ネットワーク社会の自我と表現 〜新しいメディアと文学〜
ゲームをプレイしていて物語を感じたことがあるだろうか。
最近では遊びとしてのゲームシステムだけでなく、そこにストーリーが乗っているゲームが非常に多い。しかし実際は、ゲームというメディア上で語られるストーリーの質は他のメディアと比べて、決して高いとは言えない。もちろん一部には、シナリオが高く評価されているゲームもある。しかし実際は、そのようにストーリーの評価が高いゲームでさえ、完成度の高い物語の流れに惹きつけられるというよりは、登場するキャラクターの魅力にひきつけられていることの方が多い。いわくありげな登場人物について考えたり、ゲームが進むにつれてだんだん素性が明らかになったりすることが、プレイヤーがストーリーを読み続けるための興味を維持する重要な要素となっている。
これには、ゲームの映像メディアとしての側面が関係していると思われる。映像メディアは、文章メディアよりもキャラクターの魅力によってストーリーを牽引する比率が大きいからだ。とりわけ、最新のCG技術を駆使したゲームのビジュアルの魅力は、ストーリーの稚拙さを補って余りあるものだ。映画が、脚本が平凡でも俳優や演出の力によっては、名作になりうることにも似ているかもしれない。
ともあれ、ゲームというメディアの上で、ストーリーとして楽しむに値するテキストは、それほど多くないかもしれない。ゲームは他のメディアに比べて、ストーリーの面でまだまだ甘えが許されてしまうメディアだからだ。
甘えが許されてしまう理由は3つある。一つには、最初からストーリーや映像を楽しむことが目的である映画などとは異なり、プレイヤーがストーリーを楽しむというよりは、がむしゃらに最短クリアを目指す突撃型の楽しみをしてしまうプレイヤーが少なからずいることだ。そのためクリア型ゲームの興味の肝であるゲームシステムに比べると、ストーリーはどうしても添え物のような扱いをされることが多い。
二つ目は一つ目の理由にも関係するのだが、ゲームはきちんと対価を払って購入したプレイヤーの全てが、クリアできるわけではないということだ。また大作RPGなどは、プレイ開始からクリアまでに数十時間かかるのがほとんどである。一方で、映画や小説などは、途中で受け手が飽きて投げ出しでもしない限り、結末が見られないということは無い。ゲームとは、受け手がどれだけ見たくても結末が見られるとは限らないという、唯一のメディアなのである。そのため、ゲームの楽しさは物語の結末を見ずとも感じられるものでなくてはならない。そうなると、細かい場面ごとの展開の激しさや、キャラクターの魅力でひきつける他ない。
そして三つ目の理由は、インタラクティブメディアであるということ、それ自体である。物語を主体にするゲームジャンルには、デジタル小説とも呼ぶべきアドベンチャーゲーム(サウンドノベルを含む)や、テーブルトークに端を発するRPGなどがあるが、それらが既存の物語メディアと最も異なっている部分は、これらの語る物語がインタラクティブであるという点だ。本来インタラクティブとは対話式という意味であり、あるメディアに対してプレイヤー側からアクションを起こすと、その反応が返って来るようなことを意味する。また、ゲームというメディアにおいてインタラクティブなストーリーと言う場合には、作者が作った一筋の完成されたストーリーをたどるわけではなく、プレイヤーの働きかけによって、物語の筋も様々に変化して行くということである。新しい楽しみ方、という点ではゲームは新しいストーリーの楽しみ方を提供してくれている。
しかし、ゲームにおける分岐ストーリーの安易な導入は、作家がその作品において最良のストーリーを選択する義務を放棄する行為になり得る。例えば、マルチエンディングという、インタラクティブメディアに特有の手法がある。通常の物語は筋道も結末も一つだが、これはストーリーの途中の様々な行動や分岐により、物語の結末が変わって来るという仕掛けである。だが残念なことに、このように複数の結末があるようなゲームのストーリーは、現時点では得てしておざなりなものが多い。インタラクティブではないメディアである小説や映画には到底及ばないのである。最も良い一つの結末を選ぶだけの重みが、マルチエンディングのシナリオには与えられていない。小説や映画といったメディアの中でも優れて文学的な作品は、読み手に対して様々な視点での読み方が出来るような重層的なひとつのストーリーを提供してくれる。その多様性をゲームでは、マルチエンディングという形で安易に分割してしまっている。
相当気合を入れて作らない限り、マルチエンディングにおいてはひとつひとつのストーリーの厚みが保てない。しかもゲームはシナリオの執筆量が通常の小説や映像作品のシナリオに比べ、数倍、数十倍になることはザラである。結果的に、ほとんどの場合は安易なマルチエンディングが完成することになる。
とはいえ、一本道のシナリオでしかもつまらないものは、ゲームとしての逃げ場(楽しみ方の多様性)すらないから、よりひどいシナリオであると言わざるを得ない。第一、それはゲームというインタラクティブメディアで語る必然性のあるストーリーだったのだろうか?
