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ネットワーク社会の自我と表現 〜新しいメディアと文学〜


2:インタラクティブメディアとしての掲示板

2-1:総合掲示板の威力

 「2ちゃんねる」というコミュニティサイトがある。学問や職業、趣味や生活、各メディアなどに関する多くのカテゴリに分けられた複数の掲示板を有し、参加者が自由にテーマを提起し、他の参加者と自由に議論や雑談が出来るようなシステムが整備してある。2000年12月現在では、個人運営のサイトであるにも関わらず、アクセス数は国内掲示板サイトで1位。検索サイトなどを含めたランキングでも、15位に位置する実質日本最大の総合掲示板サイトである。最初はアンダーグラウンドな情報などを扱う場所だったが、バスジャック事件で犯人の少年が事前に犯行予告の書き込みをしていたことで有名になり、以後は一般の人にも広く知られるコミュニティになりつつある。

 このサイトが他の掲示板と一線を画しているのは、圧倒的なアクセス数と書き込みの数である。ここでは、掲示板にありがちな書き込んでからレスが返るまでのタイムラグが無いに等しい。日本中から、様々な趣味や知識や思想を持った人が、各自の興味のある話題に集まっているからだ。2ちゃんねるに書き込んだ人は、他の掲示板サイトには無いチャットにも似たライブ性を感じることだろう。掲示板サイトにおいて、一番の価値は参加人数の多さである。多くの人の集まるところには、多くの情報が集まる。情報が多ければその中に、より多数の人間にとって有益な情報が含まれる確率も上がる。つまり量が質を生むのである。2ちゃんねるが現時点で最大の掲示板サイトである理由は、最大の掲示板サイトであること自体なのである。つまり、コミュニティサイトのデファクト・スタンダード(きちんと定まった規格ではない事実上のスタンダード)であるとも言えるだろう。

 2ちゃんねるには非常に中毒性がある(一度やると「ハマって」しまう)と言われるが、それはやはり掲示板の向こうには常に生身の人間がいるからだと思われる。そこでは、コミュニケーションのルールなども、結局は日常生活のルールがそのまま応用されている。つまり、ネット上の現実社会であるとも言える。ここが、ウルティマオンラインと似て非なる部分だ。だが、両者はコミュニケーションの面白さという点では、非常に近い。

 ネット上のコミュニケーションにおいては、不特定多数との匿名コミュニケーションというのが重要なキーワードなのではないだろうか。

 文字だけのコミュニケーションであり生身には直接危害が及ばない点も、仮想現実としてのゲームに近い部分がある。完全な匿名性というシステムは仮想人格の構築を容易にしており、非常に仮想現実的で、ゲーム的だ。このような匿名掲示板サイトの面白さには、ウルティマオンラインのようなネットゲームに通じるものがある。近年のゲーム業界の慢性的な不調の原因は、市場が技術主導で急拡大しすぎたことにもあるが、インターネットや携帯電話と言ったコミュニケーションツールにパイを奪われたからとも言える。

 障害→クリア、のようなプレイが好きな人は既存のゲームがいいのではないかと思われるが、2ちゃんねるにもそれはある。それは発言者同士の「煽り→衝突→解決」という流れである。議論というのは本来ゲーム的であるし、その場に慣れれば慣れるだけ微妙に経験値が上がったりする所も似ている。ただ完全な実力主義で、ゲームのように難易度の調整が一切無いのが厳しいとも言える。2ちゃんねるは、もはやゲームではないのだ。ネットワーク上の多人数インタラクティブメディアほど、「現実社会の縮図」という言葉が似合うものはない。

 広い意味で言うと、人間同士のコミュニケーションの中にエンターテインメントに不可欠な要素は全て入っているのかもしれない。例として街頭でのナンパを良くする人は、単に女性と知り合いたいからというだけではなく、ゲーム的な楽しみを求めている人が多いと言われている。喧嘩ばっかりしてるチーマーなども、ある意味、実体験版ウルティマ・オンラインにも似た冒険世界の住人であるとも言える。このような言い方はある種の逆説表現であるが、ネットの場合は安全かつ道義的に保証された立場からそれらの冒険を楽しむことができる。身の危険性を顧みない人は、実世界でもそういう冒険をしているのではないだろうか。ただし、それらには高尚な目的も無く、決して道徳的に誉められた行動ではないだろうが。

