本資料は日本書紀,古事記,各歴史年表,百科事典を中心に編集したものである。
西暦 | 元号 | 記 事 | 物件 | 文献 |
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188 |
| 卑弥呼、邪馬台国女王に立てられる。 |
| 魏志倭人伝 |
192 | 仲哀元年 | 仲哀天皇(日本武尊の第二子)即位、大中媛(おおなかつひめ)を妃とする。 |
| 日本書紀 |
193.1 |
| 1月11日 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を皇后とする(神功皇后24歳)。弟媛を娶る。 |
| 日本書紀 |
193.2 |
| 2月 6日 敦賀の行宮、笥飯宮に住まう。 |
| 日本書紀 |
193.3 |
| 3月15日 紀伊国に巡幸。徳勒津宮に住まう。熊襲が叛く。征伐に向かう。 |
| 日本書紀 |
193.6 |
| 6月10日 穴門(山口)豊浦津着、穴門豊浦宮に住まう。神功皇后敦賀から豊浦に向かう。 |
| 日本書紀 |
193.7 |
| 7月 5日 神功皇后、穴門(山口)豊浦津着、穴門豊浦宮に住泊まられる。 |
| 日本書紀 |
193.9 |
| 9月 宮室をつくる。穴門豊浦宮という。 |
| 日本書紀 |
198.1 |
| 1月14日、筑紫に行幸。岡県主熊鰐周芳の沙麼(山口県佐波)の浦に迎える。 |
| 日本書紀 |
199 | 仲哀8年 |
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| 日本書紀 |
200.2 | 仲哀9年 | 2月 5日 筑紫香椎宮で仲哀天皇崩御、豊浦宮で仮葬。 |
| 日本書紀 |
200 |
| 小国家の統合進む |
| 年表 |
200 |
| 仲哀天皇崩御の後、神功(じんぐう)皇后政務を執る。 |
| 日本書紀 |
200.3 |
| 3月 1日 神功皇后神主となる。武内宿禰により中臣烏賊津使主を審神者(神託を解く人)とする。 |
| 日本書紀 |
200.3 |
| 3月 8日 以後、吉備の臣の祖、鴨別に熊襲を討たせる。熊襲服従。 |
| 日本書紀 |
200.3 |
| 3月17日 熊鷲を討つために松峡宮に移る。 |
| 日本書紀 |
200.3 |
| 3月20日 層増岐野に熊鷲を征伐。 |
| 日本書紀 |
200.3 |
| 3月25日 山門県で土蜘蛛-田油津媛を征伐。 |
| 日本書紀 |
200.4 |
| 4月 3日 北方の肥前の国、松浦(梅豆羅国(めずらのくに)が訛ったもの)県に行く。 |
| 日本書紀 |
200.9 |
| 9月10日 諸国に令、船舶を集め兵を練る。軍卒が集まりにくかった。大三輪の神社を建立し刀・矛を奉納。軍平集まる。皇后曰く「士気を励ます鐘鼓の音が乱れ、軍の旗が乱れるときは、軍卒が整わず、財を貪り、物を欲しいと思ったり、私事に未練があると、きっと敵に捕らえられるだろう。敵が多くてもくじけてはならぬ。暴力で婦女を犯すのを許してはならぬ。自ら降参するの者を殺してはならぬ。戦いに勝てば必ず賞がある。逃げ走る者は処罰される。」と。 |
| 日本書紀 |
200.10 |
| 10月 3日 鰐浦から新羅討伐に出発。風の神、波の神が軍勢を速やかに新羅の国の中まで届ける。白旗を揚げて新羅降伏。王を馬飼いとす。新羅の王の波沙寝錦の王子微叱己知波珍干岐を人質とす。高麗、百済2国も下る。南に流れるナクトン川は雨と強い南風で水位は上昇、大船団も容易くテーグ近辺まで一気に上れよう。博多からテーグまでは350km位である。ありえないことではない。 | 北部を通る | 日本書紀 |
200 |
| 軍に従った、住吉三神(表筒男・中筒男・底筒男)を穴門の山田邑に社を立て祀り、践立を荒魂を祀る神主とする。 |
| 日本書紀 |
201.2 |
| 2月、皇后群卿百寮を率いて穴門豊浦宮に移る。海路京に向かう。麛坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)(仲哀天皇の御子)、皇后に対し策謀を巡らす。播磨の明石に陵をつくるとし、仮の桟敷おる。麛坂王、赤い猪に食い殺される。忍熊王急ぎ住吉に退却。皇后は迂回し南海から紀伊水門に泊らせらる。難波に向かうが船進まず武庫の港に還る。 |
| 日本書紀 |
201.3 |
| 3月 5日、皇后、武内宿禰に命じ忍熊王を近江の逢坂にこれを破る。王は瀬田の渡りに身を沈め死す。 |
