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ネットワーク社会の自我と表現 〜新しいメディアと文学〜


序章-2:情報メディアの定義

 情報は、その構造(メディア)と内容(コンテンツ)から構成され、それは記号論におけるシニフィアンとシニフィエの関係にも似ている。情報の性質は、その内容だけではなく伝達手段によっても大きく変化する。メディア論の先駆者マーシャル・マクルーハンは、そのあまりにも有名な「メディアはメッセージである」という言説を通じて、メディアによって語られる内容ではなくそのメディア自体が持つ意味の重大さを説いた。情報におけるメディアとコンテンツは相互に影響を与え合う密接な関係性を持っており、何らかの情報について考えるとき、そのメディアとコンテンツとを完全に分離して個別に考えることは出来ないのである。

 マクルーハンはまたメディアとコンテンツとの関係性について、「すべてのメディアのコンテンツは常にもう一つのメディアである」とも述べている。このように、メディアのコンテンツは媒介される内容であると同時にまた別の何かを媒介するメディアであるとも言える。一度「メディアのメディア」や「コンテンツのコンテンツ」を意識すると、そこには無限の入れ子構造が立ち現れてくる。

 このメディアの入れ子構造が、近年、研究者以外の人々にもより身近なものとして現実味を帯びてきたのは、マルチメディアと呼ばれる複合メディアの出現以降のことだろう。実際マクルーハンは「グーテンベルグの銀河系」を発表した当時は、センセーショナルな言説で人目を引くだけの批評家として誤解されることが多かった。当時最先端のメディアはテレビであり、そのテレビというメディアについての議論もまだ十分になされていない時代であった。そんな時代下で、現代のデジタルメディアにまで敷衍して用いることが出来るような、メディアの特性を理解していたマクルーハンの先見性には驚嘆するほかない。

 メディアには、その外側にも内側にもまた別のメディアが無数に連なっていると考えられる。言語メディアに関する例をあげるならば、文章を微分すると単語になり、その単語も意味素を積分することで形成されているといった具合である。そして、その意味素さえも複数の単語によって説明されるものであったり、文章も全体で一つの意味素を表すものであったりもする。これは世界を、縦横に網の目のように張り巡らされた意味の関係性の総体として捉らえる考え方である。

 言語という最初の記号的メディアの発明により、人類は他者や環境と自己とを意味で結ぶことを覚え、以来世界を言語という記号を用いて再構築して来た。文明社会とは、意味の刀で切り刻まれ、再構成された世界である。意味の刀で世界を切り刻めば、全てが要素であり、同時に関係性でもある。

序章-3:物語メディアの中の文学

 文学について論ずる以上、初めに文学の定義を明らかにしておかねばなるまい。大上段に「文学とは何か」について語るつもりはないが、この論における「文学」の定義だけははっきりさせておきたい。その上で、定義に基づいた「文学」とネットワークの関係性について論じて行こうと思う。

 文学という概念の最も広い定義として、言葉を媒介にした人間の表現活動であることが挙げられるだろう。文学において必要不可欠の要素は言葉である。いかなるテーマを含んでいても、音楽や絵画や彫刻は文学たりえない。言い換えれば、「言語表現メディア」であるということが文学の最低条件であると言えよう。

 しかし「言語表現メディア」であるとは言え、新聞記事や学術論文のことを文学作品と呼ぶことは出来ないだろう。文学の要素を含むという意味合いで、文学的な記事、文学的な論文などと呼ぶことは出来るかもしれないが、それは程度の問題であり、定義の後に語るべきものである。では、言語表現メディアにおける文学という枠組みはどこにあるのだろう。

 さらに細かい定義をするために、言語表現メディアにおける「文学的なもの」と「非文学的なもの」とを分かつ線とは何かを考えてみたい。最初の要素は、論理のみによる表現か、情緒を含んだ表現かという点であろう。

 例えば、ある主張を言語で表現したいときに、人は大きく分けて二つの手段を取ることが出来るだろう。ひとつは論文や演説を代表とするような論理的な表現手段であり、もうひとつは小説や詩歌を代表とするような情緒的な表現手段である。私は、文学とは「言語表現メディア」の中でも後者にあたる「情緒的な手段」に属するものであると考える。

 次に「文学的なもの」の表現手段について考えてみたいと思う。

 散文小説が文学を代表するメディアとして認められるようになったのは、19世紀以降である。それまでは主に韻文によって表現された詩歌が文学の代表的なメディアだった。

 しばらく「文学」と「非文学=エンターテインメント」という二つの概念があることを前提にして、論を進めることにする。
そして「文学」と「非文学」を隔てるものは、物語作品の二大要素であるところのストーリーとテーマに対するスタンスの違いであると考える。

 私は、「文学」とは「状況提示によるテーマ表現」であると考える。詳しく言うならば「ストーリーに沿った描写表現により状況を提示するという手法を用いて、複数要素間の対立構造を主とした様々なテーマを表現するメディア」と言ったところだろうか。
この定義を採用する場合、「文学」は小説などの文字メディアに限定されない。あらゆる物語作品は、「文学的」な作品と「非文学的」な作品に分類されるのである。

 「文学的」な作品は、『複数の要素が互いに対峙しあう状況』を提示することを特徴としているように思う。それは、切り取ったある瞬間の状況と、その状況を形成する一つ一つの要素を順序良く描写していくことで語られていく。「文学的」な作品においては、ストーリーを通じてテーマが浮かび上がってくる。言うなれば、テーマを描くためにストーリーが存在しているのだ。

 これに対し「非文学的」な作品は、状況の描写や説明はあくまで前提条件にすぎず、その状況下で起こるドラマ、すなわち物語の動きを描くことに重点を置いている。言うなれば、ストーリーを面白くするためにテーマを後乗せしてあるのだ。