 ただ、実際の日常生活における弱者が、ネット上でも弱者になりやすいという傾向があることも否めない。例えばネット恋愛などに関しても、コミュニケーション能力の差から、弱者は弱者のままという印象はある。つまり、実生活で敬遠されるタイプの人は、ネット上でも広くは受け入れられないと思う。ただ、ネットワーク社会の大きな特徴は、あらゆるタイプの人間が、その人を求める人間と知り合える可能性が開けているところだ。恋愛シミュレーションのようなゲームは、市場をネット恋愛に食われてしまう恐れがある。恋愛ゲームはメル友(メールフレンド)との出会い系サイトなどに食われ始めているのではないだろうか。メル友なら、かなりバーチャルに自分の理想だけの付き合いができる上、振られても自分自身は、現実世界ほど傷つかない。現実とフィクションが微妙にブレンドされた、新しいコミュニケーションの形であろう。

 2ちゃんねるにはリレー小説を書いているスレッドなどもあり、2チャンネル型のスレッド式掲示板は現時点でのインタラクティブメディアの理想型に一番近いメディアかもしれない。インタラクティブメディアの受け皿のような汎用性がある。新しい情報も得る、友達を作る、議論するなどのほかにも、実験的な試みやアンケート、共同創作など、出来ることが非常に多い。

 コミュニケーション主体のエンターテインメントの受け皿としては、人を出来るだけ多く集めることが最低条件だろう。2ちゃんねるはこれを満たしている点で、単なる掲示板とは別のレベルにまで高まっている。完全な匿名性を保証しつつ、最低限の悪質な発言を公開された依頼により削除するというシステムも成功の大きな要因だと思われる。

 弱点は、あくまでデファクト・スタンダード(事実上の定番)でしかないという点だ。他のメディアより乗換えが容易なので、中心が一気に別の所に移る可能性もある。もし交代が起こるとすれば、全く別のシステムでないと無理だろう。2ちゃんねると全く同じシステムで、ポスト2ちゃんを狙っているサイトは多数存在するが、同じ方法論を取っている以上単なる模倣に過ぎず、代替するサイトには決してなり得ないだろう。

 掲示板は電話やメールに次ぐ、革新的なデジタル・コミュニケーション・メディアなのではないだろうか。そして、多数の人が集まり積極的な参加がみられる巨大な総合掲示板は、普通の掲示板とはまた異質の価値を持つ。ある意味、仮想社会を実現しているとも言えるのである。

2-2:ネットゲームと掲示板

 ただ、ウルティマオンラインのようなネットゲームが、今よりも参加の障壁が低くなれば、総合掲示板を脅かす存在になり得るだろう。ゲーム内でのコミュニケーションも可能だし、ゲームに費やした時間が経験や資産として目に見える形で蓄積されるため、より熱中度が高い(反面、飽きる可能性もあるが)。今の2ちゃん型の掲示板に無いのは、費やした時間が資産として蓄積される感覚と、通貨や物の交換手段だろうと思う。総合掲示板では、情報量や慣れ、個人的思考のレベルでしかステップアップできない。ヘビーユーザーには、それを不満と感じる人もいるだろう。なぜなら、そこで行われるコミュニケーションは、コミュニケーションのためのコミュニケーションであって、非常にライブ的で刹那的なものだからだ。膨大な時間を費やしたとしても、後に残るのはいくらかの情報と自己満足だけである。この点でもゲーム的なのだが、既存のRPGのようにプレイすればするほど年功序列で上達するわけではない。何のルールも無いシステムだからこそ、現実社会以上の実力主義の厳しさがあるのである。そのため、時間を費やした代償としてのRPGのレベルのような指標を求める人もいるかもしれない。

