼる。私の出生地は兵庫県鳴尾村であり近くには甲子園があった。物心がつくころから、両親はよくここ阪神パークで遊ばせてくれた。公園いっぱいに桜木があって、一本の大きなソメイヨシノの下でお握りを頬張ったものである。父の膝に抱かれて、笑顔の母親がいつもそばにいた。幸せとはこういうものではないのかと小さい体で感じたに違いない。ひらひらと桜の花びらが舞っていた。
昭和20年5月、私たち家族は富良野の布礼別に疎開した。暮らしは衣食住どれも言葉では表せない艱難辛苦が待っていた。納屋を改造した小さな我が家のすぐ側に一本の大きなヤマザクラがあった。私は5歳からの数年間喜怒哀楽を春夏秋冬、この桜木の生長に合わせるように春を待ち、見守られ暮らしてきたに間違いない。私の内面には桜木に対する感慨が、人一倍強いものがあるのかもと思っている。

 白老町の虎杖浜(こじょうはま)には、名湯として名高い"つるつる湯"として知られるアヨロ温泉がある。
 私が好きな温泉の一つである。それにこの海辺の街の静かなただずまいが心和ませてくれる。海風にあたりながら路地を曲がると、どの家の庭にも小さな桜木やツツジ、梅の木など大切に植えられ、人々の心に伝わってくる。早咲きの木々に愛らしく蕾が並んでいる。
 浜の女性達が、笑顔一杯に大きな声の中で、宋八カレイを干す作業をしている。このような溌剌とした元気がどこから湧くのだろうか。きっと生きのよい海産物を朝夕ふんだんに食べているからだろうとつくづく思う。あちこちの軒先にいろんな四季折々捕れる魚が干してある。軒下を通ると干し物のうまそうな匂いと礒の匂い、ほんのりと花の匂いが入り交じり、私は昔懐かしい空気に溶け込むのである。毎年今ごろになると漂う、私の育った原風景と虎杖浜の四季折々の香りと光景が何故か重なるのである。

 私は昭和55年の春、仕事でアメリカ・ワシントンを訪れる機会を得た。ワシンントン市街を流れるポトマック川沿いには、東京荒川堤から持って行った桜木が並んでいる。ちょうど七分咲きの頃であった。私と同僚は外国で観ることができたことに感激してしばらくはその場を離れることができなかった。日本の桜より美しく思った。
アメリカ人にとってもそれは美しいと思っているのか「ワンダフル」とか「ビューテイフル」と呟きながら通り過ぎていく。一斉に首を上げて感慨深く桜の花をいつまでも観ている私たちを怪訝そうに不思議そうに数人が取り囲んだ。
 桜の花に儚い人生を投影しつつ、美しさに長嘆息する日本人とは大きな違いがあるのだなあとつくづく思った。


               桜花点描 その2

ところで、私の友人であるM・K氏は大の桜好きである。
彼は、毎年九州から北海道の桜前線を先回りでマイカーの中で寝食して走るのには感心するというよりこの"全国縦断"にはあきれるくらい驚いている。
しかしながら、その紀行文がおもしろい。以下、彼の許しを得たので紹介したいと思う。
           「桜追い人の独白」
 私の生まれ・育ちは九州は福岡県。北海道に来た最初の年に日高の桜並木(二十間道路)に花見に行こうと誘われた。ところが山桜がほとんど。私のイメージした「ソメイヨシノ」がほとんどなく、裏切られた想いがあった。
 
 その時から、北海道にないものは「レンゲ・菜の花・桜吹雪」と言い続けた。それが約40年前、その頃から退職したら全国の桜を追って、鹿児島から北上する旅をしようと心に決めた。
 
 退職した昨年は4月8日に札幌を出発して、最初の桜との面会場所、奈良の吉野山へ車を走らせた。だがここは車が多く、駐車場もなし。次の機会は早朝か、公共の乗り物で来るべきことを悟った。
 
 昨年、一番感動したのは福島県三春の「滝桜」たった1本の薄紅枝垂れ桜の木にシーズン中30万人の人が訪れたという。それだけのものはあった。因みに北海道では松前町が桜の名所である。ここは250種類、1万2千本の桜があり、3月下旬から6月中旬までいろんな花が楽しめる。この松前がこの2ケ月間で訪れる人が30万人ということがからやはり「たった1本の桜」に30万人の人は桁違いと言わざるを得ない。
 
 秋田県の八郎潟に「菜の花と桜ロード」というのがあった。これはたまたま通りかかって発見した並木である。12キロにわたって、桜と菜の花を植えた道路である。そのうち、5.5キロはソメイヨシノの並木。この時3分咲きで、2日間粘ったが5分にも咲かなっかた。そして今年は開花が早過ぎて、見事に散っていた。また来年へのたのしみである。

 次は弘前公園の満開のソメイヨシノは見ごたえがある。私は3回訪れたが、3回とも満足した。一見の価値はある。でもここも散ったあと。その分、岩木山の麓にある「世界一長い桜並木」20キロの道路の桜と、桜林公園の見事な桜を見られたことはラッキーだった。
 
 今年は1月の沖縄から始め、3月の鹿児島から北上を始めた。フエリーに車を乗せて、苫小牧から一気に宮崎へと移動。だが宮崎も鹿児島も満開まで半月以上かかって、九州をぐるりと一周してもソメイヨシノの満開にはお目にかからなかった。これは来年への持ち越し。
 
 やはり滝桜は見応えはあるが、最初ほどの感動はない。今年は京都平安神宮の紅枝垂れ桜が見応えがあった。平安神宮の建物の派手さに負けない鮮やかな色で、多くの人の溜息を誘っていた。ただし人が多くてなかなか前に進めないことは覚悟すべき。

 今年の1番目の感動した桜は、盛岡の1本桜。昨年のNHK朝の連続ドラマ「どんと晴れ」で有名になった桜だ。これは「エドヒガン」と呼ばれる種類。この「エドヒガン」は各地で古木が多い。特に山形県にある天然記念物になっている桜「久保桜」「明神桜」はいずれも1200年もの古木だそうだ。

 変わった種類の桜では「御衣黄(ぎょいこう)」という緑の桜。松前にはこれが2,3本しかないと言われている。この花に秋田県の「日本国苑(にほんこくえん)」と言う名の公園で会った。初めて聞く人は「え?」と驚かれるが、本当に緑色である。私は10数年前ほど前に松前からこの「御衣黄」の苗を購入してきたが、一昨年、これは「鬱金」という名の桜だと判明した。その鬱金桜、53日ぶりに帰宅した私を満開で迎えてくれたのはある種の感銘を受けた。我が愚妻に言わせると緑色の花なんて少しも綺麗じゃないと言う。だがこの鬱金、御衣黄と違うのは、緑色の部分が少しずつ赤に変わっていきところである。今はほんのりと赤みを増して、酒に酔った妙齢のご婦人のようで、私には可愛い花である。

 今年は53日間、走行距離7090キロ、無事に帰り着いたことで、言うことなしである。来年は日本海方面の桜を追うつもりである。


                          平成21年5月14日
 

   














「時節一言」 第39回目掲載  文化の香り高いまちづくりを目指して  会長  小林正明


 20年度を振り返って言えることは、創立40周年以来の一定の成果を踏まえて、「再生文化元年」を着実に歩み続けていることである。各団体は創意工夫を重ねながら事業や活動を展開する中で、文化の香り高いまちづくりのために、会員一丸となって一生懸命に努力を重ねている姿が顕著になっているということである。私はこのことを"会員の文化度が向上している"と表現したい。飛躍的な言い方になるが実は今自分がやっていることそのことが、市民が文化活動に対する関心興味を高めることにつながり、当会の目指しところの「町づくりは人づくり、人づくりは文化づくり」という基本精神に連鎖しているということである。すなわち地域社会の創造と発展に寄与するという最も大切にしていることが着実に共有できてきたことが何よりも嬉しい。

 新しい時代に即応する市民の目線に立った文協像が見出そうとする会員の思いを垣間見ることができる。そのことを証明する証明したひとつに今年節目の年を迎えた五団体の記念事業がある。
 登別市音楽協会は7月23日「登別市音楽協会40周年記念コンサート」を作曲家白川雅樹を招聘して開催した。小中学生のピアノ発表、声楽家平塚圭子さんとの共演で盛会であった。
 登別美術協会は10月23日〜25日「創立30周年記念第30回公募展」を登別青嶺高校美術部の参画のもと充実の公募展となった。作品数は88点で秀作が表彰された。
 
 登別俳句協会は11月に「創立40周年記念事業として登別子ども俳句大会優秀作句碑3作品をのぼりべつ文化交流館敷地内に建立した。夢の子ども文学の道の先達となったのは確かである。
 登別歌人会は、創立40周年記念事業として「紫蘇の実」を刊行した。
 登別合唱協会は、11月8日「創立30周年記念登別コーラスフェステエイバル」を公演した。この中の"歌劇カルメン"は満館の聴衆を魅了した。全て手作りであり、一般市民参画の意味は大きい。

 文協が、自主自立して真に社会貢献する団体となるためには、多角的に且つ客観的な反省と評価を重ねながら他機関、団体や色々な機会に市民各層の願いや要望意見を謙虚に聞き入れて、適確正確に把握することが大切である。その内容を分析して論議を重ね方向づけなくてはならない。「動く文協」をスローガンとする歩みの出発点である。確かに今日何かと厳しい状況にあるが「創意、総意、熱意」の三意の精神を大切にして、
地道に粘り強く登別の魅力ある特色ある文化の創造に努めたいものである。

                   〜文協たより 第36号 巻頭言より〜                                                
                          平成21年3月31日

 

   















「時節一言」 第38回目掲載  書はこころの道   会長  小林正明


 第39回登別小中学生書初め展表彰式の受賞された皆さんに、お祝いの言葉を申し上げる機会をいただいたことを大変嬉しく思います。登別市文化協会には36団体が加盟していて2100余名の会員がおりますが、代表としてお祝い申し上げます。

 この度受賞された45名の皆さん、誠におめでとうございます。皆さんは、昨年を上回る500数点の作品の中から、審査の先生方の慎重かつ厳重な審査を経て見事に入賞されました。

 私は、皆さんが入賞されたのは、応募された作品が素晴らしかったのは、もちろんですが日頃から一生懸命に書道の勉強をしていることの成果が認められたからだと思います。

 「書初め」は、新年に初めて毛筆で文字を書く行事です。これは、今から300数年前の江戸時代、今の学校が出来る前の寺子屋といって、子どもたちがお坊さんやお侍が先生になって、主に「読み,書き、そろばん」を教えていた頃から始まったと聞いています。その頃からめでたい意味のことばや、自分の決意を書道で表現したそうです。

「ふではじめ」とか「書き初め」「古書初め」と言われて、次々と人々に広がっていきました。皆さんと同じ、昔の子どもたちも心を込めて、真剣に、一生懸命に書いたのでしょうね。今日の嬉しさを忘れずに、一層勉強して努力されることを心から願っております。

 ところで皆さん、私は子どもの時から書を鑑賞するのは好きですが、書くことは得意ではありません。でも、小学校6年生の時の学校書初め展と、高校2年生の時に富良野文化祭で入賞したことをよく覚えています。その時、お二人の先生の言葉を今でも思い出します。

 それは次のようなことでした。「書道は、文字を書くための技術を磨くのは大切なことだが、それだけではないんだよ。書にする一文字一文字には、日本の歴史があり意味があり、私たち祖先の風土や文化や生活の思いが込められているんです。だから、文字そのものに意味があり、生命があるのであす。筆を持っても書き上げるとき、文字と言葉の意味をしっかり勉強して、自分のものとして捕らえることが大切なんだよ。強さやしなやかさ、太さの違いの中に、君の思いや心のおもむきを表現することが大切なのです。そして、最も大切なことは、感謝する心と礼儀作法なのです。」このようなことでした。書を鑑賞する観点はいろいろあるでしょうが、私は、展示されている作品を見ていると、少しオーバーと思うでしょうが書いた人の心や人柄が、話し掛け文字と語り合いできることが、魅力であり感動を覚えます。気持ちがゆったりとします。

 皆さんどうか、これを機会に、一層書道の学びを通して、心豊かで、やさしく人を思いやることができる立派な社会人になるためにも、毎日元気に一日一日を大切にして勉強されることを願っています。

 登別小中学生書初め展は、当会が発足いたしました昭和44年の翌年から39年の長きにわたり、伝統芸術の伝承、そして健全育成を願い継続している北海道の中でも誇るべき展覧会であります。このようにして、継続しているのは会員一人一人の書道の将来を思う思いと結束力の賜物と存じます。主催されました登別市文化・スポーツ振興財団、登別書道連盟に敬意と感謝を申し上げ、お祝いの言葉と致します。

                

 −登別小中学生書初め展 表彰式祝辞よりー

   












「時節一言」 第37回目掲載  新年にあたって   相談役 小林碧水

   

 四方嶺選者の諸先生、同人の皆様、川柳「のぼりべつ」をご支援くださる皆様におかれましては、お元気で新年をお迎えのことと存じます。

 多くの皆様のご支援と、柳社スタッフの心を一つにした運営により、川柳「のぼりべつ」も434号まではっこうすることが出来ましたことを嬉しく思います。

 さて今年は丑年です。諸橋撤次氏の「十二支物語」によりますと、牛の文字は獣の形そのものから作られ「大漢和辞典」には牛の部に属する文字は310あると書いてあります。お正月にたくさんご馳走を食べたことと思いますが、ご馳走は「大牢」と「小牢」に区別され、大牢の滋味といえば必ず牛が入っているようで、神に捧げる「犠牲」(いけにえ)は牛と決まっていたそうです。「牛耳る」と言う言葉は牛の耳を割いて、その血をすすり、諸侯が盟約を結びその盟主となったことから転じて、「牛耳る」となったそうですが、心に対する「物」「九牛の一毛」「牛にひかれて善光寺参り」や七夕の「牽牛織女」「鶏口となるも牛後となるなかれ」等々、日常の暮らしに密着した言葉が沢山あって驚きました。時に牛のようにじっくり噛みしめて歩くことも必要かとも思いました。

                            川柳のぼりべつ434号 巻頭言














「時節一言」 第36回目掲載  室民 新春インタビューに答える    会長  小林正明

 

 Q1.昨年一年間を振り返って

 20年度は、創立40周年の成果と評価を踏まえて新たに出発を決意しての「再生元年」と称してから3年目の年であった。

 20年度を振り返って言えることは、これまでの成果を踏まえて着実に歩み続けていることである。各団体は諸活動を展開する中で、先人が残された血と汗の結晶である文化遺産を継承することの大切さの認識を高めている。
 そして文化の香り高いまちづくりのために、会員一丸となって研鑚努力を重ねている姿がある。会員は日々の積み上げが、実は地域文化の創造と発展に寄与することになり、当文化協会の目標、役割であることを活動の広がりの中で体感している。
 「町づくりは人づくり、人づくりは文化づくり」という基本精神の実現のため惜しまず精進努力することが最も大切なことであるを共有できてきた。新時代に即応する文協像を見出そうとする会員の思いを知ることができる。しかるに、今日ある文協の歩みを、市民の目線に立った多角的に且つ客観的な反省と評価をすることが大切である。すなわち文協が、自主自立して真に社会貢献する団体となるためには、他機関、団体やいろいろな機会に市民各層の願や要望意見を謙虚に聞き入れて、適確正確に把握することが大切である。その内容を分析して論議を重ね方向づけしなくてはならない。「動く文協」をスローガンとする歩みの出発点である。

 Q2.20年度の主な事業やできごと等について

   ◇ 登別市音楽協会「登別市音楽協会40周年記念コンサート」作曲家白川雅樹氏を
   招聘して開催。

    7月23日(水)於登別市民会館大ホールにて。20年度市民文化祭事業の一環
    小中学生のピアノ発表。登別フイメールコール、室蘭マリン少年少女合唱団、
   声楽平塚圭子との共演で盛会。

  ◇ 道文協主催、胆文協,、登文協、大正琴愛好会主管事業「大正琴登別大会」 
     9月7日(日)於登別市民会館大ホールにて 5市町100人参加。大正琴の発表は
     当市では初めて、平成16年に苫小牧市での開催以来。事務局と大正琴愛好会との連
     携が功を奏して成功裡に終了。

