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ネットワーク社会の自我と表現 〜新しいメディアと文学〜


終章:アナザーワールドへの招待

1:ユートピアの創造と移住

 ウルティマオンラインはクリアする必要性のないゲームだ。しかし、クリアする必要がないゲームがゲームの中でも珍しいかというと、まるでそういうことはない。例えばコンピューターRPGの開祖であるウィザードリーは、最後のボスを倒してからが面白くなるゲームだった。多くのプレイヤーがクリア後も、モンスターを倒し続け、永久にレベルを上げつづけ、レアな宝物を探し回る。

 システムや世界設定に優れたゲームだけが、このようなプレイに耐えることが出来る。ウルティマオンラインは、人同士のコミュニケーションもあり、チャットなどのコミュニティにも近い感覚であろう。だがウルティマのようなネットゲームは、余り広く普及させないほうがゲーム業界のためかも知れない。ネットゲームは他のゲームのパイを食いまくるからだ。しかも、たったひとつのネットゲームだけが、デファクト・スタンダードとしての価値を持つ。ネットゲームは今まで他のゲームに費やしていた全ての時間を奪うほどの魅力がある。ネットゲームにはまると、他のゲームをしなくなると言われる。人は複数のことに同時に熱中できないからである。

 ゲームにおける「クリア」の対立概念は「居住」かもしれない。クリアはゲームのストーリーの終結を意味する。一方で、居住はそのゲームの世界観(もとい世界そのもの)の受容なのではないだろうか。それは例えば、子供の頃に好きだった漫画やアニメが最終回を迎える時、永遠にこの世界の話が続けばいいのに、と思うのにも似た感覚かもしれない。

 つまり、それはもうひとつの世界に住み着くことなのだ。仮想社会としての2ちゃんねるもそれに近い感覚である。それはもう一人の自分になり、もう一つの人生を生きることである。おそらくゲームを代表とするインタラクティブメディアの究極の目標はそこにあったのではないだろうか。たぶん新作が出なければ、一つのゲームで無限に遊べてしまうだろう。現実の人同士のコミュニケーションがゲームの中核であるため、およそ飽きるということがないはずだ。

 ネットゲームのような参加型のメディアでは、インタラクティブ性のリアリティ、つまりこういう行動を取ったらこう反応するという、その世界の法則を形作る一連のプログラム(決まりごと)がリアリティの構築に不可欠な要素となる。これからますます、ストーリーの完成度じゃなくて、世界の完成度で勝負する創作物が増えていくだろう。インタラクティブ性のあるメディアに決まったストーリーを持ち込むのは難しい。なぜならインタラクティブメディアにおけるストーリーは、世界のルールだからだ。そこでは、ストーリーは語られるものではなく、プログラミングされるものになっていく。今までの創作論では、一本のよりよいストーリーを目指して研究を続けてきたが、今後は世界の理をダイレクトに法則化していく方法論が必要になるかもしれない。ゲームはネットゲームの誕生をもってシステムとストーリーが初めて融合され、システム=ストーリー=世界になった。プログラムされた世界。映画「マトリックス」的な世界観である。

 インタラクティブメディアが今後非常に注目すべきメディアだということについては、情報の早い人はわかって来たようだが、今後メディアの進む道は、誰もまだ見えていない。一人一人がネット上にアナザーワールドを持つことは社会にどういう影響があるか、そして「世界を創る」という創作行為はどういう意味を持つか。課題は尽きない。

 あらゆる創作活動の終着点としての究極の創作とは、このような「世界の創造」なのではないだろうか。それは究極の状況設定であり、その世界の法則の規定である。より自由度を感じる方向に、より万人にとって気持ちの良い世界観作りを行う。それはユートピアの創造にも似ている。創造神としてのプログラミングとも呼べるかもしれない。

 しかし、一方で究極のストーリーという方向性もあるはずだ。こちらは人の辿るべき道である。マクロな世界創造と、ミクロな人間性の追及と、この二つの異なる方向性を目指して、ネットワーク上のメディアと、パッケージメディアとは、今後も進歩し続けて行くことだろう。


●参考文献

●参考サイト


  

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