 総合掲示板がウルティマオンラインのようにバーチャルな形で、何らかの価値体系を持ったら、また違うメディアになるかもしれない。しかし、そうすると余程シンプルにシステムを作らないと煩雑になってしまう。カースト的な階級社会は、ヘビーユーザーには優しいが、新しく入ってくるユーザーを拒む。それがサイト全体の衰退の原因になる可能性もある。2ちゃんねるが新参者にも門戸が広いのは、純粋にその人のパーソナリティーだけの勝負が可能な場だからだと思う。ウルティマオンラインでは、後発の新参者は地道に修行をしなければ、ベテランと共に冒険をすることは不可能だが、例えば2ちゃんねるならば、今日初めて書き込む人が人気スレッドを作ることも十分可能だ。総合掲示板のシステムは平等ではある。へヴィユーザーは不満に思うこともあるだろうが、彼らはよりマニアックなどこかに移って行くのかもしれない。

 以前、一緒にゲームソフトを制作した友人とゲームの基本定義について話し合ったときに、似たような話になったことがある。「資産」と「自分の能力」と「運」とのバランスが、ゲームバランスを決めるという話になった。ここで言う「資産」が広い意味で、受け継がれる価値(通貨や経験値)だ。ゲームのいいところは、常にゼロからの勝負が出来る点である。現実社会とは異なり万人が同じスタートラインに立つので、誰にでも一番になれる可能性がある。また多くのゲームでは、ユーザーがゲーム内で費やした時間が資産になるようなシステムが工夫してある。スタート地点での資産や自分の能力で予め運命が決められていると、それは現実社会と同じになってしまうからだ。

 ウルティマは階級が厳しいが、2ちゃんねるは資産が形成しにくい。ウルティマはキャラを作って強く育てるが、2ちゃんねるで、多くの人はまるで逆の事をしている。つまり、固定ハンドルネームを使わず匿名で発言するということだ。そこでは個人のパーソナリティーが育たない代わりに、いつでもキャラが変更可能だ。いつでもなりたい人格になれて、いつでも別の人格に移れる。これは新しい感覚だと思う。総合掲示板のような匿名メディアは、自作自演をしてみてはじめてその真価がわかるという気がする。ともあれ、資産と能力と運のバランスが重要なのはネットゲームや掲示板においても変わらないように思える。2ちゃんねるのような総合掲示板は、資産と運の要素は皆無で、能力だけが注目される。その特異さゆえに優れたメディアになっているのではないだろうか。

 それでは、ネットゲームや総合掲示板など、対人コミュニケーションを目的としたインタラクティブメディアの普及によって、従来のインタラクティブメディアである家庭用ゲーム(非ネットゲーム)はどうなっていくのだろうか。全てのゲームはネットワーク化していくのだろうか? おそらくそうではない。何故なら、ネットゲームは上手くやらないと商業的に成功できないからだ。その理由は2ちゃんねるの隆盛にも関係がある。つまり、ネット上の多人数メディアは、デファクト・スタンダードのゲームしか人数を集められないのである。実際、ウルティマ以外のネットゲームは、あまり商業的に成功していないようだ。その点、パッケージソフトとしての非ネットゲームは、毎年新しいものを作って売ることが出来るという、商売に適した仕組みであることがわかる。音楽業界に例えれば、ライブ性の高いラジオや有線放送と、パッケージソフトとしてのCDの違いとも言える。ただ、このように消費されつづけるパッケージメディアは、すぐに飽きられまた別の物が求められるようでなければ市場が成り立たない。ひとつの非ネットゲームをずっとプレイしている人は、実は市場の上では存在していないのと同様である。ビデオ録画された同じ番組を毎日見ている人が、テレビの視聴率に無関係であることに似ている。ゲームの市場は、さらに映画に似て来ているのかも知れない。続編を出せば売れる時代は終わってしまった。これはゲームに続編は必要か?という話にも繋がってくるだろう。常に新しいソフトを提供しつづけるためには、新規開拓あるいは反復をさせなくてはいけない。この辺りは非常に映画に似ている。特にハリウッド映画は演出と俳優を変えて反復を繰り返しているようなものだからである。とりわけ制作に期間と費用のかかるメディアにおいては新規ジャンルの開拓は簡単には出来ないので、ある程度の反復は仕方が無いだろう。効率的に利益を上げるためのマーケティング理論は、反復と新規需要開拓の理論そのものである。しかしネットゲームの出現により、この市場原理は微妙に変わっていくことになる。