 ◇ 登別美術協会「創立30周年記念第30回公募展」高校生の秀作出展、充実の公募展
   10月23日(木)〜25日(土)於鷲別公民館 作品数88点(登別青嶺高校美術
   部の作品11点) 同月25日に授賞式(最高賞 岩崎良子氏、文化協会会長賞 
   菊地妙子氏) 11月8日に記念祝賀会 於ホテル平安  


     登別俳句協会 創立40周年記念 登別子ども俳句大会優秀作句碑建立
     子ども俳句大会は第4回目、各学校にて表彰。今までの最優秀3作品を「のぼりべつ
    文化交流館」敷地内に建立。夢の子ども文学の道の先達となる。
    協力 登別書道連盟事務局長 吉野朴静氏、門下生の青葉小学校 須田夢加さん。


      登別合唱協会「創立30周年記念登別コーラスフエステイバル」
     11月9日(日)於登別市民会館大ホール実施。歌劇カルメン満館聴衆魅了。
    結束力実る。20年度市民文化祭事業の一貫。登別市音楽協会協力。
    シルバー
HG、すずかけコーラス、合唱団あすなろ、さざなみコーラス、室蘭
    合唱団が友情共演。
    構成、指揮大橋 猛氏、約1年間練習を継続。舞台道具、衣装全て手作り、
    一般市民参画の意味は大きい。


  登別歌人会「創立40周年記念合同歌集“紫蘇の実”」を発刊。
     12月6日(日)合同歌集“紫蘇の実”は館記念祝賀会。
    現会員20人(1人20首)旧会員20人(1人20首)の短歌を収録。
    300部印刷。図書館等公共施設にも提供。
    “紫蘇の実”の由来は紫蘇(四祖)、40周年、投稿者40人の懸詞とか。

 ◇ 登別郷土文化研究会が宮武紳一氏著「郷土史探訪◇郷土史点描」を発刊。
   A5判350ページ、400部、宮武氏研究成果の大成作、郷土の愛着満載、大好評

  ◇「市民文芸のぼりべつ」執筆陣が多彩、内容充実、第27号刊行。
        創作4、随筆9、登頂記1、自分史1、童話1は短詩形中心の文芸誌から大きく
      転換。編集委員の願いが叶った。
      登別明日中等学校 山本 絢子さNの意欲作投稿が光る。
      財政難を克服して自主独立、市民支援層が厚くなったのが要因。

 ◇ 「第4回新春ダンスパーテイー」3月1日(日)登別社交ダンス協会協力。
   基金
造成事業。

◇ 「文化大集会」 文化◇スポーツ財団、体育協会との三者連携事業。

   2004年より市民参加できる文化、スポーツを実施。ねらいは青少年健全育成事業
   の展開。
   推進は
2008文化スポーツ振興実行委員会、北海道で唯一。
    20
年度は3月、元STVアナウンサー喜瀬ひろし氏を招聘。
   子ども達を対象に実技。一般に講演会実施。



Q3 秋の市民文化祭など、課題について

 毎年恒例の「市民文化祭」第44回目 9/7〜11/26までのロングラン。
  加盟36団体中31団体が参画。財団、文協の共催。
  主会場は市民会館、鷲別公民館、鉄南ふれあいセンター。
  11・1〜3の地区展は光和園、旭ケ丘三恵園、若草つどいセンター等の
  公共施設で開催。

   111日に各団体代表等による鑑賞会を実施。市長・教育長等幹部も同行。
   今年度の特徴は、ステージ、展示共ジャンルの広がりとレベルアップ。
  地区展は小、中学校、保育所、幼稚園、病院など多くの子どもから高齢者が参加。
  魚拓、美術協会等加盟団体との連携が成果を上げる。一層の連携が課題。

  各地区諸文化サークルに加盟PRすることが必要。

Q4、今年度の表彰、入賞等

◇ 20年度 登別市文化協会表彰者 会長賞1名、功労賞5名、芸術賞1名奨励賞2名
◇ 登別市表彰 教育文化賞 長田 清氏(美術協会)
◇ 黒澤 友義氏、小笠原 寛昭氏(魚拓同好会)
  第12回「日・韓・中墨の文化交流会」に特別招聘、魚拓作品を展示、
  表彰状授与される。

◇ 阿部こずえ氏(登別蕎麦道場)が第1回女性素人蕎麦打ち名人戦で
  最高位の初代名人。

◇ 颯太鼓(室蘭◇登別太鼓連盟)が第10回日本ジュニアコンクールで特別賞

◇  諏訪英雄氏(文化協会顧問 美術協会顧問)が「米寿記念展」開催。大作26点


Q5 そのほか今年に予定している取り組み、抱負、意気込みなど
  
    ◇ 厳しい財源状況は続く。自主自立を目指す意識と事業の取り組みが必要。
    ◇ 市民が求める文化事業として、仮称「チャリテイー文化まつり」を企画。
     バザー、展示、小ステージ、お楽  しみ講演会が主眼。

     白石市文化協会来訪、名所案内、ステージ
   ◇展示文化交流会、物産展とのコラボ検討。
     平成17年白石市を訪問交流大歓迎を受ける。2泊3日か時期等未定。

    ◇ 「第5回新春ダンスパーチー」3月1日開催。
    ◇ 生活そのものが文化、豊かな心づくりを目指す。人づくりまちづくりの基本。
     夢や希望、ロマン文化の炎を灯し続けて元気、勇気、やる気“三気の精神”、
     創意、総意、熱意“三意の精神”創出される知恵、人間力を地域経済、観光の
     繁栄に繋げたい。

     魅力在る団体として地域文化創造に努めたい。
     会員は、鑑賞文化参画から実践文化参加の姿勢を培いたい。

    ◇ データバンクの活用策、ホームページ一昨年1月開設3年目、
     独自ホームページは江別市と二市のみ。
     
       HOME、
ニュース、活動報告、文化協会紹介、加盟団体、文化伝承バンク等
     詳細に掲載。人材バンク活用を広めることが課題。

     加盟団体の特色ある事業の奨励と支援。
     (7部門、36団体会員数約2100名)

     登別伊達時代村の事業
     「ものづくり工房」、「菊花展」、「ひな祭り」等への支援。

     登別市民憲章の唱和拡充活動に積極的に協力。

 (追録)
     「市民文芸のぼりべつ」について
      文芸誌は、平成4年に諸事情のためやむなく休刊。
      復刊は平成14年4月、第21号。その間10年であった。
      市民も会員も待ちに待っての再発刊であった。

      「編集委」スタッフの粘り強い取り組みが功を奏した。
   ◇ 登別市の唯一の文芸誌の刊行に拘る理由。情報化、ハイウエイ時代到来、
     故に負の遺品が活字文化の衰退。  
     古来より漢字、ひらがな、カタカナの活字文化が人間社会の情報を支えてきた。
     市民の活字文化を通した出会いと触れ合い、学びあいのステージ、
     「市民文芸のぼりべつ」は活字コミニケーションを拡充する。

                                           平成21年1月8日

 












「時節一言」 第35回目掲載  輝いて生きたいもんだ    会長  小林正明

 

 「町づくりは人づくり、人づくりは文化づくり」、文化の香り高いまちづくりに寄与したい。これが私のテーマです。私だけでなく登別市文化協会の36団体2千百名あまりの会員のテーマでもあります。

 人生は絶えざる自己実現の旅であるといわれますが、己の夢や志の実現を目指して、絶えず己の命の火を燃やし続ける。そこに生き甲斐や命の火の輝きがある。

 それが“輝いて生きる”というこではないかと思います。

 目的や志、夢に向かって全身全霊を傾けて生きる姿であります。確かに今日の社会状況は不安と不透明なことがあまりにも多過ぎ、生きる意味を見出せずに人々が悩みを深めているのは確かです。

 しかし、ふるさと登別には、豊かな自然や文化遺産がたくさんあります。ふるさとを見つめ直すことによって、心の中の郷土愛が再燃し、自己発見の芽が培われるに違いありません。そのエネルギーは趣味、娯楽にとどまらず、「なんとかしなくちゃ」という地域フロンテイア精神となり、主体的にボランテイア活動に参画するという結果を生むのではないかと。

 詩人サミエル・ウルマン曰く「人生のどんなところでも、気をつけて耕せば、豊かな収穫をもたらすものが、手の届く範囲にたくさんある」自分の力は、賞味期限ギリギリ、いや過ぎているかもしれないが、今は感謝の気持ちを忘れずに社会に返すときなのだという心得で、輝きながら生きたいと思います。平成21年1月1)   

           広報のぼりべつ2009 1月号    「明日の登別 明日の私」












「時節一言」 第34回目掲載  まずは郷土を知ることから始まる   会長  小林正明

 
 皆様 お晩でございます。

 近頃になって、一気に寒気到来ですね。皆様方も体調管理にお気をつかわれていることとお察しいたします。寒い中でのご参集ありがとうございます。そして、大切な時間にご挨拶の機会をいただきましたことにお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 さて、今年度は当文化協会が主催してきました市民文化祭は44回目を迎えました。

 9月上旬から始まりましたが、本日の「郷土史の夕べ」は、締めのプロであります。今年度も36の加盟団体がそれぞれ創意と工夫を凝らして、地域のいろいろなサークルやグループと連携して、高度でユニークな楽しい発表や展示が開かれ、多くの市民の参加がありました。特に創立30年、40年の節目となった団体は、記念事業に取り組み盛会でありました。美術協会は式典・祝賀会と記念誌の発行、俳句協会はカントレラに子ども俳句大会の、過去3年間の特別優秀賞の作品を書道連盟の協力の下、子どもの直筆で木歌碑に書き込み、先日設置を終えたところです。

 夢は、この地を子どもたちの短詩型でいっぱいの「子ども文学の道」ができたらと広がっています。登別歌人会は、記念歌集「紫蘇の実」を発行しました。

 また、合唱協会は30周年記念事業として、11月9日に市民会館を満席にしての歌劇「カルメン」を手作りオリジナルダイジェスト版を公演しました。歌劇は、登別市では、初めてのこともあり、他市町村からも多数の方々が来てくださったことは嬉しいことです。

 ところで、『文化』の語源は、“カルチャー、カルベート”西ヨーロッパ語で、意味は、「荒地を耕す」ということです。私は、機会あるごとにこの語源と関連して、次の事を強調してお話しております。単的に言いますと、これからは、時代に対応する登別でなければ、登別らしい特色ある文化を創造しましょう。そして、子どもたちに伝承させましょうと。そのためには、加盟団体が連携融合しあい、創意と工夫を重ねて、元気、勇気、やる気の三気の精神を大切にして、地域の文化振興と発展を目指して邁進しましょうと。

 ところで、こうして、いくら大声で勇んで叫んでも、その表現には、どうしても必要な基礎基盤が必要であります。それは、言うまでもなく「ここふるさと登別の郷土の理解であります」それは、自然であり、地名地理であり、人物であり、観光産業経済色々であります。しかし、最も大切なことそれは、北海道の中の登別郷土史の理解であります。そのことの基礎知識と認識が不足していては、こよなく古里登別のために身を呈してもよいという気持ちに達しません。すなわち『郷土愛』です。

 ここまで進みますと、私が何をか言わんと、お察しいただけると思いますが、登別郷土文化研究会、昭和45年に結成以来、郷土の輝かしい歴史、貴重な文化遺産、受け継ぐべき伝統を見つめ直し,一貫して市民の郷土愛の醸成に力をいれてきました。

 その事業のメインが、本日の「郷土史の夕べ」の講演会でありまして、この度、私の尊敬信頼している本野先生が招聘されたこと、とても嬉しゅうございます。 

 必ずや、新しい視点から、興味関心あるお話を聞かせてくださることと思います。

 また、当会は、毎年会員が中心となって、研修旅行を行なっていますが、先日から室蘭民報に街道先生が『4度目の道外視察を終えて』「よくぞ歩いた3万歩」という表題で旅行記が連載されています。私モ楽しく読ませていただいていますが、その行き先での冒険といえるコースの面白さは、勿論ですが、平均年齢73歳の会員のパワーと日野会長のもとに、和やかに、豊かに、仲良く結集して、勉学に励んでいる姿には、頭が下がり、羨ましくも思います。その一丸となって取り組んできた古里感知感得意識が、宮武先生の名著「郷土史探訪・郷土史点描」の貴重な文化遺産的文献が、読み語り継がれ、脈々と生きている原点であろうと思います。昭和53年から史跡調査を行い、その場所13箇所に説明板を設置しました。

 過日の文化の日に佐々木功さんが、文化協会功労賞の栄に輝きましたが、その式典・祝賀会に多数出席してくださりました会員の方々が、自分のことのように喜びながら、鮭をくみあい、シャッターを押し続けられた光景を思い出します。真の仲間意識がから新しい人間関係と文化が誕生します。

 どうか、今後も、登別市文化協会のお手本として、郷土愛醸成のシンクタンクとしてご理解ご協力をいあただきますよう、この場をお借りしてお願い申し上げながら、お集まりの皆様のご健勝をお祈りして、ご挨拶といたします。

     第44回登別市民文化祭 郷土文化研究会主管 「郷土史の夕べ」挨拶より

                  平成20年11月











「時節一言」 第33回目掲載  市民の希望と期待に応えたい  会長  小林正明

 

 晩秋の陽だまりの温かさが静かに残り、菊花の香りがこころを和ませる、このよき日に平成20年度の登別市文化協会表彰式を行うご案内をしたところ、登別市長小笠原春一様、北海道議会議員堀井 学さま始めご来賓各位のご臨席をいただき、また関係会員の出席のもと、かくも盛大に行うことができましたことを衷心より厚くお礼申し上げます。

 今年度、栄えある受賞となりましたのは、会長賞が1名、功労賞が5名、芸術賞1名、奨励賞2名の計9名の方々であります。
 当協会36団体の会員を代表いたしまして、心からお祝い申し上げます。誠におめでとうございます。特に会長賞は、平成14年にプロ三味線奏者の吉田良一郎、健一兄弟様が受賞されて以来です。この度受賞の三絃道登別孝貫会の佐藤孝貫様は、お二人目でございまして、誠に栄えある快挙の受賞であります。皆様もご承知の通り、孝貫先生は、幼少時から安達孝華師のもと習練され、平成15年に大師範として孝貫会を設立、現在、プロ奏者として、国内外で活躍されています。選考委員会全員一致での推挙となりました。一層のご活躍を祈ります。

 さて、本日午前には、登別市功労者表彰式が行われましたが、登別美術協会の長田清様と登別郷土文化研究会の青山さち子様が栄えある登別市表彰を受賞されました。嬉しいことであります。おめでとうございます。

 さて、先程今年度受賞となりましたお一人お一人に、敬意と感謝の気持ちを込めて表彰状をお渡しいたしました。受賞の方々は、当協会の創立以来、激しく変化する時代のなかで、地域文化の伝承と発展のために、誠心誠意の活動を続けられ、加盟されている団体のため、また当協会の事業や運営に多大なるご貢献をなされました。
 皆様の芸術文化に磨きをかけるための日頃からの研鑚努力、そしてより良い地域づくりのために一生懸命に身を呈するお姿は、多くの人々に勇気と感動を与えております。
 
 会員から寄せられる尊敬と信頼の絆は太く強く結び合い、私達が、力強く生きるための、心に響き届くメッセージとなりました。それは愛するふるさとのために、常に文化の香り高い町づくりを目指して、自らの文化芸術性を高めながら、後継者育成のため、。また、未来を担う青少年のために、常に忍耐と熱意を絶やさず、誠心誠意努力することの大切さを輸として下さりました。すると、必ずや結果として、自らにやる気と勇気と元気が湧き上がり、夢とロマンは広がって、表現できるのだという人生訓であります。どんな時にも、希望を持ち続けながら、自らが率先して努力することの大切さ、そのことが、人々が豊かで生きがいのある町づくり、人づくりにつながるのだという哲学でもあります。私共に、世のため人のために頑張ろうという意欲と自信をいただきました。感謝申し上げると共に今後一層のご健勝とご活躍を祈念いたします。

 ところで、今日の日本社会は政治、経済、産業など、どこを見てもますます混迷を深めております。多くの人々が、これからの暮らしはどうなるのであろうか。私は一体どこから発して、どこに着くのかと深い思いを巡らす時代となり、地域の文明文化の引き潮を予感しての心配と不安は次第に広がっているといえます。
 私たち大人は、未来を担う子どもたちのために何をいつ、どのように引き渡すと良いのか。まさしく、今こそ世代から世代への受け継がれるべき文化遺産を見直して、本来の価値感や理想像を明らかにすることが求められているのではないでしょうか。