このような理由から、ゲームのストーリーは軽視される傾向にある。ただ、これらはエンターテインメントにおける、ストーリーのクオリティ追求の義務に対する言い訳でしかない。ゲームというメディアの上でよりストーリーを追求するためには、ゲームのためのストーリー技法を生み出さなければならないのである。
ストーリーの力を感じたのは、最近の作品ではドラゴンクエスト7だろう。ライバル作となるファイナルファンタジー(以下FF)のシナリオはしばしば映画的だと言われるが、ドラクエ7のシナリオは映画というよりも、その対極にある小説の進化型という感じがした。
以下は、私がゲームに関する評論の掲示板において、「ドラゴンクエストはファイナルファンタジーのようなストーリー性が無い、単なるお使いのようなゲームだ」と主張していた人に向けて、反論するために書いたドラクエ7の批評+感想文である。
「人間は、神が創りたもうた世界を認識するために存在している」という考え方がある。世界を認識しようという行為自体が、人間の生命活動の最終目的であり、本質であるという考え方だ。これにならって言うならば、「RPGのプレイヤーはゲームマスターの創った世界を認識するために存在している」のである。
主人公を介して、プレイヤーはRPGの世界の全体像を認識しようとしている。システムやシナリオの全てはそのために用意されているわけだ。小説や映画は読む順番や読むスピードが大体決まっているが、RPGではプレイヤーごとに独自のペースと順序で物語を読むことができる。まあ実際は、読む順番もほとんど決まっているわけだが、この仕組みによる擬似体験を通じてプレイヤーはゲームマスターによって創られた広大な世界を少しずつ認識していくわけだ。
ただし、この理論が通用するのは、よく練られた世界観を持つ良質なRPGのみである。これは良く練られた小説でなければ、各々の読み手によって多様性のある読み方が出来ないことと似ている。そしてDQ7は、この理論が通用する数少ないRPGのひとつだ。
プレイヤーは短いエピソードの連なりからなるシナリオを主人公達の目を通して擬似体験していくことで、DQ7の世界の全体像を少しずつ認識していく。言うなれば無意識的に、この世界を構成する源となっている法則=テーマを理解して行くのである。だから、主人公達の動機=プレイヤーの動機=世界を認識し、把握すること、となる。大きな目的のために世界を見て回るのではなく、世界を見て回るために数々の小目的がある。最終ボスの存在も、その目的のひとつにすぎない。すなわち新しい世界を見て回りたいという欲求をプレイヤーが感じている時点で、主人公への感情移入が達成されているということなのである。近作の6・7において、特にこの傾向が強いように思われる。
次にDQのシナリオにおけるスタンスを、その対極にあるFFと比較してみる。一般にFFのシナリオは、世界を通じて人と人とが関わる様を描くことに主眼を置いており、DQのそれは、人を通じて世界そのものとその根底に隠されたテーマとを描くことに主眼を置いている。ここが、両者のシナリオにおけるスタンスの根本的な違いだと思われる。結論として、DQにおけるシナリオとは人物のストーリー展開を追うものではなく、世界を体験するための筋道であるということである。
今回のシナリオに関して言うと、各地を旅しながら人助けをして回る主人公のモチベーションがプレイヤーのモチベーションと一致していないという意見を良く耳にした。しかし、思うにドラクエは他のRPGと感情移入のレベルが少々異なるのではないだろうか。
具体的に説明すると、今回のドラクエ7の主人公のモチベーションは「今まで世界にひとつの島だと思っていたが、かつて広い世界があったことを知り、それを全部見て回りたい」というものだ。
一方で、プレイヤー側がゲームを続けるモチベーションは「この世界について何も分からない状態から始まったので、少しずつ謎を解きながら様々なイベントやこの先のストーリーを楽しみつつ、世界を見て回りたい」というものではないだろうか。