 ネットゲームでは、複数のヒット作が共存しにくい。前述したデファクト・スタンダードの問題と、ゲームへの没入度が高く、一度に複数のネットゲームを遊ぶのが困難だということが現時点での大きな理由だ。同一ジャンルでのスタンダード化が進んで、ファンタジーならこれ、時代ものならこれ、SFならこれ、という風にナンバー1のネットゲームだけが残るのでは無いだろうか。ネットゲーム市場の構造は、テーマパークにも似ているように思える。つまり、たくさんのディズニーランドはいらないということだ。人が集まることで価値が生まれるような業種は、ある種の寡占状態になりやすいのである。しかもネット上は交通の便がまるで問題ではないため、純粋な競争となり、さらに独占傾向は強まる。

 ゲーム会社が続々とテーマパーク運営に乗り出しているのも、そういうノウハウを蓄積するためかもしれない。テーマパーク運営のノウハウは、ネットゲームやコミュニティの運営のそれに非常に近い。ただし、テーマパーク建設は莫大な費用がかかる上に、一度作るとなかなか改良がしにくい。しかし、ネットゲームはシステムすらも、リアルタイムに更新しつづけられるのだ。そこが、ネットゲームとの大きな違いである。多くのネットゲームには「パッチ」というものがある。これは毎週のように、部分的に新しいプログラムがダウンロードされて、常にシステムが進化し続けるというネットゲームに特有のシステムである。リアルタイムでメンテナンスされ、改良されつづけているテーマパークみたいなものである。これが広い市場で実現すれば、まさに最強のエンターテインメント・メディアとも言えるかもしれない。


3:ネット上の自我と文学

3-1:風葬日記と鳥葬掲示板

 ここで、創作以前のモチベーションや自我について考えてみようと思う。ネットで拡大された自我は、どんな現象を生んでいるのだろうか。

 先日、小説を書いている友人に新作小説の筋を聞いてみたら、細かい部分の面白さに至るまで、喜んで話してくれた。しかし、後日彼に会うと、アイデアを人に話してしまったせいでどこか満足してしまい、その小説を書く意欲が薄くなくなってしまったという。創作のもとになるアイデアや自分の主張は、作品として仕上げるより前に声高に語るべきではないのだろうか?

 そこから創作のモチベーションについての議論が始まった。そして、書きたいという欲求や、面白いネタなどは、気軽に人に話したりせずに、創作物として昇華させるまで自分の頭の仲だけに留めて置くべきだという、至極当然な結論に至った。その時の友人との会話の中で生まれたのが「ミニオレ」という言葉である。自分の創作欲求が、友人との日常会話の最中に、図らずも少しずつ零れ落ちていく様を、自分の創作欲を実体化させたような小さな分身が逃げていくという比喩で表したのが、始まりである。自我の断片とも言うべきものだろうか。この単語は、これからも論文中で何度か出て来るのでご了承いただきたい。もうひとつミニオレの例を挙げてみよう。論文を書く前に他人と同じテーマの議論で徹底的に盛り上がりすぎると、ミニオレがたくさん出てしまい、机上でもう一度同じ論を組み立てる意欲が薄くなってしまう。これは「徹底的」であるから、問題だったのだろう。創作へのエネルギーに回すためには、ライブ的なコミュニケーションの中で完全燃焼してはいけないのである。