 当協会は、創立してから43年目を迎えました。私たち会員は、只今、お話しました激変する社会環境をしっかりと見据えながら、並々ならぬ努力と献身のなかで、先人達が残した文化遺産を継承して、文化活動の基礎基本に立ち返り、結束力を高めて、文化の香り高いふるさと登別の活性化のために、歩み続けようではありませんか。そこから、自分のための、皆のための癒しや生きがいに培われ、文化創造のエネルギーが醸成されると思うのであります。まさしく、楽しみと喜びを体得できる文化事業や活動の展開。そのネットワークが功を奏して、夢や希望、ロマンいっぱいの文化の炎が燃えて、我が文協が願うところの町づくりの一役を担うことになるのだと私は、信じています。

 私たちは、今日こんな時代だからこそ、市民の希望と期待をキャッチして、加盟団体を軸として、一生懸命に文化の創造に励み、「文化協会再生元年」歩み続けることを、この良き日に誓い合いたいと存じます。
 このような自主・自立を根本精神においての具体的実践が、昨年12月に開催した、歳末チャリテイ「文協フエステイバル」の「名人ステージ」と「手作りマーケット」でありました。多くの市民の応援や支援のもと、文協の歴史に残る大盛況の文化鑑賞機会となりました。「今度は、いつやるんですか。楽しみにしているんですよ。」今も聞こえる、市民の方々の声であります。市民と共に歩む文協。これからも私共会員は、郷土愛と福祉とボランテイアの精神を持ち続け、登別であればこそ、登別でなければという特色ある地域文化の創造を目指し、地域の経済や産業、観光の推進にも寄与することが求められていることも、真剣に認識することが大切なことであります。

 終りになりましたが、ご多忙のなか、ご臨席くださりましたご来賓の方々に厚くお礼を申し上げますと共に、この日にご尽力いただきました機関、団体の皆様方、そして「平安」スタッフの方々に感謝を申し上げます。
 ご出席の皆様の、今後ますますのご健康とご活躍をご祈念申し上げ、式辞と致します。

    登別市文化協会表彰式・式辞(平成20年11月3日)












「時節一言」 第32回目掲載   創立四十周年記念誌に寄せて   会長  小林正明

 
 登別歌人会は昭和43年に発足し、文化協会に加盟しました。以来貴会は、この地の自然や、この地に生きる人間としての心を詠い続けながら歌人の集いの輪を広げるために自己研鑽を積み重ね努力をしてこられました。
 今日、登別歌人会があるのは平坦な道程ばかりではなく、多くの先人の筆舌に尽くし難いご苦労のお陰であります。改めて感謝と敬意を表する次第であります。

 ところで、近年の価値観の多様化、未曾有の少子高齢化の波は古来からの活字文化である短詩型文学の存続を危うくしております。当協会は、文化の香り高いまちづくりに寄与することを願い、特に青少年への伝統文化伝承活動を主眼として各団体が活動を進めております。登別俳句協会は子供達に俳句を親しませることを願って「小学生俳句大会」を行っております。俳句をつくり楽しむ子供達の輪が広がっていることは嬉しい限りです。

 短歌においては「言葉遊び」即ち言葉や韻律を遊んで、その技を楽しむことができます。さらに枕詞・序詞・本歌取り・縁語・類語など短歌の形式の中で生まれた方法を戯れることができます。子供達は遊びを好みます。その遊びの面白さが伝統の遺産となり、新しく活用されこれからの短歌界に光明を見出すことになるのではないでしょうか。未来を担う子供達が、短歌の面白さに触れる機会を創り出すこと、それがこれからの歌人会の大きな励みとなり新世代に短歌を広げることになることを信じてやみません。

 私も長きにわたり中村肆基先生をはじめ先輩からの指導の下多くのことを学ばせていただきました。短歌は私の人生にとって宝です。これからも自然の中で自分なりのを詠い続けたいと思っています。最後になりましたが、記念誌に携わってこられました編集委員の方々に感謝を申し上げると共に、貴会の一層の発展と会員のご活躍を祈念いたしましてお祝いの言葉といたします。(平成20年10月1日)













「時節一言」 第31回目掲載    吟道のこころに触れて  会長  小林正明

 
 皆様おはようございます。只今ご紹介いただきました文化協会の小林でございます。本日、私共が主催いたします第44回市民文化祭事業の一環として詩吟発表会が多くの会員の出席の中、かくも盛会に開催されますこと、誠におめでたく、また、厚くお礼申し上げます。

 登別吟道連盟の皆様には、当文化協会の事業や運営に深いご理解とご協力をいただいておりますこと、この場をお借りして心よりお礼申し上げます。

 登別吟道連盟が発足しましたのは、当協会が誕生する1年前の昭和46年のことでありました。以来、加盟団体の中核として、お手本としてご活躍いただいております。 

 登別市文化協会は、現在36の加盟団体、2千百人を越える会員を有しておりますが、登別吟道連盟は澤井会長様のもと、相互の尊敬と信頼の絆による和の心を大切にした礼儀正しい深い結束力と行動力に、改めて敬意と感謝を申し上げる次第であります。 

 ところで、日本社会を揺るがす出来事があまりにも多すぎます。政治・経済・医療・福祉、そして教育、多くの国民は、私達は一体どうなるのだろう。という心配と不安を取り越し、生きることの意味を失いかけ、生きがいを求めるはずの日々のくらしが八方ふさがりつつあると感じる人が多くなっていると言われています。特に、子どもたちと高齢者に格差社会のツケが廻っているように思えてなりません。

 このような社会状況だからこそ、祖先が培ってきた伝統文化を生きる証として継承して、未来を担う子どもたちのためにも、元気と勇気、そしてやる気の三気の精神を伝授することが大切であると思います。

 なぜなら、古来の伝統芸術、文化は、人の知性と心の豊かさを深めるものであり、そして、人と人とのふれあいを培うものであるからであります。こうした文化の活動がふるさとの風土に根ざし、耕され、種まき必ずや花ひらくものと信じているからであります。私事ではありますが、私は新任教師としてむかわ町二宮という小さな村に赴任しました。今から、およそ40年前のことです。その地で妻をめとり、6年間豊かな自然に恵まれ、二宮尊徳の精神を大切にして生きてきた、温かな村民に出会い、触れ合い、多くのことを学ぶことができたことは、我が人生の大きな節目であり、この地なしでは、今の私はなかったと思っています。過日久しぶりに義母を訪ねました。秋の夕日がまぶしく輝いてはいますが、肌寒さを感じる日でありました。一面菊花の香りが広がっている畑で、老いた義母が、背を丸くしてトマトを採りながら吟じている声が聞こえてきました。私はしばし時を忘れて聞き入りました。

 「秋風(しゅうふう)我を吹いて冷ややかなり。還(また)木葉(もくよう)を吹いて飛ばす。吹いて故園(こえん)の樹(じゅ)に到るも侵すなかれ、慈母の衣(い)を」

 頼山陽の「母を憶(おも)う」の一節であります。義母は、今年で88歳。佐藤穂岳。平成3年に明治神宮の吟道大会にも参加しました。50年一筋に吟道歴を歩んでおります。

 「秋風が冷ややかに吹き、さらにまた、枯れた木の葉を激しく吹き飛ばして、肌に刺さるような思いである。この風は私の故郷まで吹いていって、このように冷たく烈しく、故郷の木々に吹き付けるのであろうが、どうか私の母ぼ衣服までは吹きとおすことなどということなく、母に寒い思いをさせないで欲しい。」という深い意味があることをその時知りました。義母は、自分の母親を思い出すたびにこの「母を憶う」を吟ずることも知りました。私は、義母のしわしわの顔の中でキラキラ輝く瞳をつくづく見つめました。そして、とてもいとおしく思うと同時に、改めて尊敬の気持ちを強く致しました。

 詩吟は、長い日本の歴史の中の、人々が苦境の時にも古来から連綿として伝え、磨かれてきた日本人の美意識を象徴する、素晴らしい伝統芸術であり、その情緒溢れる響きは人々の心に必ずや、深い感銘を与えるものと存じます。このことからも吟道の将来は洋々としているものと信じて疑わないところであります。

 昨年の「文協フエステイバル」の時「ふるさとを詠う」と題して、文芸部門の俳句や短歌を吟じていただきました。その時当時の横山会長産の推薦のもと、私の短歌を吟じていただいたのです。その時の感動と感激は言葉で表現できないものがありました。以来、私も歌作りに行き詰まった折には、思い出して三気の精神で奮い立つことができます。

 どうか皆様方は、「身も心も」いつも新鮮に、青春の気持ちを持ち続けられ、吟道に大いなる夢とロマンをもってご精進されますことをご祈念申し上げまして、お祝いのことばといたします。本日はおめでとうございます。
  市民文化祭 登別吟道連盟発表会 祝辞 (平成20年
1019日)














「時節一言」 第30回目掲載    桜花点描   会長  小林正明

 
 今年の春は、寒暖の差が大きかったからだろうか。六月の中旬を過ぎても桜の花が散らずにがんばっていた。私は、郷土資料館の名桜と登別温泉の山桜並木の花を何度も訪ねた。その度、散りゆくであろう桜花の下に老若男女が集まっていた。どの人の表情も嬉しそうに、また哀しそうにそして懐かしそうに、皆揃って首を上げて見つめている。

 私にはそれが癒しの姿のように写るとともに憂いのある美しさを感じ、久々に日本人の魂と心を観たような気がして感動した。

 私達の祖先代々は清く散りゆく桜花に人生を投影し、咲いて散るまでの短い期間に他の花とは別格な美しさを見出し求めた。桜花に無上の価値を置き悠久の自然と儚い人生と対比する無常感の中でうつろいゆくものに「美」を発見したに違いないと思った。そして、日本人は桜を花王と称し淡紅白色の花容を古来から賞し、ことのほか大事にし、ついに国花にまでしてしまうのである

 新渡戸稲造は「武士道」の中で次のように書いている。“過去の日本は武士の賜物である。彼らは国民の花たるのみでなく、またその根であった。(中略)彼らは社会的に民衆より超然として構えたけれども、これに対して道義の標準を立て、自己の模範によってこれを指導した。私は武士道に対内的および対外的教訓のありしことを認める。(中略)武士は全民族の良き理想になった。「花は桜木、人は武士」と、謡に歌われる。(続く)”と。実はこの「花は桜木、人は武士」の語源は、鎌倉時代の頃の言葉であろうと思っていたが、江戸期にはじまった俚謡(俗謡、民謡)に出てくることを知った。

 いずれにせよ、桜こそ花の中の花、武士は人の中の人という意味である。その言葉通りの意味のほかに、桜が武士に結び付けられるのは、やはり、その散りぎわの美しさ、潔さであろう。いかに武士も散りぎわが大切とされたが伝わってくる。日本人の持つ最も鋭い特有な感性は“もののあわれ”であり、“わびさびの世界”であり、“懐かしさの情緒”という。これも基はといえば稲造がいうところの「葉隠」(いつ死んでも悔いのない生き方)や「惻隠」(傷ついたものにかわいそうだと同情する)の仏教思想が根底にある。人間というものは、何かに対して感性が研ぎ澄まされていると、必ずそれを言語化せずにはいられない生き物であるといわれてきた。桜に関わる短歌の数にも限りがない。 

 稲造は、本居宣長の有名な歌である「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂う山桜かな」を引いて次のように付記している。“太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照らし、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸いいるにまさる清澄爽快の感覚はない”と。すなわち、桜花を通しての清澄爽快の感覚が大和心の本質であると説いている。「市民文芸のぼりべつニ十七号」の多くの作品には、今こんな時代だからこそ「日本人の心を取り戻したい」との叫びに感知感得するのは、私だけではないと思っている。

                平成20年8月5日   ―市民文芸27号 巻頭言―



















「時節一言」 第29回目掲載    万歳!! 男の料理    会長  小林正明

  
 前回は、急用が出来て参加できなかったので、この日の料理教室はとても楽しみにしていた。私は朝から上機嫌。家内はいろいろ言っていたが、グレーの頭巾とモスグリンの前掛けは躊躇なく選んだ。実は、この前掛けは、現職の頃五つの学級の家庭科を専科担任していたときのものである。

 当時同じ学校にいた私の尊敬する先輩教師そして旧友であった故藤本伸治氏が「マチャキには、これが似合うよ。」と言ってくれた。そういう伸ちゃんも、いつもグリン前掛けをして、図工の授業をしていた。以来家庭科の時間は、この前掛けをして授業、調理実習をやっていたことを思い出した。家庭サービスの時は白前掛けなので久々に身につけたことになる。
 
 調理室には会員の皆さんが色とりどりの姿で満を持している。元気な声と明るい笑顔が辺りに広がっている。確かにいつもの空気と違っている。みんな優しい表情に満ちている。なるほど「食文化がカルチャーカルベート(文化の語源)の原点」と言われる由来なるか。
 
 B班は、渡辺先生と本間先輩、工藤氏、福川氏私の五人のメンバーである。
 渡辺先生は静かな口調で料理のポイントが次々と示され始めた。「さて、本当にこのレシピをものにできるのか」少し心配であった。
 しかしながら、事は瞬時に解かれ以後順調に進めることとなる。工藤氏は、海外での豊富な経験を重ねていたからであろうか、さすがに食材や食器の扱いが巧みである。

  私と福川氏は主として調味料作りに専念。レシピどおりに進めていると"適当にといって計量なしの味付けが料理をダメにしてしまうのよ。"安達先生の声が聞こえる。福川氏は「これはウマイ、イイ味だ」を連発。私は日頃の調理を猛反省。一層肝に命じられた。
 本間先輩は、調理中そして食事の時も坦々と細やかな気配りをされる中で、食品とカロリーの関係や大病克服の体験を通して健康維持と食生活についてお話してくださった。とても勉強になった。
 「料理は見かけではなくこころで作るのだよ。」と調理師であった祖父の言葉であった。

 「健康は第一の富である。」とR.Wエマソンは言う。哲学者三木 清は著書「人生論」の中で「健康というのは平和というのと同じである。」とも言っている。本間先輩のお話を聞いていて思い出した。――本当に今日は良い日であった。
 美味しくできあがった四品の料理に四者四様、舌鼓をうちながら、(男の料理教室)を企画実行してくださった幹事の方々への感謝の気持ちが広がった。ありがとうございました。  (平成20年6月6日)   

                登別退職校長会 「男の料理教室」寄稿         会長  小林正明
 














「時節一言」 第28回目掲載    晩  鐘 (暮らしと祈り)    副会長  小 林 碧 水

  
 先日ある雑誌を見ていたら、日本中のコンビニで毎月50万円分の弁当が捨てられていると書いてあったが、今日食物を捨てることはコンビニに限らず、各種宴会から家庭まで、日常の当たり前の風景の一コマになってしまっている。その事に私自身それほど痛みや罪の意識はない。

 せいぜい飢餓線上にある国の実情をテレビなどで見せられた時、宴会場の食べきれぬ料理を思い出す程度である。飽食に慣れ、食物への感謝の心をすっかり失ってしまっている。

 振り返ってみると、少年の頃は戦後の食糧難もあって、食事時は正座し,食前にも食後にも必ず「いただきます」と「ごちそうさま」と合掌していた。

 漁師の家であったこともあり、毎日夕食の前に祖父母が両親の神棚のお神酒と灯明をあげ、今日の無事と暮らしの糧を得ることが出来た事への感謝とそれが明日へと続く事を願う祈りの姿であった。そこには恵みをもたらしてくれる自然への人間の謙虚な姿があった。

 今になって教科書で何度も見たミレーの、夕暮れの中で祈りをささげる農夫婦の姿「晩鐘」が甦ってくる。

                      登別川柳社 柳誌「のぼりべつ」第426号 巻頭言より





















「時節一言」 第27回目掲載 「文化の香り高いまちづくりを目指して(2)」  会長  小林正明

 
 お晩でございます。4月に入って、寒暖の大きい日がありましたが、やっと日差しも明るさを増し、まもなく桜も開花、春の気配を感じるこの頃となりました。皆様お元気でお過ごしのご様子何よりです。市より教育委員会、文化・スポーツ財団代表者のご出席を仰ぎ、そして各加盟36団体の代表としてのご出席大変ご苦労様です。