つまり、認識欲が両者のモチベーションってことで一致しているとも言える。特に、今回の主人公キャラクターの動機は、非常に素直でわかりやすいように思える。つまりは新大陸発見のフロンティア・スピリッツなのである。例えば現実世界でも、有人探査船で行ける範囲のところに、異星人の文明が存在することがある日突然判明したら、行ってみたくなるだろう。それと同じことである。しかも、それを見つけたのが子供達だというのだから、これはまさしくドラえもん映画のような、子供向け冒険物語の定番であろう。
以上が、今回のドラゴンクエスト7についての、批評+感想文である。ゲームを「障害をクリアするもの」と捉えてしまう人にとって、ストーリー重視のゲームは面白くないだろうし、世界構築がよほど密で周到に作られていない限り、「この世界を認識したい」という欲求をプレイヤーに持続させるのは難しい。今回のドラクエの良いところは、クリア型ゲームとしても、ストーリー型ゲームとしても優秀にできていることだ。前作のドラクエ6はテーマや作家性が強くなりすぎており、システムやストーリーをテーマが牽引していく形になってしまっていた。だから6はエンターテインメントとしては多少問題があったのだが、7ではそれを反省してうまく調和をとっていると思う。
ゲームはメディア自体が試作段階だと思う。映画史で言えば、ようやく色がついたくらいの所かもしれない。そのため、ゲームで物語を語る方法論は、まだ誰も確立していない。
RPGは、プレイヤーが半能動的に動かさなければ、そこにストーリーは存在しない。ゲームにおいては、こう動いたらこうなる、ここにはこれがある、というような世界のルールだけが決まっている。制約の多い世界で、プレイヤーは暗に示された道筋を辿ることになる。その制約をいかに気付かせないようにするかの工夫が、ゲームの自由度(体感的なものだと思う)を決定する。分岐するストーリーを扱うゲームは、基本的にすべてはアルゴリズムと言われる条件式の集合体に帰結する。つまり、これをしたらこうする、これを選んだらこうなる、という行動選択肢とその結果の膨大なリストだ。これの質が、リアリティや自由度を決定するのである。
分岐についても、体系化はされていないものの、既に様々な方法論が試されている。例えば、どの選択肢の先もひとつの世界観を保っているか、それとも選択肢によって別の世界に飛んでしまうか……。分岐ストーリーを書く人は、これについて先に選択しておかなければならない。この辺りは、可能世界意味論などの考え方にも関連が深いだろう。
例をあげて具体的に説明してみよう。例えば主人公が、ある女性キャラクターに会った時に発する言葉(選択肢)の選択の仕方が悪いと、その女性は敵役になってしまい、正しく選ぶと味方になるという場面である。ここで、敵役になるという選択を選んだ場合で、二つの方法論を比較してみよう。
選択肢に関係なく世界観を保つ手法の場合は、中立の立場だった女性が主人公の発言に怒って味方になるのを拒否し、後に敵方の誘いで敵役になってしまうという展開になるとする。
しかし一方で選択肢によって世界観そのものが変わってしまう方だと、正しい選択肢を選んだ時は普通に仲間になるのにも関わらず、誤った選択肢を選ぶと、実は彼女は最初から敵方のスパイだった、とか、実は彼女はかつて倒したはずの敵役で、密かに生き延びていた、というような話の展開になる。つまり後者の手法では、選択肢によって、リアルタイムに人物設定自体を変えてしまうのである。かつては安易なゲームブックによく用いられていた手法だが、ゲーム進行の可逆性と相性が良かったのか、ゲームシナリオとしてはサウンドノベルなどでも多用されている。ただし、この手法による分岐では、ストーリーのつじつま合わせが難しくなるから、ある程度の制限をかけなくてはいけないだろう。
次に、ネットゲームにおけるコミュニケーションと世界の創造とストーリーテリングについて語ってみよう。
