最終更新日:平成16年10月27日
本資料は日本書紀,古事記,各歴史年表,百科事典を中心に編集したものである。
西暦 | 元号 | 記 事 | 物件 | 文献 |
14 |
| 倭国兵船百余隻新羅の海浜を襲い、村々で略奪行為をする。時を同じくして楽浪郡が新羅の王城に攻め入る。 |
| 三国史記(朝鮮) |
57 | 建武中元2年 | 倭の奴国王、後漢に入貢。光武帝これに印綬をさずける。 | 漢委奴国王 | 後漢書 |
59 |
| 新羅倭国と修好し互いに使者を交換す。 |
| 三国史記(朝鮮) |
73 |
| 倭兵、木出島(朝鮮半島南東部の島)を急襲。新羅王は角干(宰相級役職、読み:そぶるかん)羽烏(うう)を総司令官として派遣。が、倭兵の勢いが強く戦死す。 |
| 三国史記(朝鮮) |
107 | 安帝永初元年 | 倭国王帥升(すいしょう)ら後漢に遣使、生口160人を安帝に献上 | 生口=奴隷 | 後漢書 |
146〜188 | 桓帝・霊帝の世 | 倭国おおいに乱れる。 |
| 魏志倭人伝 |
188 |
| 卑弥呼、邪馬台国女王に立てられる。 |
| 魏志倭人伝 |
192 | 仲哀元年 | 仲哀天皇(日本武尊の第二子)即位、大中媛(おおなかつひめ)を妃とする。 |
| 日本書紀 |
193.1 |
| 1月11日 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を皇后とする(神功皇后24歳)。弟媛を娶る。 |
| 日本書紀 |
193.2 |
| 2月6日 敦賀の行宮、笥飯宮に住まう。 |
| 日本書紀 |
193.3 |
| 3月15日 紀伊国に巡幸。徳勒津宮に住まう。熊襲が叛く。征伐に向かう。 |
| 日本書紀 |
193.6 |
| 6月10日 穴門(山口)豊浦津着、穴門豊浦宮に住まう。神功皇后敦賀から豊浦に向かう。 |
| 日本書紀 |
193.7 |
| 7月5日 神功皇后、穴門(山口)豊浦津着、穴門豊浦宮に住泊まられる。 |
| 日本書紀 |
193.9 |
| 9月宮室をつくる。穴門豊浦宮という。 |
| 日本書紀 |
198.1 | 仲哀8年 | 1月4日、筑紫に行幸。岡県主熊鰐周芳の沙麼(山口県佐波)の浦に迎える。 |
| 日本書紀 |
199. 2. 6 | 仲哀9年 | 2.5急に病になられ、翌6日には亡くなられた。 |
| 日本書紀 |
199.2.6 | 仲哀9年 | 2月5日急に病気になり翌6日筑紫香椎宮で仲哀天皇崩御された。この年は新羅の役があったので、仲哀天皇は豊浦宮で、灯火を焚かないで仮葬された。 |
| 日本書紀 |
200 |
| 小国家の統合進む |
| 年表 |
199.3 |
| 仲哀天皇崩御の後、神功(じんぐう)皇后政務を執る。 |
| 日本書紀 |
199.3 |
| 3月1日 神功皇后神主となる。武内宿禰により中臣烏賊津使主を審神者(神託を解く人)とする。 |
| 日本書紀 |
199.3 |
| 3月8日 以後吉備の臣の祖、鴨別に熊襲を討たせる。熊襲服従。 |
| 日本書紀 |
199.3 |
| 3月17日 熊鷲を討つために松峡宮に移る。 |
| 日本書紀 |
199.3 |
| 3月20日 層増岐野に熊鷲を征伐。 |
| 日本書紀 |
199.3 |
| 3月25日 山門県で土蜘蛛-田油津媛を征伐。 |
| 日本書紀 |
199.4 |
| 4月3日 北方の肥前の国、松浦(梅豆羅国(めずらのくに)が訛ったもの)県に行く。 |
| 日本書紀 |
199.9 |
| 9月10日 諸国に令、船舶を集め兵を練る。軍卒が集まりにくかった。大三輪の神社を建立し刀・矛を奉納。軍平集まる。皇后曰く「士気を励ます鐘鼓の音が乱れ、軍の旗が乱れるときは、軍卒が整わず、財を貪り、物を欲しいと思ったり、私事に未練があると、きっと敵に捕らえられるだろう。敵が多くてもくじけてはならぬ。暴力で婦女を犯すのを許してはならぬ。自ら降参するの者を殺してはならぬ。戦いに勝てば必ず賞がある。逃げ走る者は処罰される。」と。 |
| 日本書紀 |
199.10 |
| 10月3日 鰐浦から新羅討伐に出発。風の神、波の神が軍勢を速やかに新羅の国の中まで届ける。白旗を揚げて新羅降伏。王を馬飼いとす。新羅の王子微叱許智伐旱高麗を人質とす。百済2国も下る。 |
| 日本書紀 |