 創立40周年記念事業の一定の成果を踏まえて、今日までの文協の歩みを多角的かつ客観的な視点から反省と評価を重ねる中で、具体的に何をどのように実現していくことが文化の香り高いまちづくりを目指すことになるのか、地域文化振興と発展のために寄与することとは何をなすことなのか、などなど、真剣に考え取り組みながら、新しい文化団体としての将来像と展望を見出すため、「再生文化元年」2年目の年でありました。

 市民文化祭を中心としての各加盟団体の創意工夫を重ねての事業や活動の推進を始め、主催事業も予定以上の成果をあげることが出来ました。              
 特に12月16日に開催した「文協フエステイバル」は、会員一丸となって取り組むことができ、結束力の大きさと力を発揮できた格調高い事業となりました。何より嬉しかったのは、多くの市民の方々がステージやマーケットで一日安らぎ喜んでくれたことであります。

 ところで、今日のわが国の状況は、政治・経済・産業・医療・福祉・介護など、どれを見ても、異常な事態が連続している社会状況なっています。格差社会のつけが高齢者や弱者に大きくしわ寄せされていることは、皆さんも暮らしの中で実感しておられると思います。今日ある経済や産業を築き上げるために分骨粉にして働き続けてこられて高齢者をいたわり大切にしない国のありさまに私は怒りが収まらない昨今であります。
 心ある人々ぼボランテイアで育て、美しく作り上げた花壇の花を片っ端からなぎ倒されていたことが今日も報道されており、本当にわびしくなりました。 ますます進む地球の環境破壊、そして私はなりよりも大切にしてきた日本人の文化と心がすさんでいることに大きな衝撃がはしります。

 一方で地方財政の厳しさは地域の文化活動に影響を与えています。市町村においても財政の不足が、すぐ結果が見えない文化団体等に目が向けられ、補助金、助成金は減額が進み、公共施設の使用料の見直しが、日常の団体活動をせばめています。さらには、会員の高齢化に伴い、事務局体制をつくることが難しくなっています。
 20年度は、相談役・副会長・会長・会計を中心とした「会計執行プロジェクト」的研究班のもとに、今後のあり方を検討していくことが必要と考えます。

 文化の語源、西ヨーロッパ語んの「カルチャ−カルベート」「荒地を耕すこと」を指します。人の生活そのものが文化であり、癒しを多くして豊かな心づくりそれあまちづくりの基本ありましょう。心に夢や希望、ロマンいっぱいの文化の炎を灯して元気と勇気を持ちたいものです。こうしたことを「文協だより」に書きましたので一読いただければと思います。
 確かに、今日厳しい状況にありますが「創意・総意・熱意」の三意の精神を大切にして、地道に粘り強く登別の魅力ある自立した文化創造に努めたいものです。
 終わりに、今年度も、今日ご参会くださりました皆様のますますのご健勝と貴団体の活躍を祈念しながら開会の挨拶と致します。                                  
                 平成20年度総会挨拶要旨    平成20年 4月 25日




















「時節一言」 第26回目掲載 「わたしのガイアナイト」  会長  小林正明

 
 3月30日、私の住まいする町内会の役員会が“百寿の家”(町内集会所)で行われました。少し肌寒い日でありましたが、風に木々を戦がす庭の周りには春の気配を感じさせる穏やかな夜でありました。

 例年、年度終わりの役員会は、労をねぎらい、懇親会があることからか会議の進行はいつもより早いのです。案の定この日もすぐに終わりとなりました。
 総務部長のKさんがおもむろに立ち上がり「今日は6時30分から始まるガイアナイトの夜です。私たちもローソクを点してパーテーを開くことにします。」と口調を整えながら笑顔で言いました。私は粋な計らいと思いながらどうなるのか少し心配でもありました。

 しかし、たちまちテーブルには婦人部の方々の作った手料理が並べられました。朝から準備していたそうです。丸木を切り、釘を打ち抜いた手づくりのローソク立てにセロハン紙に似た透明な厚紙に色とりどりのかわいい切絵が張ってあり、それを上手に巻きつけてあります。白い皿に時節のフルーツが色どりよく盛り付けされており、イチゴには小さな和傘が挿されていました。

 会長の合図で電燈は消され、メインのローソクが点されました。私のテーブルには8人の男女が座っています。ローソクは8人の顔だけに明かりが届くようにぐんと近くに
見えます。

「やあ、子どもの頃を思い出すねえ。」
 「孫の結婚式のキャンドルサービスみたいだよ。」
 「お久しぶりー、このローソクの火の色なつかしいわ。」

 どのテーブルもさまざまな声が少し甲高く響きわたりました。私は、同じ郷土にそして同じ町会に住み着いて、想いを重ねながら、共有して過ごしてきたという仲間意識が沸々と湧いてきてとても心地良くなりました。 
 北海道洞爺湖サミットまであと99日となる3月30日午後6時、わが町会の「ガイアナイト」の夕べが始まりました。後に知ったことですが、この日は5000人を超える人たち130以上の企業や団体が参加し、各地で様々なイベントが行われたそうです。多くの人々が、ローソクを囲みながら、不安と不透明な今日に生きていて活かされどんな話がされのような想いを持ったのでありましょう

 夢とロマンのある倉本聡さんの提言で実現した「ガイアナイト」の素敵な発想に頭が下がりました。「道民の皆様への僕の提案」と称しての次のメッセージを読んで只々感嘆しました。
 僕は日本がこれ以上豊かで便利な大国になっていくより、あらゆる意味で質高く世界から尊敬され注目される小国になることを望んでいます。北海道はその意味でモデルになるべきですその為には僕らは空間的にも時間的にも未来に向けての広い視点を持たなければなりません。 この島で世界の首脳を迎え、地球環境に関するサミットが開かれます。北海道が試される時です。エネルギーを乱費する饗応を排し、例えばローソクの灯のぬくもりで、各国の首脳をお迎えして、道民の暖かさと意識の高さを世界に示そうではありませんか。サミット前のみでなく、サミット後も続く灯夜の夜を定期的にもつことを道民の皆さんに提唱します。と、洞爺湖サミット道民会議に提言しました。
 私はこのメッセージを何度も読み返しました。今日の社会で人間としての一番大切にしなければならないものは何かつくづく考えさせられました。

 ところで私は倉本聡さんが活躍している富良野布礼別で幼少の頃を過ごしました。東富丘という所に住む同級生の親友K君は倉本さんの「ふらの塾」の塾生のお世話を続けています。一昨年、彼と「富良野プリンスホテル」の近くにあるおしゃれなカフェ“sozu”を訪ね酒を汲み合わせました。周囲がガラス張りになって、自然に溶け込んで楽しめる素敵なこのバーの片隅に倉本さんがペンをとるデスクがありました。そのデスクの横に小さな灯を点しているローソク型の小さな電気スタンドがありました。「ガイアナイト」の発想は、あのスタンドのもとで誕生したのではないだろうか。私の勝手な想像です。 
 「ガイア」とは、ギリシャ語で「大地」を意味する女神であります。カオス(混沌)から生まれた子のウラウスを夫としてテイターン神族を生みました。ローマ神話ではテルスの名で崇拝される神様のことです。私は「ガイア」の言葉のもつ意味をかみしめました。
 懇親会を終えた私たちも「ガイアナイト」が終わると帰路につきました。断然高齢者の多いわが町内会の老若男女はこの日に限り道すがら皆手をつないで心も体も童心にかえり唱歌を口ずさみそれぞれの家に戻りました。少し霧が濃くなってぼやけて見える街灯の下を歩くみんなの笑顔は、とてもやさしく美しく感じました。3月30日、私の「ガイアナイト」は夜更けまで続くこととなりました。                              
                        平成20年4月8日 























「時節一言」 第25回目掲載 「文化の香り高いまちづくりを目指して」  会長  小林正明

 
 日本はここ40年たらずの間に、「経済大国」といわれるまでに急成長を遂げ、曲がりなりにも『豊かな社会』となったといえる。
 しかし、昨今人々の未来に関する危機意識が、どうも希薄になっているように感じてならない。日本は国際化、情報化、成熟化が未来展望の3つの柱とされて進展しているというというがそれもいい古されたこととなり、懸念されることがあまりにも多い。

 危機は、すでにいたるところでその兆しを見せ、「心ある人」だけでなく、ほとんど全ての人が気づき始めている。地球規模でいえば急激な温暖化、雪だるま式に増える途上国の累積債務、横行する国際テロなど、どれ一つとっても、このまま放置するならとんでもない結果が予想される。危機はすでに国の内外、物心両面で始まっているのであり、この危機を直視し、これに正面から立ち向かわなければ「世紀末」的絶望と頽廃の到来はほとんど不可避であろうとさえ思わせる。

 こんな時代だからこそ、文化団体は人々に古来の芸術や芸能を通して心に夢や希望、ロマンあふれる文化の炎を灯せねばなるまい。そうだここに創出された知恵と力、生まれいずる人間力がきっと人々に豊かな心とたゆまぬ想像力を培い、地域の産業経済や観光の繁栄に連鎖され、まちづくり、人づくりに寄与することとなるものと信じてやまないのだ。自己の生きがいと合わせながら、日々研鑚努力しなくてはなるまい。真の「ゆたかさ」はきびしい努力なしに自動的に持続するものではない。バブル時代に象徴されるように、かつてのいわばのんびりムードに支えられたソフトな守られ過ぎた文化活動だけを考え、「きびしさ」の中でのハードな文化活動に気付かない。いや気がついていてもそれを口にすることをはばかることが多いのだ。

 現在社会の特徴とは「きびしさ」との直面にどのように対応できるかであり、また多くの組織、多くの個人はこの「きびしさ」の中で生き抜き、生き残るかに必死に取り組まざるを得なくなっている。文化の陳腐化と言われる通り、理論、情報、フアッション、製品、世論などの寿命は短く新陳代謝が目まぐるしいが、それと同じように社会のライフスタイルの回転も早い。

 こうなると、社会も個人も見かけの「ゆたかさ」の中でのんびり構えてはいられなくなっている。当協会も例外ではない。そして、如何なるとも地域文化の振興発展のキーワードであることは変わらなぬ現実がある。この「きびしさ」をしっかりと認識を共有し、自立するしかない。こうしたことから12月16日、当協会会員が一丸となり、結束して成功させた「文協フエステイバル」の成果は誠に大なるものと思っている。このパワーを自信と誇りにしていものである。これからも登別の魅力と特色ある文化創造力を一層発揮し、市民が感動多い暮らしができるのを願って、"熱意、創意、総意"の三意と"元気、勇気、やる気"の三気精神を持ち続けて邁進しようではありませんか。

                  (平成19年度「文協だより」第35号 巻頭言より
                      会長 小林正明    平成20年4月8日

























「時節一言」 第24回目掲載 「冷凍ギョウザ中毒事件」  副会長  小林碧水

 
 テレビに映し出されるデパートの地下食品売り場では、1個500円もするケーキ等
の菓子類から、生ハム・マグロ等の高級生鮮食料品まで清潔感溢れ,綺麗に並べられ、誰が買うだろうと余計な心配までしたくなるような価格で売られている。そこには食料に対する将来への不安等微塵にも感じられない。
 食事の内容はともかく、毎日水や空気のように,欠けることなく三食を摂っている。戦後の食料難から解放され、高度経済成長期以後は考えることなく箸を運んできた。しかし、この度の中国ギョウザ中毒事件によって日本の食糧事情を垣間見ることになった。   
 日本の食料自給率が約39パーセント位であることを始めとして、農家の減少に伴う農業就業人口の減少と高齢化、海外からの農産物輸入とWTO農業交渉等へと関連する問題へ、次々と拡がって限りがない。
 戦後、荒地を耕し、イモやカボチャを作って食料難をこえてきた。今になって、その時の充実感みたいなものが甦ってくるのは単なるノスタルジーだろうか。食料を他国任せにしている自分達のこれからを考える機会ともなった。

                  川柳「のぼりべつ」 第424号  巻頭言より































「時節一言」 第23回目掲載 「共に生きる心を」  会長 小林正明
 
 3月2日の北海道新聞の『読者の声』欄、小中学生が投稿している「みらい君の広場」
に蘭越町に住む高校生のこんな記事が載せてありました。


             ……………………………………………………
       『先生からの信用支えに』 蘭越町 高1 I
 私は、小さい頃からたくさん問題を起こし、周囲の人の信用をなくしてまた問題を起こす、そんな小中学校生活を送っていました。 
 中学3年生の時、普通ならあきられ「またお前か」なんて言葉の一つが出てもおかしくないような状況の中で、ある先生が私に言ってくれました。『信用してるからな』と。
 
 その時「ここまで自分を信じてくれている先生がいる。この信用をなくしたらだめだ。」と思いました。そして、その日からの生活が少しずつだけれども良い方向に進んできたように思います。
 
 この一言で私は、周囲に信用されることの大切さを学びました。今までのように同じ問題を何度も繰り返さず、言い訳ばかりするような恥ずかしい大人にならないよう心がけて生活していきます。

             ……………………………………………………

 この高校生の想いを鑑みた時「その一言が人を生かす、その一言が人を殺す」という諺を思い出した。日常生活における心温まる会話が消えているという昨今、「ほっと」した気持ちになりました。
  私は中学生の頃、身体も小さく気弱であり、大勢の前で話したり行動するのが不得手でした。従って、自己表現が乏しいから、友人も少なく、いつも一人ぽっちでいることが多くなり、思春期を迎えた頃は、思うようにならない自分への嫌悪と孤独、悲愴さが大きく覆いかぶさった日々が続くようになりました。
 それでも好きなテニスは、そこそこやっていたのですが、ある日のこと、普段になく調子があがり、主将との練習試合でストレート勝ちしたのです。その時の顧問のK先生の一言が私の人生を変えました。
「小林すごいじゃないか。やればできるじゃないか。それに、そのはつらつとした声、素敵じゃないか。」
 「おはよう」「こんにちは」「おつかれさま」など日常よく使われる挨拶とは別に、相手に合った一言をかけることが、いかに大切であり、人を勇気づけるでしょうか。
 「がんばっていた、あれ、できた。」とか「もう治ったの、風邪は。」とか、その人の身になって想うとき、一声かけは、自然体で生まれ、そして働くのでしょう。
 放送作家でタレントの高田文夫さんは、駆け出しの頃落ち込みながら、寅さんこと渥美清さんにインタビューする機会がありました。元気のない高田さんを見て、帰り際に渥美さんは、 「お兄さん、いいよ。お兄さんはおもしろいね。」と言ったそうです。
 この一言で高田さんは、「よし、私は笑いの世界で、自分は生きていこう。」と自信をもち決心したそうです。高田さんは、その年独立して、大ヒットしたバラエテイー番組の『オレたちひょうきん族』を担当、さらには、立川流の真打昇進も果たしたのです。
 高田さんは、あの時、渥美さんの励ましの一言がなかったら、今日の私はなかったのは確かです。とある月刊雑誌の中で語っておりました。
「がんばってください」という言葉は、よく聞かれます。阪神大震災で肉親を失った人が、「がんばってと言われても」と只々、世間の冷たさとむなしさだけが残りましたと言っているのを聞いたことがあります。

 こんな時「自分は、この人たちの苦しみを、すべて引き受けることなどは、とてもできないのだ。」という謙虚な気持ちになることが大切であろうと思います。しかし、離れていくことはできない何か、自分の気持ちを相手に伝えたい、つまり、相手と自分が同じ立場で、いま生きているという姿勢、苦しみ悩む人と向き合った時の心の同化、そのときに、真の励ましの言葉が生まれるのです。
「ともに深いため息をつき、何も言わずに手を握り、一緒に悲しみ涙してこそ、相手の心も癒される。」と語ったのは、作家の五木寛之さんです。わたしの信頼し、体調をくずした時すぐかけこむ室蘭のM先生は「小林君、不治の病の人に対して、医師としてできる最後の処方はね、痛みを止め、手のひらで体をさすり、相手を見つめてほめてあげることなんだよ。」とたんたんと語ってくれました。その時の言葉を時につけ思い出します。
 今、私は、いつでも、どこでも、だれにでも、一声かけができるようになりたいと
努力しています。
 それは、言葉で言う程、簡単なものではないと思いますが、これからの自分の人生を豊かにするために、まず「ありがとう」という感謝の気持ちを胸にたたんで生きていきたいものだとつくづく思うのです。