大人数の参加するネットゲームなら、より現実に近い葛藤が多く起こると思われる。人がいればそれだけ接触が起こるわけで、接触のあるところに葛藤もまた生ずるというわけだ。ゲーム内の出来事を、どれだけ自分の現実として感じられるか、というところがポイントになると思われる。
掲示板なども、相手が生身(間接的にではあるが)であり、しかも反応が予測できない。他人の書き込みは冷静に見られても、いざ自分が書き込むときは、必ずしも平静ではいられない。これは掲示板に、生身の言葉のやり取りがあるからだと思われる。例えばコントローラーを通して、選択肢から限られた選択をするなど、決まったことしかできないのだとしたら、ゲームを自分のものとしては捕らえられないだろう。
どんなにクリエイターが精魂込めて仮想世界を作っても、現実と虚構のその最後の一線というのは非常にハードルが高いと思われる。いくら人に近い形をしていても、ロボットを殺すのに我々はためらわないだろう。
非ネットワークのゲームは、作者が書いたシナリオによって方向性がつけられてしまう。しかし一方で、主人公の行動をある程度制限しないと、より良いストーリーに引き込むことはできない。ゲームを一緒に作っていた友人と、ゲームにのめり込ませるためには、コントローラーを握っていることをいかにして忘れさせるかが重要だ、という話をしたことがある。映画で、カメラの存在を感じさせないテクニックと通じるものがあるかも知れない。
キーボードでのチャットで言えば、本当にのめり込めばキーボードを打っていることを忘れて、本当に直接話しているような気分になって来るだろう。つまり、プレイヤーをいかにゲームの状況下にスムーズに引き入れるかということである。そうするとストーリー性より、いかに魅力的な設定を考えるかに重点が移るのではないだろうか。
ストーリーと、プレイヤーの自由度というのは相性が悪いかもしれない。ゲームでストーリーを語ろうとしても、映画のような完成された(介入できない)作品に立ち向かうのは難しい。プレイヤーが介入できないストーリーなら、ゲームでわざわざ疑似体験させなくてもいいのだ。プレイヤーを介入させる場合、クリエイターはある程度ストーリーをあきらめる、というか自分の思い通りにしようとするのはあきらめた方がいいかもしれない。ゲームは他のメディアよりも平均的な没入のレベルが高い分、プレイヤーを主人公に感情移入させなければ、話にならない。シナリオで主人公が勝手な行動を取ると、プレイヤーは自分と主人公との乖離に気付き、途端に覚めてしまったりする。ゲームマスターのすべきことは、プレイヤーの誘導であって、決して引っ張り込むことではない。作家として何かを主張しようとするのでなく、考えている過程にプレイヤーを引き入れることが重要なのだ。これは作家のテーマを押し付けるのではなく、自分の体験として疑似体験させるというゲーム独特の方法論である。いわば、テーマで統一された世界にプレイヤーを呼び込み、住まわせるようなイメージだろうか。そう考えると、ゲーム(インタラクティブメディア)とは非常に高い没入体験をプレイヤーに与えることができるメディアであると言える。
だが映画も、感情移入の面ではかなり没入レベルが高い。とは言え、これはゲームにおける没入とは別の方向性であろう。ゲームは軽く没入させるのは容易だが、深く没入させるには、それなりに高度な戦略とシナリオを要求されるのではないだろうか。映画はその分、シナリオがしょぼいと物語に没入させるのは難しいが、良いシナリオなら深く没入させるのは比較的容易なのではないだろうか。映画については、メディアの歴史の中で観客を惹きつけるノウハウが今まで培われてきているからかもしれない。
