yamatoouchyou

    最終更新日:平成16年2月21日

大和王朝の研究

始めに
 私は、外国の歴史書を中心に考える現在の歴史観に疑問を感じている者の一人である。
理由は、外国との交渉が今日ほど活発であったとは到底考えにくい古代において、どれほど正確に事実を公正に書き留めることができるかという事にはなはだ疑問を感ずるからである。
 ある意味で正しいのは『何年に、何々をもって使いがきた』という部分だけであろうと考えている。
文書を携えて行った訳ではない様だし,中国は当時の日本に比べ超大国であったと思われることを考えると、自国の地理上の場所を正確言うことは自国を滅ぼすことにもなりかねず、実際、魏を倒して建国した晋(西晋)は朝鮮の北部の国(公孫淵)を滅ぼしている。以前では漢が衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪郡など4郡を設置したことを考えると、油断も隙もないのである。
であるから、嘘八百を言ったとも考えられる。従って、邪馬台国(この読み方だが、通常『やまたいこく』と呼んでいるようだが、ヤマトはヤ・ウマトが訛った言い方ではないかとする説を言う人もおるようで、こちらだと『やうまとこく』と読める。ユダヤの10部族が日本に移住して来たと考える説である。勿論、この説だと、状況から見るに大和朝廷の元の姿となる。サマリヤの王朝の末裔と言うことになる。)の位置を魏志倭人伝から考えるなどは戦略を考えない馬鹿正直な考えである。実際、記述を正確に当てはめると海上になってしまうという。
 もう一つの理由は『中華思想』である。この思想は、周りの国を野蛮国とみなし、それなりの名前をつけて呼ぶのである。従って、当然日本も蔑称で呼ばれていた訳で、中国から見た蔑称をそのまま何故に日本の当事者の名とするのであろうか。私は、あきれるより怒りを感ずるのだが。
誇りを失った民族には感じないというのであろうか。私は、先の大戦における敗戦(終戦とは言わない)により、日本人は誇りを失っていると感じている。
 そこで,日本の正史である「日本書紀」を加味した修正古代史を作成した。参照されたい。
 
アメリカによる戦後教育への介入
 そもそも、貧弱な中国の資料である『魏志倭人伝』に基づいて日本の歴史教育をするように強制したのはアメリカの占領政策だった。日本人を辱め、中国に隷属する民族だったとその歴史を教えることが日本精神を完全に破壊し、アメリカに反抗しないおとなしい言いなりになる民族に作り変えるのに最も効果的と考えたのであろう。つまり、精神の略奪をした訳だ。して、結果は見事という他はない。独立してもなお、諾々として従う訳は、新しい学説のもとに論陣を張ってきた学者(生きるためにそうせざるを得なかったので、一時従ったとてそれを責めはしないよ)にとって、新学説をひっくり返すことなど二重に渡る自己否定でその節操のなさに耐えられない(こちらはまだ良心的)か、日本人を骨抜きにしたい(こういう者は外国の手先という)からだ。このことはそれを願う国にとって利益である。アメリカや中国の言いなりになる日本人を作ることこそ彼らの国益であろう。なぜ国益かについては、自国の周りに強国があるのは国防上対抗策を取るとなれば金もかかるし、そうでなくとも自国に都合が良い外交交渉をするには相手は弱い方が、自分たちの主張を通すためには都合が良いと考えるのだ。また、過去を追及するのもそのことによって自国に有利な状況を作ることができると考えるからだ。そもそも、アメリカにとって無害な国民に作り変えることがアメリカの占領政策の目的だった。であるから、今の状況で誇り有る日本人を作ることは至難の技だ。歴史の長い国ほど国の始まりははっきりしない部分があり、口承伝承等による場合が多いから神話となっている。そして、国民宗教とされた神道を破壊した今、神話こそが民族の心であり唯一の絆なのだ。これをとったら何によって国民はひとつとなるのだ。占領政策は、国民の団結を破壊し、日本人がばらばらになるようにもくろんだのだ。天皇制廃止を考えたのもこの一環と言う事ができる。
トロイの木馬=ガン細胞
 今や国旗・国歌すら否定する国籍不明の輩が日本人面して跋扈している。日本の利益を害する働きをしても日本人なのには驚く他はない。米国を見よ。米国では米国民になるには有資格とともに、星条旗に忠誠を誓うのだよ。どこの国でも国民が国のために尽くすことは当たり前のことなのだ。従って、利敵行為を働く者(トロイの木馬=ガン細胞)は、程度によって、公民権停止、国籍剥奪、国籍剥奪の上有期間国外追放、国籍剥奪の上国外永久追放、死刑等の刑罰があっても良いと考えるが。勿論言論の自由は大切だが、自分の首を締める自由があって良いはずはない。外交交渉をどうするかを決める外交委員会のテレビ中継などもっての他である。報道の自由の名のもとにスパイ行為を働いているようなものである。手の内を相手国に見せておいて交渉に臨ませるようなものである。相手国に足元を見られた交渉になるに違いない。馬鹿としか言いようがない。国民の代表である与野党の議員がいればそれで十分なのだ。また、外交は機密であるはずだと思うが、委員会の内容を表に暴露する議員などは議員の資格はない、国賊議員だ。こういう議員はその資格を剥奪の上投獄できるようにするべきだ。ただし、何が国益かについては慎重に精査する必要はある。国益に名を借りた不正隠しが有ってはならないことは言うまでもない。ここで敵とは、今日では、利害がぶつかる存在すべてを言う。特に、中国に支局を置き、合弁の報道機関を中国に作っているNHKは、中国政府に都合の悪い事件などは一切報道しないように自己検閲を行っている。正に北京の東京支局のようである。誠に卑屈なこの姿勢は、アメリカの報道機関には考えられない姿勢である。こんな事をしているからなめられるのだ。例、ウイグル族の独立運動家への中国当局の弾圧をアメリカの報道機関はきちんと報道しているが、NHKはこれを報道せず、この時間、どうでもいいようなシルクロードの旅を放送していた。中国に関する限り、真実の報道などという姿勢はない。真実の報道ができないのなら、こんな機関は必要ない。自らペンを折っているに等しい。それでいて聴取料金を取っているのだからふざけている。中国がスポンサーなのだろうか。
 