 中学時代のあこがれの女性教師であり、私に生きる力を与えてくださったK先生は、いま95歳であるが健在です。
「人に元気を与える言葉をかけられるということは、言葉をかける人が、元気で、明るいということが大切なのよ、わかる!」と過日、寒い釧路から、優しく温かい檄をとばしてくださいました。(2008/03/20)


























「時節一言」 第22目掲載 「祖父からのメッセージ会長 小林正明
 
 私が高校生の時、祖父から数冊の本を戴いた。以来、十数回の引越しの折りも持ち歩いていた。その本箱を久方ぶりに開けてみた。一番上に「可笑記」があった。これは()()()()とも読むそうで、1642年(寛永19年)如儡子(じょらいし)作の仮名草子全5巻で「徒然草」にならって当時の世相などに対する感想を随筆風に記したものである。その一節『父母の心をもって我が心とし、父母の(たい)をもって我が体とせよ』とある。

 人の親というものは、いつも我が子のことを思っており、我が子の健やかな成長と幸せを念じているというものである。それと同じように子どももいつも親のことを思うべきである。我が子に愛情を注ぐのは他の動物も同じであり、むしろ人間は、我が子を思う以上に親のことを思うことが大事である。また、親の体を自分の体だと思って気を配り、いたわることが孝道つまり人間としての務めであると説いている。

 本箱の一番下から「孝経」が出てきた。これは、中国古典の経書で孔子がその門弟である會参(そさん)に述べたものを門人が記録した文献と言われている。その一節『身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く敢えて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり』とある。われわれの体は、髪の毛一本、皮膚の一片まで全て親からもらったわけだから、大切にし少しでも傷つけないようにするのが親孝行の第一歩でると庭訓(ていきん)している。

 親が子を、子が親を殺傷するという事件の連続。自欲に溺れ、人間喪失者による無差別な弱者への数々の犯罪に近頃私は心痛な思いでいた。2冊の本を熟読しながら思った。

 祖父は来世を予測し、とき過ぎて私の心境を見通していたにちがいない。そして、天上から「お前は今こそ日本人の心を取り戻すために身を呈するのだ!!」と檄をとばしているにちがいないと。(2008/02/26)


























「時節一言」 第21目掲載 「輝く女性たち」 副会長 小林碧水
 
 最近どの集いに参加しても女性が元気なのを実感する。知人の女性に言わせると、女性が元気になったのではなく男性に元気が無いだけだときつい言葉を返された。

 敗戦後、長い封建制度の頚木から解放された女性達、戦後62年を経て、不完全な部分を残しながらも男女平等が少しずつ市民社会の中に実現されてきたことは誰もが納得しうることである。

 その事を見事に証明してくれたのが、連日マスコミに登場した薬
C型肝炎訴訟原告団の女性達である。私が心を打たれたのは、志の高さであった。自分達の利害を越え、同じ肝炎に罹患した患者にも救済の道を拓いたことである。 

 テレビのニュースに登場した原告団は山口代表始めみな冷静な対応に終始していたが、舛添厚生労働相や福田首相は彼女達の引き立て役に見えて可笑しかった。

 戦後強くなったのは女性と靴下などと揶揄されながら、市民社会の中にしっかりと根を張り一人の人間として自立している姿は、清々しく、混沌とする社会に一条の光を見た感がした。

                 川柳 のぼりべつ 第423号 巻頭言より


















「時節一言」 第20目掲載 立ち合いの妙  会長 小林正明
 
 初場所大相撲の千秋楽は、やはり予想通り2横綱の一番勝負に優勝杯がかかる決戦となった。5年半ぶりとのこと、私も久しぶりに胸の高まりをおさえてテレビ画面に釘づけとなった。

 いろいろ話題の多い両横綱の対決だけに相撲フアンも一喜一憂、見方がそれぞれ人により違っているのも興味津々であった。「白鵬」が優勝の勝ち名乗り、私は友人が国技館から買ってきてくれたみやげのカップになみなみと酒を注ぎ、15日間の熱戦に酔いしれた。

 技能が伯仲であれば、勝敗は気迫に左右されるものではないかと常々感じ考えている。
 世に喧伝された兵法は、行動範囲を限定しない中での戦略が実に多いものである。

 しかし、相撲は、一対一で狭い土俵の中でのことであり、一見して、体位・体格・体力の差が判然としていることから戦わない前から勝敗が予測できるように見える。

 けれども、相撲は実力あるものが勝つとは限らないから実に面白い。

 私が小学校4年生、弟が2年生の時であった。当時、父は父の母校函館商業高校に進学させたいことから、親元から離されて私と弟は函館の叔父のもとに預けられた。近くには明治キャラメル工場があり、毎月工場主催の少年相撲大会が開かれた。その勝負に勝つと十個入り、負けるとサイコロ型の二個入りのキャラメルがもらえる。

 私と弟は、幾度出てもそのサイコロしか入手できなかった.それもそのはず私も弟も身長はもとより体重もどの子より少ない。土俵にあがってハッケヨイの合図の瞬間土俵外に飛ばされた。

 ある日、弟は私の袖を引きながら大粒の涙を流して訴えた。「兄ちゃんぼくもあのキャラメル食べたいよ。」と、私は、その時どうしてもキャラメルを食べさせたいと思った。

 当時は、食糧も不足しおやつなどとといいう上等なものは、一部の家庭でしか見られなかった。

 私は、次の決意を胸にたたんで土俵にあがった。ともかく何としても勝ちたい。そのためには、小さな体を生かして動くこと、立ち合いに相手を混乱させることだ。だから仕切りを大切にして、自己最大の瞬発力を爆発させなくてはならない。この時の気合に欠けると惨めな負け方になる。

 更に自己暗示をかけて自分は相手より強いと自負することにし勘を働かせて瞬発力を生かす戦法しかないのだという考えにたどりついた。

 次の日私は、妙に火照る体で土俵にあがった。その結果、何と三人抜きも征して、十八個入りのキャラメル三個を含め、合わせて五個も手に入れることができた。

 工場の裏山で二人はチンマリ座った。そして、口中にキャラメルを頬張る弟の顔を見ながら、私は、満足感にひたった。その時のことを今でも夢にまでみることがある。

 以来、私は相撲に興味をもつようになった。養父を連れて、苫小牧場所を観戦した時のことである。力士たちの「立ち合いの妙」といったものを改めて感じ入ったのである。幕内再小兵の舞の海が、元大関小錦を倒した一番である。立ち上がるとバシンと勢いよくぶつかる、次の瞬間舞の海の体は,小錦の前から消え、三百キロ近い巨体は、ばったりと土俵中央に倒れていた。その間わずか0・8秒である。身体が震え,義父に飛びつき叫んだ。「すごい!」と。

 その舞の海が相撲解説の中で次のような話をしていた。「土俵に上がる前から計算して相撲をとっているわけではないのです。とっさに、自然に動くのです。」と。

 まさに、土俵に描かれた芸術作品のような早業が瞬時にできるのは天性であろうと思った。

 力士が仕切りの時、吐く息と吸う息がぴったり合った時を「気合の間」というそうである。その瞬時に立ち上がるのが立ち合いの極意なのであろう。場所中の力士たちは、一番一番の立ち合いの「間」に自分を全て燃焼させる。

 その時の勝敗により、その場所の番付が決まる。なるほど相撲解説者の誰もが立ち合いが勝負を決めるというのがわかる気がする。だから、相撲は面白い。

 数十年前に登別温泉で大女優の杉村春子さんと話をする機会を得た。その折に杉村さんの言ったことを思い出す。「あのね、舞台の立ち合いも、相撲の立ち合いも真剣勝負の緊張感をもつということでは同じですよ。勝負を決めるのは、土俵や舞台だけではない。人生だって同じことよ。そしてね、大切なのは、その前の稽古の蓄積なのよ。それが、立ち合いの瞬時に自分の全てを爆発させる流れを律する力が大切と思うのよ。」

 杉村さんは、淡々と語り続けた。「役者は人気ではないんです。目先の一勝にとらわれては基本を見失います。基本と気合いの瞬時のバランスをどう自分のものにするか、そこんとこが一番大切なのです。それができなくちゃプロと言えない。だから、私は、まだまだ勉強不足なの。」あの時の杉村さんの瞳は生き生きとしていたし表情は穏やかで、そして美しかった。

 私は、振り返って、常日頃この立ち合いを本当に大切に生きているだろうかと反省する。楽志向にどっぽりつかって、その時になって、そこそこ立ち上がれば何とかなるだろうと惰性に流されていりことがあまりにも多い。

 私は、いつも自分に言い聞かせている言葉がある。それは、「いつでも・どこでも・即時即決・正確に迅速にタイムリーに対応すること。」言い換えると『立ち合いの妙』を自分のものにしたいと強く願って生活している。この私の持論は、少年時代の経験と相撲観戦を通して、杉村さんとの出会いがあって、それが礎石となってできたのではないかと思っている。

 三月中旬には、春場所が始まる。威風堂々の落ち着いた態度で相手を威圧するが如き、しかし、勝っても負けても悔しさを動作に表さず淡々としている力士の立ち会いに息をこらす、そして、両力士の一つ一つの動きに表現される人間模様に釘付けとなるのは、私だけであろうか。(平成20年2月5日
















「時節一言」 第19目掲載  学社融合のパラダイム  会長 小林正明
 
 私たちが直面していることで重要視しなくてはならないことそれは、経済的不況もさることながら、人々の生きる意味の不況の深刻化であると言われる。予想もできなかった頻発する事件や犯罪は、家族という最小規模の共同体まで破壊しつつある。気がついたら、未曾有の高齢化と少子化の波。受け継がれてきた文明文化の引き潮の予感に怯える地域社会の現状から、私たちは逃れられないのだろうか。

 未来を担う子どもたちに私たちは、何を引き渡すのか。今こそ世代から世代へと受け渡すべき価値や理想を見直し確立し伝承する営みが急務といえる。

 登別市文化協会は、昭和45年に創立した。7団体からの出発であった。平成17年、40周年の記念事業を終え、今、「再生文化元年」と称し歩んでいる。加盟団体は7部門36団体で2千百人余の会員を有している。

 最も大事にしていることがある。それは、徹底して青少年の健全育成のために身を呈するという精神である。つまり、伝統文化を継承する活動を、根気強く、計画的に継続することである。5年前、会員が結集して冊子「文化伝承ふれあいバンク」を作り、学校等に配布した。現在はホームページにも掲載して活用が広まった。

 「学社連携から学社融合へ、道民の楽しめる生涯学習を広げよう」私の社会教育主事」時代、合言葉のように響き渡った。そうだ学校教育と社会教育両者の融合こそ、活性化の鍵になるのだ。各所で皆が燃え取り組んだ。

 文化の香り高いまちづくりのためには、町全体が経済的な潤いが必要不可欠である。その一助になるべく文化団体も努めなければなるまいと思っている。そのためには、学社融合の基礎理論をパラダイムチェンジした事業や活動に勇気を持って取り組むことが必要と考える。行政各所管、商工会議所や商工会、観光協会や建設協会、姉妹都市協議会等と連携強化すること。その中で地域文化遺産を種々なる形態で伝播していくことが大切である。

 ところで、我が協会と民間企業の「登別伊達時代村」とは、こうした学社融合パラダイムが成立して4年目を迎えた。地域伝統文化を継承する機会を求めていた我が協会

テーマパークからカルチャーパークへの転換を決した会社側、融合の相乗効果は、功を奏している。全国唯一といわれる「寺子屋教授」と加盟団体の名人が伝授する「ものづくり工房」には、多くの子どもたちを始め、諸外国の人々で賑わっている。

 会員は意識開発の兆しを見せ始めた。当協会は活性化して、次第に社会的信頼と地位を高めている。新時代の再生文化団体の方向として、こうした融合を視座においた文化活動の展開が。言い換えると新しい社会教育を展開することになると考えるは、私の思い過ごしであり、また乱暴なることか。

 「ゆたかさ」はきびしい努力なしに自動的に持続するものではない。過去において、「ゆたかさ」に慣れ親しんだ文化団体は、「きびしさ」の中でのサバイバルは、どんな団体活動にとっても「生き残り」のキーワードとなるであろう。ハードをハッピーに転換していくリーダーシップのあり方が問われなければ成らない。

 我が文協が、地域文化の振興発展のキーワードであるという現実がある。この「きびしさ」をしっかりと認識し共有して、自主自立するしかない。だから今、登別の魅力と特色ある文化創造力を発揮するために熱意、創意、総意の三意の精神。元気、勇気、やる気の三気精神を持ち続けようと誓い合っている。(2007/12/25)

       北海道社会教育懇談会 会報「いちじゅ」平成19年12月号 の巻頭言より















「時節一言」 第18目掲載 盛大に開催  事務局長 小塚順一
    
    12月16日「文協フエステイバル」盛大に開催

         

 当協会は創立42年目を迎え、新たな出発として「文協フエステイバル」の開催を決定しました。当市の文化向上・発展に寄与することを目的として活動している7部門、36団体、2千数百人が結集して「文化再生元年」の事業としました。

 1216日(日)は、登別市民会館において午前930分開場、10時より大ホールで「ステージ」発表、中ホールで「マーケット」の開店となります。

 今回は2部会に分けて実行委員会を組織しました。会長を実行委員長として、「ステージ部会」は山本事務局次長を部長とし、「マーケット部会」は木村一彦事務局次長を部長としました。

 「ステージ部門」は大ホールにおいて「邦楽・洋楽・舞踊部門」13団体からの伝統芸術・技の競演です。最後のゲスト出演は「札幌交響楽団員による三重奏」で、バイオリンにコンサートマスターの伊藤亮太郎氏、オーボエに首席奏者である岩崎弘昌氏、ピアノには前田朋子氏を迎え、「バイオリンとオーボエの為の協奏曲」「アヴェマリア」の2曲を演奏します。大変楽しみです。大ホールの入場料は1000円です。

 一方「マーケット部門」は、中ホール内、廊下、エントランスホールを使い、「伝統・美術・文芸・研修部門」による「展示・即売」が主ですが、「登別蕎麦道場」による

「蕎麦の販売」「蕎麦打ち体験」や「登別華道連盟」による「喫茶店」、「登別レクリエーション協会」による「遊びの広場」と多種多様なイベントとなっております。また、加盟団体以外からの参加として「木彫りサークル・彫多利会」もあります。中ホールの入場料は無料です。

 当日の益金より「社会福祉協議会」への寄付も考えております。チケットは、「市民会館」「アーニス」「エルム楽器」「当協会事務局」で取り扱っています。(2007/12/11)