 文章メディアで言うと最もミニオレが出やすい、というよりミニオレの塊のようなものが日記なのではないだろうか。昔から日記をネタ帳として活用しているクリエイターは多い。しかし従来のそれらは人の目に触れないメディアであり、あえて不完全に走り書きすることで、ミニオレを閉じ込めるようなやり方をしていたように思える。それが、個人の日記がネット上で公開されるようになると、状況は一変する。「誰かが見ている」感覚や、掲示板への書き込みがあると、自分だけのための単なるメモとは異なる、創作もどきの行為になり、ミニオレが霧散してしまうのではないだろうか。現在、ネット上で人気を集めている私小説的な日記には、二つの方向性があると思う。ひとつは風俗嬢などの特殊な立場の人間が自らの珍しい経験や生活を綴ったもの。そしてもうひとつはごく普通の人間が、心情の吐露を含みつつ非常に赤裸々に日常を語っているものだ。読み手の側から見ると、前者はドキュメンタリー的な創作作品を読む感覚に近く、後者は本来の日記を覗き見している感覚に近い。自分が外の世界(他者)とつながっている、という感覚は、自己満足につながりやすい。実際には、ネット上で日記を書くときには、本来の日記とは異なり、「創作物としての日記」とその読者を常に意識しているはずである。自分の考えたこと、感じたことをそのまま垂れ流すような日記を書いている人は、ミニオレを排泄に近い感覚で消費している気がする。自我の垂れ流しとも言うかもしれない。しかし、そういう発散は、精神衛生上必要なこともある。話したいことを匿名で書けばスッキリするだろうし、掲示板に何らかの反応があればもっと解消になるのではないだろうか。そういう行為で精神的なバランスをとっている人も多いと思われる。

 読み手を想定した日記と、自分のために書く日記、どちらが創作に必要なミニオレを消費してしまうものだろうか、と考えた。読み手のために書く日記は、既に作品の体裁を取っているので、創作の代替行為になっているように思える。一方で自分のためだけに書く日記は、自省的で、ただ思索の過程を文字に託しているようにも思える。排泄を、他人が見てもいい形まで洗練させるのも大事だ。日記は書いてもいいが、創作のためには他人に見せてはいけないものなのかも知れない。ただ確信犯的に日記そのものを自分の作品にする人もいる。感情の垂れ流しの中には、自分が感じ取った感覚や現象の描写しかないと思う。そこに意味を与えるのが思考であり、読み手を想定した書き換えが無い文章には、ミニオレ未満のバラバラな組織しか無いように思える。

 ところで最近は、匿名掲示板に個人的なことを書いてストレス解消という傾向が、面白いと思う。掲示板で(特に恋愛関係などの)悩みを書く人は、実はアドバイスを求めてるわけじゃなかったりする。大抵の場合は、人に聞いてもらうこと自体が目的なのだ。知っている人には話しにくいことも匿名なら遠慮なく書ける。これは、本来のミニオレの発散とは少し方向性だろう。ミニオレ未満、ミニオレの素を弔っているような感覚である。多くの人にとってミニオレをためるのは精神衛生上良くない。そういう発散の場がネット上にできているというのは、ある意味良いことなのかもしれない。

 そう考えると、次のようにまとめることができるだろう。そういうミニオレの素を日記に書く行為は風葬で、掲示板に書く行為は鳥葬なのではないだろうか。掲示板でみんなについばまれる事で、本人は癒されているのだ。それは創作と排泄の中間に位置する、日常会話にも似た行為なのかもしれない。

3-2:「ミニオレ」救済計画

 それでは、ネットで文学や創作はどう変わったかを、発信する側と受信する側の両方から見ていこうと思う。ここでは「文学的なもの」という意味で「文学」を使うことにする。文学とは「言語表現メディア」の中でも「情緒的な手段」に属するもの(物語や、詩歌など)であると考えることにする。つまり論理と非言語は文学ではないということで、論文は文学ではないし、絵画や彫刻も文学ではないということだ。上記で限定された物語の中で、ストーリー性に重きを置いたものがエンターテインメント、構造や状況が描くテーマに重きを置いたものが文学なのではないか、と思う。さらに狭義の文学は非エンターテインメントであり、それはカタルシスのあるストーリー性よりも、状況によるテーマ描写に重きを置いた作風のものを指す。実際の作品には、当然ながら両方の要素がブレンドされている。

 オンラインにおける創作物は、リアルタイムで変化し続ける可能性のあるものも出てくるかもしれない。「ライブ性」のある創作物。読者参加型と言われるタイプのもので、序論で書いたメディア属性の定義がそのまま適応できるだろう。インタラクティブ性、ライブ性、デジタル性を持った文学が、ネット上には生まれつつある。