ゲームと映画の没入度合いの差については、次のように例えられるかもしれない。医者の気分を味わうために、機材や環境を整えた上で病院の中で超リアルな医者ごっこをするのより、よく出来た医療ドキュメンタリーを一本見た方が医者の気分がわかるのではないだろうか。もちろん前者がゲームであり、後者が映画である。確かに上質のストーリーの力には素晴らしい引力がある。ただ、受け手を選ぶというのはあるかもしれない。五感の多くを使うメディアほど、没入の度合いが情報の量と質に左右されるのではないだろうか。というより、その最低基準が厳しくなるように思える。例えば、どんなに優れたシナリオの映画でも、それと無関係にセットが貧弱であれば、観客はおそらく醒めてしまうだろう。
このように、ゲームは受け手を没入させやすく、映画はさせにくいメディアであると思われる。何らかの制限のあるメディアの方が、洗練されたものができることは自明であろう。ゲームはそのハードルが低い分、没入させやすいが、一方で上質のストーリーがもたらす感動にまで到達するのはなかなか難しい。だからゲームはストーリーに甘えてしまうのではないだろうか。
新しいメディアを使いこなすには試行錯誤が必要だ。しかしゲームは充分に試行錯誤を繰り返すより先に、それがリスクになるほど市場が大きくなってしまった感がある。巨大な市場を考えると確実な手段を取る心理はわかるが、それがゲーム業界全体を縮小させる方向に向いてはならないと思う。
映画というメディアが始まったばかりの頃は、それこそ従来の演劇の方法論でしかシナリオが書かれなかったはずだ。それが、次第に映画独自の方法論や技法を確立させて来た。ゲームは、まだそこまで至っていないように思える。今のゲームは映画の歴史で言えば、まだカメラの画質をどんどん良くして喜んでいる段階ではないだろうか。まだハリウッドの商売哲学を導入するには早すぎたのだ。
しかし、ゲームというメディアは今、大きな転換点を迎えようとしている。その発端となるのがウルティマオンラインを代表とするようなネットゲームの台頭である。また、これはゲームに分類していいのかわからないが、2ちゃんねるのような掲示板上での多人数コミュニケーションも、インタラクティブメディアの新たな可能性を秘めている。ネットゲームも、確かにまだ生まれたばかりだが、これまでのゲームやネット上のコミュニケーションのノウハウを応用できるので、従来の非ネットゲームよりもその進化のスピードは速いだろう。
もちろん従来のゲームも無くなる訳ではない。ストーリーを語るメディアとして、ネットゲームとは別の進化の道筋を歩むと思われる。ゲーム(デジタル・インタラクティブ・メディアの総称と呼べるかもしれない)で物語を語る手法は、色々ある。今までもRPG、アドベンチャーゲーム、サウンドノベル、シミュレーションなどのジャンルごとに、ストーリーを語るための様々なシステムが工夫されてきた。しかし今まで試行錯誤を重ねてきたのにも関わらず、現在における最高水準のゲームでさえシステムとストーリーの整合性を維持するので精一杯なのではないだろうか。ゲームシステム(およびジャンル)があまりに多様化しすぎて、ひとつの方法論が進化しなくなっているように思える。
とは言え、全ての試みがことごとく潰えたわけではない。例えば前述したドラゴンクエストの新作には、ストーリーテリングのメディアとしての進化が感じられた。そこには、円熟の域という言葉がふさわしいような方法論が確立されていたように思える。
ゲームにおいては「ゲームシステム=インタラクティブ性を確立する手法」自体が最大の面白みになる。例えば、ドラクエのシナリオ技法が進歩してきたのは、ドラクエタイプのRPGが山のように出たからではないだろうか。一方でFFのシナリオが貧弱なのは、FFのようなゲームを出せるのがスクウェアだけで、より良い方法論を検討するための競争が起きないからというのも理由になっている気がする。システムだけが面白いゲームはたくさんあるが、そこに載せるシナリオがシステムにあっていないと、その面白みは半減する。まず、システムに合うシナリオかというのが第一段階。その次に初めて、優れたシナリオかというレベルの勝負になって来るのではないだろうか。ゲームの特性の一つである総合性や多様性は、裏を返せば「何でもあり」のメディアであり、体系的な方法論の確立をメディアの特性自体が阻害してきたのではないだろうか。