 問い合わせは、рO143−85−8886(文化協会事務局)まで。市民の皆様のご来場を心よりお待ちしております。
                                                

















「時節一言」 第17目掲載 文化の香り高いまちづくりのために  会長 小林正明
       
      「文化の香り高いまちづくりのために」―登文協が目指すことー
        
 澄み切った青空のもとに紅葉が深まり、菊花の香りがこころを和ませる、このよき日に平成19年度の登別市文化協会表彰式を行いましたところ、登別市副市長内田史郎様、北海道議会議員堀井 学様始めご来賓各位のご臨席をいただき、関係会員の出席のもと、かくも盛大に行うことができましたことを、衷心より厚くお礼申し上げます。
 今年度受賞となりましたのは、功労賞が6名、芸術賞が1名、奨励賞が2名の計9名の方々であります。
 当協会会員一同を代表いたしまして、改めてお祝い申し上げます。誠におめでとうございます。
 また、午前中には、登別市功労者表彰式が行われましたが、当協会のために長年にわたり、役員として尽力されている岸正治様、成田幸久様が晴れの市功労者表彰を受賞され、佐藤逸夫様、古田幸代様、宮武悦子様のお三人が、教育文化貢献賞を受賞されました。心からの敬意を表するとともにお祝いを申し上げます。おめでとうございます。
 さて、本日受賞となりました9人の方々は、当協会の創立以来、激しく変化する時代の中で、地域文化の伝承と発展のために、誠心誠意の活動を続けられ、当協会の運営と振興に多大なるご貢献をされました。
 受賞者方々の芸術文化に磨きをかけるための日頃からの研鑚努力、そしてより良い地域づくりのために一生懸命に身を呈するお姿は、多くの人々に勇気と感動を与えて降ります。会員から寄せられる尊敬と信頼の絆は太く強く結び合い、私共一人一人の心にメッセージとなり伝わります。それは愛するふるさとのために、常に文化の香り高いまちづくりを目指して、自らの文化芸術性を高めて、青少年のためにまた、後継者のために常に忍耐と熱意をもって当たるなら、いつか必ず夢とロマンは実現が可能になるのだという確信ともいえる勇気であります
 どのようなときにも、希望を抱き続けることを忘れずに、自ら率先して努力することの大切さそのことが、人々が豊かで生きがいのあるまちづくりにつながるのだといわれます。世のため人のためにに頑張ろうという意欲と自信をいただきました。 感謝申し上げると共に今後一層のご健勝とご活躍を祈念いたします。
 さて、今日の日本社会は政治、経済、産業などどこを見てもますます混迷を深めております。多くの人々が、これからの暮らしはどうなるであろうか。私は一体どこから発して、どこに着くのかと深い思いを巡らす時代となり、地域の文明文化の引き潮を予感しての心配と不安は次第に広がっているといえます。
 私たち大人は、未来を担う子どもたちに、何をいつ、どのように引き渡すとよいのか。まさしく、今こそ世代から世代への受け継がれるべき文化遺産を見直して、本来の価値感や理想像を明らかにすることが求められているのではないでしょうか。
 当協会は、平成17年に創立40周年を迎えて、只今申しました激変する社会環境を見据えた上で、文化活動の基礎基本に立ち返り、会員の結束のもと各記念事業を行いました。ここで学び得たことは、生活に根ざした文化事業や活動に積極的に取り組むことが、成果となって夢や希望、ロマンいっぱいの文化の炎を灯して、明るい町づくりの一役を担うことになるということであります。人々に元気と勇気とやる気を持ち続けながら癒しを多くした活動を通して心づくりに寄与することこそ、真に市民の期待に応えることが文化協会の役割なのだということであります。以来、「文化協会再生元年」称して歩んでいるところでございます。
 こうした認識を共有できまして、今年度は37団体が一丸となっての歳末チャリティ「文協フェスティバル」を来る12月16日に登別市民会館全館を会場に開催することになりました。ステージでは、邦楽、洋楽、舞踊部門の名人クラスが舞台に立ちます。また、伝承、美術、文芸、研修部門が中心となり丹精こめての手作り作品を提供するいわゆるフリーマーケットとは一味違う「文化マーケット」が開かれます。
 多くの市民の応援や支援を受けて、準備万端整い着々と進めているところであります。文協の歴史に残る大盛況の文化鑑賞機会となりますよう、皆々様の一層のご理解とご協力をお願いする次第であります。
 これから私共会員は、先人の築づき上げた歴史と伝統を尊重して、ひたむきな郷土愛、温かい福祉とボランティアの精神を持ち続け、登別であればこそ、登別でなければという特色ある地域文化を創造めざし、その推進の中軸となるべく一丸となって邁進することをこのよき日に誓い合いたいと存じます。
 終わりになりましたが、ご多忙のなか、ご臨席下さりましたご来賓の方々に厚くお礼を申し上げますと共に、表彰式にご尽力いただきました機関、団体の皆様方、そして「平安」スタッフの方々に感謝を申し上げます。
 ご出席の皆様の、今後ますますのご健康とご活躍を祈念申し上げ、式辞といたします。
 
                           平成19年11月3日  登別市文化協会 会長 小林正明















「時節一言」 第16目掲載  メタボリに罹った詩嚢(しのう)  副会長 小林碧水
 
 先日妻に頼まれ隣町のショッピングセンターへ買い物に同行した。二階の駐車場から一階へ降りてゆくと中央の広場へ出る、その広場を通り抜けようとしたら数枚のパネルが立っている。パネルには子供の写真や手紙等が貼ってあり覗いて見ると、 一人の女子高校生が近づいてきて展示物の説明をしてくれた。説明によると、掲示してある写真は、フイリピンのゴミ捨て場でゴミを拾い家計を支えている子供の写真で、ボランテイアとして支援物資を届けに行った時一緒に写した物だと言う。
手渡された資料の中にゴミを拾う子供達の三つの夢が書いてあった。その一つが、毎日の食事が心配なく食べられることと記されてある。写真を見ると、三食に事欠く子供とは思えない笑顔が弾け、瞳が輝いている。説明してくれた女子高校生に聞くと写真の通りだという。
 俗人の常で、私はすぐ自分の暮らしと子供達の現実を比べてしまう。今の私は三食の食事に心配はない毎日、寝起きに困らない程度の家と普通の車もある。しかし、写真の子供達や説明してくれた女子高校生のような輝き花井。在るのは守りだけに入った暮らしとメタボリに罹った詩のうだけである。三十年を越えた川柳、締切り川柳でおわるのか?

                       のぼりべつ川柳機関紙 「川柳のぼりべつ 第419号」巻頭言から















「時節一言」 第15目掲載  民謡を愛するひとの輪を  会長 小林正明

   ”広げたい”古里の優しさと懐かしさにあふれる心の唄、民謡を愛するひとの輪を

    ー第31回道民芸術祭兼第38回胆振芸術祭「いぶり民謡唄合戦}実行委員としての挨拶よりー
 
 皆様、こんにちは。ようこそ、ここ登別にお出でくださいました。
 只今、紹介がありました登別文化協会会長、そして本日の大会長を務めます小林正明です。天高く馬肥ゆる秋、この爽やかな良き日に、胆振管内各市町から、民謡を愛する多くの皆様のご参加のもと、第31回道民芸術祭兼第38回胆振芸術祭の民謡大会「いぶり民謡唄合戦」が開催されましたことに、心より厚くお礼申し上げます。
 北海道文化団体協議会が主催いたします芸術祭は、ジャンルごとに各市町村が持ち回りの形で毎年行われております。民謡大会について、言いますと、昨年は豊浦町で開催されました。和やかに、互いに交流でき有意義な、とても楽しい大会であったと聞いております。17年には苫小牧、16年がなく、15年は虻田、14年は白老、13年室蘭、12年苫小牧、11年に登別で開催しております。従いまして、ここ登別市での民謡大会は8年ぶりとなりました。本大会の開催運営にあたりましては、私達登別市文化協会36団体、会員2千数百名の加盟団体の中核となっております、登別民謡連合会が、年度初めより会員一丸となって進めてくださりまして、皆様のお出でをお待ちしていたところでございます。
 どうか、本日は皆様が、日頃から研鑚努力を重ねて、培った成果を十分発揮されまして市町交流を深める中で、一層民謡の輪が広がり、思い出に残るステージとなりますことを祈念する次第であります。
 ところで、近年時代の流れは、激しさをましておりまして、政治や経済、産業、福祉、医療、教育、どこに眼をこらしても、大変な予測もできなかった事件や出来事が多すぎます。このような中で人々の生活は、心配を通り越して、今や怒りと不安がつのるばかりでなく、くらしを支える年金や医療にしわよせが集中して「私達の故郷はどうなるのか、地域住民のくらしは一体どうなるのだろう。」その先行きを懸念しているのが現状であると思います。
 こような時代だからこそ、祖先が長年にわたり、長く激しい時代を自然と共に生活に耐え、乗り越え、未来に夢と希望をもって、営々と詠い継がれてきた数々の、いろいろな民謡を皆様のように唄い続け伝えていくことにより、自分自身はもとより、必ずやみんなが明るく、元気よく生きていく勇気をもち続けることができるこのと信じます。なぜなら、民謡は、庶民の集団生活の場で生まれ、それぞれの日本の風土の生活感情や地域性を映し出し、人々に生きることへの励まし、生きるための意味や命の尊さを知らせ、伝えているからであります。
 終わりになりましたが、お忙しい中、ご来賓として、お出でいただきました登別市教育委員会の松橋 学教育部長様、北海道民謡連盟室蘭地区連合会 会長 寺島栄作様に、厚くお礼を申し上げますと共に、本大会のために、ご支援とご協力を下さりました各機関、団体の方々に心から感謝申し上げます。
 そして、ご出演くださいます市町代表の方々並びに各地より参会くださいました皆様、市民の皆様のご健勝とご活躍を祈念しながら、誠に、措辞でありますが、開会のご挨拶と致します。 (2007・9・29 登別市民会館にて)















「時節一言」 第14目掲載 和のこころが満つる詩吟にふれて  会長 小林正明
     
            「和のこころが満つる詩吟にふれて」  − 市民文化祭吟道発表会の祝辞 ー

 皆様おはようございます。只今、ご紹介いただきました文化協会の小林でございます。
 本日、私共が主催いたします、第43回市民文化祭事業の一環として吟道発表会が多くの会員が出席の中、かくも盛会に開催されますこと、誠におめでたく、また、厚くお礼申し上げます。
 登別吟道連盟の皆様には、当文化協会の事業や運営に深いご理解とご協力をいただいておりますこと、この場をおかりして心よりお礼申し上げます。
 登別吟道連盟が発足しましたのは、当協会が誕生する1年前の昭和46年のことでありました。以来加盟団体の中核として、お手本としてご活躍いただいております。
 登別市文化協会は、現在36団体、二千人を越える会員を有しておりますが、登別吟道連盟は横山会長様のもと、相互の尊敬と信頼の絆による、和のこころを大切にした礼儀正しい深い結束力と行動力に、改めて敬意と感謝を申し上げる次第であります。 
 ところで、日本社会を揺るがす出来事があまりにも多すぎます。政治、経済、医療、福祉、そして教育、多くの国民は、私達は一体どうなるのだろう、という心配と不安を通り越し、生きることの意味を失いかけ、生きがいを求めるはずの暮らしが八方ふさがりつつあると感じる人が多くなっていると言われています。特に、子供達と高齢者に、格差社会のツケがまわっているように思えてなりません。
 このような社会状況だからこそ、祖先が培ってきた伝統文化を、生きる証しとして継承することが大切であると考えます。
 なぜなら古来の伝統芸術文化は、人の知性とこころの豊かさを深めるものであり、また、人と人とのふれあいを培うものであるからであります。こうした文化の活動が、ふるさとの風土に根ざし耕され、種まき花開くものでありましょう。
 詩吟は、長い日本の歴史の中の、人々が苦境のときにも古来から連綿として伝え、磨かれてきた日本人の美意識を象徴する素晴らしい伝統芸術であり、その情緒あふれる響きは人々の心に必ずや深い感銘を与えるものと存じます。このことからも、吟道の将来は、洋々としているものと信じて疑わないところであります。
 平成13年、当連盟が30周年記念大会の時に、「ふるさとを詠う」と題して、文芸部門の俳句や短歌を吟じていただいたことがありました。実はそのとき、横山会長さんの推薦のもと、私の短歌を吟じていただいたのです。そのときの感動と感激は、言葉では表現できないものでありました。以来、私も歌づくりに行き詰まった折りには思い出して元気、勇気、やる気という三気の精神で奮い立つことができます。
 どうか皆様方は、「身も心も」いつも新鮮に、青春の気持ちを持ち続けられ、吟道に大いなる夢とロマンをもって精進されますことを祈念いたします。
 終わりになりましたが、本発表会のご盛会と、登別吟道連盟の更なる発展と、ご参会の皆様方のご健康とご多幸を祈念申し上げまして、お祝いの言葉と致します。本日は、おめでとうございます。  (2007・9・23 鷲別公民館にて) 















「時節一言」 第13目掲載  「私と紙芝居」を読んで  会長 小林正明
      
 室蘭市教育委員会就学相談員をされている佐々木哲弘さんから先回の時節一言「わたしと紙芝居」を読まれての感想を寄せてくださいました。
                                                                            
 懐かしい思いがぱっと広がりました。確かに私達の小さい頃にはこうした村のすみずみに「手作り文化」が広がっていたのですね。「私が紙芝居に出会ったのは今から60数年前にさかのぼる」という文章以降の14行は、まさに私達の原風景で、今もって胸ときめく出来事だったのです。現在のようにテレビもインターネットも携帯もなかった時代に肌の温もりを感じさせる
 <文化の伝承活動>があったのですね。私は先生の文章を共感をもって読み進めているうちに私が小さい頃に紙芝居のほかにラジオと映画が楽しみだったことを思い出しました。ラジオは新諸国物語〜「笛吹き童子」「オテナの塔」「紅孔雀」など。
いつも夜の6時すぎになると、ラジオの前で一喜一憂していました。母が、「兄ちゃん、そんなに近づかなくても聞こえるでしょう。」とよくたしなめられていました。それでも私は聞き耳を立て、ラジオのすぐ傍で物語の展開に胸躍らせていたのです。まさに先生が述べている次の一節に符号するのです。「幼少の私に好奇心や冒険心をかきたて、もし自分が主人公であったならどう対応するかという未知な想像力を培った貴重な原体験であった。」

 映画はラジオより直接的でしたが、新諸国物語のシリーズ(確か東映でした)や赤銅鈴之助などを夢中になって見ていました。母が「○○には内緒だよ。」と言って弟達には隠して映画賃を握らせてくれたことをしみじみ思い出しました。「弟達には内緒」というのがいささか快感で、私は<兄弟愛>を簡単に投げ捨て、宣伝放送の高鳴る映画館へ一目散に走ったのでした。館内は少年少女たちの熱気と興奮のるつぼ。悪役が出てくると「帰れ帰れ」コール。主人公が登場すると拍手喝采。まるで映画館は時代劇のとりこになった子供達に占領されたような風でした。その中の一人だった私は、話の展開にドキドキしながら、鮮烈な映像の世界に酔いしれていました。そして、私にだけ映画をプレゼントしてくれた母への感謝の思いを高めていたのでした。  私が小学校牡時代の懐かしく嬉しい思い出です。(2007/09/18) 














「時節一言」 第12目掲載  ブッタのことば・こよなき幸せ  会長 小林正明  
 
 猛暑が続くお盆の13日、私も家族とともにお墓参りに行った。暑さにめげずに多くの人たちが来ていた。墓石を水で濡らしていねいに掃除をする人、お花や供え物をして線香をたてる人、深々と頭を下げて静かに合掌を繰り返している人、お供え物を分け合って食べている人など様々な光景である。人々の表情はとても穏やかであり和やかである。私は久方ぶりに家族みんなが揃ったのもあったが、何かしら充実感に満ち、幸せな気分になっていた。そういえば、私はお墓参りをするときいつもこのような気持ちになっている。きっとここにいる人も同じような幸せを感じているに違いないと思った。
  
 仏教は、私たちにどのように生きたらいいのか、ということを教えてくれるものが多いが、私たちにとって「幸福」とはどんなものだと教えているのだろうか。きっと経典があるにちがいない。このことについて、とても知りたくなった。
 
 かくして、これは「ブッタのことば」(スッタニバータ)の聖典の「蛇の章」の第二「小さなる章」の四段目「こよなき幸せ」と題して説かれてあったのだった。
 この短い一節は「人生の幸福とは何か」をまとめて述べている。いわば釈尊の幸福論である。ここには次のように説かれていた。

 私が聞いたところによると、………あるとき尊き師(ブッタ)はサーヴァッテイー市のジエータ林、(孤独な人々に食を給する長者)の園におられた。そのときひとりの容色麗しい神が、夜半を過ぎたころジエータ林を隈なく照らして、師のもとに近づいた。そうして師に礼して傍らに立った。そうして師に詩を以って呼びかけた。
 「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。最上の幸福を説いてください。」
 …諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人を尊敬すること………これがこよなき幸せである。…
 …適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起こしていること………これがこよなき幸せである。…
 …深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことを良く学び、ことばがみごとであること………これがこよなき幸せである。…
 …父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと………これがこよなき幸せである。…
 …悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、説行をゆるがせにしないこと………これがこよなき幸せである。…
 …尊敬と謙遜(けんそん)と満足と感謝と「適当な」時に教えを聞くこと………これがこよなき幸せである。…
 …耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の「道の人」に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと………これがこよなき幸せである。…
 …修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること………これがこよなき幸せである。…
 …世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏(あんのん)であること………これがこよなき幸せである。…
 …これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する………これがこよなき幸せである。…
 