歴史の信憑性はいずこにありや
 話を戻すが、であるから、その蔑称が日本で言われていた訳ではあるまいと考えるのである。
 記録の正確さという観点から考えれば、徹底的に現地調査でもしなければ、自国のことに関することは自国の方がはるかに正確に書ける。伝承も多いからだ。大体、自分の家の歴史を書くことを考えればそれは明らかだ。たといその家のことをよく知っている人でも他家の歴史のことはそんなに知らないから知っていることから書くとすれば、当家が書いたものより当然のことだが貧弱な歴史書となるだろう。少ない資料で書くわけだからあたりまえである。日本の古代史もこれと同じである。
 
初回 神功皇后の活躍
 そんな訳で今回は、所謂『卑弥呼』に焦点を当てて調べたのである。私のタイトルでは神功皇后となっている。
まず、何故、こんな卑しい巫女と呼べるような名を冠したのであろうか。
調べてみると、理由は簡単である。当時の中国では巫女(神のお告げを占う人)の身分は極めて低かった。と中国通史に書いてあった。なるほどそれなら肯けよう。彼らの思いは『野蛮人め、まだ、そんなことを信じているのか、この名で十分だ』という事であろう。
 ところで、年代的にこれに当てはまる人は、その様子を含めて当てはまる方がおった、それが神功皇后である。
ただ、皇后の名である気長足姫尊は諡で存命中の名ではない。紀には書いてなかった。神功皇后の名は、通称のように思われる。紀には名の由来が書いてなかったが。
この皇后は古事記に神がかりになって神のお告げを伝えたとある。紀には別に占う人を置いたと書いてはあるが。神がかったところがあって、新羅討伐をお告げのとおりに指揮して無血の勝利を得たと書いてあるので、そのような神がかった功績を尊んで神功皇后と呼んだのであろうと思われる。
して、その様子から察するに、時の女王(紀では皇太子の摂政)その人と考えられるのである。
さて、妹(一族の女とする資料もある)とされる壱与の件だが、この時代の天皇は、何人もの妃を娶ったようで、紀によると,何人もの姉妹が嫁いだ例もあるようなので、仲哀天皇は,他にも妃はいるが2人の姉妹を1人として日本では記したのではなかろうか。して、存命しているようにした理由は、狗奴国との戦いの最中国の柱が倒れては兵士の士気に、相手国に対しても支障がある。それゆえ生きているようにすることは理にかなっている。紀によると、仲哀天皇のときもそうであった。国がいまだ定まらないときである。指導者は、神がかって、男勝りに指導した神功皇后でなければならなかったのであろうと思われる。
敗れたので殺された。という説を取る人もおるようだが、78歳(年代調整をすると90歳)といえば高齢である。いつお亡くなりになっても不思議ではない。単にお亡くなりになられたと考えるのが自然と思う。武田信玄の例もあるように(死して3年の間、影武者を使うように遺言し、かつ実行した)。偶然といえば偶然ではあるが有り得ない訳ではない。
戦国の世にも影武者を使った大名もいたが、生きていると思わせたかったに違いない。余り人前に姿をあらわさないとすれば、なおさら好都合であったろう。多分壱与は姉妹であることもあってよく似ていて都合が良かったのかも知れない。いずれにしても、この話は晩年のこととは思う。
 同じ年表に書いてみると12年のずれがある。年代測定法は中国の方が進んでいたと考えられるので、記紀の年代を12年減じて再整理してみるとこれになる。 ただし、神功皇后の崩御、葬送と応神天皇の即位は女王の遣使が晋に行ったこととの整合性からそのままの年代を採用した。
 