199.12 |
| 軍に従った、住吉三神(表筒男・中筒男・底筒男)を穴門の山田邑に社を立て祀り、践立を荒魂を祀る神主とする。 | 、 | 日本書紀 |
200.2 |
| 2月、皇后群卿百寮を率いて穴門豊浦宮に移る。海路京に向かう。麛坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)(仲哀天皇の御子)、皇后に対し策謀を巡らす。播磨の明石に陵をつくるとし、仮の桟敷おる。麛坂王、赤い猪に食い殺される。忍熊王急ぎ住吉に退却。皇后は迂回し南海から紀伊水門に泊らせらる。難波に向かうが船進まず武庫の港に還る。 |
| 日本書紀 |
200.3 |
| 3月5日 皇后、武内宿禰に命じ忍熊王を近江の逢坂にこれを破る。王は瀬田の渡りに身を沈め死す。 |
| 日本書紀 |
200.10 | 摂政元年 | 10月2日 皇后を皇太后と呼ぶ。摂政元年。 |
| 日本書紀 |
200.11 | 摂政元年 | 11月8日 天皇を河内国長野陵(大阪府南河内郡美陵大字岡)に葬る。 |
| 日本書紀 |
202.1 | 神功3年 | 1月3日 誉田別皇子、皇太子となる。大和国磐余(いわれ)に若松宮を造営。 |
| 日本書紀 |
204.3 | 神功5年 | 3月7日 新羅王、汗礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智らを遣わし朝貢した。人質、微叱許智伐旱を謀って取り戻す。 |
| 日本書紀 |
212.2 | 神功13年 | 2月8日 武内宿禰ね命じて皇太子に従わせ、敦賀の笥飯大神にお参りさせられた。 |
| 日本書紀 |
220 |
| 魏の曹丕帝位につく(魏の建国)。後漢滅ぶ |
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221 |
| 劉備帝位につき、蜀漢を建国 |
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229 |
| 呉の孫権帝位につく、呉を建国 |
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232.4 |
| 夏4月、倭国連合、朝鮮半島南東部に侵攻。王城を包囲する。新羅軍これを破り追撃す。殺獲一千余級。 |
| 三国史記(朝鮮) |
233.4 |
| 4月 倭国朝鮮半島南東部に上陸す。新羅軍最高幹部于老(うろう)はこれを迎い撃つ。 |
| 三国史記(朝鮮) |
233.7 |
| 7月 倭人と沙道にて戦う |
| 三国史記(朝鮮) |
238.6 | 神功39年 | 6月 卑弥呼、使いを帯方郡に派遣、郡の太守ケ夏はこれを魏都に送り、明帝、卑弥呼を親魏倭王とし金印紫綬を与える。 |
| 魏志倭人伝 |
239 | 神功40年 | 建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ,倭国に行かせた。 |
| 魏志倭人伝 |
242 | 神功43年 | 倭王、宋に遣使。使者の大夫伊声者掖耶ら、8人を遣わし献上品を届ける。 |
| 魏志倭人伝 |
245.3 | 神功46年 | 3月1日 斯摩宿禰を卓淳国(大邱)に遣わす。 |
| 日本書紀 |
246 | 神功47年 | 卑弥呼、狗奴国王と戦う。まもなく卑弥呼死亡、壱与女王となる。 |
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246.4 | 神功47年 | 4月 百済王は、久氐・弥州流・莫古を遣わして朝貢した。新羅の国の遣いが同行した。新羅は百済の貢物を奪い差し替えた。以後表現が神功皇后から皇太后に変わる。 |
| 日本書紀 |
248.3 | 神功49年 | 3月 新羅再征に荒田別と鹿我別を将軍とした。久氐らとともに卓淳国に渡る。沙白・蓋盧に増兵を請わせ、卓淳国に集まり、新羅を討たせた。比自ほ・南加羅・とくの国・安羅・多羅・卓淳・加羅の7カ国を平定。南蛮の耽羅(済州島)を滅ぼし百済に与える。比利・辟中・布弥支・半古の4邑帰順する。 |
| 日本書紀 |
249.2 | 神功50年 | 2月 荒田別ら凱旋する。 |
| 日本書紀 |
249.5 | 神功50年 | 5月 千熊長彦・久氐ら百済から還る。ここでも皇太后の表現。 |