| 日本書紀 |
201.10 | 摂政元年 | 10月 2日、皇后を皇太后と呼ぶ。摂政元年。11月8日天皇を河内国長野陵(大阪府南河内郡美陵大字岡)に葬る。 |
| 日本書紀 |
203.1 | 神功3年 | 1月 3日、誉田別皇子、皇太子となる。大和国磐余(いわれ)に若松宮を造営。 |
| 日本書紀 |
205.3 | 神功5年 | 3月 7日、新羅王、汗礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智らを遣わし朝貢した。人質、微叱許智伐旱を謀って取り戻す。 |
| 日本書紀 |
220 |
| 魏の曹丕帝位につく(魏の建国)。後漢滅ぶ |
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221 |
| 劉備帝位につき、蜀漢を建国 |
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229 |
| 呉の孫権帝位につく、呉を建国 |
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239 | 景初3年6月 | 卑弥呼、使いを帯方郡に派遣、郡の太守ケ夏はこれを魏都に送り、明帝、卑弥呼を親魏倭王とし金印紫綬を与える。 |
| 魏志倭人伝 |
240 | 正治元年 | 建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ,倭国に行かせた。 |
| 魏志倭人伝 |
243 | 正始4年 | 倭王、宋に遣使。使者の大夫伊声者掖耶ら、8人を遣わし献上品を届ける。 |
| 魏志倭人伝 |
246.3 |
| 3月 1日、斯摩宿禰を卓淳国(大邱)に遣わす。 |
| 日本書紀 |
247.4 |
| 4月、百済王は、久氐・弥州流・莫古を遣わして朝貢した。新羅の国の遣いが同行した。新羅は百済の貢物を奪い差し替えた。 |
| 日本書紀 |
247 | 正始8年 | 卑弥呼、狗奴国王と戦う。まもなく卑弥呼死亡(78歳)、壱与女王となる。 |
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249.3 |
| 3月、新羅再征に荒田別と鹿我別を将軍とした。久氐らとともに卓淳国に渡る。沙白・蓋盧に増兵を請わせ、卓淳国に集まり、新羅を討たせた。比自ほ・南加羅・とくの国・安羅・多羅・卓淳・加羅の7カ国を平定。南蛮の耽羅(済州島)を滅ぼし百済に与える。比利・辟中・布弥支・半古の4邑帰順する。 |
| 日本書紀 |
250.2 |
| 2月、荒田別ら凱旋する。 |
| 日本書紀 |
250.5 |
| 5月、千熊長彦・久氐ら百済から還る。 |
| 日本書紀 |
251.3 |
| 3月、百済、久氐を遣わし朝貢した。 |
| 日本書紀 |
252.9 |
| 9月10日、久氐ら千熊長彦に従い朝貢する。七支刀(ななつさやのたち)一口(天理市石神神宮宝庫にある)、七子(ななつこの)鏡一面、及び種々の重宝を奉る。 | 七支刀 | 日本書紀 |
255 |
| 百済の肖古王薨じる。56年皇子、貴須が王になる。 |
| 日本書紀 |
262 |
| 新羅が朝貢しなかった。同年、襲津彦に新羅をうたせる。 |
| 日本書紀 |
264 |
| 百済の貴須王薨じる。王子枕流が王となる。 |
| 日本書紀 |
265 |
| 百済の枕流王薨じる。王子阿花が年若く、叔父辰斯が位を奪って王となった。 |
| 日本書紀 |
266 |
| 倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。 |
| 晋書(紀) |
266 | 武帝泰初2年 | 倭の女王壱与、晋に使いを送る |
| 年表 |
269.4 |
| 4月17日 皇太后稚桜宮に崩御。年1百歳。 |
| 日本書紀 |
269.10 |
| 10月15日、狭城盾列陵(奈良市山稜町字宮の谷)に葬った。この日皇太后に諡「気長足姫尊」を奉る。 |
| 日本書紀 |
270 |
| 応神天皇即位 |
| 日本書紀 |
712 |
| 古事記選上 |
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720 |
| 日本書紀選上 |
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