 「ブッタのことば」(スッタニバータ)「スッタ」とは「たていと」「経」の意味であり、「ニパータ」は集成の意味である。
 「ブッタのことば」は、学問的研究の示すところによると、仏教の多数の諸経典のうちでも、最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッタのことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である。主要部分はもともと詩文よりなり、読まれるものではなくて、吟詠されたものであった。いずれにしても、暗唱の便をはかったものである。ゴータマ・ブッタ(釈尊―釈迦牟尼世尊の尊称ー)の逝去(北方の伝説によると、紀元前383年頃になる)の後に、仏弟子たちは、その教えの内容を簡潔なかたちにまとめ、あるいは、韻文のかたちで表現した。詩文の形でまとめられると、そのまま、大した変更も加えられることなしに、後世に伝えられた。
 ここに現れる修行僧たちは、樹下石上に座し、あるいは岩窟の中に住むというありさまで、大寺院の中に住んでいない。せいぜい庵りに住んでいた程度である。つまり大寺院がつくられる以前の段階を示しているのである。
 
 ここで述べられている幸福論は、必ずしも体系的とはいえないかもしれない。原文は詩句のため韻律の関係もあって、論理的に筋道たてて述べられているわけではないかもしれない。しかし、繰り返して音読すると、幸福に喜び満ち溢れている心境がつぎからつぎへほとばしってくるのは確かである。真の豊かさとは何か、いま日本人一人ひとりが苦闘しながら問い続けている。
「こよなき幸せ」この喜びの気持ち………それは現在の私たちのものでもあるといえないであろうか。(2007/09/04)
                                 
                             参考文献「ブッタのことば」中村 元訳 岩波文庫
















「時節一言」 第11回目掲載  暑中見舞いはがき  会長 小林正明  
              
  ”炎昼の おのれの影に 子をかくす”(日下部宵三)  今年も暑さ厳しい時節となった。特に四国や九州地方の連続の台風と猛暑はくらしがたいへんであることを徳島の伯母からのはがきに、とくと書かれていた。私は早速に暑中見舞い用のはがきに 「くれぐれも、体に気をつけてね。」と少し大きめの文字にして返信した。
 
  東京都昭島市に住むK君からも、嬉しいはがきが届いた。「九月に家内共々訪ねる。M君夫妻も誘い温泉で一献を」三家族揃うのは25年ぶりの再会になる。いずれも淡い四色刷りのはがきが涼しさと懐かしさを醸し出し、心が和んだ。
 
  はがきは、端書、羽書、葉書とも書く。語源の解釈はさまざまだが、端書は江戸時代、検見直後に代官などにより発せられた仮の徴税令書、仮免状のこと。おもしろいのは、これも江戸時代、銭湯などの代金を前納している人に渡しておく小さな紙片。湯札を指したことだ。また、いせはがき(伊勢端書・羽書)の意でもある。伊勢羽書は慶長、元和の頃伊勢国の山田、松坂、丹生、宇治などの富豪が、その信用力を基礎に発行した古紙幣のことであり、山田羽書は明治初年まで発行されていたそうだ。           
 葉の裏に字を書いたものを葉書と呼んだという説もある。多羅葉(たらよう)という名の常緑樹の葉の長さは十センチを超す。それがハガキの元祖だ、というのである。他羅葉(たらよう)の葉の裏にツメで字を書くと、たちまちくろぐろと字が浮かび上がるとのことだ。昔の人は、この葉の裏にツメや筆で便りを書いたのであろうか。
 
 ハガキには「情がある」という話を、立川談志さんがしている。談志さんは、地方公演で世話になった人へ、こまめに礼状を出すそうだ。「わたしや、意外にまめだというか、酒を飲みながらハガキを書くんですね。電話で済ませるよりやあ、何か情があるような気がしますしね。たった二十円(当時のハガキ代)でしょう。それで喜んでいただけるんだから、安いんだよね。ま、これで字がうまけりやあ、もっと書いちゃんだけど。

 わが国の手紙文で、いちばん短いのは、”平中物語”の中の手紙とのこと。すきものの平中は、しょうこりもなく女にいい寄り「この文を見たら、色よい返事はくれなくてもいい、見たら見たとだけでも」と書く。女の返事は「見つ」の二文字であった。
 
 暑中見舞いのハガキは、長すぎると暑苦しいし短かすぎても情がこもらない。考えると難しくなるが、まずは気楽にご無沙汰している知人に筆を走らせることにしよう。(2007/08/07)

-参考文献- 辰濃和雄著 「天声人語」9 ・小学館「国語大辞典」 















「時節一言」 第10回目掲載  文章の底力  会長  小林正明
 
 文章というのものは、書いた人が伝えようとしたこと、つまり意味さえ伝達できればそれでいいものなのだろうか。読む人に、何があって、どう思ったかが伝わればそれで十分なのか。とりあえずそれで良しと言えるとは思う。言語とはコミュニケーションのための道具なのだから、意味の伝達が何よりの目的に違いないのだ。であるからまず、他人に意味を正確に伝達できる文章を目指すべきであり、それ以上のことに望みを持たないほうがいいと思ったりする。つまり、もっと奥深い名文をいきなり目指してみても、報われることは少ないのだ。まずは、ちゃんとわかる文章を心がけることが大切と思うが、どうもストンと胸に落ちないでいるのだ。

 福島県の猪苗代町にある『野口英世記念館」を訪ねた。息子に帰国を請い願う母親のシカの手紙がパネル展示してある。たどたどしい文章。つたない言葉の羅列。まるで幼な子が書いたようにかな釘流である。
 「おまイの、しせにわ、みなたまけました。わたくしもよろこんでをりまする。」(中略)「はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。いしょのたのみて。ありまする。にしむいてわ、おかみ。ひかしむいてはおかみ。して おりまする。きたむいてはおかみおります。みなみむいてはおかんしおりまする。ついたちにわしをたちをしておりまする。」  貧しさから学校へは通えず、文字を知らなかったシカは、寺の住職からいろはの手ほどきを受けて、どうにか仮名書きを覚えた。そして、必死に息子に宛てた手紙であるとの添え書きもしてある。                   

 「はやくきてくたされ。いつくるとおせてくたされ。これのへんちまちておりまする。ねてもねむられません。」子を慕う親の気持ちがひしと伝わる。この手紙の消印は明治45年1月23日だ。英世の帰国は大正4年9月、手紙から4年9カ月後のことだった。大正7年11月10日、野口シカは、その後二度と息子英世に会うことなく亡くなった。
 私は今でも、大切にしている手紙文が二つある。一通は僻地に就職して自炊を始めた直後の母からのたよりであった。    「ニイチャン、ゲンキカイ。カゼヒカナイカイ。ゴハンチャントタベナサイヨ。(中略)フトンホシナサイヨ。フユヤスミハヤクカエリナサイ。クツシタトセイタオクリマシタ」

 もう一通Bは、穂別小学校に赴任した年、郵便あそびの折に一年生の佐藤あずさちゃんからの手紙である。
 「こうちょう先生、おはようございます。こうちょう先生は元気ですか。わたしはすごく元気です。こうちょう先生いつまでもこのわかさでいてくださいね。いつまでもこのやさしさでいてね。みんなよろこびます。」みんなよろこびます。この一行に今も元気と勇気をいただくのだ。あずさちゃんの笑顔の写真とこの手紙文は大切な大切な宝物である。

 文章とは、作為的な修辞などせずに「あるがまま」の言葉Bこそに、感動を呼ぶ力が与えられるものではないか。作家の浦山氏あhこれを「誠」と呼んでいる。誠の文字は「言葉が成る」と分解できる。あるがままの心を言葉にしたときに、誠は通じるに違いない。(2007・7・12) 2007/07/12
















「時節一言」 第9回目掲載 子守り歌の魅力(その1)  会長 小林正明 
 
 一 ねんねんころりよ おころりよ   坊やは良い子だ ねんねしな
 二 坊やのお守りは どこへ行った   あの山越えて 里へ行った
 三 里の土産に なにもろた      でんでん太鼓に 笙の笛
 四 起き上がり子法師に 振る太鼓(犬振り子) たたいてやるから ねんねしな
 
 これは、一番広く日本全国に今から約三百年前に伝承され、歌われている<江戸子守唄>の歌詞です。”笙の笛”は、当時お伊勢参りが流行、その門前の土産店にあったそうです。私も手にしたことがありますが、雅楽に使う笙とはまるで違い竹で作った簡単に音が出せる竹笛でした。旅人が、「残してきた子どもに何か一つでもお土産を買って帰りたい」という親心が伝わってきます。

 ”振る太鼓(犬張り子)”の起源は、平安の貴族に始まった雛人形の男雛と女雛に控えていた犬です。江戸の武士や商人は、実際は写実的な犬を愛らしい”犬張り子に変えていきました。実は、この犬張り子の子どもの出産に関係していることを知りました。お産の軽い犬にあやかっていたそうです。出産前は犬張り子を「ざる」に乗せた物を妊婦に贈ります。ざるは竹製です。犬の文字の上に、竹という文字を書き込みます。すると『笑」という文字に似た形になるところから『笑っていられるほど楽にお産ができると縁起をかつぎます。今度は、振り子を乗せます。鼓をならした時、裏表とも同じ音がすることから『人生浮き沈みなく安泰に送れる」ことを意味しました。また、鼓の色を黄色くすることで、稲穂を連想させ『食べるに困らない』ことへと繋げました。  
 鼓はうこんで真黄色に染めた麻縄で縛ります。漢方薬のうこんを用いて『厄除け、無病」を祈ったのです。

 この子守歌の短い歌詞の中に、縁起かつぎの大好きな江戸庶民の志向にと結びつき、世相が映し出されていると思います。産まれてきた子どもが幸せに育つようにという親だけではなく、周囲の人々の温かい心と願いが込められていたことがよく分かり深く感動しました。

 ところで私もものごころついた頃から、寝床で必ずと言う位に歌ってくれた母の<江戸子守唄>を思い出します。静かな歌声に合わせて、母の手が小さく優しく肩やお尻をたたきます。するとまもなく安心して深い眠りに入りました。衣食が厳しい田舎での疎開生活の中でも、母は弟妹にも、同じように歌い続けました。川の字になって親子が布団に入ると、母は、片手に乳飲み子を抱えながら歌っていますので、子ども四人のお尻にはなかなかまわりきれません。次第に小さくなっていく歌声に耳を傾けます。しばらくするとポンと母の手が私に届きました。こうしてみんな笑顔で寝入りました。ときどき早目にに帰宅した亡父が母の補助役を、懸命に努めようとしたそうですが、子どもたちが待っていたのは、やはり母の子守歌でありました。 

 今年で九十歳となり、認知症が進んでいるかと心配していた母が、先日<江戸子守唄>を四番までひょうひょうと歌い続けることができたのには驚きました。この子守歌には、言葉ではいえない不思議な力があるにちがいないとつくづく思いました。   
 私が結婚して、一男一女の子どもが授かったのは四十年前のことです。実は妻も”ねんねこ”の中で祖母の歌う子守歌を聞いて育ったことを知りました。私と妻は子どもに江戸子守歌を聞かせながら寝かせてきました。やはり主として妻でありましたが、私は出来るだけ添い寝をするよう努めました。娘は妻の時も私の時も歌うたびに大粒の涙を流しながら寝付きました。      
 現在、保母をしている独身の娘は、子どもたちのお昼ねの時間には必ずこの子守歌を聞かせているようです。子どもたちは涙をいっぱいにして聞き入りながら眠りにつくそうです。
 
 政府の教育再生会議では、親の自覚を求める子育て提案の筆頭に次のように書かれました、”保護者は子守歌を歌い、おっぱいをあげ、赤ちゃんの瞳をのぞく。母乳が十分出なくても抱きしめるだけでいい”と。
 
 私は、とても寂しく悲しい気持ちになりました。無神経と言える提案もさることながら、日本古来の文化をいつから、なぜにこのように風化したのでありましょうか。人としての人類愛や家族愛が条例や規則などで決めることではありません。そうあってはならないと思います。
 
 私と江戸子守歌との出会い、最近になり、また新しいドラマが待ち受けていました。(続)
  
 参考文献 川原井 泰江著「守り子と女たちのこもりうた」(梶@ショパン発行)(2007/06/21)

















 「時節一言」 第8回目掲載  「今のままの暮らし」  副会長  小林 碧水      
 
 知事選で始まった統一地方選も終わった。全国から注目された夕張市長選は乱立となったが民間出身の候補者を市長に選んだ。

 私がもう一つ注目していたのが高知県東洋町の町長選挙であった。東洋町はマスコミでも大きく報道されたが、全国の過疎地の例に漏れず、財政難に喘ぎ、危険な原発ゴミの最終処分場を誘致し、巨額の交付金をもって財政難から脱しようと町長が独自で決定したことへ、町民から反対運動が起こり、町を二分する論争となったことから、町民にその是非を問うとした選挙であった。その結果、町民は誘致反対の町長を選んだ。

 当選後のインタビューに応え「今のままの暮らしでよい」と言い切ったことが印象的であった。今後このまま財政難が続けば行政サービスの低下は避けられないと前町長は語っていた。「今のままの暮らし」を切迫した財政の中で維持してゆくには町民一人一人がそれなりの覚悟を求められるであろう。

 この問題は夕張市や東洋町だけではない。今まで一票を投じた後は余り関心も寄せず過ごしてきたが、これからは年毎にそれが許されなくなってゆくものと思われる。明日の登別市をかんがえさせられた。(川柳のぼりべつ巻頭言より)(2007/05/29掲載分から)















 「時節一言」 第7回目掲載 「和のこころで親子の絆を」  会長 小林正明

 春一番が吹き荒れた翌日、5人の師匠は頭には鬘(かつら)、袴(はかま)姿で「寺子屋」へ、ものづくり工房の職人先生方もそれぞれの服装で道具箱片手に仕事場に出で立った。   
 ここは、登別伊達時代村の商家街である。当初は3年前「テーマパークからカルチャーパークへ」新経営を打ち出した時から、全国唯一の寺子屋・ものづくり教授開始の場となった。師匠陣は小中高の教育経験者で構成する「師匠評定会」、ものづくりの講師陣は、登別市文化協会の会員有志で成る「工房師匠会」である。  
    
 ところで、今の世の中、親子や友人間の絆が断ち切れようとしている。いつからか共通の常識が壊れてしまい分からなくなってしまった大人と、純真無垢な子どもとのギャップはあまりにも大きい。厳父慈母のバランスも壊れボタンの掛け違いが家庭や学校に蔓延していることが哀しい。
 憂いた師匠陣と登文協会員有志は、儒教や仏教、国学や武士道で培われた日本人の精神文化を伝承することにより、失われつつある日本人の心を取り戻せるはずだと仮説し確信した。
 人間としての基本的な素養を学び、中国四千年の歴史で培った「仁、義、礼、智、信」という人間社会の規範を伝授することにより、生き方の根底をなす美徳に繋がると信じたのである。取り組んで3年目にして、大きな反響を呼んだ。 
  
 昨年度は、185校、2千余名の小中高生が受講、高齢者大学や農漁業婦人部、各町内会等の受け入れも増えて大忙しの日々が続いた。「道民カレッジ」にも登録、民間の生涯学習施設としての息吹きを感得できた。総合入村実績は昨年比較の130パーセント、今年は開村15年目を迎え20パーセントアップを目標として手ごたえを感じている。現在、35団体で2千余名を有する登文協40周年の基本は、若年層会員の拡充と青少年健全育成に寄与するための創造的文化伝承活動を展開することである。私が会長就任以来も一環して問い続けてきた命題である。何と、現在10団体数百名の会員が、学校や各施設や町内会において創意工夫を凝らしての伝承活動に乗り出したのである。

 時代村と登文協は、相互に効果と効率を獲得するという相乗効果が成立、「企業と文化団体間の融合」のうねりが、次第に進展していることを実感している。
 『和を以って貴しと為す』 『和敬清寂』 格言や諺を通して、親の在り方や役割を知らせたい。
 今日も寺子屋入りした師匠陣は、一斉音読する若い親たちへ愛のメッセージを乗せて。諸経験を活かすべく、力いっぱいの講義。私たちの夢と希望の挑戦は、始まったばかりである。(北海道社会教育懇話会機関紙「いちじゅ」5月号より) (2007/05/01掲載分)















 「時節一言」 第6回目掲載 「江戸の食・医文化に学びたい」  会長  小林正明

 江戸のことわざに「贅沢(ぜいたく)過ぎての食好き」というのがある。食の贅沢をしつくし、あたりまえのものでは満足できず、変わったものばかり食べたがる者のことを言い、ぜいたくに飽きて、わざと変な食い方をするのを「蕎麦(そば)きりを酢で食う」 「饂飩(うどん)を茶で食う」というが、このことわざは食材自体が変わっている「如何物食い」をさしたことわざである。いずれも、江戸時代においては一笑に附された者たちであった。    
 