| 日本書紀 |
250.3 | 神功51年 | 3月 百済、久氐を遣わし朝貢した。ここでも皇太后の表現。 |
| 日本書紀 |
251.9 | 神功52年 | 9月10日 久氐ら千熊長彦に従い朝貢する。七支刀(ななつさやのたち)一口(天理市石神神宮宝庫にある)、七子(ななつこの)鏡一面、及び種々の重宝を奉る。 | 七支刀 | 日本書紀 |
254 | 神功55年 | 百済の肖古王薨じる。 |
| 日本書紀 |
255 | 神功56年 | 皇子、貴須が王になる。 |
| 日本書紀 |
261 | 神功62年 | 新羅が朝貢しなかった。同年、襲津彦に新羅をうたせる。 |
| 日本書紀 |
263 | 神功64年 | 百済の貴須王薨じる。王子枕流が王となる。 |
| 日本書紀 |
264 | 神功65年 | 百済の枕流王薨じる。王子阿花が年若く、叔父辰斯が位を奪って王となった。 |
| 日本書紀 |
265 | 神功66年 | 倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。 |
| 晋書(紀) |
265 | 神功66年 | 倭の女王壱与、晋に使いを送る |
| 年表 |
268.4 | 神功69年 | 4月17日 皇太后稚桜宮に崩御。年1百歳。 |
| 日本書紀 |
268.10 | 神功69年 | 10月15日 狭城盾列陵(奈良市山稜町字宮の谷)に葬った。この日皇太后に諡「気長足姫尊」を奉る。 |
| 日本書紀 |
269 | 応神元年 | 1月1日 応神天皇即位 |
| 日本書紀 |
280 |
| 晋、中国を統一(西晋) |
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287 |
| 倭人一礼部を襲い火を放って焼き払い、千人を捕虜にして去る。 |
| 三国史記(朝鮮) |
309.2 | 応神41年 | 2月15日 応神天皇崩御、この後空位3年に及ぶ。 |
| 日本書紀 |
312.1 | 仁徳元年 | 1月3日 仁徳天皇即位 |
| 日本書紀 |
313 |
| 高句麗、楽浪・帯方2郡を滅ぼす |
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317 |
| 晋、遷都(東晋) |
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320 |
| このころ百済・新羅統一国家を形成 |
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346 |
| 百済の統一 |
| 年表 |
346 |
| 倭兵新羅の風島を襲い,王城を囲む |
| 三国史記 |
356 |
| 新羅の統一 |
| 年表 |
366〜372 |
| 百済初めて日本に遣使,このころまでに任那成立 |
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372 |
| 石上神宮の七支刀(奈良) |
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391 |
| 倭軍海を渡り、百済・新羅を破り高句麗と戦う |
| 好太王碑 |
398.1 | 仁徳87年 | 1月17日 仁徳天皇崩御 |
| 日本書紀 |
398.2 | 履中元年 | 2月1日 磐余の稚桜宮で履中天皇は即位された。 |
| 日本書紀 |
400 |
| 高句麗、新羅を救い倭軍を破り、任那に侵入 |
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404 |
| 倭軍、帯方郡地方に高句麗と戦う |
| 好太王碑 |
403 | 履中6年 | 3月15日 稚桜宮で履中天皇崩御 |
| 日本書紀 |
404 | 反正元年 | 1月2日 反正天皇即位 |
| 日本書紀 |
410 | 反正5年 | 1月23日 反正天皇崩御 |
| 日本書紀 |
410 | 允恭元年 | 12月 雄朝津間稚子宿禰皇子は群臣の願いを聞き入れて即位する。允恭天皇である。 |
| 日本書紀 |
413 | 安帝義熙9年 | 倭王讃,東晋に遣使貢献 |