漢の末期の状況
200年の頃新羅遠征するなどありえないという事が歴史界では言われているようだが、年代調整すると188年となる。この頃の中国の状況を調べることは意義のあることだ。この時代は正に三国志の時代である。184年太平道の指導者張角が反乱を起こすのである(黄巾の乱)。これより前、漢王朝を牛耳る十常時(宦官・宮廷の役人)は政治を篭絡し、政治の実権を欲しいままにするために、幼帝を次々に立て政治を壟断した。漢の支配は名ばかりとなり地方は私欲を肥やす豪族や悪徳官僚の跋扈するところとなり政治は乱れ、民衆への搾取は頂点に達した。このような状況だから、漢の支配に抗する者が現れるのは時間の問題であった。であったから、ひとたび反乱が起こると反乱の火の手は燎原の火のごとく瞬く間に中国全土に広がっていったのである。地方はそれぞれが独自に覇を唱えるものが続々と現れ、正に戦国の世と仮して行くのである。して、その戦乱はやがて、魏王となった曹操、漢中王・蜀漢の皇帝となった劉備、呉の皇帝となった孫権を中心として三国が鼎立する時代となって行くのである。であるから、この頃の朝鮮半島はといえば漢の支配とは名ばかりとなっていた訳である。年代調整した188年などは、まさに漢の力は地に落ち全土が戦乱のさなかにあった訳で、漢にとって朝鮮半島どころではなかった。従って、他から覗う者にとっては千載一遇のチャンスとなる訳だ。そういう意味からいっても侵攻する動機は十分にある。どこでも、国力が衰えると周辺の民族から侵攻を受けることは歴史が証明している。後年、中原を支配した魏に使者を送っていることが魏志倭人伝に記されている。


百済・新羅について(16.2.21)
 年表によると,百済の統一は346年,新羅は356年とある。従って,神功皇后が従えた百済や新羅は所謂統一百済や新羅ではない。いわば国の始まりは卵の時代も幼児の時代も少年の時代もあるわけで,統一前の幼児に当たる統一前の小国の時代の話ということになる。(/16.2.21)


参考文献
@講談社学術文庫 日本書紀(上) 全日本語訳 宇治谷 孟著
A教養文庫717-D-101 古事記物語 大田 善麿著
B三省堂 地図対照世界史年表 改訂版 三省堂編修所編
C三省堂 地図対照日本史年表 改訂版 三省堂編修所編
D第一学習社 新選 日本史図表 坂本 賞三、福田 豊彦監修 E講談社学術文庫 中国通史 堀 敏一著 F学研 図詳エリア教科事典 1 日本歴史
G学研 図詳エリア教科事典 3 世界歴史
H株式会社 たま出版 大和民族はユダヤ人だった ヨセフ・アイデルバーグ著 中川 一夫訳


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