ここでネットゲームの話に戻すと、今まで非ネットゲームが追求してきたインタラクティブ性というものが、ネットという最高の環境を得て、飛躍的に進歩した形で実現されたものが、ウルティマオンラインのようなネットゲームなのではないだろうか。ネットゲームの思想は、昔から多くの人が理想として持っていたが、ユートピアのように実現不可能だった。それが技術の進歩で実現しつつあるのが現在の状況である。今のネットゲームが実現しているのは、かつての対人ゲームである「テーブルトークRPG」(ゲームマスターが創造した世界とシナリオの中で、各プレイヤーが口頭で自らの行動を告げ、その行動の結果をマスターがサイコロなども用いつつ判定しながら、話を進めていく非デジタル形式のRPG)のゲームマスターをコンピューターに肩代わりさせたシステムである。このようなシステムを希望する声は、コンピューターゲームが登場するより前からあった。いつでもどこでも、仲間が揃わない時でもRPGをプレイしたい、という願いだ。それを端的に実現したのがウィザードリィをその祖とするコンピューターRPGとも言える。しかしコンピューターRPGは新しい楽しみ方を発見したものの、テーブルトークに見られたような対人メディアのライブ性や、本当の意味でのインタラクティブなコミュニケーションは失われてしまっていた。それらを、ネットワークの力を借りて、世界規模で復活させたのがネットゲームであるとも言えよう。
しかし、全てのゲームがネットゲームになるとは思わない。例えば散文小説が現われたからといって、詩歌が絶滅しないように、形式を縛った形での表現の良さというのもあるのではないかと思う。ネットゲームは作者がシナリオを放棄した、というよりはユーザーの手に委ねることを前提にしたシステムで成り立っているゲームだ。その分、プレイヤー側が能動的に楽しまなければならない。よってネットゲームは、ハマれば凄いがプレイする人を選ぶという傾向がある。ごっこ遊びにはまれるかどうか、という感覚にも似ているかもしれない。ただ、そのごっこ遊びを匿名性の保証されるネット上でやる分、抵抗感はかなり減るとは思える。
言ってしまえば、ネットゲームはハマりたくない人がやるような類のゲームではない。もうひとつの人生みたいな感じになるからである。引き込む力が大きすぎるために、敬遠する人が結構いるように思える。2ちゃんねるなどもちょっと参加してみて、ハマりそうだから辞めたという人もいるのではないだろうか。大部分の人は、そこまで冷静な自制心を持っていないだろうし、怠惰原則に従うと考えるならむしろハマってしまうと思う。しかしネットゲームが一般層にまで普及するためには、今のウルティマオンラインより、もう少しライトなシステムのゲームが普及させることが必要不可欠だろう。それが成功すれば、爆発的なヒットになる可能性もある。スクウェアがFFの次回作でやろうとしているネットゲームは、それになり得るかも知れない。
一方で、多くの人は実は「ストーリー性」をそれほど求めていないのではないかという気もする。クリエイターが心血注いで作り上げたものよりも、自分で好き勝手して遊ぶほうが好きなのではないだろうか。クリエイターの作品を楽しむのは、文学好きとか「通」の態度であって、エンターテイメントというのとはまた少しずれる気もする。ストーリー性を求めていない、というよりは、自発的な遊びには外部から与えられるストーリーは必要ないとも言える。
とは言え、自分で満足できるストーリーを考え出せる人は以外と少ないのではないだろうか。ストーリーの需要はあると思うが、ネットや様々なツールの普及で誰もが表現し、発信し得る社会になると、プロに求められるレベルはますます高くなって行くだろう。ストーリーの無い世界で自分達が能動的に遊ぶゲームと、ハリウッド的に洗練されたストーリーを半受動的に楽しむゲームとに二極化していくのではないだろうか。かつてインタラクティブメディアであることを言い訳に、同人的なストーリーでも許されていたゲームシナリオライターにとっては淘汰の時代かも知れない。