 ところで、ネット上の文学的なものについて語るときには、文学以前の「ミニオレ」も観察の対象にすべきなのではないかと思う。最近、そういうミニオレが、かつては同人活動などに吸収されていったように、今はネットに吸収されてしまっているような気がする。例えば、ホームページ上の日記や2ちゃんねるのような掲示板で体験談や悩みを語ったり、議論をすることで、ミニオレが放出されてしまい、文学へ向かうモチベーションが解消されてしまうのではないか、と思う。精神衛生上は好ましい状況ではあるが、創作はある程度の抑圧がないとできないものだろう。一方で、色々な人の少しづつのミニオレが複合されることで、新しく魅力的な創作が生まれる可能性もあるかもしれない。

 ネットの特性は、「常に変化しつづける」=「未完成であり続ける」メディアであることなので、作品という枠に当てはめないミニオレ発散がしやすいメディアではある。昔の口伝の物語も人々の間で語り継がれ、少しずつ形作られていった。どちらも、パッケージ化されていない作品という共通点があるが、昔と今が違うのは、それが非常に短い期間で広い範囲の人々によって消費されることである。ネットは、流行語などの新しい文化は生むと思う。でも、文学などの表現が廃れて行く可能性がある。

 一方で、ネットが文学の新しい可能性を開拓している部分もある。例えば、読者が作者に対して問いかけし、作者がそれにレスポンスを返す、という意味でのインタラクティブは、既に作家のホームページなどで実現している。しかしそれが第1章で述べた、単一の作品に対する作者の甘えにつながるようにも思える。つまり、「あとがき」で作品のテーマを述べてしまうような行為と言えるだろう。作品は作品の中で完結することも必要だと思う。完結しない作品があってもいいが、それはそれなりの意味がないといけない。ネット上では、あらゆる個人が自分の主張を(例えそれが未熟で不完全な主張であっても)、広い範囲の人間に簡単に知らしめることが出来る。この変革は、創作環境としては良い面と悪い面との両面を持っているだろう。また、ネット上の個別のインタラクティブメディアについての考察は、現時点ではまだサンプルとなるサイトも少ないため、次の機会に行うことにして、今はネット上での創作活動におけるより根本的な問題について考えてみようと思う。

 ネット上で傑作の小説などを読むと、不安になることがある。ネット上で生まれた良い作品は、きちんとどこかに残されているのだろうか? ネット上のあらゆるコンテンツは、消費されていくという印象が強い。例えば掲示板の過去ログというものも、過去の文献(データベース)としては非常に信頼感が無い。改ざんの可能性もあるかもしれないが、一番の不安は無くなる可能性が高いということだ。近いうちに、ネット上に過去ログの図書館みたいなものを作る必要がありそうだ。現在のネット上の情報は、とても刹那的なイメージがある。せっかくデジタルメディア上の文献なのだから、刹那的に消費するのではなく、今のうちからデータベース化を徹底しておくべきだと思う。2ちゃんねるでは、最近になって割とそのような動きが出てきている。傑作だったスレッドを有志で保存する動きが出てきている。何故か、対人のコミュニケーションというのは、保存しておく必要性を軽く考えてしまう。自分で書いた日記とかアイデアメモなどは、つまらないことでもちゃんと取っておくというのに。

 これは、ライブ感とデータベースは、対立概念だからではないだろうか。今まではライブ感のある話し合いとかは、録音でもしない限り残らないものだったので、訓練ができてないということもあると思われる。しかしこの感覚は、少しずつ変わっていくと思われる。今までは、情報の保管の問題もあり、無駄な資料は捨てる必要があったが、今はデジタル化で置き場所の心配は皆無である。またデジタルメディアであるため、過去の文献の検索や引用も自由なわけだから、すべてのデータを保管しておく意味は、昔より遥かに大きいはずである。例えば、テレビの草創期には、テレビ局は放送した番組のビデオテープを全部捨てていた。これは現在に資料保存の見地から考えると、とんでもないことのように思える。しかし、今の掲示板のログなども、そういう観点で見るようになるのかも知れない。おそらく、昔は放送自体が刹那的なイメージだったのではないだろうか。それは、ライブのメディアというものの特性のようにも思える。おそらく掲示板などの過去ログ保存は、CGIのプログラムなどで自動化するだろう。おそらく、人間は昔よりも情報を利用するのがうまくなっているのではないかと思う。だから膨大な情報を前にしても、現代の人はたぶんあまり驚かないと思われる。私は子供の頃、図書館がもうひとつの世界のように思えて、気が遠くなったことがある。ここにある膨大な書物のうちの、1%すら自分の生きている間には読めないのだろうと、思ったことがある。しかし、ネットが出来てそのような考えは吹き飛んだ。全ての情報に目を通せないのは当然だし、結局は自分で厳選したダイジェストだけを読めばそれでいいのだ、と開き直るようになった。これは、情報量の洪水に押し流されて意識が変わった(通過儀礼的に)ようなものかもしれない。