| 晋書 |
420 |
| 東晋滅び、宋起こる |
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421 | 武帝永初2年 | 倭王讃,宋に遣使 |
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425 | 文帝元嘉2年 | 倭王讃,司馬曹達を宋に遣わす |
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427 |
| 陶淵明没す |
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430 | 文帝元嘉7年 | 倭王,宋に遣使 |
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438 | 文帝元嘉15年 | 倭王珍,宋に遣使、宋より安東将軍の号を受ける。 |
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438 |
| 船山古墳(熊本県)出土太刀銘(日本最古の漢字) | 太刀 |
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443 |
| 倭王済,宋に遣使。 |
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439 | 文帝元嘉20年 | 北魏江北を統一,南北朝時代始まる。(〜589) |
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451.1 | 允恭42年 | 1月14日 允恭天皇崩御 |
| 日本書紀 |
451 | 文帝元嘉28年 | 倭王済,宋に遣使、六国諸軍事安東将軍の号を受ける。 |
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451.12 | 安康元年 | 12月14日 安康天皇(穴穂天皇:あなほすめらみこと)即位 |
| 日本書紀 |
453.8 | 安康3年 | 8月9日 安康天皇眉輪王に殺される。崩御。 |
| 日本書紀 |
453.11 | 雄略元年 | 11月13日 雄略天皇(大泊瀬幼武天皇:おおはつせのわかたけのすめらみこと)即位 |
| 日本書紀 |
460 | 孝武帝大明4年 | 倭王,宋に遣使 |
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462 | 孝武帝大明6年 | 倭王興,宋に遣使 |
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463 |
| 吉備田狭,任那で反乱 |
| 日本書紀 |
477 | 順帝昇明元年 | 倭王、宋に遣使。 |
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478 | 順帝昇明2年 | 倭王武、宋に遣使、安東大将軍の号を授ける。 |
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479 |
| 宋滅び、斉起こる |
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479 | 建元元年 | 斉の高帝、武を鎮東大将軍の号を授ける。 |
| 南斉書 |
479 | 雄略23年 | 8月7日 雄略天皇崩御 |
| 日本書紀 |
485 |
| 北魏、均田法を施行 |
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487 |
| 紀生磐(きのおおいわ)任那によって高句麗に通じ反乱、百済と戦って敗れる。 |
| 日本書紀 |
493 |
| 北魏、洛陽遷都 |
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712 |
| 古事記選上 |
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720 |
| 日本書紀選上 |
| 日本書紀 |