 ブリュッセルで開かれた国連の「気候変動に関する政府間パネル」(ipcc)の地球温暖化報告書によると、今後地球上で最大3割の生物種が絶滅の危機にさらされ、水不足の被害を受ける人口が今後数億人増加すると指摘している。 
 最終的には削除されたが、草案段階では2080年代に1億2千万人が新たに飢餓状態に陥るという報道記事を読んで我が身が震えた。                                        
 勿論日本は例外ではない。ブナ林の9割が今世紀末までに消滅、東北地方南部以南の地域ではコシヒカリ生産量が激減、中・四国地方でのリンゴ栽培が困難になるなどの調査報告を知って、今日の食材状況がいつまでも継続するかと考えると、とても怖くなった。     
 今、メタボリック症候群(内臓脂肪症候群)が注目されている。これは内臓脂肪型の肥満に高血圧や高血糖などが重なり心筋梗塞などが発症する。もともとは動脈硬化が原因であり、極めて病気のリスクが高い状態を言うそうだ。
 国民約2000万人が患者・予備軍といわれ、2008年からは企業内健康診断での改善指導の強化を打ち出すとのことを知り、私の怖さが広がった。「消費は美徳」「飽食は食改善のバロメーター」などに象徴される誤った食文化の認識、私たちの祖先が古来から大切にしていた「もったいない精神文化」が、崩壊されつつあることが原因でないのか。                                                                                        
 「腹いっぱい食べてすぐ眠ることはもっとも害」「睡眠はほどほどに規則正しく」約170年前の江戸後期、こんな健康法を唱えた人がいた。それは武家出身の町医者である平野重誠(1790〜1867)である。その著書「病家須知(びょうかすち)が現代語訳になっている。経験から培われた予防医学の智恵は現代にも通じる。日本の看護や介護の原点であると専門家らは話している。「病家須知」とは、病人のいる家では知っておくべきことであり「家庭看護必携」との評価のもと原著は1832年に刊行されている。              

 貝原益軒の「養生訓」(1713年)から1世紀余り、いわば「養生」の具体的な実践を、介護や介護を担う家族向けにまとめている。お産や子育て、介護には多くの章が割かれている。絵入りで詳しく説明され、医者の選び方や終末期ケアについての記述もある。たとえば「看病とは、必ずしも病人の飲み食い、臥(おきふし)の介抱と薬を服用させることだけをいうのではない」とし、「気持ちの落ち込みなど病気の兆候をつみとる」「適切な診療・治療をうけさせる」ことが肝要と説く。そして、終末期は「看病のよしあしでずいぶん違う」とする「医者三分、看病七分という考え方で、家族のかかわり方の大切さ」を説いている。子育てでは、「大地の上で遊ばせて暑さを避けるほかは、なるべく風や日光を当てることが、成長には有益である」とする。真の豊かさとは何か。今こそ真剣に考えてみたい。(2007/04/24掲載分) 















「時節一言」 第5回目掲載 「衣替え」  会長  小林正明
 
 当会が発行する市民文芸誌や文協だよりの印刷製本を快諾してくださっている室蘭印刷社の小川専務からとても面白い冊子を戴いた。それは、暦の日付ごとにこれまでの日本や世界各国にあった出来事を収集してまとめた小川さんのオリジナル知識本である。NHKのラジオ放送や民放のテレビでも「今日は何の日」ということで紹介していた番組があり以前から私は興味があったので暇をみつけては目を通している。4月1日をみるとエイプリルフールと宝塚少女歌劇団初演(1914)が記されている。年度始めの一日目なのに、他にないのかと思って調べてみた。この時は、江戸時代におもしろい日であることがわかった。
 勿論、江戸の世にエイプリルフールなどない。江戸時代の4月1日といえば、実は「綿入れ」から裏地付きの「袷(あわせ)」に着替える衣替え(ころもがえ)の日であったのだ。この風習においては、町民も武士も変わりなかったそうだ。4月1日にまとった袷は、5月1日には、帷(かたびら)とも呼ばれる単衣(ひとえ)にもう一度衣替えした。映画「武士の一分」の中でキムタクが夏の縁側で帷の着流しでくつろぐ場面があって、この時代にも浴衣(ゆかた)があったんだなとそのときは観ていたがどうもそれが帷(単衣)であったことがわかった。 
 ところで家禄が中級・上級の武士や豊かな商人は、この風習にのっとってきちんと衣替えをしたが、もともと古着しか買えない下級武士や裏長屋に住む町人はそうはいかないだろう。一体どうしていたのであろう。実は、4月1日には綿入れの中綿を抜いて袷とし、5月1日になると袷の裏地をとって単衣とするーというのが、江戸の貧しき人々の衣替えであった。安永8年(1779)の4月1日、日本列島は異常気象に見舞われ、各地に雪が降るほどの初夏(陰暦の4月は夏)の寒波となった。当時の記録を調べると、江戸の寒さも相当なものだったらしい。
 落語には、お灸の熱さに「おお、冷てえ!」と叫ぶ、江戸っ子のやせ我慢の姿が描かれている。しかし、さしもの江戸っ子も、その寒さに袷一枚でいることに耐えられなかったようで、あわてて綿を入れ直したり、長持(ながもち)の奥から冬のどてらを引っ張り出したという。
 花冷えのする4月1日、私は、すでに片付けていたコートを引っ掛けてデパートに出向いた。デパート内側行く人のなんとバライテイに富んだフアッションであることよ。ピンク色の艶やかなワンピース、半そで姿の女性、首巻してもくもくコートの中年男性、長いブーツを履いてジャージ姿で走り回る女の子、売り場にはセーターから水着まで置いてある。よくよく見ると不思議な光景だ。そこには春夏秋冬が一挙に詰め込まれているかに感じた。
 季節の変わり目に着替えることを慣習とし常識にしていた日本人の衣服文化がおかしくなっているのではないか。これも地球温暖化がもたらした故なのか、このように考える私が古いのか。かくしても、【尊天愛人】【和敬静寂」日本人が歴史の中で培い、今も恋々と引き継いでいる和のこころの精神文化は、混乱しないでありたい。 デパート内の異常に熱い暖房に耐えながらこんなことに思いを凝らしたエイプリルフールの一日であった。 (2007/04/03掲載分)
 















「時節一言」 第4回目掲載  「わたしと紙芝居」   会長 小林正明
 
  先日、スーパーで娘の友人であるM子さんに出会った。M子さんには、小学校三年生の女の子どもさんがいる。そのS子ちゃんが三歳頃に、私は着替えて紙芝居を見せてあげたことがあった。M子さん曰く「S子が、思い出しては先生の紙芝居をみたいなナーと言うので、一度お邪魔してよろしいですか」というのである。私は、嬉しくなって「どうぞどうぞ」と二つ返事で引き受けた。
 私は、昨年常盤町内会主催の敬老のお祝いの日にも、出しものとして紙芝居を行った。「乙女の祈り」と「つるのおんがえし」である。皆さんが、引き抜く画面から眼を離さず見てくださっていたことは、画面に額を隠して話していた私も分かっていたが多くの方が感涙していたことは予想もしなかった。一巻の終わり。そういえば私も感極まって話していたのかもしれない。拍手を受けてとても嬉しかった。
 
 ところで、私が紙芝居と出会ったのは今から60数年前にさかのぼる。いつも土曜日の夕暮れ時、カチンカチンと快い音が路地裏から響いてくる。僕たちはメンコ、駒回しを止めて歓声をあげるや否や脱兎のごとくいつもの所に集まるのだ。早速、ずっとポケットの中で握りしめていた5円玉をおじさんに渡して棒つき飴を買う。今日の出し物は、何であるか僕たちみんな分かっている。「笛吹き童子」と「ターザン」の二本立て、先週からの続編。私は早まる鼓動をおさえ沸き立つ興奮を静めるように、飴を唇尖らせて頬張る。いよいよ待ちに待った第三巻の始まりだ。しわがれたドスの効いたおじさんの声が、廉売店の雑踏音や行き来する電車音とハーモニーして、リズムとなり夢のドラマは展開する。僕たちは、身を固めて小さな枠から引き抜かれる画面に目が鱗になっている。まもなくクライマックスか。「サーテ、どうなるか。続きはまたのお楽しみ」自転車の二台に一式を乗せておじさんは、背を丸めて早踏みペダルで雑踏の中に消えて行く。僕たちは、大事な大切な人を送る気持ちで、その姿が見えなくなるまで目を離さない。棒つき飴は、もうビーダマより小さくなり口の中でコロコロ回っている。
 私は、まだおじさんの行く手を追っている弟の手を引いて家路を急ぐ。わが家から母の声とラジオ音そしてほんわり夕餉のにおいが・・・。猛烈な勢いでお腹の虫を呼び起こす。

 私の幼年時代の一齣である。少し大袈裟であるが、今も紙芝居は私にしてファンタジーの世界にタイムトンネルさせてくれるのだ。
 確かに、静画から醸し出されるドラマは幼少の私に好奇心や冒険心をかき立て、もし自分が主人公であったならどう対応するかという未知なる想像力を培った原体験であった。そして、そこには地域の美しい自然と子どもを見守る人々が息づき暮らしている原風景があったのだ。原体験は人格形成の大切な要素であることは定説である。
 ”美しい国・日本”とは、こうした地域社会が存在していることではないか。「紙芝居を通して生きるために老人力のエネルギーにしていきたい。紙芝居文化をもっと広めたい」そのために何とか時間を生み出したいとつくづく思うこの頃であります。(2007/03/29掲載分)














「時節一言」 第3回目掲載  「ありがとう」  会長 小林正明
 
 『こんにちは、さようなら、ありがとう、ごめんなさい』この4つの言葉をいつでも、どこでも、だれにでも言える人間になって欲しい。何故なら、自分の気持ちを伝えて豊かに生きる為の大切な言葉であるから。私の教え子にも我が子にも、躾の第1条として教えてきた。
 ところが、近年日本ではこの言葉が使われなくなっている。特に「ありがとう」が極めて少なくなっているそうである。なかでも、夫が妻に対して言うことが少なく、それが高齢になるに伴い使われなくなるとの調査結果にも表れていた。
 そういう私も、家内に何日も『ありがとう』と言ってないことに気がついた。実は、日々の暮らしで家内には諸々のことに感謝していないわけではない。言い訳がましいが、どうも照れが先に走ってしまい、ついつい言いそびれてしまうのだ。
 私の実母は、2月に誕生日を迎えて90歳になった。現在施設にお世話になっているがその母が自意識でしているかどうかわからないが、実に適時適切に『ありがとう』と発信するのだ。それも人、時、場によって『ありがとう』の声の高低強弱やトーンやアクセントが微妙に違うのだ。
 先日、母を車椅子に乗せて家内と定期検診のために病院に連れて行った。私の腰ベルトを両手にしての歩行「ほんとうに面倒かける母親だね。アリガトウ」に始まり、家に帰り大好物の三平汁を平らげて「もっちゃん、《家内のこと》アリガトウ」、施設に帰るまで「ありがとう」は数10回に及んだ。
 私は、つくづく思った。きっと母は、生かしていただいている感謝の心を「ありがとう」の5文字に込めているのだと。母を無事施設に送り帰す間際に私と家内は、「おばあちゃん、今日はどうも、ありがとう」と何故か口をそろえて言ってしまったのは不思議なことだった。「ありがとう」の一言にある魔力なのか。
 もっとも日常的お礼の言葉「ありがとう」に拘った私は、調べることにした。漢字では「有り難う」と書く。つまり、「有り難し」という仏教語から転じた言葉である。パーリ語で書かれた仏典「法句経(ほっくぎょう)」には、こう記されている。
 「ひとの生をうくるはかたく、死すべきものの、生命あるもありがたし」人として生まれること、命あることは、なんと「まれな有り難い」ことか。その言葉によって、あらためて人として生まれたことの尊さをかみしめているわけだ。釈迦牟尼(しゃかむに)の伝説によれば、お釈迦様は、仏弟子に向かってこう説いたとされる。―−人として生まれてくることは、大海に浮かぶひとつの輪に、海中から浮上してきた海亀が首を通すほど稀有(けう)な出来事であるー−。
 清少納言の枕草子には、その「稀有な出来事」の意味で、「ありがたきもの」という言葉が使われている。
 「ありがたきもの、しうとにほめらるる婿(むこ)。また、しうとめに思われる嫁の君」
 嫁がしうとにほめられること。嫁がしゅとめに大事にされることは、めったにあることではないと、辛口の人生観を述べているが、この軽妙な皮肉は、「ありがとう」のもともとの意味を、きわめて明快に伝えてくれている。
 それにしても、「有り難し」は、「法句経」の原点にもどってこそ、感謝の言葉に転じるニュアンスが見出せるというものであろう。ああ、人として生まれることは、なんと稀有な出来事であり、尊いことか。それが感謝を表す意味に転じ、さらに日常的なお礼の言葉に転じていったというわけなのだ。実は、ありがとうの言葉の背景に儒教や仏教の精神に裏打ちされた和のこころの伝統文化があったと思うのは、私の考えすぎなのか。
 かくしても、妻に「ありがとう」と言えない私。愚説になろうがまずは、「サンキュウ」から口火を切ることとするか。いずれにしろ私たちは、もっともっと人として生まれたことの尊さをかみしめて「ありがとう」とたくさん言い合える地域社会にしたいものである。
(2007/03/11掲載分)
















「時節一言」 第2回目掲載    会長 小林正明
 
 「風吹けば 落ち葉の海が 波立てる」 「ゆらゆらと たんぽぽのたね 一人旅」 昨年11月に俳句協会が市内小学生から募集して行った大会で、6年生の部で特選になった句です。なんと個性豊かな素敵な句でありましょう。寄せられた600余の選句にあたった会員は、「新鮮な発見、子どもたちからたくさん学ぶことができました」と口をそろえて言いました。 
 1月20日、室蘭出身のオリンピック選手、堀井 学氏を招聘してスケートの実技指導と講習会を行いました。堀井氏は子どもたちに 「転んでもすぐ起きて滑ること、我慢して粘り強く続けること」 と繰り返して励ましました。子どもたちは、オリンピック選手になるのも夢ではないと思ったでしょう。冬の日差しの中を目を輝かせてすいすいと滑り続けました。歓声は大空に響き渡り、指導者の顔には満面の笑みが絶えませんでした。苦難を乗り越えて夢を実現した彼の選手時代、講演を聞いて解りました。
 1月26日、三曲協会は若草小学校を訪問、6年生全員に「三曲鑑賞会」を行いました。”六段”と”さくら”の合奏の後、全員に琴と尺八の体験です。市内の小学生対象の伝承ボランテイア活動は、14年間続いています。初めて間近で聞く三曲の音色、子どもたちの正座は崩れません。尺八を吹いて得意顔の子、手を添えてもらい、初めてつま弾く琴の感触に紅潮する子どもたち、三曲の先生方の眼は光り輝いていました。
 どんな時代にあっても、本来子どもは純真無垢でありますから、子どもの健やかに成長するための生活習慣を整えることにより、個々の持つ才能は無限に伸長すると信じます。私たち登別市文化協会は、子どもたちに命を大切にして今こそ自信と誇りを持って、自分らしく生きて欲しいとの願いを込めて文化伝承活動を広げていきます。(2007/01/28掲載分)














「時節一言」 第1回目掲載     会長 小林正明
 
 最近、新聞テレビ等のマスコミ報道に接して感じることは、このことって本当に事実なのかと耳や目を疑い、怒りや不安に陥るのは私だけではないと思います。
 私たちが、今、最も直面していることは経済的不況より、はるかに深刻化していること、それは人々の生きる意味の不況であると言われています。つまり、自分が見えなくなり日々のくらしや虚しさに苦しむ人々がどんどん多くなっています。
 特に、子どもたちの環境は次第に悪化していることに心痛な思いがいたします。
 今こそ子どもの問題は大人の責任という認識に立って守っていかなくてはならないと思います。
 「文化」(カルチャーカルベート)の語源は、西ヨーロッパ語で「荒地を耕し種を播く」という 意味があります。人々が元気と勇気、そしてやる気をもたらす心豊かでおおらかな地域文化が根づくことを願ってやみません。(2007/01/11掲載分)