 会話の中に埋もれて、陽の目を見なかった貴重なアイデアや優れて文学的なものは、有史以前から膨大な量になると思う。それが保存と複製と再利用が容易なデジタルメディアのフォーマットと、保存する場所と取り出す場所を選ばないネットワークというインフラによって、これからは有効に生かされるようになってくるのかもしれない。これはある意味、創作以前の断片……ミニオレの救済であろう。もしそれが一般的な動きになれば、今後は保存された膨大なデータの分類と格付けのための自動的なシステムが必要になってくるだろう。

 おそらくこのような、断片情報の救済に関する研究は、検索サイトとかが長期的な計画として行っていると思われる。ネット上の膨大なデータをキャッシュとして、自社のサーバーに保存して回っているロボット型検索サイトもある。これからの情報社会は、より細かい網の目で張り巡らされることになるだろう。あらゆる発言から有益な情報をもらさず掬い取るシステムの構築には、人工知能が不可欠だろう。映像資料を人工知能で自動的に細分化、分類し、再利用ができるような形で保存するというシステムの研究をいくつかの大学院が共同で行っているという話を聞いた。具体的には、膨大な映像資源を細かい要素に分解し、系統ごとに分類した上で保存して、検索と再構成(テーマに合ったダイジェスト版の自動作成)を出来るようにするというシステムだったと記憶している。情報の収集と情報コンテンツの自動生成が進めば、人間による創作の意味はより二極化していくものと思われる。つまり、趣味としての創作か、人工知能にも負けないクオリティのプロの創作か、の両極である。前者はミニオレの発散のために行われ、後者はより創造的な新しい分野への向かっていくだろう。それらの動きは、最も身近な表現メソッドである文字メディアに最も早く訪れると思われる。次の項では、ネット上の文字メディアの発信と市場について考えてみたいと思う。

3-3:ネット上での創作と流通

 ネットが小説の流通や市場に与える影響について、少し考えてみよう。最もわかりやすい影響は、プロ・アマのボーダーレス化ということだと思われる。アマチュアがホームページ上で、作品を世界に向けて発信できる。アマチュアによる無料の自費出版が可能になったのと同義である。逆に糸井重里の「ほぼ日」は、プロのオフィシャルな同人活動だ。ヒット作を出す可能性を誰でも秘めている、ということで、プロには厳しい時代になったかも。権威は通用しなくなりつつある。Eコマースなどにも共通することだが、ネットはどんな場所でもほぼ等価値である(ドメイン名の価値くらいはあるが)。現実社会なら、立地条件や発言力などの問題があるけど、ネットはサービスの量的、質的両面においてのクオリティが、そのまま影響力になる。つまり、ひきこもりの中学生のサイトも、ノーベル文学賞作家のサイトも、同じ土俵の上に立っているのである。ネットワークの転送スピードやダイレクトなリンクで時間と空間が無効化されると、コンテンツ自体の本当の価値が平等に浮かび上がってくるのかもしれない。しかし、玉石混交の状態になるのは問題だ。情報処理というのは、情報の分類と差別化であるため、流通を初めとするあらゆる仲介業者は、みな情報の差別化=効率化の見返りで利益を得ている。膨大な作品がぶつかりあう自由競争の場にはなると思うが、それをしっかり紹介できるシステムが必要だ。単なる情報と違って、文学の面白さは検索できない。ネット上での創作活動を支える環境として今後必要になるのは、客観的で非営利的な作品の評価・紹介システム、収入面での著者への見返り(課金システムなど)、読者の反応の正確な把握(マーケティング)などであろう。


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