 さらに言えば、作品内容を人物相関図だけでも表せるのが「文学」、フローチャートだけでも表せるのが「非文学」と言えないだろうか。さらに「文学」は多様な視点から状況を読み解くことが許されており、「読み」の自由度が高いが、「非文学」=エンターテインメントはストーリー、すなわち状況を読み解く文脈の方向付けがより強固であり、その文脈をなぞる明確な主人公視点の存在により、「読み」の自由度が狭められているとも言える。

序章-4:物語装置としての状況提示


 物語は電子回路に似ている。この意外に思える類似性に気付いたのは、ストーリーとテーマとの配分を文学において考えてみたからである。 広い意味での物語における「ストーリー」とは、「状況」という回路に流れる電流のようなものだと思う。映画などのストーリー重視のメディアでは、その電流が回路上にネオン管のように輝いている。「状況」とは、空間的な関係性である。「ストーリー」とは、時間的なものごとの流れである。主人公の性格設定や、環境や、他の人物との人間関係などは、あらかじめテーマを内包した「状況」を作り出す。この「状況」は人物相関図で表現できるような2次元的な(空間的な)概念である。一方で、「ストーリー」は、状況という回路が動き出した時にそこを流れる人間の軌跡を言う。これは時間軸に沿ったフローチャートやタイムテーブルで表現されるような3次元的な(空間+時間的な)概念である。

 この、回路という視点で見ると、物語とコンピュータープログラムとの類似点が見えてくる。物語で読者に提示される「状況」も、コンピューターのプログラムも、そのままでは何の用も成さない。回路を動かして初めて物語の「ストーリー」は時間軸に沿って動き出し、プログラムは一行づつ実行されていくことになる。

 文学的なメディア(物語)においてはテーマを内包した「状況」がより重視され、エンターテインメントのメディアにおいては、人を引き付ける要素である「ストーリー」が重視される。

序章-5:新メディア概論

 新しいメディアとしてのコンピューターゲーム(以下「ゲーム」と表記)と物語について考えてみようと思う。しかし、ゲームというメディアに関しては、まだ創作論も評論も確立されていない。制作する側の立場から見ても、ゲームはあまりに広範な多様性を持つメディアであるため、一作ごとに制作の手順や手法がまるで異なってしまうのが現状だ。まずは、前提としてのメディアの分類と定義から始めようと思う。

 ゲームというメディアは小説や映画などのメディアと同列で扱うよりも、文字メディア、音声メディア、映像メディアなど、表現手法によるメディア分類の上位概念としての「インタラクティブメディア」という括りで捕らえる方が、より自然である。単独メディアがまずあり、それら表現手法のうち2つ以上を統合する複合メディア(マルチメディア)という括りがあるとする。すると、インタラクティブメディアは、それらメディアの表現手法の分類とは、別 の次元で付与されるメディア特性と言えるだろう。これと同様に表現手法の分類より上位の分類としては、デジタルメディアか非デジタルメディアか、という分類もある。

 例えば、文字メディアベースのインタラクィブメディアは、ハイパーテキストなどがその代表例となる。非デジタルメディアの例としては、ゲームブックや、それに似た構成を持つ小説作品(O=ヘンリーの「運命の道」など)などがあげられるだろう。音声メディアベースのインタラクティブメディアは珍しいが、映像が一切用いられず音声だけでプレイするゲームとして話題になった「リアルサウンド」がある。また非デジタルメディア(音声のみをそのまま用いているという点で)では、CDのトラックを利用したゲームブックのような作品もあった。映像メディアベースのインタラクティブメディアとしては、かつてのレーザーディスクを使用したゲームの一部にその萌芽が見られた。現在ではDVDのフォーマット自体が、分岐操作やカメラワークの選択など、かなりインタラクティビティーを意識した規格になっている。マルチメディアは複合メディアである。最古の複合メディアは演劇であろう。セリフ(言語)と視覚的な演技(広義の映像)、さらには音楽などを総合したものである。また、映画は近代以降の代表的な複合メディアである。そして、この複合メディアにインタラクティブ性を付加したものが、一般的に考えられているコンピューターゲームであろう。ゲームと呼ばれるメディアの範疇には、非常に多彩な作品が並ぶ。インタラクティブ要素≒ゲーム性と考え、広くインタラクティブメディアをゲームと呼ぶ場合もある。が、今後この文中では、デジタル+インタラクティブをコンピューターゲームの特性として、それを「ゲーム」と呼ぶことにする。また、インタラクティブ性のあるメディアを「ゲーム的」と呼ぶこともあるだろう。これでひとまず、この論文中に登場する「ゲーム」という言葉の定義を終えることにする。

 次に簡単にゲームというメディアを構成する要素を説明しておこうと思う。ゲームを構成する要素を大きく分けると、システムとシナリオと演出の3つになる。この中でインタラクティブ性を左右する部分が、システムである。これはゲーム世界の中の物理法則にも似たルールなのである。この章では、この中の特にシナリオについて述べて行こうと思う。文学との接点であり、この論文のテーマに直結する部分である。演出については、方法論としては他の二つに比べると、映画など従来のメディアとそれほど変わらないとも言えるが、最もシステムとシナリオに左右される部分でもある。ゲームにおいてはこの3要素が密接に絡み合っており、良いゲームになるほど不可分になる傾向がある。

 前置きの最後に、メディアの分類には他にもライブ性という属性があると考えられるが、これはネットゲームなどの項でまた別個に説明することにする。それでは本来のテーマに戻り、ゲームと物語について見てみることにしよう。


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