ネットゲームは2チャンネル的に、少数のトップシェアのゲームだけが価値を持つようになるだろうし、ハリウッド型ゲームはさらに厳しい競争にさらされるだろう。いずれにせよ、これからはきちんとした方法論を構築した上で作らないと、まともに売れない時代になって来ていると思われる。
一方で、ネットゲーム上での生活はどんどん進化していくのではないだろうか。それは、感覚的にはライブみたいなものではないだろうか。一方で非ネットゲームは、気軽に買って好きなときに聞けるCDのような感じがする。「ライブ性」というのは、今後のメディアを語るのに重要なキーワードになっていくと思う。あらゆるメディアは、人間のもつ感覚を拡張するためのものであるとするならば、ライブ性というのはその究極の段階を意味するのではないだろうか。
本稿の序論で述べたように、メディアの分類として、まず表現媒体の分類がある。文字、音声、映像など。これらは複数の組み合わせもあり、これがメディアのベースとなる。 次にいくつかの属性によって分けられる。デジタルか否か、インタラクティブか否か、ライブか否か。ここでのライブは、同時性という意味である。デジタルというのは情報処理できるか否か。文字なら、テキストファイルか紙の上の文字かという分類である。そして、コンピューターゲームというメディアの範疇は「デジタル」かつ「インタラクティブ」な全てのメディアなのである。人と人をつなげば、そこにライブ性も発生する。マルチメディアは古くからあったが(例:オペラ=音楽+演技+言葉)、それらをさらに高次で統合できるのがコンピューターの強みであろう。そしてライブのメディアというのは、対人のメディアと言い換えてもいいのではないだろうか。同時性という言葉を使うときに、何と何が同時なのかということが問題になる。メディアにおける同時性とは、受け手と送り手との同時性であろう。ひいては、それが対人メディアということになる。
しかし対人のメディアであっても、同時性がいつも保証されているわけではない。例えば、インターネット上の掲示板は対人メディアだが、ライブのメディアではない。発言からレスまでの間に明らかなタイムラグがあるため、一般の掲示板にはメディアとしての同時性を認めることは出来ない。現時点においてネット上でライブ性のあるメディアは、チャットとネットゲームくらいだろうか。でもネットそれ自体は誰かと今この瞬間に出会うかもしれない、今この瞬間に世界がかわるかもしれないという、可能性の感覚がある。その感覚とライブ感は別物なのだろうか。考えて見れば、ライブ=同時性≒予測不可能性なのかも知れない。ネットは、全てがつながっているからそう感じるのではないだろうか。ライブな空間も、非ライブな空間もすべてが、一つにつながっている。
しかし、私が開いている更新の少ないホームページは決してライブではないし、掲示板は参加人数が多く、レスが早ければ擬似ライブ的な所もある(2ちゃんねるとか)、一方で世界中のチャットは全てライブだ。それらが、ライブも非ライブも関係なく全てがつながっているのが、ネットの凄いところだ。
また、ある意味「非ライブ」というのは、「対非人間」なのかもしれない。ライブ=対人間であるが、厳密に言えばライブではない対人メディアは、すべて非人間の仲介を介している。留守電がその典型的な例である。人の声はするが、機械がそれを仲介してくれている。そう考えると、発言をセットしておくと、非人間がその発言へのレスを保存しておいてくれる掲示板は、留守電にも似た非ライブ装置なのではないだろうか。そうすると、チャットは電話と考えられるだろう。
コンピューターは、あらゆるメディアの特性を取り込んでいる。さらに詳しく言うなら、個々のコンピューターがメディアを載せる受け皿になっており、ネットはそれら全てを世界規模でつないでいる通信網であるという構図だろう。